約束
7
翌日からは、さつきの失踪前とそう大差ない、僕たちの日常が紡がれ始めた。念のためということで、さつきは午前中の一部の授業を欠席して病院へと行ったが、特に問題は無かったらしい。極めて健康体ということだった。
また、保険証などを取りに家に行ったときの話も、昼休みに、周りに誰もいない場所でしてくれた。月曜日の朝なので、まだ家にいると思いつつ鍵を開けて入ったのだが、自宅には誰もいなかったらしい。出勤するために忙しそうに身支度を整えているはずのお父さんも、眠いとか疲れているとか色々愚痴を言いながら、弁当を詰めたり着替えたりしているはずのお母さんも忽然と姿を消していたという。どこに行っているのかは判然としなかったが、特に深く考えることなく、必要な物を回収して戻ってきた、とさつきは語った。
「お母さんたち、一体どこに行ったんでしょうね」
まるで他人事のように、もしくは単なる雑談のような口調でさつきは言う。大きな瞳は瞬きなどせず、ただ一心にどこかの虚空を見つめていた。
「ご両親は、朝は早いの?」
僕も敢えて彼女の放つ雰囲気に便乗して問いかける。あまり不用意に刺激はしない方が得策だと思った。
「いえ。確かに父親は公務員でそれなりに朝は早い時間に家を出ますが、今日みたいに……朝の七時前に家を出ることは滅多にありません。母親は、結構マチマチです。仕事の都合上、色々な時間に出勤します。早い日もあれば遅い日もあります」
「だったら、たまたま二人の出る時間が早かった、ってこともあり得るのかな」
「どうでしょうね」
平たい声は変わることなく続く。頭上の電球が、寿命を近づけているのか不規則に点滅している。さつきの姿は時々、影に蝕まれるように見える。
「仮に二人とも仕事で早く出て行ったのだとしたら……それはそれで不可解なのです。私の母は極度のめんどくさがりです。ですから、朝は大抵服や食器などを散らかしたまま家を出ます。それを片づけるのが帰宅した私に課せられた仕事だったのですが……。今日はそれが全くありませんでした。綺麗に片づけられている、というよりは、『何も生活の跡が見られない』と言うべきでしょうか。散らかして片づけたのではなく、初めから何も存在していなかったような感じがしました」
流しとか見ればすぐにわかりますね、とさつきは付け加えて言った。
「……もしかして、さつきの御両親に何かあったんじゃ……」
昨夜、夜中に家の電灯が消えるのを、二人揃って見た。もし、僕たちがそれを確認して立ち去った後、何かトラブルがあったのだとしたら……。それこそ、よろしくない事態なのではないだろうか。
「さつき、お母さんかお父さんと連絡、取れる?」
「どうしてですか?」
「決まってるじゃん。二人が今どこにいて何をしているのか訊くためだよ」
「どうして、そんなことをするのですか?」
「……逆に、さつきはしたくないの?」
尋ねておいて、さつきの心の中も同時に察せられた。気持ちは分からないでもない。昨日まで、二人と一緒に暮らすのが何となく拒まれてしまって、遠く離れた場所で見知らぬおじいさんと過ごしていたぐらいなのだ。そんな生活の原因になった相手の安否の心配など、もし僕がさつきの立場ならば絶対に出来るはずがない。関係ない、どうにでもなってしまえ、というのが正直な感想となると思う。
「もし、悠太がそれでも良いと言ってくれるのなら……私は連絡と取りたいとは思いません。メールを打つことはできます。電話を掛けることもできます。でも、私はどうしてか、それをしたいとは思うことができません」
さつきは僅かに潤んだ瞳で僕を見上げてくる。胸の前で、取りだしたスマホを両手で震えるほどに固く握っていた。
「もし僕が、連絡を取ってくれるんだったら何でもする、って言ったら?」
「……多分、結果は変わらないと思います」
そっか、と僕は笑う。
「まぁ今のは冗談だとしてもさ。さつきが連絡を取りたくない、って言うのなら僕はそれに従うよ。でも……」
