バイオレット・レナ
8
「さつき、話があるの」
私がリビングに顔を出すと同時に、お母さんに呼び止められた。「何?」としょぼしょぼする目を擦りながら応対する。
「あ、これ朝ごはんね」
言いながら、トーストと目玉焼きが目の前に置かれる。それを見てふと、悠太は朝ごはん、どうしているんだろうと思った。これまでは私が用意していたが、一人になったら、彼はまた適当な生活に戻るのではないだろうか。一人で冷たいパンをかじっている悠太を想像した。
食事する私の目の前に、紅茶の入ったカップを持ったお母さんが座る。今日もお母さんの表情は険しい。目元を二、三度揉んで告げた。
「あの男の子……えっと、悠太君だっけ? あの子を連れてきてほしいの」
へぇ、とパンを呑みこみながら心の中で相槌を打った。珍しいこともあるもんだ。以前は追い払った相手を自ら呼び出そうとするとは。やっぱり私のお母さんはどこか変なところで強者だ。
「それは、いつ?」
「そうね……彼と私たちの予定が合致する日ならいつでも。今度の休日なんてどうかしら? 私はずっと家にいるし……。悠太君に確認してくれない?」
表情の割にきわめて軽い口調で言っている。お母さんの中で、悠太とのことは既にひと段落ついているのだろうか。まだ本人に直接的どころか、間接的にすら謝っていない。でもお母さんは既に謝った気になっているのかもしれない。でも、関係が拗れるよりは余程ましだと思う。私は無言で頷いていた。
「それで、何について話すの?」
「それはー……内緒よ」
あどけなく笑って言う。何を浮足立っているのだろうか、このおばさんは。私は逃げるように席を後にしたお母さんの消えた先をしばらく睨んでいたが、すぐに止めた。
「ごちそうさま」
皿を流しに持って行き、水を張っておく。そして制服に着替え、髪を梳かし、家を出た。
「いってきます」
微かに聞こえる返事があった。私は一度だけ振り返り、そしてドアを閉めた。
学校に到着すると、まず悠太の席を確認する。まだ鞄は置かれていない。しばらく自席で待つ。
悠太は始業五分前にようやく教室に入ってきた。まだホームルームは始まっていないが、今日は悠太が最後だ。珍しいねー、とか周囲から声を掛けられながら、流れる汗を拭い、腰を落ち着ける。しばらく彼は空を仰ぎ、荒い息を繰り返していた。
結局、すぐに話しかけるのはやめにして、一時間目の授業に向かう道中で話すことにした。案の定、ホームルームが終わると悠太は私を誘いにやってくる。私は了承して、佐々木さんのからかいの声を背に受けながら教室を後にした。
「やれやれ、佐々木さんはいつもあんなだから……」
軽い愚痴に始まり、私もそれに小さく頷いて同意する。悠太は嬉しそうに微笑み、自分の話をしばらく続けた。
「あ、あの……ちょっとお話、いいですか?」
その合間を縫って、私は声を掛ける。うん? と少し物珍しそうに思う瞳が私を見る。
「いいよ。何?」
優しげな、男子にしては高い声。
「悠太は今週末、時間ありますか?」
「どうして?」
「私の母が会いたがっています。私も詳細は聞かされていませんが、何やらお話したいことがあるらしく」
悠太の顔が曇ったのが、はっきりと見て取れた。先日のことを思い出しているのだろう。気が弱そうな悠太の事だ、まだ気持ちの整理がついていなくても仕方のないことだと思う。
「大丈夫です。もう母はあの日のことを怒ってはいません。そう言えば、謝罪もしていました。感情的に怒鳴ったりして申し訳なかった、と。言う機会があれば言っておいてくれ、と言われていたんでした」
そうなの? とちょっと震えた声が届く。私は確信のもと、しっかりと頷いた。
「で、どうでしょう? もし差し支えなければ訪れてくださると嬉しいのですが……」
悠太はしばらく唸ったりスマホを確認したりして考えていたが、やがて「うん、いいよ」と頷いてくれた。
「ありがとうございます。母にはそう伝えておきます」
教室に着いた。まだ誰も来ていない。悠太が私の耳元で、囁くように言った。
「それでさつき。家はどう?」
