少年の恐れ
6
さつきは、僕たちの予想通り、村の中にいた。僕が覗いた、無残な姿で建っていた家ではなく、ほかの比較的きれいな家の方で過ごしていたという。僕たちが呼んでいた時に姿を現さなかったのはなぜなのかと問うと、「疲れて寝てたからです」と、平然と答えていた。
「まぁ、ワシが注意しとったんもあったやろうけどのぉ。『誰か来ても絶対に出るなや』とな」
「……子ども相手ですか」
苦笑しながら佐々木さんがつっこんだ。でも、おじいさんは極めて真面目な顔で頷いた。
「ワシみたいな歳になったら誰でもそうや……。この子は笑ったり泣いたり怒ったり……そういったことはちっともせぇへんけど、手伝いやらはよぉしてくれた。何か運ぶときには力貸してくれたし、腰を痛めた時には町まで湿布を買いに行ってもろたりもした。もしワシに孫がおったら、こんな感じやったんやろなぁって何度も思うたで」
しみじみと話すおじいさんを、三人で何も喋ることもなく見守る。どんな言葉を掛ければよいのか分からなかった。「そうですね」と同情のように言うのは無礼だと思うし、かといって「さつきをこれからもよろしくお願いします」とは口が裂けても言うつもりは無い。おじいさんは項垂れ、先ほどの元気が嘘に見える翳った表情で、湿った地面を見つめている。
さつきは、今は既に僕の横に立っている。行方不明になる前よりも少しやせたような気がするが、具合が悪そうな様子もない。目立って異なっているところと言えば、ズボンが破けて膝小僧が分厚いガーゼで巻かれていることぐらいだが、それもさつきに尋ねたところ、もうすぐ治るとのことだった。
「そもそもどうしておじいさんが月宮さん……さつきさんと一緒に生活をしているんですか? 失礼ですが、誘拐……なんかじゃないですよね?」
「そいつぁホンマに失礼な誤解やのぉ」
笑いながらおじいさんは佐々木さんの前に立つ。
「……ま、ワシがしてもええんやけど。これは当の本人からしてもらった方が分かりやすいやろし、信憑性も高うなるやろ」
目配せされたさつきが頷き、前に出る。おじいさんは半歩下がり、まっすぐに背筋を伸ばして立つ少女の後姿を目を細めて見つめていた。
「まず、初めに……。お二人にはご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。いなくなった私を心配してここまで探しにきてくださったんですよね?」
深く腰を折り、謝罪する。しばらく起き上がることはなかった。
「僕たちよりもさ……もっと謝るべき相手がいると思うよ? ほら……心配、かけたんだからさ」
数時間前に僕が見せられたあの表情は、今も鮮明に思いだせる。あれは偶々疲れていて余裕がなかったからであると思いたい。普段のさつきにはあんな表情は見せていなくて、もっと母親らしい所作で彼女に接していると――。
「そうですね。学校の先生やクラスメイトにも迷惑をかけたかもしれません。次に行った時には謝らないと……」
目を閉じ、平坦な声で言う。これもまた彼女の本音なのかしれない。でも、僕が求めている答えはそうじゃない……。
「確かに、クラスのみんなも心配してた。だから僕だけじゃなくて、こうして佐々木さんも一緒に来てくれてるんだ。でも、ほかにはいないのか? さつきが本当に迷惑をかけた、と……謝らなければ、って思う相手は……」
もごもごと詰まりながら言う僕に、さつきは僅かにこめかみに皺を寄せる。
「悠太らしくもないですね。はっきり言ってくれていいんですよ?」
じゃあ……、と僕が躊躇いを含みつつ言おうとしたとき、裾を佐々木さんに掴まれた。思わず僕が彼女を見ると、首を横に振られた。
「今はそんなこと話している場合じゃないよ。とりあえず、月宮さんの事情を聞こう。話はそれからでも遅くないはず」