続きを言おうとしたときに、さつきの手の中からバイブ音が聞こえてくる。それはしばらくの振動の後に止んだ。「メール?」と問うと、「らしいです。珍しいですね」と呟きながら操作を始める。さすがに僕が見てはいけないだろうと、少し距離を取ろうとしたとき、制服の裾をさつきに掴まれた。
「え……? 何で?」
「これ……見てください」
「僕が、見てもいいの?」
「私が見せているんですから。気にしませんし、むしろ悠太に見てもらう必要があるかと」
僕は彼女からスマホを受け取り、画面を確認する。ただ一文、何の飾りもない簡素な字が並んでいた。
『近いうちに家に帰ってきなさい』
「……差出人は?」
スマホを返しつつ尋ねると、「お母さんです」と瞬時に返事をもらった。
「さつきは……どうするつもり?」
「どうする、とは?」
「そのままの意味だけど。お母さんの言うとおり家に帰る? それとも無視して僕の家に残る?」
さつきにとって、これはとても重大な決断になるだろう。再び後悔と恐怖が待つあの家に戻るか、比較的安寧な日々が送れるこの場所に留まるか。悪い言い方をすれば、立ち向かうか逃げるかの二択ということになるかもしれない。
「僕は口を挟まないよ。さつきの考えを尊重する」
うん、とさつきは無言で首を振った。間もなく午後の授業の始まりが近いことを告げるチャイムが鳴り、わらわらと僕たちの近くを生徒が通り過ぎていくようになる。
「……すみません、結論は放課後でもいいでしょうか?」
もちろん、と頷いて僕たちも教室へ戻る。
午後の授業中、時折僕はさつきを盗み見したが、先生の話を聞いている様子もなく、ただひたすら、明日以降のことを考えているようだった。さつきのために、ちゃんと板書を写しておこう。普段よりも丁寧に、その時間はノートを書いた。
放課後まで時は流れ、僕は授業のノートを手渡し、二人で帰路を辿る。薄暗い下校道に、唐突に頭上の電灯が煌めく。徐々に徐々に、それは僕らが行く先へと広がっていった。
「それでさつき、結論は出せた?」
横を歩くさつきに尋ねる。本当はさつきが自分から言い出すのを待つべきだったかもしれないが、あえて僕から訊くことにした。このまま互いに沈黙を貫いたまま歩いていると、ずっとさつきは黙っていそうな気がしたから。もし仮に未来が同じ先に行きつくのだとしても、やはり過程は重要だ。僕の家に留まるにしても、受動的ではなく、自分の意思で留まることを選択してほしい。自分はどこの偉い野郎なんだと、ほとほと自分自身が嫌になる。
「はい、長い間考えなければなりませんでしたが」
横を通り過ぎる車が吹かす風に乗って、さつきの髪が柔らかく揺れる。それは真夏の雲のようでもあったし、雪山の新雪のようでもあった。
「私はもう一度帰ります。お母さんが私に言いたいことがあるのなら、私は素直に帰るだけです。でも……」
「何があるかは分かんないよ。また訳のわからないことになるかも」
さつきは深く頷いた。眉は鋭く吊り、光る瞳が僕を見据える。
「承知しています。ですが、今度は絶対に逃げ出したりしません。家に帰って、お母さんとお父さんの話を聞き、その結末がどんなものであろうと、私は必ずあなたの家に戻ります」
今、自身の決意を口にしているさつきは、その想いが生まれる理由を知っているのだろうか。ふと疑問に思った。
「……前回は守れませんでした。だからもう一回、しませんか?」
「もう一回、って……何を?」
さつきは小指を立て、僕の前へと持ってくる。
「前回は、何かあったらすぐに帰ってくると約束しながら私は自分の知らない場所へと逃げました。今回はそんなことをしないように、ここで誓いませんか?」
もしかしたら、無感情だとずっと思っていたさつきは、既にその気持ちを取り戻しつつあるのではないか。再会して間もないころは、殆ど何も喋らず、自分から行動も起こさず、僕の後ろを付いてくる、それこそロボットのような面白みのない存在であったことは否めなかった。だから僕は、さつきと過ごすことに一時は違和感を覚えたし、否定したくなったこともあった。でも……?