私もまた、小声で返す。
「今のところ、厄介事は起きていません。昨日、母にはしっかりと言いました」
「へぇ、そしたら?」
「これまでのおざなりな態度が嘘のように、私に好意的に接するようになりました。それはきっと喜ばしいことなのでしょうが……」
それは本音だが、言葉を噤んでしまう。
「? 何か気になることでも?」
「はい。不自然すぎると思うんです。これまで私の存在すらも鬱陶しいと感じていた人が、ずばっと言われたぐらいで急に態度を軟化させるでしょうか? 悠太への態度も同様です。私にはそれがどうも引っかかっていて……」
うーん、と悠太は私と一緒に悩んでくれた。でも、多くの生徒が入室してきて、チャイムも鳴ったため、その話は中断となった。
次の休み時間、お母さんに、週末に悠太が行くことを知らせるメールを送った。後で確認すると、「了解」とだけ記された簡素な文面が帰ってきていた。
*
週末、僕はさつきに言われた通りに、彼女の家に行く準備をしていた。さつきがこの部屋にいなくなって、既に一週間。雑誌は散らばっているし、布団は乱雑だ。食事はもっぱら冷たい食パンかコンビニの弁当となっている。不健康なのは百も承知だが、どうも自炊は面倒くさい。さつきという存在が無いことを、心の底から悲しんだ。もしかすると、僕はこのまま堕落していくのかもしれない。時々テレビで見るようなゴミ屋敷と呼称される部屋の中で一人、ゴキブリみたいな生活を強いられるのだろうか。
「それは嫌だな」
家を出る前に、軽く片づけをする。と言っても、床に散らばっているものを上に押し上げる程度だ。それで軽く満足する自分が情けない。
「……じゃ、行くか」
戸締りを確認して、歩をさつきの家へと向ける。周りの景色が移ろい、彼女が近くなるのを感じるとともに、歩く速度が遅くなる。さつきは心配ないと言っていたが、やはり不安は付きまとう。変な母親なのは分かっているつもりだ。だから、さつきには裏の顔を見せておいて、僕が現れたら鬼のような形相に……。なんてことも想像してしまうのだ。
「まぁ、気楽に……気楽に……」
そう言い聞かせて、動かない足に鞭を入れる。
ようやくたどり着いた月宮家の玄関先には、なぜかさつきが待機していた。僕を見つけると、軽く手を振って呼ばれる。
「どうして外に?」
小首を傾げて、さつきは答える。
「なぜか追い出されちゃいまして。あぁ、喧嘩したとかじゃないですよ。ただ、母は悠太と二人だけで話がしたいそうです。私は図書館にでも行って時間を潰してきますので、どうぞ、中へ」
お母さんの意図が読めず、疑問は尽きない。とりあえず、さつきに促されて、僕は家の中へと足を踏み入れた。
僕がお母さんと面会したのを確認すると、さつきは家を出た。お父さんは仕事らしく、リビングには僕とお母さんの二人だけ。お母さんは黙々とお茶の準備をしている。楽にするように言われているが、どうしても肩肘を張ってしまう。やがて、温かい紅茶が運ばれてきた。
お母さんは僕がそれを飲んで落ち着かせているのを見届けてから、自身が飲むより早く口を開く。
「まずは、もしかしたらさつきから既に話を聞いているかもしれないけど、先日はごめんなさい。さつきのためにしてくれたことなのに、あんな門前払いするような真似をしてしまって」
お母さんは深く頭を下げる。驚きよりも先に疑りが浮かぶ。この人は本当に同一人物なのか? あの日喚いていた女性なのか? とりあえず、気にしないでください、と苦笑を浮かべて頭を上げてもらう。
「それでね、今日来てもらって……さつきにも席を外してもらったのは他でもないの。さつきを……」
唾を呑みこむ間を空けて、お母さんは言った。僕に縋ろうとでもするほど、体を近づけて。
「さつきを……感情豊かな子にしてほしいの!」
涙声で叫び、そして震える唇で付け加える。
「……もう一度」
それからさらに一週間が経過した日曜日。僕は近所の公園で寒さに身を震わせながら、人を待っていた。先週、僕とさつきのお母さんとで一時間ほど話し合いを続けた。その結果、もう一度遊びに行く、という結論に至ったのだ。
