大狼王子、誤解を生む
不意にフェンリスが僕から離れた。行かないでくれ、と僕の手が伸びる。フェンリスの尻尾を鷲掴んだ。
「フェンリス! 婚姻前に、あられもない寝巻き姿の淑女と密室で二人きりにさせるなど言語道断だ」
フェンリスを睨むと、小馬鹿にするような鼻息を吹きかけられた。僕がフェンリスに助けを求めていると、見抜かれている。
両親とニール、それにフェンリスのお節介はやり過ぎ。セレーネが戻ってきたら、速やかに謝罪をして、退室しないとならない。
「大親友を極悪非道へ導こうとは、どういう了見だ」
「ウォン」
挑発的なフェンリスの黄金色の瞳。これ幸いにと、セレーネとお茶をするんだろう? とフェンリスの顔に描いてある。是非そうしたい。図星である。
いやいやいや、理性を総動員しろレクス!
オロオロしていたら、扉が開く音がした。
「まあ、いつもいつもフェンリス様とレクスは仲良しね」
扉を開いて開口一番、セレーネがクスクスと笑った。彼女は、一度床に置いたお盆を持ち上げて入室してきた。僕はフェンリスと睨み合っているところ。なので、仲良しとは正反対である。
「フェンリス様がいらっしゃるのなら紅茶以外……レクス?」
僕は思わずセレーネの姿を凝視してしまった。うん、可愛い。眩しい。あどけない。無防備。目が離せない。お茶だけで終わりたくない。談笑して、散歩に行きたい。それで、あれだ、誰もいない星空の下、セレーネの横顔を眺めたい。是非とも可憐な声で流星の祈り唄を歌聴かせて欲しい。
それで、彼女を素敵な景色の場所で褒め称えたら、少しくらい恋心を抱いてくれるかも……。
いやいやいや! 絶対にダメだ! 夜に二人で外へ出掛けるなど不埒な案は却下!
「……レクス?」
「すまないセレーネ」
僕は俯いて急いで部屋を出た。私室まで早歩き。瞬きするたびにセレーネの姿が現れるので、僕は読書に勤しむ事にした。
ちっとも集中出来ない。半刻程したら、ニールが私室に押しかけてきた。セレーネとお茶をしなかった事を怒られたので反論。喧嘩に発展。最終的に、昼間の健全な時間に、健全な格好のセレーネをお茶に誘うという話に落ち着いた。
「レクス王子に必要なのは提案書ではなく、自覚する前の態度です。とにかく、恋人にならないと結婚話なんて出来ません。政略結婚をするんじゃないですよ。恋愛結婚を目指すのだから、両想いが先です。外交、視察、会談という名目のデートに誘うこと」
指摘され、自分の言動を思い返したら、羞恥心で隠れたくなった。
「いや、名目ではなくあの時は本気でそう思っていて……」
「はいはい。良いですかレクス王子、東に行くとか行かないとかは、セレーネさんと婚姻した後の話です。その前に、まずは恋人になるのが先。順序が狂ってる。それから、損得では人の恋心は動かせません」
初恋もまだと言っていたニールに、何故そんな事が分かる。口を開こうとしたら、ニールが先に続きを口にした。
「この意見。俺だけではないですからね。特に勘の良いフィズ様の忠告には耳を貸すべきだと思いますよ」
確かに父上の勘は鋭い。だから腑に落ちなくても耳を貸すべき。早くしないと、放っておくとセレーネは誰かの恋人や妻になってしまう。それもそうか。彼女のような女性をを放っておく男はいない。
ニールが生欠伸をしながら立ち上がった。
「フィズ様はコーディアル様を口説き落とすのに一年もかかったらしいですよ。アクイラ様は、母上を誘う作戦を間違え続けて、最後には手酷くフラれたそうです。で、コルネットさんが傷口を上手く癒して妻の座を手に入れたとかなんとか」
興味なさげに告げると、ニールはまた欠伸をした。今度はしっかりとした欠伸。もう夜中になりそうなので仕方がない。
「親達のこと、何故そんなに知っているんだ?」
「ティア姫ですよ。親だけじゃなくて、姫君や令嬢や侍女とかの話も聞いています。レクス王子は今まで色恋に興味を持たなさすぎただけです。レクス王子、色々と聞いて俺なりに思ったのは、恋なんて運です。運命という言葉通り、上手くいく相手とは上手くいく」