僕は頷くよりも先に、自分の小指を彼女へと差し出した。さつきは自分から僕の小指へと自身の小指を絡め、数度振った。頭の中で懐かしいメロディーが流れる。
「約束……必ず、逃げることなく、悠太の元に帰ってきます」
真っ白な電球の下、二人は誓い合う。つむじ風が、僕たちの間を縫って過ぎていった。思わず二人して身を竦める。
「風邪、ひいちゃうよ。帰ろ」
歩き出してすぐ、ちらちらと雪が降り始めた。僕の……そしてさつきの体に落ちては、すぐに溶けていく。それはとてもすぐ近くにあって、でもとても脆くて、小さな存在で……。
「この雪は、すぐに止むらしいです」
「どうして分かるの?」
「……分かりません。カンってやつです」
言い終わり、彼女は僕から顔を逸らす。二、三度咳き込んだ。
「大丈夫? もしかして体調悪い? 早く帰ろっか」
問題ないです、とさつきは首を振る。
「でも……」
非日常的な生活をしていた影響はまだ残っているに違いない。気にかけて何度か声を掛けるが、「大丈夫」の一点張りだった。
仕方なく僕は、それ以上は追及せず、ただいつもよりも少し早く歩いた。さつきもそれに倣う。
胸の辺りを時折押さえて奇怪に思う表情を見せながら、さつきは雪降る夜の町を歩いていた。
ずっと緊張していたため、その日は放課後までがとても遠く感じられた。六時間の授業が終わると、僕たちはすぐに学校の外に出る。そして家に戻り、朝のうちに準備しておいた荷物を持ち、さつきは自宅へと再び帰ることになる。
「送っていくよ」
「……よろしくお願いします」
見慣れた風景も、さつきと一緒だとどこか違って見える。昨日降った雪が、影となっている部分で僅かに残っている。純白は汚され、黒ずんでしまっていた。
「……大丈夫?」
「はい? 何がですか」
「えっと…………うん、全部が」
「意味が解らないですね」
「ははは……」
それは僕も同じだ。自分が訊いている質問の意図が分からない。どうして僕はこんな意味も無いことを呟いているんだ? さつきは冷静な表情で僕の質問を沈黙させ、そして自身はしっかりと前を見据えている。前回のさつきがどんな気持ちで、どんな表情でこの道を辿ったのかは分からない。けれども、きっと今みたいなものではなかったと思う。心の中に少なからず迷いというものがあっただろう。
だったら、今回は大丈夫だ。僕が余計な心配をする必要などない。むしろ、僕の方がよっぽど心配される対象なんじゃなかろうか。阿呆な面を下げて、のうのうとさつきの横を歩いている自分こそ、最も醜いのではないだろうか。
「……さつきは、強いね」
知らず、そんな言葉が口を突く。「え?」とさつきは声を上げ、僕を見た。間もなく視線を下げて、すると彼女の顔を影が覆う。
「そんなこと……ありませんよ。もし私が強いんだとしたら、悠太はもっとです。私なんかよりももっと……だって……」
曲がり角に沿って曲がる。さつきの家までは、もうあとはまっすぐに進むだけだ。閑静な住宅街には、子どもも主婦も誰もおらず、只々孤独だけがその空間を癒していた。
さつきは僕を置いて先に数歩走り、そして振り向いた。勢いに流れて、ふんわりと甘い香りが届く。どこかでまた白椿が花開いた。彼女を照らす冷たい明りは、同時に僕の心にも鋭い棘を突き刺す。
「続きは、また今度……私が帰った時にしましょう。……それじゃ、最後にもう一度」
二つの影が……それが伸ばす手がゆっくりと近づく。つながった時、二人は同時に口を開いた。
――約束。
*
振り返る。悠太は、ついさっきまで私を見送るためにここにいると主張していたが、私が「必要ないから」と突き放すと、渋々ではあったが戻ってくれた。前を見ても後ろを振り向いても、もう誰かの影は私を追いかけていない。
一つ息を吐き、再度自宅への道を一人歩む。冷気は容赦なくコートをすり抜けて私の肌を刺し、白い息はまるで魂のようにどこかに昇華していく。ポケットに深く手を入れ、身を縮こませて私は歩いた。
インターホンの前、大きな既視感を覚えつつ、私は自宅を見上げる。変わってない。私が十数年間、両親と共に寝食の場として出入りした、「懐かしき」場所である。