「最近のあの子はとても元気なの。偶然かどうかは分からないけど、丁度失踪して、帰ってきた日ぐらいから……」
確かに以前より確実に、さつきが話す量は増えている。こちらに戻ってきたころなど、機械的な受け答えしかしなかったのに、今では簡単な雑談ができるほどにまでになっている。
「これは感情が戻りつつある兆しのように思うの。だから、あと一押しすれば、あの子は明るくなるかもしれない!」
この意見には僕も同意した。元々さつきは元気で明るい女の子だ。それが封印されているような状態なのであれば、何かのきっかけで元の状態に戻っても不思議はない。
「それで、悠太君に折り入って頼みがあるの」
そう懇願されて、今に至る。行先は既に決まっている。そして今日は佐々木さんも同行する。一緒に行く友達は多い方が良い。純粋な感情を携えて、お母さんは言っていた。
十五分ほど経って、まず佐々木さんが到着した。おはよう、と挨拶を交わし、簡単な世間話をして暇をつぶす。
「誘ってくれてありがとね。でもいいの? 八柳君と月宮さんのデートなんじゃないの?」
からかうような口調で言いながらも、表情は完全には笑っていなかった。どこかで、気後れしてしまっている部分があるのかもしれない。彼女には、余計な気を遣わずいつもの天真爛漫で元気な姿で振舞ってほしいので、理由などの詳しい事情は話していない。話を持ちかけた時は、僕たちの間に入るということでやや躊躇いが混じっていたが、「さつきの笑顔が見られるかもしれない」と言うとすぐに了承してくれた。
「うん、問題ないよ。僕たちで決めたことだから」
ふぅーん、と両手を息で温めながら相槌を打つ。
「あ、そうだ。先に言っておくね。私の前でいちゃいちゃしたりしないでね、絶対に。腹立ってきちゃうから」
冗談っぽく言う佐々木さんに、「安心して」と返す。一通り僕たちは笑い合って、ほぼ同時に公園内の時計を見た。約束の時間まではあと五分ほどしかない。
「さつき、来ないなぁー……」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなくぼやく。耳ざとくそれを拾った佐々木さんが「もうちょっと待とうよ」と宥めてくれる。
「そう言えば、今日はどこに行くの? いい所、とは聞いてるけど、どこかまでは言っていないよね」
「うん、伝えてない」
「どうして?」
「んー……着いてからのお楽しみにしてもらおうかな、と」
「月宮さんには?」
「さつきにも伝えてないよ。いい所、としか言ってない」
意図が分からない、と言いたげに佐々木さんは顔を顰めた。実は、ここに大きな理由は存在しない。さつきのお母さんが、「その方がロマンチックじゃない?」と目を輝かせて言うのだから、僕が反論する余地はなかった。
「水臭いのー……。あ、あれ月宮さんじゃない?」
唇を尖らせていた佐々木さんだが、すぐに破顔した。僕たちの存在に気付いたさつきが、徒歩から小走りになってこちらへやってくる。
「遅れました……」
軽く息を切らしながら言う。
「ううん、大丈夫だよ。ぴったり集合時間だからね。月宮さんって本当に律儀だよね」
「別にそんなことは……。偶々ですよ」
「私なんて今日こそ早く来たものの、普段は遅れてばっかだからさー。みんなを怒らせちゃうんだよね。何か、その辺コツとかあるの? あったら教えて!」
「コツなんてありませんよ。早く起きて早く準備して、いい時間になったら家を出るだけです」
「うっ……マジレスありがとうございます……」
「どういたしまして」
巻いたマフラーから口元を覗かせ、佐々木さんとそんな雑談をしているさつき。佐々木さんはがっくりと頽れる。相変わらず、普段と全く変わらない元気良さだ。でも、彼女よりも僕はさつきに注目する。今日はいつもにもまして饒舌だ。心なしか、この状況を楽しんでいるようにも、そして少し浮かれているようにも見える。
「じゃ、そろそろ行こうか」
僕が促すと、さつきが「ちょっと待ってください」と引き止めた。