ニールはニヤリと笑い、その後に僕の胸を拳で軽く叩いた。
「但し、相手と接しないと進展しませんからね。応援しますから頑張って下さい。俺はレクス王が見たい。そもそも、レクスは古い言葉で王という意味を持っていますから。レクス王の権力を振りかざす悪女じゃないなら、妃は他国の一般人だって構わない。セレーネさんは好感を持てる女性だから合格」
踵を返すと、ニールは僕の私室から出ていこうとした。レクス王が見たい? ニールがそんな事を思ってくれているなんて知らなかった。
「連れて行ってくれるなら、フィズ様を裏切る事も検討する。レクス、エリニス王子と何を考えているか知らないけれど、俺はヴァルと同じだからな。身の振り方は、まずセレーネさんを口説き落として、恋人にしてから考えろ」
そう言い残して、ニールは部屋から出て、扉をそっと閉めた。
【セレーネ】
流星国のハンナ・ハフルパフ公爵夫人にお世話になることになって早くも一ヶ月。帰りたくないと少しゴネたら、お父さんがハンナさんに頼み込んでくれた。迷惑を掛けない、一生懸命働く。それが流星国城の侍女になる条件だった。お父さんに、ハンナさんと夫のオルゴさん、それからフェンリス様とアシタバアピスが見張りだと言われている。
今日は良い天気。もう冬になるので風は冷たいけれど、日差しはポカポカと暖かくて洗濯日和。
真っ白なシーツを広げて、さあ干そうとした時にアシタバアピスの子が一匹飛んできた。私の頭に乗ってくる。
〈遊ぼう姫〉
〈ダメよ。私は仕事中なの。毎日楽しく遊べる、まだ子供の貴方達とは違うのよ〉
〈バレーネ! 嘘つき! バレーネは末っ子蟲だから一緒に遊ぶ。遊べ〉
末っ子蟲。私にはアピスの子の考えが分からない。西の巣から押し寄せる遊べ、遊べの大合唱。頭が割れそうに痛くなる。
〈止めて! 遊ばないってば! バカはそっちよ! バピス! 私は末っ子ではないし、人間の大人よ!〉
〈バレーネ! 大人は繁殖期に 番を作る。セレーネは繁殖期なのに一匹。だからまだ子供〉
ぼぼぼぼぼぼっと自分の全身に火が付いたように熱くなった。
「繁殖期……繁殖期ってどういう事よ!」
私は頭上のアシタバアピスを掴み、西の森へ向かって思いっきり投げた。
帰れ!
不可侵の掟があるのだから、本来なら巣から出てきてはいけない。何故かアシタバアピスの親が許しているけれど、ロトワアピスの親なら勘当ものだ。
「はん……繁殖期?」
アピスは年に一度、繁殖期に番を作る。普段は全員で家族で、雌雄同体だけど、夏の終わりだけは夫婦関係が生まれる。らしい。多分。一緒に暮らした事があっても私はアピスの生態にはそれ程詳しくない。毎日、子供達と面白おかしく遊んで暮らしていただけだから。
義姉アフロディテに恋する男達を、ロトワアピスの子は繁殖期だと揶揄っていた。だから、アピスが人に言う「繁殖期」は恋をしている人の事だろう。教えても人の言葉を覚えないし理解しないのに、アピス達は人の感情を匂いで嗅ぎ分ける。彼等に嘘は通じない。
「恋……私が?」
ブワッと脳裏に現れたのは、絵本の中から飛び出したような王子様であるレクス。穏やかで優しい、爽やかな微笑みが浮かんできて、私は慌てて首を横に振った。
「レクス? まさか。身分に見た目に、何もかもが不釣り合いよ」
——それならセレーネ、今夜は僕にとって特別な日だからどうか一曲、踊って下さい
素敵な夜の、素敵な台詞と素敵な出来事。王子様と踊れるなんて、一生に一度の事だろう。私に何故か起こった奇跡。幸せで胸がいっぱいな夜だった。レクスと仲良く過ごせたのはあの日が最後。レクスはとっても忙しいようで、全然話す暇がない。昨夜、久々に話せると思ったのにレクスは私とお茶なんて嫌だと去ってしまった。
……バレてる? レクスは賢いので、私が自分で気がついていなかった恋心を見抜いている? だから「すまない」と言った?