きっと寒さのせいで、手袋に包まれた手が震えている。両手を擦り合わせて、何とか鎮めようとする。そう言えば、別れ際に手でも握ってもらえば良かったのではないだろうか。悠太は最近、よく私の手を握ってくる。おじいさんの元で私と再会した時もそうだったし、その日の夜だったか、私が寝ている時にこっそり布団まで来て手を握っていたのも、私は知っている。悠太は時々、大事なところで詰めが甘い。見つかりたくないのなら、せめてそれ相応の努力をすればいいのに、と思う。でもきっと、そんな抜けたところもまた、私が今も彼の傍にいる理由の一つなのかもしれない。行き場がなかった、只々冷たいだけの私を、無条件に受け止めてくれている彼。
彼の手は温かい。初めて握られた時――再会の時でしたね――その行為を好きとも嫌とも思わなかったが、大きく聞こえる私の鼓動の音が、少し小さくなったように感じた。私の命の終わりが近いわけでもなく、存在が消えるわけでもない。ただ、これを落ち着き、というのだろうか、ひどく安穏な気分になれたのではないかと思う。
……それは後悔なんかじゃない。「後悔」という名の感情があるのは、私だって知っている。私はそれを感じたことがない。他のいかなる感情も……つまりは好きだとか嫌いだとか、腹立たしいだとか悲しいだとか。そう言った、周囲が普遍的に感じているであろう気持ちを、覚えることが全くない。自分でもその理由はさっぱり分からない。でも、そんな状態でも日常生活では困らなかった。息をして、体が動いて、一応声が出せるのならば、私は死ぬまでそれを貫くだけだ。私の人生は生きているだけでいい。「死ぬまで生きているだけ」、でいい……。
インターホンを押す。すぐに中で人が動く気配があり、ドアが開かれた。
「さつき……」
その人は私の名を呟き、「早く来なさい」と手で示した。私はその命令に無言で従い、家に上がる。
平日の夕がたの時間帯にも関わらず、家にはお父さんもいた。暖房が点けられていない屋内は、外と変わらないぐらい寒い。寒いなら風呂に入れ、と言われて育てられてきた。だから、私の家族には精神的な余裕がなかったのかもしれない。
お母さんは、玄関で見せた表情を一切変えず、私の前を歩いているようだった。その姿は、一瞬だけ見ればとても凛々しい。背筋はしっかりと伸び、だいぶ年齢も重ねてきているだろうに、私たちに老いを感じさせない。
でもきっと、今のお母さんは虚勢を張っている。娘だから、それが分かる。固く握られた拳が、行き場のない感情を潰している。普段ならシュッと伸びているはずだから。昔、体育の授業でしつこく言われたように。
そんな中で、お父さんだけは相変わらずたじろいでいた。よく考えれば、私がお父さんと顔を合わせるのは久しぶりだ。悠太の家で泊まるようになってからはもちろん、一度帰宅した時はお母さんだけだった。とすると、一か月近くも顔を見ていなかったことになるのだろうか。でも、何も変わっていない。見た目も、寄れた紺色のスーツも、お母さん同様、皺が刻まれ始めた風貌も、全く変わっていない。何かを言おうとしては口を噤み、口を噤んでは行き場のない片手をあげている。「落ち着きなさいな」とお母さんにたしなめられ、ようやく萎れる。
「じゃ、そこに座りなさい、さつき」
お父さんの正面のソファを指さして言う。言われるままに赴いた。
「何か飲む?」
珍しいと思いながらも、私は「お茶」と答えた。面倒はかからないはずだ。
すぐに湯呑に入った湯気の立つお茶が出される。「温かいの?」と私が尋ねると、「ええ」と当たり前のように頷いた。てっきり、この冷気でいい塩梅に冷やされたものが出されると思っていたので、少しの間、私は我が眼を疑ったりもした。
「それでお母さん、私を呼び出したのは、なぜなの?」
冷める前にお茶を啜り、そして本題を切り出す。お母さんも自分のために淹れたお茶を啜り、自身の心を落ち着けるように息を吐いた。
「……昨日ね、さつきが見つかった、って報告を受けたの」