「どうしたの?」
「出発する前にお手洗いに行ってもいいでしょうか? すぐ戻ってきますので」
「あぁ、気づいてあげられなくてごめん。行ってきなよ」
僕が頷くとさつきはすぐに公衆便所に向かって走り出す。そんなに我慢していたのだろうか? 先ほど歩いているのを見た限りでは、そんな印象は受けなかった。でも、気温やら体調やらで左右されているのかもしれない。さつきは三分ほどで戻ってきた。
「それで悠太。私たちはどこに行くのですか」
「内緒」
「意地悪です」
何とも思っていないような表情と声音で言われる。さつきは佐々木さんにも同じ質問をしていたが、甲斐なく頓挫した。やがて諦めたのか、大人しくなる。
「まぁ、歩いて三十分ほどだよ。もうちょっと頑張って」
スマホのアプリで道順を確認しながら歩く。途中で佐々木さんが燥いでさつきに絡んだり、疲れて休憩したりしながら、僕はその喧騒を背中に受けて目的の場所へ向かう。
「着いたよ」
その建物を見上げて、僕は息を吐く。曇り空にそれは紛れていった。
僕の視線の先には、所々白く曇った窓ガラスが張り巡らされている、学校の校舎ぐらいの建築物があった。中には、この季節にも関わらず、南国に生えているような木々が所狭しと植えられているのが見える。
「植物園……ですか?」
さつきがいち早く声を上げた。
今回、お母さんと相談した結果、行先となったのが地元の都市公園だ。町の中心部からは外れたところに位置しているが、多目的グラウンドや総合体育館、子どもたちが遊べるアスレチックを備えた遊び場はもちろん、規模は小さいが動物園や植物園も敷地内にある。
「ここなら……私は小学生の時に来たよー。って言うか、この辺の人ならだれでも来たことあるんじゃないのかな?」
「はい。私も幼い時に社会見学で来た記憶があります。その一回だけで、個人的に来たことはありませんが」
私もー、と能天気に佐々木さんは同意する。
「八柳君も来たことあるでしょ? 八柳君の考えを否定するわけじゃないんだけど、どうしてわざわざこんなところに来ようと思ったの?」
僕はスマホを操作して、「ここ」と指さして彼女たちに渡す。二人は寄り添ってその画面を見つめる。
「期間限定イベント? ……『冬の華祭り』?」
「そ。この一か月しかやってないみたいだから、いい機会だと思って」
画面から目を離し、端末を僕に返す。
「ふーん……。私は花とかまぁ好きだから良いんだけどさ。八柳君は花、好きなの?」
「特段好きってわけでもないけど、見たら綺麗だなーって思う程度。でも興味はあるよ。花言葉とか」
「私もそんな感じです」
佐々木さんもさつきも、「いい所」と言われながら連れてこられたのが小さな植物園で期待はずれな部分もあったかもしれないが、とりあえず受け入れてはくれたようだ。もしここで「興味ないから帰る!」とか言われたらどうしよう、と内心は少し不安に思っていたのだが、杞憂に終わったようでホッとする。
「それじゃ行こっかー。このイベントって、施設の中で合ってる?」
佐々木さんが先頭に立って僕たちを先導する。少し不服そうな顔をしていた割には、結構乗り気のようだ。さつきが彼女に続き、僕はさつきの横に並んで歩く。
「悠太」
服の裾を摘まれる。
「なに?」
「結局のところ、ここにはどういった目的で来たんですか? それも私たちを連れて……。まさか本当にこのイベントに参加したかっただけ、とか言いませんよね?」
黒く純粋に澄んだ瞳が僕を見上げる。まるで真実を映す鏡のようだと思った。しばらく逡巡するが、
「うん、他意はないよ。本当にここに来たかっただけ。二人とは仲が良いから、折角だと思って誘っただけだよ」
佐々木さんならまだしも、さつきに本当の目的を知られるわけにはいかない。自然体で過ごしてもらうのが重要なのだ。だから、申し訳ないと思いつつ嘘を吐く。今日が終わり、何らかの成果が得られれば、正直に明かすつもりだ。だからそれまでは、さつきの瞳に僕が映ることはない。僕は目を逸らし、言っていた。
「……そうですか」