「親切にされ過ぎて、うっかりしたのね。お母さんが、恋はうっかり落ちるものって言っていたもの。レクスは王子様だから恋をすること自体無駄。うっかりしちゃったけど、すまないって言っていたから失恋ね」
王子様の相手はお姫様。先月の流星祭りの舞踏会をこっそり覗き見したけど、綺麗なお姫様がうんと沢山いた。あの中にレクスの未来のお妃様がいるのだろう。
……。酷く憂鬱。胸が痛い。
「落ちたなら、登れば良いのよね? どうやって登るのかしら。早くしないと、心臓が破けるかもしれないわ。こんなに胸が苦しい事って初めて……。失恋って大変なのね……」
〈繁殖期の匂い。お祭りだお祭り!〉
お祭り、遊べ、お祭り、遊べの大合唱が頭の中に押し寄せてくる。
「煩い! バピス!」
あまりにも喧しいので叫んでいた。慌てて周りを見渡す。誰もいなかったので胸を撫で下ろした。変な女なのを、必死で隠している。村にいた時のように、変人や化物女と呼ばれて遠巻きにされたら辛い。
——変? 人と異種族を繋ぐとは、変人ではなく偉人だ
レクスの優しい言葉が蘇る。そんな風に言ってくれる他人なんて今までいなかった。レクスみたいな人、絶対に他にはいない。
はっ! 思い出し感激をしている場合ではない。洗濯物を干さないと。うっかり落ちた恋を登る方法は、あとで図書室で調べよう。それか、ハンナさんにそれとなく聞く。彼女はいつも、とっても優しく色々な事を教えてくれる。しかし、美人で聡明だから失恋とか、うっかり落ちた恋の登り方なんて知らないかもしれない。
洗濯の次は窓掃除。昼食後に廊下掃除。それが終わったら騎士団と手合わせ。その後はラスさんから「ご令嬢レッスン」を受ける。腰掛け侍女でも、侍女は侍女。流星国の侍女には貴族令嬢同等の教養が求められる、らしい。レッスン後はコーディアル様のお手伝い。今日は倉庫掃除。
毎日、目まぐるしく時間が過ぎていく。今日もあっという間に夕方。夕食後にコーディアル様から編み物の続きを教わる予定。なので、その前にハンナさんに相談したい。私は倉庫掃除が終わった瞬間、玄関ホールへと移動した。勤務が終わったら、自宅に帰るハンナさんを玄関ホールで捕まえたい。
そわそわ、そわそわ。妙に落ち着かない。恋の話なんて、今まで縁が無かったので気恥ずかしい。姉様がいれば良かった。お父さんと一緒に、エリニス王子を追いかけていった。
いや、エリニス王子に初恋らしい姉様よりお母さん。お父さんと運命の恋に落ちて、国を飛び出したというお母さん。優しくて聞き上手なお母さんなら、良いアドバイスをくれるに違いない。
恋の話なんて興味がなくて、これまでは右から左へ聞き流していた。後悔先に立たず。昨日ラスさんに教わった諺はまさにこの事。
「あら、セレーネちゃん。浮かない顔をしてどうしたの?」
この声、ハンナさん! ぼんやりして俯いていたので顔を上げる。待っていた人物の姿を見つけ、私は居ても立っても居られず駆け寄った。
「ハンナさん! あの、相談があって待ってました。すぐ終わります」
恋の登り方を教えて下さい。私の質問はそれだけだ。
「相談? 何か嫌なことでもあった?」
ハンナさんが気遣わしげに首を傾げた。それにしても、ハンナさんはいつ見ても品がある。首を動かしただけで上品とは、私もいつかそうなりたい。おっとりとした喋りといい、ハンナさんと話すとお母さんを思い出す。
「まさか! 毎日とっても親切にされて胸がいっぱいです。あの……その……ハンナさん……うっかり落ちた恋の登り方ってご存知ですか?」
自然と視線が下がる。指で指を弄り回してしまう。恥ずかしいし、胸がズキズキと痛む。私はしどろもどろしながら、ハンナさんに話をした。レクスの名前は勿論伏せた。




