大狼王子と蛇鷲神話 2
まるで疾風。足音もほぼ立てず、フェンリスは丘を進む。背にしがみついて、振り落とされないようにするのが精一杯。
夜が明け、日が高くなった時に、フェンリスは一度止まった。知らない村の端、小さな家の影で寄り添って休んだ。僕は疲労で爆睡。フェンリスの尾で叩き起こされ、再び移動。月が頭上にきた頃、何処だか分からない森に入り、再度休息。川のそばで野宿。
翌朝、また出発した。フェンリスは森を抜け、岩山を登っていく。軽やかな身のこなしで、険しい山脈を登るフェンリスの背の上で、僕は見知らぬ世界を見た。
岩山の眼下は、森で、湖と滝が無数にある。紅色の低い位置にあるエメラルドグリーンの森。赤い薄霧がかかっている。森の周りは赤い大地で、徐々に白くなり、丘へと続いている。
「フェンリス……あれが巣か? 死の森とは思えない……美しい場所だ……」
「対策していない人は一呼吸で死ぬぞ」
セレーネの声がして、僕は振り返った。フェンリスも振り返ったので、結果的に同じ方向を見ることになる。僕は慌てて体の向きを戻した。白い寝巻き姿のセレーネが岩に座って、足を組み、不敵な笑みを浮かべている。
どう見ても、僕が知るセレーネの雰囲気ではない。それに、両目とも真っ赤だ。瞳自体が紅色に染まっている。セレーネの義父が彼女の意識を支配した事を思い出す。誰かが同じ事をしているのか?
「セレーネ? いや、貴方は誰です? セレーネの体で何をしているのですか?」
「レークスである。我はしばしこの体を借りる。新たなドメキア王との交渉をする為だ」
セレーネの声色だが、低い声で別人のような話し方。次の瞬間、セレーネの体の後ろから、巨大なカブト虫に似た生物が現れた。鉛色の金属のような姿。その色は、蜜蜂もどきのプチラの体と良く似ている。左右に深い青色の三つ目がある。
「貴方が蟲の王、レークス様でしょうか? 姫? セレーネは蟲の姫なのですか?」
僕の問いかけに、セレーネの背後にいるカブト虫が小さく頭部を揺らした。セレーネの体も同じように動く。世の中に、こんな人を乗っ取るような生物がいるなんて、信じられない。しかし、これは現実。畏怖による鳥肌が、僕にそう訴えている。
「この娘は珍しい、雄になれないアピス。我が一族の多くはそう認識している。雄になれないなんて珍しいから姫。単なる愛称だ。我はこの娘がリュカントロプルだと理解しているが、まあ好ましいので放置している」
セレーネが座っている岩から飛び降り、僕とフェンリスがいる岩場に着地した。ゆっくりと近寄ってくる。優雅な足どりに、柔らかな微笑み。そして背後にいる巨大生物。
「あの、リュカントロプルとは何ですか? 新たなドメキア王と交渉とはどういう事です?」
レークスの六つの瞳がサァッと唐紅に変化した。あまりの殺気に全身の毛が逆立つ。フェンリスが唸り声を上げた。
「ふんっ、下等生物はそうやってすぐに忘れるが、我らは永劫忘れない。ドメキア王はバジリスコスが裁いた。間も無く死ぬ。我らは次の王と協定を結ぶ。もしくは千年続いた協定の破棄だ」
岩場を蹴ると、セレーネはレークスの上乗った。
「蛇の王子が離れ、大狼王子も遠い。愚かな人が誰を王に選ぶか、その結果何が起こるか見ものだ。次が血生臭い王子だとは、人はいつの時代も愚かだな。我は、我が民が自ら体を血に染める事など許さない。共食いせよ」
バサバサと大きな羽音を立てて、レークスは空高く舞い上がった。血生臭い王子? ジョン王子? レークスはジョン王子を知っている?
「エリニースさんと共に図ったのですね! エリニスと僕をジョン王子から遠ざけた!」
エリニスは何をしているんだ? ジョン王子を見張り、蹴落とす為に本国に行った。なのに、離れた?