訝しむ表情は変わらないが、それ以上の言及をさつきはしてこなかった。ひとまずは、そのことに感謝する。ごめん、さつき。先を行く小さな背中に向かって、心の中で詫びる。
廊下の奥からは、既に見えなくなった佐々木さんが呼ぶ声が聞こえる。僕の視線の先には、わざわざ廊下の端っこで止まって僕を待っていたさつきの姿があった。
「ほら悠太。早く行きますよ」
うん、と僕が頷くと、
ぎゅっ、と。
柔らかな感触があった。驚いて、その温もりを見る。
「ほら、早く」
再度僕を促して、さつきはずんずん歩く。僕もそれに引っ張られる。
途中、一瞬だけ目が合ったように思った。さつきは気づくとすぐに逸らしたが、僕は思わず微笑んでしまう。
初めて見るさつきの顔。それはとても、愛おしく感じるものだった。
入った途端に、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。そのエリアは、屋外とそう変わらない気候が保たれていた。息を吐けば白く昇華していき、手袋を外せばすぐに体温は奪われていく。教室より少し広いくらいの空間で、色とりどりの小さくてかわいらしい花たちが、整然と並べられていた。お客さんは僕たちのほかには、暇を持て余していそうな老夫婦が一組見えるだけだ。とても静かで、そして澄んだ空間だった。
ツバキやスイセン、サザンカにアロエ……。聞いたことがある代表的な花はもちろん、カトレアやシクラメン、ベゴニアと言った、なじみの薄い花の名前も連なっている。いずれも白や黄色、紫や赤と、明るくてそれでいて穏やかな色彩を放って僕たちを出迎えてくれる。
「綺麗だね、月宮さん」
僕は二人から数歩下がった場所から、花を観賞していた。さつきたちは、自分たちのペースで、談笑しながら先を歩いている。
「えぇ、そうですね。あ、これ珍しそうです」
さつきも佐々木さんと一緒に同じ花を眺めながら、感想を漏らしている。一輪の青紫の花を指さして、二人とも表情を変えた。
「えっとー、『バイオレット・レナ』? へぇー、何かかっこよさそう!」
「説明書きがあります。『バイオレット・レナ。寒さに強く、秋から春に渡って長期間の花が楽しめます。一五ミリから二〇ミリほどの花を咲かせますが、株を覆い尽くすように生やすとゴージャスになります。樹状は自然とボール状となるので、とてもかわいらしいです』とのことです」
さつきが読み終えて、顔を上げる。それと同時に、「待って」と佐々木さんが屈んだ。
「まだ続きがあるよ。えーっと、『別名、初恋草?』」
「ハツコイソウ……ですか?」
「うん、そう書いてある。続き読むね」
間もなく僕も二人に追いつき、知らず、佐々木さんの声に耳を傾ける。
「『花言葉は《秘密》、《淡い恋心》、そして《初めての恋心》。花色が豊富で花期も長い花木の仲間です。大株にすると、全体をたくさんの花が被って蝶々が舞っているようになります。そんな可憐で美しい姿から、《初恋草》の名前が付けられました』、か……。私にはちょっとわかんないかなー」
さっぱりとした笑みを浮かべる佐々木さん。さつきはなおも、その花を見つめ続けている。
「佐々木さんは彼氏、とかいたことないの?」
「え? ないよないよー。だって私、特定の誰かと付き合うとか、あんま得意じゃなさそうだしね。それだったら、性別構わず、仲の良いみんなと遊んでた方が楽しいじゃない? 変に気を遣ったりしなくていいしさ」
「へー、ちょっと意外。佐々木さんって誰にでも好かれるから、てっきりそういう経験あるんだと思ってた」
「私のことどういう目で見てたのよ、キミは? まぁいいけどね。私も自分が遊び人みたいな性格してることは自覚してるつもりだし」
「自覚はあるんだね」
「ははっ、まーね」
僕たちがそんな雑談を交わしている最中、さつきは黙ってくだんのハツコイソウを見つめていた。時折、撫でるように優しく触りながら、自身の世界に浸っている。
「月宮さん、そんなに興味あるの?」
「はい。何といいますか……。とても関心を惹かれます。特に、花言葉には」
