大狼王子と蛇鷲神話 4
駆け寄ってきたセレーネが、僕の両手を取り、強く握りしめた。
「レクス! 私、皆に追い出されてしまったわ! 人の味方をするなら家族じゃないって!」
ボロボロと大粒の涙を流しながら、セレーネは僕の胸にもたれかかってきた。
「セレーネ、何があった? エリニスと何をしていたんだ?」
エリニスを信頼しているけれど、ずっと気掛かりで、心配でならなかった。僕はそっとセレーネを抱きしめた。思いっきり抱きすくめたい。けれども、なるだけ力を抜いた。セレーネの背中をトントントンと叩く。
「あれをしろ、これを言え……私、詐欺師よ! よ、よ、預言者だとか、神の遣いだとか、エリニスがおど、脅すのよ! 姉様とアピスの子を人質にして! 宝物も奪った!」
セレーネはバッと離れ、僕を見上げた。真珠のような涙が散らばる。彼女の発言に、僕は目を丸めた。セレーネが語ったこの数週間の話は、想定外のものだった。エリニスは王ではなく、王を選ぶ「神」の座を手に入れるようだ。
セレーネとエリニスは、暗殺されかけた、病で床に伏せるシャルル王子を救助し、この地下牢へ連れてきたという。今、シャルル王子は眠っているらしい。
ゆらり、とセレーネの落ち葉色の瞳が揺れ、暗赤色が現れた。蝋燭の炎のように揺らぐ。
「人は蟲を無視すればいいのに傷つけ殺し続けてきた! 人よりも優しいのに、化物だと責めて殺してきた! 絶対に許さない!」
牙を剥いた獣のように、セレーネが吠えた。全身から憎悪をたぎらせている。コンッ! とセレーネの額に何かが当たり、彼女は蹲った。床に落ちたのはドングリ。慌ててセレーネを背に隠し、振り返った。
「エリニス! 僕のセレーネに何をする!」
「閉じろって言って……僕のセレーネ? は、はあああああ? あー……ああ……すまん……」
額を抑えるセレーネを支えて、立たせると、エリニスに謝罪された。
「女性の顔は尊い。ましてやセレーネだ。傷が出来て、化膿したらどうする! 僕の宝物を害するなら、兄とて容赦しないからな!」
「怖っ! おち、落ち着けレクス。セレーネは岩より固い。俺は助けたんだ。セレーネが憎悪に飲まれるところだったから。アピス達もセレーネを切り離して保護しようとしている」
僕の眉間に自然と皺が出来る。
「憎悪? セレーネがアピスと繋がっているからか。保護?」
「そうさ、激怒した女が化物を背負って現れる。民衆はどう思う?」
エリニスが口角を上げて、肩を揺らした。今、思い至る。
「悪魔狩りの歴史……」
白銀月国で、セレーネと最後に会ったラスティニアンは怯えていた。セレーネが本当に神の遣いだったと、そう口にしながら震え、瞳の奥に疑心と恐怖を宿していた。今もまだ、そういうように見える。
「女神か悪魔か、それは俺達の演出次第さ」
不意に、腕にセレーネの温もりを感じた。彼女が僕にしがみついている。もう目は落ち葉色に戻っていた。
「化物じゃないわ……。私を拾って育ててくれた……。そうよ、アシタバ半島の地を耕したのも人の為。貧困に喘げば海から恵みを運び、有毒植物による病が流行れば数少ない毒消しを雨に混ぜて降らせてきた! 恩を仇で返す、恥知らずの愚かな人など死ねば良い!」
再びセレーネの瞳が真っ赤に変色した。エリニスがまたドングリを投げる。速くて止められなかった。
「痛っ!」
「セレーネ、君は本当に閉じるのが下手くそだな」
「エリニス! だから僕のセレーネに何をする! いくら兄で、善意でも、愛する人に物をぶつけるのは許さん! 他に何か方法があるだろう!」
僕はセレーネをエリニスから隠した。腕の中にすっぽりおさめておけば、ドングリは当たらない。しかし、セレーネは暴れ、僕を突き飛ばそうとした。威嚇する猫みたいに僕を睨んだのに、セレーネはあっという間に穏やかになった。目からも唐紅が消える。
「あ、あ、あい……愛する……」
セレーネがぼんやりと僕を見上げた。
「それだレクス! 気を紛らわせておけば良い。よし、褒めたり、キスでもしておけ。連れ回すのに苦労していた。これから決行日まで、このチンチクリンな女神役はお前に任せる」
「キ、キ……する訳ないじゃない! レクスと私がキ、キスだなんて! む、無理よ! チンチクリンはエリニスよ! バリニス!」
恋人になった途端、僕は恋人失格の烙印を押されたらしい。いや、好きですの意味も「人として」だったのだろう。僕が勝手に浮かれただけ。ニールも勘違いしただけ。セレーネがエリニスに食ってかかった。なんだか……とても仲睦まじい……。痴話喧嘩に見える。
「バカは君だ、バレーネ。あーあ、ほれ見ろ。我が弟を掌でコロコロ、コロコロ、良い気なものだな」
「掌でコロコロ?」
エリニスを睨んでいたセレーネが僕を見た。笑顔を取り繕う自信がない。多分、僕は苦笑いを浮かべている。