静かに語りだす。横目に見えた隣の家は、眩く明かりが灯り、小学生の高い声がこちらまで響いている。薄暗い我が家のテーブルを見つめ、心の中で吐き気を感じた。
「それは、誰から? 悠太から?」
ううん、とお母さんは首を振った。
「あの子はきっといい青年よ。あなたは知らないかもしれないけど、あなたを探している、ってわざわざ私に言いに来たの。見たところ、あまり頼りになりそうな男の子じゃないわね。どこかナヨッとしてるし、肝心なところで尻込みとかしそう。……ええ、お父さんのようにね」
それは慈愛なのか、それとも挑発なのか、意図の読めぬ瞳でお母さんはお父さんを見る。「今私は関係ないだろ!」と軽く裏返った声で反駁していた。
お母さんは楽しそうに微笑みを零し、表情を動かさずそれを見ていた私に再び視線を合わす。
「ごめんない。それで、あの子が私に、さつきを探してる、って宣言をしに来てくれたんだけど、私は只々追い返しちゃったの。今はそれを反省してるし、もっと真面目に話を聞くべきだったとも思ってる。……ねぇさつき、もしまたあの子に会うことがあったら、私の代わりに謝っておいてくれないかしら。できればで良いんだけど」
きっと両親も、私がそれを了承するとは思っていないに違いない。悠太が私を探していたのも、お母さんが悠太を「いい子」と言ったのも、それは同情や優しさが理由だろうと思っている。私は家でも学校でも殆ど喋らないし、友達もいないから、そんなクラスの掃き溜めである私を探してくれる男子なんて、よっぽどのお人好しに決まっている、と。「できればで良い」と言ったのは、私が彼と喋る機会なんて滅多に訪れないからであろうと。
だから私はそれを裏切ってやろうと思った。分かった、と頷くと、予想通り、両親は意外に思う顔をした。
「……ええ、そう。ありがとう。それで話を戻すけどね。あなたが見つかったことを報せてくれたのは彼じゃないの。警察だった」
そんなにも大事になっていたのか、と私は今になってようやく事の重大さに気づく。
「あの子が……いえ、正確にはあの子じゃないわね。あの子の友達が、警察に届け出をしてくれてたらしいの。それで私の家に連絡が来たんだけどね。見つかった時、私たちも警察に連れて行かれたの」
え、と思わず出た声が掠れた。
「何か……よくない事でも……」
「あら、心配してくれるの? でも大丈夫よ。別に逮捕とか、賠償しろ、とか言われたわけじゃないから。ちょっと注意を受けただけ」
私の背筋が曲がる。無意識に息が漏れた。
「それでね、さつきに訊きたいことがあるの。いいかしら?」
何を訊かれるのか、正直、ロクなことは訊かれないと思ったが、とりあえず頷いておく。
「ありがとう。それじゃね……」
しばらく、言葉を探してか宙をにらむお母さん。お茶を飲むと、既にそれから温かさは失われており、微妙なぬるま湯となっていた。
「この前、あなたが戻ってきた時ね。あの日、あなたがこの家を飛び出した理由、あれはなぜ?」
ゴクン、と口の中に溜まっていたお茶を、そして生唾を呑みこんだ。お母さんは、あくまで真剣な表情を崩さない。ある程度の予想はつけたうえで言っているのか、それとも全く答えが分からないから完解を知ろうとして言っているのか。私には分からなかった。ただ、せめて前者であってほしいと思った。
「お母さんは、何でだと思うの?」
出来るだけ穏やかな口調を繕って逆に問う。お母さんは眉を吊り上げ、機嫌が悪そうな語調で言った。
「それが分からないからあなたに訊いてるの! だって答えはあなたしか知らないんだもの! 私が知るはずないじゃない!! 私はあなたの親なんだから、全部知りたいの!」
ちょっとママ……とずっと黙って聞いていたお父さんがようやく口を開き、彼女を宥めだす。
「いいよ、お父さん」
私の口調も変わっていない、はずだ。お母さんとお父さんで、対応に差をつけるなどあり得ない。だって二人とも、私の「両親」なのだから。良心だけで動き、その良心をはっきりと誇示し、自分がこの子の母親なんだと言い聞かせようと、もしくは父親だと言い聞かせようとしている、そんな瞭然たる「両親」なのだから!