佐々木さんの揺るがない瞳で見られると、逸っていた気持ちが徐々に冷えていくのを感じる。僕は一つ息を吐き、「ごめん、今のは忘れて」と作り笑いを浮かべて言った。
「……それじゃ、私が失踪した理由は後で話すことにして、とりあえずここに至った経緯をお話しします」
そしてさつきは話し出す。新たな雪が、またふわふわと舞い始める。
「とある理由で家を出た私は、行くあてもなく走りました。そんなことをしているうちに、知らずの間に山の中に迷い込んでいたんです。連絡を取ろうにもスマホは自宅に忘れ、来た道を戻ろうとしても分かれ道が多すぎてどっちに向かえば良いのか分からず……。でも、もし仮に道が分かっていたとしても動くことはできなかったと思います」
「冬の山だしね」
「ええ」
キラキラと輝く粒子が僕たちの間を落ちてゆく。
「とりあえず私は、山の中で一晩を過ごすことにしました。幸いにも小屋が見つかったので、そこをお借りしました」
それからさつきは、怪我をして動けなくなったこと、水を探すのに苦労したことなどを話した。
「ようやく少し歩けるようになって、小屋に戻った時でした。小屋の椅子に座って休んでいる時に……この方が訪ねてきたんです」
おじいさんがうむと頷く。少し出たお腹が上下に揺れた。
「おじいさんは初め、不審者である私を追い出そうとしました。そして私も、見つかったと同時に出て行こうと決めていました。だって、私が不法侵入していることは事実ですし、そこに居続けることを主張し納得してもらえるほどの正当性のある理由は持ち合わせていません。怒鳴るおじいさんの命に従って、立ち去ろうとした時でした」
私の怪我に、気づいてくれたんです。さつきは心なしか語調を柔らかくして言った。
「私の膝の異変に気付いたおじいさんは、私を自身の家に連れて行ってくれて、さらには怪我の治療までしてくださいました。他にも、見ず知らずの私にご飯を食べさせてくれたり、お風呂に入れさせてくれたり……。もしあの日おじいさんに出会ってなかったら、今頃私は死んでいたかもしれません」
微かに湧き上がる雑念を抑え込む。さつきは冗談っぽく言ったつもりかもしれないが、誰一人として表情を緩めることはなかった。
「そして毎日面倒を見てもらって今に至ります。おじいさんは、初めはあんなところで何をしていたんだと問いかけることはありましたが、私が何も喋らないことを知ると、それ以上は尋ねてこられませんでした。……正直、とても助かったと感じてます」
「……まぁ、無駄やと思っただけや。あとは面倒になった、っちゅーのもあんな」
若者に感謝されることに慣れていないのか、少し恥ずかしそうにしているおじいさん。横で佐々木さんが笑う声が聞こえた。
「これで終わりです……」
さつきが言い終わるとほぼ同時に、くちゅん、と可愛らしいくしゃみが彼女から漏れた。
「おぉ、こんなところにずっとおったら風邪ひくな。ホレ、今からでも中に入らんか。あったかいモンでも出したるから」
慌てた様子でおじいさんは僕たち一同を仰ぎ見る。僕と佐々木さんは顔を見合わせ、軽く頷いた。
「じゃあ、すみません。お邪魔させてもらいます」
おじいさんは満足そうに笑って、さつきに僕たちの案内を任せて先に行った。僕はさつきに寄り添い、そっと震えていた手を握る。
「あの家です。行きましょう」
何事もなかったかのように振る舞い、僕たちを先導して歩き出す。すたすたと歩くさつきの表情に、大きな変化は見られない。僕たちと再会できて喜ばしく思う気持ちも安心した気持ちも、そこからは確認できない。
握り返された小さな手が、彼女の感情の全てであると、僕は思う。
湯気の立つお茶を一口すすり、息を吐く。
「それじゃあ、お話ししましょうか」