刹那、佐々木さんが僕を見た。というよりも、視線を送ったと言った方が正しいだろうか。僕は静かに頷いた。
「月宮さんって、誰か好きな人、いる?」
佐々木さんの質問に、目を丸くするさつき。
「好きな人、ですか? それはどういう……」
「そのままの意味だよ。あ、でも、友達としての好きじゃない。恋愛感情としての、だよ」
「はぁ、そう言われましても……。私はそういったことが全然分からないもので……」
「じゃあ、一緒にいて安心できる人は? この人といると、とても心が落ち着くというか……。穏やかな気持ちになれる人」
しばらくさつきは黙り込む。近くの小花たちがさわさわと揺れている。
「……それは……お二人でしょうか。最近よくしてもらってますし、こうして一緒に遊びにも来ているわけですし」
「そっか、ありがとう、月宮さん。あ、そうだ。月宮さんのこと、名前で呼んでもいい? もうだいぶ仲良くなれたと思うしさ。親愛の証として!」
「はい、構いませんよ。ご自由に」
「ありがと! それじゃ、えっと……さつきちゃん! さつきちゃんも私のこと名前で呼んで!」
喜ぶ佐々木さんは、さつきの瞳に向かって笑いかける。さつきはしばらく迷っているようだったが、やがて意を決したのか、まっすぐに佐々木さんを見つめ返した。
「亜実、さん、で問題ないでしょうか……?」
「呼び捨てでいいよー。それぐらいフレンドリーで!」
「でも、佐々木さん……亜実さんはちゃんづけで呼んだじゃないですか」
「だってさつきちゃんは可愛いんだもの! 私はそんなキャラじゃないし、それにさんづけってまだまだ固いよ? だったら呼び捨ての方が私は嬉しいかなー」
「でも――」
言い返そうとして、寸でのところで黙る。やがて、佐々木さんに根負けしたのか、大きく息を吐いた。
「分かりました。亜実、ですね。……亜実」
「うん! それがいい!」
満足そうに笑う佐々木さん。
「亜実」
「うんうん」
「亜実、ちゃん……?」
「……」
「亜実ちゃん……」
違和感に気づいたのか、佐々木さんの顔から笑みが消える。さつきは何かに取りつかれたように、ずっと「亜実」「亜実ちゃん」を繰り返している。ゆらりと立ち上がり、垂れた前髪で両目が隠れた姿で、低い声のまま呟く。
「……ねぇ、何かさつきちゃん、おかしくない?」
怯えが混じった声で佐々木さんは僕の服の裾を摘む。小さく震えていた。僕たちはどうしてよいか分からず、その場で呆然と立ち尽くし、さつきを見つめる。それは三分ほど続いた。ピタッと、声がやむ。
「な、何……?」
声を上げる佐々木さん。厚着の上からでも痛みを感じるほどに、彼女の握る力は強くなっていた。
「さつき、大丈夫か? 急にどうした……」
僕が一歩近づいた瞬間、さつきはその場に膝をついて、そして倒れた。
「さつき!」
思わず叫んで、慌てて抱きかかえる。老夫婦はもういない。僕の声だけが甘美な空間に寂しく木霊する。
体は熱くなく、おでこに触れてみても、熱は無いようだった。だが、呼吸もままならないというように激しく喘ぎ、その頬には脂汗も滲んでいる。
「と、とりあえず人に報せてくるね!」
佐々木さんが駆け出そうとする。
「ま、待って……」
弱々しく動かされるさつきの手。
「大丈夫……大丈夫、だから……」
震える声がそう言った。
「大丈夫なわけないじゃん! そんなしんどそうにして! 待ってて、すぐにお医者さん呼んでくるから!!」
さつきの言葉を聞かず、佐々木さんは走っていく。
僕は必死に声を掛けたり、背中を擦ったりするものの、苦しげな呼吸が漏れるだけだ。薄らと、閉じていた瞳が開いた。
「……大丈夫、って言ったのに……亜実は言うことを聞かない人、ですね……」
僕には、苦笑しているように見えた。首を傾けて、彼女が出て行った方向を見つめる。
「なぁさつき。大丈夫、ってどういうことだよ? そんなにも苦しそうなのに、大丈夫なはずないじゃんか」
額に浮かぶ汗を拭いながら僕を見るさつき。ふと、彼女を支える腕が軽くなったように感じた。