「待って下さい! 貴方達は何に怒っているのですか! セレーネを返して下さい!」
「よーう、レークス! その通りだ。弟の可愛いお姫様を攫おうだなんて、悪趣味極まりない。それに、蛇一族と共に俺を騙しやがったな」
この声はエリニス! 岩場の下から急に黒法衣の者が現れ、更に軽やかな身のこなしで岩を蹴って急上昇。
「フェンリス! 頼む!」
名前を呼ばれる前に、フェンリスも岩場を蹴って跳ねた。エリニスがフェンリスの鼻先に足を乗せる。フェンリスが持ち上げるようにエリニスを飛ばした。
「蟲の王? なら、俺は人の王だ。よって新たなドメキア王ではなく、俺と交渉しないか? ドメキア王は俺の掌の上に乗る」
レークスの角を掴み、くるりと回転して背へ移動すると、エリニスはセレーネの体をすくうように抱き上げた。フェンリスは元の岩場の上に華麗に着地。
しばらくして、エリニスがセレーネを抱えたまま、飛び降りてきた。レークスが雲の上まで上昇し、姿を隠す。数メートルもの高さなのに、ストンッとほぼ音も立てずに岩場に降り立った。
「レクス、久々だな。お前とお前の女、使わせてもらうぞ。ジョンを引きずり落とさねば、戦争になる」
爽やかな笑顔。白い歯を見せながら、エリニスが近寄ってくる。しかし、その顔色は悪い。
「エリニス、レークス様と何を話したんだ? セレーネをどうした」
エリニスの腕の中で、セレーネがぐったりとしている。僕はフェンリスの背から飛び降り、エリニスの腕からセレーネを引き取った。
「怖っ! 嫉妬するな! レークスと繋がる意識を切断しただけだ。乗っ取られた疲労で眠っている。一ヶ月、民の激怒を抑えてやるから、罪に相応しい賠償を提示せよ、だとよ」
嫉妬? そうかもしれない。エリニスとセレーネはいつも運命の相手というように、再会する。
「罪に相応しい賠償?」
「短いと半月だそうだ。巣に入り、毒やら何やらを仕入れ、おまけに娯楽に使おうと子蟲を攫い……」
言いかけて、エリニスは口に手を当て、岩の影へと走っていった。
「エリニス?」
嘔吐するような呻き声がしてきた。近づく前に、エリニスはよろよろしながら、真っ青な表情で戻ってきた。
「それでも人の領域を侵さず……報復に徹するのか……」
「報復? エリニス、酷い顔だ。何があった?」
「化物同士を殺し合わせたら楽しいだろう。それが我らの未来の王候補の娯楽さ。で、震えて何もしない子蟲をめった刺し。何度も何度も刺し……痛い……苦しい……こんな王を選ぶ人など滅ぶが良い!」
サァっとエリニスの瞳が赤くなる。セレーネと同じ現象。考察するに、セレーネのやエリニスのような異種族と語らうリュカントロプルは、意識を共有している分、感化される。
同時に、足元が縦に揺れた。フェンリスが唸りながら、僕を支えるように体を囲ってくれる。エリニスは仁王立ち。髪が逆立っている。
「おっと……油断すると憎悪に飲まれるな……。それだと何も成せない……。フェンリス、レクス、お前達は繋がってない。安定するまで背中を任せる。とりあえず流星国へ帰るぞ」
エリニスは岩を握り、引き千切るように岩を取った。僕とエリニスは割と以心伝心。何をするのか分かり、慌てて叫んだ。
「眠り薬がある! 自分を殴るのは止めろ!」
寸前で、エリニスの手が止まった。
「それは助かる。持つべきものは優秀な……弟……」
ゆらゆら、ゆらゆらとエリニスの瞳が青と赤を行ったり来たりする。まるで炎の揺らめき。僕はフェンリスの尻尾にセレーネを預け、懐から麻袋を取り出した。中身は丸い玉。それをエリニスの口に放り込む。
「に、苦っ……」
崩れるように、エリニスが僕に向かって倒れ込む。しっかりと支え、背中におぶった。
「フェンリス、三人とは大変だろうが流星国まで頼む」
会釈をしたのに、フェンリスはフンッと鼻を鳴らし、おまけに唾を吐いた。その後、ツンと僕から顔を背けた。この意味は……。
「すまないフェンリス。君なら楽勝だろうから、僕達を流星国まで送って欲しい」
今度は「合点承知」というようにフェンリスが笑顔を作った。僕は再度会釈を二回した。これで合計三度。フェンリスは高らかな吠えを三回返してくれた。
雨が止み、厚い灰色の空に隙間が出来る。眩い太陽が一筋、丘を照らした。風に靡く黄金に輝く長い巻き髪。翻る純白のドレス。
「選ばれし王は貴殿か! 汝、名と背負う国名を述べよ。我らと生きるというのならば、安息を与えよう」
化物の群れの中、突如現れた美しい女性を見て、人々は言葉を失った。この世の終わり、破滅と混沌の時に、女神が現れた。
「安息とは、悪魔さえ恐れないで暮らせる昼と夜である。雄大で美しい世界である。穏やかで鮮やかな未来への道である。望むのならば誓いを交わせ」
女神は丘に立つ黒髪の青年に、スッと左手を伸ばした。
「王たる人よ、救いの手を取るならば楽園へと導かん!」
こうして、人に王が選ばれた。アシタバ半島の人々を厄災から守り、救い、鮮やかな未来へと導く者が、真の王である。
神の領域に、決して足を踏み入れることなかれ。命を愛で、恵みに感謝し、慈愛を忘れずに生きよ。信じ、正しき道を歩む者には、幸福や奇跡が降り注ぐ。
この世は因縁因果、生き様こそが全て也。
——蛇鷲神話の失われた物語より