ぐるりと僕たちを見回して、さつきは言う。僕は意住まいを直し、さつきをまっすぐに見た。
「ワシも気になっとったんや。聞かせてもらおうかの」
先ほどはずっと黙って直立していたおじいさんが、ぐっと体を前のめりにする。その顔は、やけに溌剌としているように思えた。
さつきは了承を示すように頷き、語った。
「私が家を出た理由……実は、正直に申しまして、私自身もはっきりとは分かっていないんです」
「ハァ!?」
一同から零れる驚きの言葉。特におじいさんは素っ頓狂な声を上げ、目を白黒させていた。
「よく分からない、って……どういうこと?」
僅かに動揺を隠せていない佐々木さんが、少し震えた声で問う。
「そのまま、の意味です。分からない、と言いますか、理解できない、と言った方が適切でしょうか。私があの日、母親と出会って、そして色々の末に家を出た。でも、なぜ私は家を出ようと思ったのか、その理由が思い浮かばないんです。だから、理解のしようがありません」
一寸の淀みもなく、まるで初めから用意されていたかのように、さつきの言葉は流れていった。決して嘘を吐いているわけでも、隠しているわけでもない。今の月宮さつきにとってはそれが当たり前の事であり、これ以外の答えなど見つからないのであろう。訳も分からずに家を出て、彷徨ってこんなところに至る。彼女にとっては、もしかしたらそれは散歩をしているのと同じことなのかもしれない。
「それじゃ……本能的? っていうのかな。そんな感じで家出したっていうこと?」
さつきはしばらく考えた後、ゆっくりと頷いた。
「……でも、よく考えたらこれが当たり前か……」
「うん。そうだと思うよ」
怒りも、悲しみも、辛いと思うことも……今のさつきにはあり得ないことなのだ。だったら、その時自分が感じていたのであろう気持ちの正体が分からなかったとしても、仕方がないと割り切れる話である。
「ど、どういうことなんや。スマンけどワシにも教えてもらえへんやろか」
温まってきた部屋の中で、毛が薄くなった頭に小粒の汗を並べながらおじいさんは僕に迫ってくる。僕は苦笑いして彼を宥めつつ、さつきのことを話した。聞き終わったおじいさんは、ほぉほぉと二、三度頷いて元の場所へと戻ってくれた。
「なるほど……つまり、この子には感情がない、っちゅーわけか……。こんな信じられへん話ってホンマにあるもんなんやのぉ……」
微かに感動の気持ちが、その言葉には込められているように感じられる。
「やっぱり、簡単には信じられないですか?」
「部分的には信じとるよ。初めに出会うた時から、やけにむすっとしとって何も話さん子やとは思っとった。中学生か高校生に見えたから、おおよそクラスとかでトラブルになってこんなところに来てしもうたんやと思っとった。せやけどなあ……」
今一つ納得はいっていないようだ。「せやけど?」と僕たちは鸚鵡返しして、彼の続きの言葉を待つ。
「けどな、この子、別に無感情やとはわしゃ思えんねん。感情がない、っちゅーことは、簡単に言うたら笑ったり泣いたり怒ったりせぇへん、ってことやろ? 一週間ぐらいしかワシは見てへんけど、この子な」
一度、さつきへと視線をやる。意図が分からないといった表情で、小首を傾げた。
「この子、ちょびっとだけ笑っとるように見えたことあんねん」
え? と佐々木さんが声を漏らす。僕に至っては声すらも出ず、一瞬息が止まったように思えた。さつきだけが変わらぬ姿勢でお茶を飲んでいる。
「笑った、って……嘘でしょ? おじいさんの見間違いじゃないですか?」
「いや、見間違いやない」
おじいさんは言い切った。
「わしゃ、目には自信がある。ずっと田舎で暮らしとるわけやからな」
そう言って得意げに笑う姿も、僕には目に入らない。只々、彼に縋りたい気持ちだけで、僕は問いかけた。
