第3話『危険』
「失礼します、勇者様、夕食の支度が……」
エネは夕食の支度が出来たことを青年に伝えようとする。だが、その青年は眠りに落ちていた。エネが近付いても、起きる様子は無い。
「……本当に寝ているのですか?」
恐る恐るエネは尋ねた。だが、反応はない。エネに勇者の言動など分からない。理解できる行動をする者は勇者とは呼ばないだろう。それは人並みであるのだから。
「……ですが、貴方はあの勇者様ではないですからね。」
青年とエネ。二人しかいない部屋でエネは青年を起こそうともせずにその場で佇んでいた。
「王女様は貴方が記憶を失ったと知ってから、ずっと泣かれています。ですが、貴方と夕食を共にする為に懸命に泣き跡を消されているのです……!その気持ちがお分かりですか!?」
反応もしない青年にエネは愚痴を吐く。その顔には抑えきれない涙が溢れていた。だが、青年は一切起きない。
「……? 勇者様?」
エネはこの違和感に気付いた。大声に反応しない者がいるだろうか。青年の手に触れたエネは勘づく。
「冷たい……!まさか……!!」
人間とは思えないほどの冷たさに驚き、脈を測った。だが、脈らしい鼓動は一切無かった。先程から胸部の呼吸動作が見られないのだ。全く身体が動いていない。
「死んでいるの……!?」
衝撃でエネは口調が崩れていた。青年はここに来て、全く食事をしていない。毒では無いだろう。だが、王宮に殺人犯がいるのか?そうと考えれば、王女様は……。そこまで考えてエネは慌てて、部屋を飛び出した。
部屋の外に兵士が立っている。部屋に誰もいれないように注意する。そのままエネは王女の部屋に向かって走った。その走りはエルフだからだろうか、風に乗っているように見える。
「はっ、【韋駄天儀法】か。流石、エルフ様。風乗りが上手いことで。」
エネのいなくなった後、兵士は一人笑っていた。青年が殺されたのなら、その殺人犯はどこから侵入したのか。そして、どこから逃げたのか。
────どうして、兵士は扉の外に殺人犯と会わないのか。
「聡明なエルフ様でも慌てると、思考が回らねえようだ。どうやら勇者様は死んだようだな。クックックッ。」
兵士は扉を開く。エネが開閉した時には鳴った、扉の音が鳴らない。しかし、紋章は出現していない。
「この世には儀法だけじゃねんだよ、っと。」
部屋の中には既に一回見た景色が広がっている。変わったのは青年の体勢だけ。どうやら安否確認をしたようだ。勿論、脈が無いと分かったのだろう。
「勇者様も記憶を失えば、ただのガキだな。クックックッ。深い眠りについていらっしゃることで。」
よく見れば、勇者の腕に小さな小さな穴が空いていた。まるで虫に刺されたような。穴は二つあった。
「猛毒だ。即死だな。さて、エルフ様は気付かなかったようだが、アンタの首にも一匹いるんだよなぁ!」
そう、この殺人犯は部屋に猛毒の蜘蛛を放っていた。その蜘蛛は青年の腕を噛むと、その次にエネを狙ったのだった。
「【殺人蜘蛛】。Ⅴ級蟲使いをなめんじゃねえぞぉ~。クックックッ。さぁて、お次はエルフ様だぁ。俺も行くとするか。」
部屋に一匹の蚊を放つと、男は部屋を去る。再び音は鳴らず、扉は閉じられた。
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「王女様っ!」
「エネ様どうされましたか?」
王女の部屋の前には二人の強面が立っている。王女からの信頼も厚い古参の兵士だ。
「王女様に危険が襲い掛かっている可能性がある!今すぐ部屋を!」
「なっ! 分かりました!」
慌てて強面は扉を開ける。音を立てて開いた扉の先には、椅子に座っている王女がいた。眠っているのか、こちらには気付かない。
「まさか……!」
エネは急いで王女の元へ駆け付け、安否確認をする。後から続いてきた強面も心配しているようだ。