「レクス?」
「嫌な事など絶対にしない。その……あー……っ痛!」
額に激痛。足元にドングリが落ちた。
「違うから止めろ。田舎娘から見て、お前は眩し過ぎるってよ。話が脱線し過ぎた。レクス、お前は時が来るまで、セレーネを見張れ。セレーネ、君は懸命に閉じろ」
「おいエリニス! こんな勢いのドングリをセレーネに当てていたなど謝罪しろ! 誠心誠意謝らないと、流星国の恥晒しとして吊るし上げにするぞ!」
「うえっ! おいレクス落ち着け! 今は話を聞け! もうしないから、その怒り顔は止めろ! 怖っ! お前、こんなに怖かったか⁈」
怒りで、ついエリニスに掴みかかっていた。
「何もかも、教育し直すぞ!」
「うえっ! こ、怖っ! だから、怖いって!」
「レクス、落ち着いて! 有り難いけど、あんまり痛くなかったから大丈夫よ!」
「いいやエリニス! 誠心誠意謝罪して、改善案を述べて、実行しろ! さもないと許さん!」
セレーネに後ろから羽交い締めにされ、エリニスから引き離された。こんなに頭にきたのは人生で初だ。しかし、エリニスから離されて少し落ち着く。エリニスがシャツの襟を直し、パチンッと指を鳴らした。
「それだ、レクス。小蟲殺しと巣荒らしの代償。レークス達の要求。ドメキア王に謝罪させ、賠償を提示させる。俺とセレーネが橋渡しだ」
「ああ、それで神や女神になると……蛇鷲神話を利用するつもりか? エリニースと……シュナ……」
瞬時にエリニスの作戦を理解し、二人を見て、僕の頬が痙攣した。運命の二人だと思った日の事が蘇る。まるで、宗教画のように神々しかった二人の姿。
「君が蛇神エリニースで……セレーネが鷲神シュナ……」
悪魔の炎により、死にゆく世界を自らと従者である鷲神を盾にして救った女神シュナ。慈愛と自己犠牲の果てに失われた命。シュナは不死鳥の如く蘇り、闇夜しかなかった大蛇の国を照らす満天の星々に変わった。
一方、双子の妹が守り抜いた世界を従者である蛇神と共に蘇らせ、氷の大地を耕し、人の姿となって選ばれし王を守り続けた男神にして聖騎士エリニース。
大蛇の国の守護神にして監視者。
信仰熱心なハンナから、二人の神は兄弟ではなく夫婦だと聞いている。
「……をして、それからルタ皇子を殺す振りをする。時間稼ぎだ。シャルルが回復するのを待たねばならない。おいレクス、聞いているのか?」
セレーネとエリニスが夫婦になった姿を想像してしまい、説明の途中を聞き逃した。
「え? ああ……」
「こっちよ、レクス。シャルル王子はこっち。レクス、シャルル王子も皆も助けて。皆、怒り狂って我を忘れそうなの。私も飲まれると同じになるから、皆の気持ちはとても良く分かる……」
セレーネが瞳に涙を滲ませたので、僕はハンカチを差し出した。お礼を言われ、微笑まれ、胸が熱くなる。兄の嫁になる人にときめいてもしょうがない。
「俺の手駒でなくなると困るから、女神役を幽閉しておけ。他の王達に手柄はやらん。俺が頂点になる。このチンチクリンは、シャルルの看病役だ」
「そうなの。閉じ込められていれば、レークス様に乗っ取られても何処にも行けないから平気よ。私、レクスも賛成なら、エリニスの作戦に乗るわ。頑張れる。私、人として皆をきちんと説得したい。バリニス、人質は返して!」
「人質とは人聞きが悪い。本人達の意志だ」
「嘘よ! 騙したわ! あの時、嘘の匂いしかしなかったわよ!」
奥へと進み出した二人が、やいやいと言い合う。やはり、親しげ。僕の入る隙間は無い。胸が張り裂けそうだけど、頼られているから、落ち込むのは後回しだ。
最奥の牢内の寝台に、シャルル王子が横たわっていた。ドメキア王国騎士一名とヴァルが彼を励ましている。
近寄ると、シャルル王子は見るも無残な姿だった。皮膚の血色が悪く、かなり硬くなっている。そこに、内出血のような紫色の斑点。それに全身の浮腫が酷い。
「レクス。私、こんな病気は見たことがないの……」
セレーネはシャルル王子の傍に膝をついた。汗を拭うと、セレーネは彼の手を取り、祈るように目を瞑った。慈しみに溢れた姿に、つい見惚れる。隣に立つエリニスが羨ましくてならない。
程なくして城で働く医師カインが現れ、シャルル王子を診てくれた。
「エリニス王子、レクス王子……これはかつて蛇神様が治してくれたコーディアル様の病と酷似しています。何をしても、誰も治せなかった……。斑点は……ありませんでしたが……」
瞬間、僕は悟った。セレーネと目が合う。
「胞病……毒消しが必要よ!」
叫んだセレーネの顔がみるみる青くなる。エリニスが絶望したような表情になった。僕の全身も冷えていった。
仲間を殺した相手の家族を助けたいので、毒消しを下さい。被害者に、そんな事を言える訳がない……。