「どんな時に……どんな時にさつきは笑っていましたか!? どれぐらい笑ってましたか!?」
僕の心にも大した余裕がない。詰め寄る僕を両手で諌め、新しいお茶を注いでくれた。
「……ありがとうございます」
いただくが、激しい鼓動は治まらない。温かい液体が全体に沁みるのを感じると同時に、僕の体はどんどん熱くなっていく。テーブルの下でぐっと拳を握り、同じようにお茶を飲んでいたおじいさんを待つ。
「どれ。落ち着いたか?」
「はい。ありがとうございます」
逸る気持ちは時を置くにつれどんどん膨れ上がっていく。嘘を吐いてでも、早く聞きたかった。
「そいで? この子が笑ったように見えた時かいな」
「はい。何か、特別なことでもなさったんですか?」
「いいや、特別なことなんてちっともしてへん。ワシはずっと前にここに来てそれ以降娯楽というもんには無縁やったからな。悪かったけど、最近の子を楽しませられるようなモンはこの家にはなかったんや」
部屋の中を見回してみても、柱時計などの古そうな装飾や、霞んだ写真立てがある程度だ。遠目なので、その中身は瞭然としない。
「家ん中にずっとおっても暇やろうから、ワシの畑作業を手伝うてもらうことにしたんや。正直申し訳なかったけどな。んで、二人で畑に行って、掃除やら何やらしたんやけど、そん時や」
固唾を呑んで話の続きを待つ。体が渇きを覚えていた。
「ちなみに理由はワシも分からん。でも、そろそろ休憩やって言おうと思って彼女に近づいたら、そん時この子は草いじりをしながらちょっと笑っとってん。ワシがおるんに気づいたらすぐに引っ込めたけどな。何や、ちゃんとこんな表情もでけるんやなーってワシゃ感動したぐらいや」
部屋の中をまた一筋、寒い風が通り抜けた。カタカタと窓ガラスが揺れている。隙間風が僕たちを容赦なく取り囲む。視界の端で、さつきが寒さに身を軽く震わせていた。
「それはまた……謎ですね……」
そうとしか感想が出てこなかった。佐々木さんも同じような意見を抱いているのか、頷いて僕に同意するのみだ。
「おじいさんは、さつきさんが何を見ていたのか、気にならなかったんですか?」
「そん時はワシも気にはなったよ。でも、色々作業しとるうちに忘れてしもうてなぁ。後で思いだしたんやけど、その頃にはもうそこがどこやったか分からんようなってしもてて。せやから諦めたんや」
「それじゃ、今からその場所に連れていってもらうのは……」
「畑やったらいくらでも連れてってやるが、この子が笑っとった場所、っつーんは無理やで」
ですよね、と佐々木さんが深いため息を吐く。「どうする?」耳打ちされる。
「スマンな、二人とも。ワシがもうちっとしっかりしとったら……」
「いえいえ。むしろ、教えてくださって感謝しています。貴重なお話を、ありがとうございました」
僕のお礼に、おじいさんはほんの少し笑う。
「今回のことは、さつきにとってとても大きな変化です。きっと……きっと、さつきが何を見て笑っていたのかが分かれば、事態は大きく動くと思います。だから……」
「あぁ、ワシもそうやと信じとる」
皺の刻まれた優しげな表情で僕を見る。すっと、心が軽くなったように感じられた。薄暗い部屋の中で、僕は掠れかけの声を絞り出す。
「だから、もし迷惑じゃなかったら、さつきにまた変化が出た時には、ここに遊びに来てもいいですか? おじいさんともその変化を共有したいです。さつきもきっと、嫌がらないと思います。ですから……!」
静まった家の中に、ストーブの火が燃える音だけが軽やかに響く。ちょっと不気味だと、心の中で思った。
そんな僕の前で、おじいさんは困ったように頭を掻いている。数秒の後、泳いでいた両目が僕を見据える。