私の制止を聞き、身をこわばらせるお父さん。その横ではなおも、興奮冷めやらぬと言った状態で私を睨むお母さんの姿。
「私は……いえ、私たちはあなたの両親なのだから! 知る権利がある! 教えて頂戴!!」
前かがみになって迫る。唾がかかった。それでもお母さんは謗る言葉を続ける。そう、きっと、これが「両親」……。私たちが青春と呼ぶ十数年を共に過ごす、大人という存在……。
「……わかった」
力なく言葉が漏れた。見るだけで分かる。お母さんが輝く。この廃城のような薄暗い空間で、私たちを照らす光源となる。あぁ、何と崇高なる存在であろうか……。
「私が家を出た理由。そんなの誰が考えても分かる。単純な理由だよ」
「それって、私たちとの会話が嫌になった、とか? それとも、何かに怒ってる?」
その二択ならば、後者と答えるだろうか。でも私は首を振る。
「違う。そのどっちでもない。私は無感情な人間だから。『怒る』とか『嫌』とか、知識では知っていても、実際に感じたことはない」
それじゃあ……とお母さんは気の抜けた声を出す。
「だから、簡単なことなの。家を出たくなったから。ここにいたくないと思ったから。私の体が直感的にここにいてはいけないと思ったのか、私の体を動かしたの。ただ、それだけ」
私の吐露は最も長く、そして最も暗澹たるものだった。どくどく、と鼓動が耳の裏側で響いているようだ。それは一番簡単な理由であろうが……それと同時に、感情を持つみんなにとっては、想像できない最たる理由だったであろう。二人とも、私の淡泊な答えに、魂が抜けたようになっている。
「本当に……それだけなの?」
「うん、これ以上もこれ以下もない。今の理由が、私が失踪した全て」
そして迷うことなく言い切る。
「その原因は、お母さんだよ」
それ以降は、もう誰も喋らなかった。誰かが立つ音を聞き、そしてそれが私の最後の記憶だ。
**
自室に戻り、盛大にため息を吐く女がいた。それは今日一日の疲れなのか、それとも安堵なのか、本人にすらも分かっていない。部屋の端っこに設えられたベッドに全体重をかける。
このまま目を閉じれば、すぐにでも眠れてしまいそうだ。でも、いい夢など見られる筈がない。さつきがいなくなってから、良くない夢ばかり見た。それは自分が刃物を持った男に襲われる夢であったり、大火事に巻き込まれる夢であったり、はたまた、さつきが死んでしまう夢であったりもした。刺される痛みに、焼かれる臭いに、そしてわが娘を失ってしまう悲しみに、毎晩飛び起きる。そんな夜に、彼女はうんざりしていた。
でも、少し安心している自分がいるのを、彼女は感じている。今日もあの日と変わらず、さつきの逆鱗に触れてしまった。失踪の理由が自分にあると言われては、それ以上の反駁はできなかった。それでも、さつきが声を出してくれたことに感謝している。前回は殆ど喋らずに、家を出て行ってしまった。その行動に狼狽え、そして……謎の既視感を覚えた。これまでに大人しいさつきが家出したことなど無かったのに、どこかで見たことがあるように感じられた。
思えば、いつからあの子は今みたいな感情表現のできない女の子となってしまったのだろう? あの様子では彼氏はおろか、友達すらできていないに違いない。あの男の子も、多分、クラス委員長とかそんな立場だからさつきを探していたんだろう。それに付き合ってくれていることは素直にありがたいと思うが、同時に、さつきに友達がいないことを示しているようで、心苦しくなる。
「はぁ……寝よ」
言って、ベッドに潜り込もうとしたところで、ふと思い立つ。その前にさつきの部屋に行ってみてはどうか。あの子が家にいること自体久しぶりなのだから、行っておいて損はないはずだ。女はそう思い、足音を忍ばせて部屋を出る。
「SATSUKI」とのプレートが掲げられた部屋の前に立ち、ノックした。中から返事はない。そっと扉を開いた。
部屋は真っ暗で、廊下の明りが大きなベッドを照らしだす。その中心で、さつきは眠っていた。
とても穏やかな寝顔だ。普段は能面を張り付けたような変わり映えの無い表情ばかりしているが、寝るときだけは例外らしい。口元が綻び、女には、それはとても幸せそうな表情に見えた。
その時、女はあることを思いついた。今の私とさつきの状態では、さつきの心の中を察してやることはできない。だったら、その察せない原因を取り除けばよい。私たちとさつきの間を隔てているものはただ一つだけ。
「……そろそろ戻るか」
その寝顔をしかと目に焼き付け、女はさつきの部屋から出る。「おやすみ。さつき」と言い残して。
その日も、女は夢を見た。でも、それは悪夢ではなかったと、翌朝夫に話していた。
「さつきが笑ってて、でもすぐに泣きだして、今度は怒るの。何かとっても懐かしかったなー」
子どものように、女は話した。さつきが起きてくる前のリビングでの会話である。夫は優しく笑んでいた。
もしこの日、目覚まし時計が鳴らなかったら、私はずっと起きなかったかもしれない。冗談っぽく、女は話していた。
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