「……本当に、大丈夫ですって……。……悠太、お願いがあります。私を一人にしてくれませんか……?」
「どうして?」
「理由……ですか……」
さつきは胸を上下させながら、しばらく目を瞑って考えていた。
「……もう少し、花を……この花を見ていたいんです……。一人で……ゆっくりと……。だから……」
言い終わると、さつきは僕の腕の中から抜け出して、再びその花の前に屈んだ。
「あ、ちょっと、無茶すんなよ……!」
慌てて戻そうとする僕に、さつきの眇められた瞳が向けられる。
「悠太」
差し伸べていた僕の手が戻される。抵抗もむなしく、がっくりと肩から力が抜けた。
「……わかった。でも、何かおかしいと思ったら、すぐに連絡してよ」
僕が立ちあがって出口へ向かうと、「ありがとうございます」とさつきの言葉が背中に掛けられた。
扉を閉め、廊下で一人佇む。すると、佐々木さんが職員と思しき人を連れて、荒々しくこちらに向かってきているのが見えた。
「八柳君!」
人の居ない屋内に高く響く声。
「どうして八柳君がここにいるの! さつきちゃんは!?」
遅れて着いてきた職員が、息を切らして「何事ですか?」と問いかけている。佐々木さんには届いていないようだった。
「さつきなら……一人にしておいてほしいだって。すぐに治まるから、って……」
「どういうこと!? そんなはずないよ!! あんなに苦しそうにしてて!」
涙声で佐々木さんは叫ぶ。通りがかった人が何事かとこちらを向く。
「今からでも遅くない! 私が行って――」
入口へと向かう佐々木さんの腕を強く掴む。いたっ、と顔を顰めた。
「何するの! 八柳君はいいの!? さつきちゃんがどうなっても!!」
もう涙声などではない。思いっきり泣いていた。大粒の涙を流しながら、ばたばたと足掻いている。
ぎりっと歯が鳴った。悲しみではない。怒りでもない。苛立ちでもない。
「良いわけないじゃないか! 僕だって不安だよ!! せっかくさつきと再会できたのに、あんな状態になって……不安だらけだ! ……でも……」
それは僕の本音。感情に任せなどしない。
「でも、さつきがそう言うのなら……僕はさつきを信じる。さつきは嘘を吐くような子じゃない。さつきのことはこれでも信用してるつもりなんだ。僕は」
掴む腕の力を緩めても、佐々木さんはもう一人で駆け出そうとはしなかった。ただ黙って床を睨んでいる。
職員には戻ってもらった。迷惑そうな顔をしていたが、気にするほどのことでもない。僕たちは通路の壁に寄りかかってその部屋を無言で眺めていた。やがて、ぽつりと佐々木さんが言葉を零す。
「私……余計なことしちゃったのかな……? 私が名前で呼んで、なんて言いださなければ……」
彼女なりに、それは僕に救いを求めていたのかもしれない。そんなことないよ、と言うのは簡単だった。
「ねぇ八柳君」
なに? と彼女を見る。
「ごめんね」
それきり、彼女は喋らなかった。
薄暗い施設の中、寂寞に支配された二人の間を、いつもと変わらぬ空気だけが流れ続けていた。
*
一人になって、もう一度その花を見つめる。
身体の様子は相も変わらず変だ。動悸がして、胸には絶えず苦しみが襲い掛かっている。大仰に空気を吸わないと、まともな呼吸もできないほどだ。悠太が触って確認をしていたが、自分でも改めて触れてみる。確かに熱はない。いつもと変わらぬ温かさが伝わってくる。なら、この体の異変は何なのだろう? 私はしばらく思案しようとするが、それも鼻に伝わる香りで遮られる。
どれだけ私たちが慌てふためいても、その色彩だけは褪せることなく煌めきを放っている。それは本当に、私たちを照らす光源となっているようで……。私は触れながら目を細めていた。
さっき、亜実が口にしていた。「心が落ち着く感じ」。苦しい状態の中でも、私は今、それを感じられていると思う。見ているだけで、触れているだけで、それが私の中で咲き続けているようで、すっと心が軽くなる。
安静にしていると、ようやく体が落ち着いてきた。静かな空間で、私は再び考え出す。いつから体がおかしくなったか。その答えはすぐに思い浮かぶ。佐々木さんのことをどう呼ぶか話し合っていた時だ。