「そんな畏まらんでもええって。いつでも来ぃや。ワシも独り身で誰も頼れる人がおらんから、正直助かるわ。さつきちゃん、やっけ? その子に何かあったときだけやのぅても、暇になったら遊びに来ぃ。今度は、お菓子ぐらいは買っとくから」
終始、おじいさんは笑っていた。純粋に、とても嬉しかったんだと思う。僕たちは彼と何度も握手を交わし、そして今日はこの地を後にすることにした。
帰り際、佐々木さんがおじいさんに尋ねていた。
「おじいさんは、ここじゃなく……町で住むつもりはないんですか?」
うーん、と空を見上げて考える。そろそろ夜は近い。
「ここでの生活……不便だとか寂しいだとか思ったことないんですか?」
「思うたことない、って言うたら、嘘になるんかなぁ。確かに物を買いに行くにしても店までは結構歩かなあかんし、タクシーやらを使うてもそれらが送れるんは精々山の入口までぐらいや。それに、昼間は作業があるからええんやけど、夜中は偶に寂しいと思ってしまうよ。夏場やとぎょーさん来客があるから退屈せぇへんねんけどな」
それは本音であるのだろうが、僕には少しだけ自嘲にも聞こえた。その来客って……と佐々木さんが青くなっているのを見て、おじいさんは元気に笑う。
「じゃあ、町で……もっとたくさんの人の中で生活、してみませんか? 色々申請とか大変だと思いますが……」
黙ってしまった佐々木さんに変わって僕が話を続ける。
「そこや。そこやねん」
苦虫を噛み潰したような顔で、おじいさんは言った。
「ワシゃずーっとこんな生活してきとったから、今の社会のシステム? 制度? みたいなもんが全然分からへん。そんな話の分からんジジィが急に町中に現れたところで、周りが迷惑するだけや。ワシにはそれが耐えられへん。せやったら、この世俗から切り離されたような僻地でひっそりと暮らし続けようと思う。幸いにも、体はまだ悲鳴を上げてへん。病気になったらさすがに病院には行くと思うが……少なくともそれまではここで生活するつもりや。それにな……」
おじいさんは、ちょっと待ってや、と言って一つの写真立てを持ってきた。ついている埃を払って、僕たちに見せてくれる。
だいぶ昔の写真だった。白黒だし、所々くすんでしまっている。着物姿で微笑む妙齢の女性の横では、いかめしい顔つきをした男性が、窮屈な笑みを浮かべている。その二人の間で、袴を着飾った初々しい若者が、歯を見せて爽やかに笑っていた。
「えっと、これは……?」
「息子が成人したときに、家の前で撮った写真じゃあ。もう二十年も前になるかのぉ……。このころは、まだ村にも活気があって、周りにも人がよーけ住んどった。こんな小さな所やから、家々の結びつきも強くてなぁ……。毎日が忙しかったし、めっちゃ充実しとった」
窓の外を見て、おじいさんは目を細め、そして笑みを浮かべる。無音の空間で草木が揺れていた。
「ワシは生まれたころは関西の田舎に住んどったんや。今でもそん時の癖が抜けてへんくてこんな喋り方なんやけどな。この村は引っ越してきたよそ者のワシらーでも温かく迎え入れてくれた。ホンマに感謝してもしきれへんわ。……けど、そんな人らーも大層な歳やったんや。ほぼ毎月、誰かが倒れて町の病院に行くか、ひどい人はもう家の中で息をせんようになっとった。そんな最中に、あっちの田舎でワシのおふくろが逝き、親父も逝き、嫁の親も亡くなった……。それらの疲れもあったんやろう、嫁は数年後に体調を崩して、そのままや。息子は都会に行ったきり帰って来うへんし、なんかもう……今更、って感じがするんや」
おじいさんが窓を開けて、僕たちの靴を渡してくれる。冷たい空気が、一気に室内を襲った。
「この村を守る、みたいなアホみたいなこと、言うつもりは無い。でも……どうせやったら、ワシは最期までここで生きたいと思う。たった独りででもええから、見知らん看護師やら医者やらに囲まれて逝くんやったら、ここで死ぬほうが絶対にええ。せやから……君たちの提案は嬉しいけど、ここから出るつもりは無いんや。ホンマにスマンな」