「いえ、王女様は無事です……!」
「良かった!」
「……? どうしたのですか?」
この騒動に目が覚めたのだろう、王女は目覚める。エナが事情を説明した。
「……!? 貴方は勇者様をそのままにしたのですか!?」
「私は……! 王女様の方が大切なのです……!」
「エネ!!」
エネは優先するものを間違っていた。外を守っている強面に直接連絡を入れれば良かったのだ。王女の安全を確保する為に判断を誤った。
「今すぐエネは勇者様の部屋に戻りなさい! 貴方達は私と共にお父様の元へ向かいます!」
「……はっ、はい」
エネは慌てて立ち上がり、部屋を去ろうとする。その背中を見て、王女は気付いた。
「エネ!首元にいる蜘蛛は何!?」
「蜘蛛!?どこで……」
王女は蜘蛛がエネの首元を噛むその瞬間を見ていた。
「あっ……」
エネは猛毒に苦しみ、倒れる。
「王女、様……」
「急いで回復儀法を!」
強面の一人が医師に連絡をする。だが、もう一人はそれを止めた。
「もう無理です……。この蜘蛛は【殺人蜘蛛】。【蟲使役】が使える蟲使いのみです。それもIV級以上。勝ち目がありません。」
「そんな……!!」
「王女様。悪いのは私なのです。早く気付かなかった事が不幸を招いたのです。自業自得ですよ。王女様は御自身をお責めにならないで下さいね。」
「いや、いや、いやっ……!!!」
王女様は泣きながら、強面を見る。だが、強面は首を振る。自分達は何も出来ない、と。全てが絶望へと向かっていた。勇者の死、近侍の死……そして、いつかは。
「……落ち着いて下さい、王女様。」
「いやっ!エナが、エナが!!」
「はい、分かっています。」
「見ているだけで何も出来ないのよ!私はそんな私が嫌いなの!」
「王女様。そんな事を言わないでください。僕は貴方の剣となり、盾となります。そして、今も────」
「……誰?」
王女は強面とは話していなかった。確かに目の前に二人、強面が立っている。だが、その二人は王女自身ではなく、その後方へと。
「涙を拭き取って下さい、素敵な笑顔が台無しですよ。」
ハンカチが涙袋に添えられる。もう王女の涙は止まっていた。
「まさか……貴方は、でもそんな……」
「はは、そのまさかですよ。お久しぶりです、愛しい王女様。」
そこには青年と全く同じ姿をして、だが、口調は異なる男が立っていた。
「ネルロ!」
数ヶ月前に突如姿を消した勇者ネルロ。青年と同じ姿をして、そこに立っていた。
「はい、ネルロですよ。」
「ネルロ様!」
強面の二人が跪く。ネルロから身体から淡い光を発しているように見えるのは見間違いでは無いのだろう。青年とは全く違う者であった。
「僕は君が会ったあの青年と同一人物だよ。僕は生命に危機が訪れた時のみ覚醒するようになっているんだ。つまり二重人格なんだ。とある理由があってこうなったんだけど、それについてはいつか説明しようと思う。今はこれだけ話せれば充分だ。また会おうね、アリシア。」
「……ええ!また会える日をお待ちしています。」
「うん、良い返事だ。それじゃあ、もう一人の僕に戻るとしよう。」
ネルロの足元を中心として、巨大な紋章が出現する。それはこの国全体を覆ってしまうほどの大きさであった。
「何をしているのですか?【回復儀法】であれば、小さな紋章で済むはず……」
「いや、僕が使うのは【再生聖法】だ。君の国の病人、怪我人も治してあげようと思ってね。お土産だよ。」
「ありがとう……。」
目も眩む光が紋章から溢れ出た。強い光に誰も何が起こったのかが理解できない。まるで時間が一瞬止まったような。気付いた時には紋章は消えていた。そして、ネルロの姿も。
「王女様!勇者様が息を吹き替えされました!」
王女の部屋には駆けつけた兵士の声が響き渡った。