あの時、私の中に何かが「流れ込んでくるような」感覚があった。亜実さん、と呼んだ時は何も変わらなかったのに、亜実ちゃん、と呼んだ瞬間に言いようのない違和感が体を這いずりまわったのである。私の意識はそこで一旦途切れ、次に目が覚めた時には、悠太に抱えられていた。
でも、彼の腕の中で横たわっていた私は、数分前の私とは大きく異なっている箇所があった。子細なことは瞬時には分からなかったが、今までの自分に、「何かが加わっている」。体が軽かった。特に首から上。非常に柔らかくなっているように私は感じた。
結局、その違和感の正体が何かまでは私すらも分からない。こうしているうちにも、どんどん気分は楽になっていき、呼吸も普段通り出来るようになっている。
「……そろそろ戻りましょうか」
独り言をつぶやき、腰を上げようとする。扉の向こうでは、二人が待ってくれているはずだ。
…………。
「やっぱりもう少し」
もう少しだけなら、ここに居てもいいかな。あと一分ぐらいだけだ。バイオレット・レナを目に焼き付ける。
「……綺麗」
そんな言葉が口を突いて出た。自分でも不思議だと思う前に、普段から言葉を発し続けているのと同じような感覚で。ドクン、と心臓が大きく跳ねる。そしてまた耳元で音を刻み始める。
どういうこと? 私の体に何が起こっていると言うのか? 言葉を発するだけで体に違和感が生じるのだろうか? あれこれ思考を巡らせてみるものの、答えは出そうにない。
幸いにも、その動悸はすぐに治まった。もう戻ることにしよう。すくっと立ちあがり、今度こそ出口へ向かう。
扉を開ける寸前、別れを告げるように振り返り、一面を見渡す。誰も人の影がない平穏な場所で、風に揺られ彼らは幸せそうに踊っていた。それぞれがそれぞれの個性を持ち、互いに染まることもなく、さりとて誰かが抜きんでて目立つわけでもなく。私たちが暮らしている世界と違って、純粋に、とても平和だと思った。
遠目に見えたバイオレット・レナは、ある物に似ていた。私も過去に見たことがある。本当に幼いころ、家族で行った夏の日の一ページ……。
「花火みたい」
背後で扉が閉まる音がした。二度と、私はここに来ることはないだろう。今度は振り返らずに、二人の元へ私は駆け寄った。
*
「さつき!」
僕たちに向かってくるさつきの姿を見て、僕は思わず叫んでいた。俯いていた佐々木さんも僕の声に反応して、「え?」と顔を上げる。
さつきは僕たちを見つけると、少し歩調を速めて近寄ってきた。足取りもしっかりしている。確かにさつきが言っていた通り、体調は元に戻ったようだ。ホッとする僕の横で、影が素早く動いた。
「さつきちゃん!!」
歩いてくるさつきに向かって、佐々木さんは思いっきり抱きついた。安堵と後悔が混じる嗚咽が聞こえる。ようやく数分前に泣き止んで落ち着いたばかりなのに、と僕はその姿を見て苦笑を浮かべる。
「ど、どうしたんですか、急に……」
さつきの小さな声は、辛うじて聞こえる。泣きわめく佐々木さんの声にかき消され、僕の元まではっきりと届くことはなかった。
ごめん、ごめんっ、と佐々木さんはさつきの耳元で繰り返す。自分が言いだした話題の所為で、さつきの体がおかしくなった。僕と一緒にいるときはただ黙っているだけだったが、心の中で自分を攻め続けていたに違いない。先ほど彼女は言っていた。「恋人よりも友達と一緒に」。ようやく訪れた二人だけの大切な時間を失うことを、きっと誰よりも彼女は恐れている。
さつきはしばらくの間、抱きつかれたまま目を白黒させていたが、やがてその両手を佐々木さんの背中へ、ゆっくりと回した。幼い子を癒すように、そしてさつきは佐々木さんの背中を撫でた。一回、二回、三回……何度も何度も。目を瞑り、口元を綻ばせ、穏やかな表情で、さつきは繰り返した。
声にならない声が、佐々木さんから漏れる。
先ほどまで苦悶に満ちていたとは思えなかった。
さつきは、微笑んでいた。慈愛と懐古に溢れた口元を携えて。