「……いえ。僕も、何も考えずに意見を言ったりしてすみませんでした」
おじいさんの気持ちに、偽りは感じなかった。ただひたむきに、純粋に、この人はこの場所を愛している。大切な人と同じ時間を共有したこの地を、離れたくないと願っている。ならば僕たちは、その願いをかなえるために手助けをするのみだ。少しでも笑って残りの時間を過ごしてもらうために、僕たちは行動することにしよう。
「じゃあ、おじいさん。また来ます。今日は色々と本当にありがとうございました!」
「お茶、ご馳走様でした。また来させてもらいますね」
「……お世話になりました」
各々、感謝の言葉を告げ、背を向けようとする。だが、空は黒ずみ、灯りなしでは地面すらも満足に見えない状態になっている。
「……そんなんやったらまた迷うてしまうぞ。ホレ、ワシも行ったるから。ちょっと待っとけぇ」
笑いながら家の中へ戻り、懐中電灯を手にやってきた。僕たちはその明りと、おじいさんの案内に頼って、道を歩く。
「……ここまでくれば大丈夫かの。あとはそこを抜ければ舗装された道に出るし、それぞれの家に帰るだけや。もうええかの?」
「はい。お手数をおかけしてすみませんでした」
苦笑いしながら言うと、「気にすんな」と笑って流してくれた。
「おじいさんも気を付けて下さいね。帰り道、もう真っ暗なんですから」
「はっはっは。もう何年この道通っとると思うんや。もう慣れとるし、目を瞑ってでも帰れるわ」
豪語するが、それでも心配はしてしまう。念押しするように「気を付けてくださいね」と佐々木さんが再度言うと、少し表情を硬くして「分かった」と呟いた。満足そうに佐々木さんは頷く。
「それじゃ、帰ろうか」
もう一度僕たちはおじいさんに手を振り、今度こそ別れる。おじいさんはすぐに闇の中に消え去り、見えなくなった。
「大丈夫かな……」
しばらくの間佐々木さんはその場所を見守っていたが、やがて振り向くと、「ごめん。そろそろ行こっか」と笑って言った。
「大丈夫だよ、あの人なら。山は味方みたいなもんだもん」
「……そうだね」
そして間もなく、家が別の方向である佐々木さんとは別れる。送って行こうか、という僕の提案は「近いから大丈夫」の一言で済まされた。仕方なく頷くと、彼女は僕の近くまでやってきて、耳元で、
「可愛い彼女さんがいるんだから。そっちを守ってあげなさい」
と囁いた。僕が軽く照れながら頷いたのを見ると、ウインクして手を振りながら去っていった。
「じゃ、僕たちも帰ろうか」
僕たちの暮らす場所に向かって……彼女の家は通り越して、歩く。さつきの家は、一部屋だけ灯りが灯っていた。でもそれは、僕たちの目の前で消えた。まだ夜の九時にもなっていないというのに、それ以降点く気配はなかった。さつきはその風景をしばらく見ていて、僕も早く行こうと催促はしなかった。
「…………」
まっすぐに、さつきは自宅を見つめている。その横顔は、何も物語っていない。澄んだ瞳は、汚れた醜い景色を鮮明に写している。
間もなくさつきは何も言わずに僕の腕を取り、先を歩き出した。逃げるように早足で、僕の家へと向かう。僕は引っ張られるままに歩いた。
家に着いたとき、彼女の体は小刻みに震えていた。早く温まるよう言い、その夜は何もせず、食後はすぐに寝た。さつきは一言も発さなかった。
夜中、さつきの布団へ忍び寄り、外に出てしまっていた手を気づかれないように握った。しばらくの沈黙のあと、躊躇うようにしながらもゆっくりと握り返してくれた。その手はいつも温かい。
だからだろうか?
時々僕は、とても怖くなる。
時々僕は、悲しくなる……。