悪魔と天使
5
月曜日。昨日の疲れが完全に抜けきっていない中、二人で並んで学校へ向かう。今日もまた、重い雲が空一面を覆っている。そろそろ雪が降り出すかもしれない、と天気予報は言っていた。
「あ」
唐突にさつきが声を漏らす。
「ん? なに?」
さつきは無言で指を差す。僕がその先を目で追うと、数匹の野良猫が固まって歩いていた。
「あぁ、あの猫たちはよく見かけるよ。結構前からこの辺にいるよ」
へぇ、とさつきは息を吐くように言う。
「寒くないんでしょうか」
「うーん……普通に寒いと思うよ。歌でも『猫はこたつで丸くなる』ってあるぐらいだし。だから、少しでも温まるために、ああして一緒に行動してるんじゃないかな」
寒い季節を乗り越えるために、いつかまた温かな場所に帰れるように、彼らは闘志を燃やして毎日を生きているに違いない。そう思うと、これまで何気なく無感動に眺めていた自分が恥ずかしくなる。でも、僕たちが住んでいる場所では、動物を飼うことはできない。遠ざかってゆく後姿を、二人で見守ることしかできそうにない。
「あの猫たちは、家族でしょうかね?」
「多分そうだと思うよ。毛の色とか同じだったし」
「……そうですか」
それきり、さつきは黙る。前を見ていなかったから、すれ違う人とぶつかりそうになったり、突然視界に現れた氷に滑ったりしながら進む。
「どうしたの?」
僕が尋ねると、「いえ」とだけ返されて、それ以上は何も話そうとはしない。彼女が何を考えているか僕も想像を巡らせ、やがて一つの予想が浮かんだ。
「……もしかして、家のこと、考えてるの?」
さつきは認めることも否定することもしなかった。口を真一文字に結び、無視を続ける。
五分ほど経ってから僕の言葉に気づいたのか、すみませんと謝ったあと、僕の目を見て言った。
「私、家に帰ってみます」
おぉ、と僕は思わず歓声にも似たような息を漏らす。さつきは宣言した直後、すぐに僕から目を逸らしたが、もう俯いていはいない。
「悠太は……私が家に帰ると言って、嬉しく思いますか?」
「うーん……嬉しいとか嬉しくないじゃないかな。一度は顔を見せておくべきだと思ってたから、その気になってくれてほっとしてるよ」
吐く息に乗って、ずっと残っていた蟠りが抜けていったように感じる。満足そうに歩く僕を一瞬だけ見て、さつきは小さく頷いた。
「でも、どうして急に?」
既に誰も歩いていない、くすんだアスファルトの上を舞う一枚の枯葉が、くしゃりと虚しい音を奏でる。さつきは一度口を丸くした後、僅かに僕に寄り添った。強い風に乗って漂うさつきの甘い匂いが、僕の鼻孔を通り抜ける。
「さっきの猫たちを見て、ふと思いました。あの子たちには帰るところがないのでしょう。でも、こんな厳しい環境の中でも、必死に生きています。互いに温めあっています。家族というものが、互いに互いを温めあえるとても良いものであるのなら、一度帰ってみたいな、と思ったからです」
嚠喨に続くさつきの言葉には、憂いの色は見えなかった。敢えて言うのであれば、そこにあったのは「愁い」であろうか。今のさつきは、家に帰ることを不安に思ったり怖く感じたりはしていない。僕の踏み込んだ推測だが、楽しみにしているようにすら思えた。
「いつ帰るつもり?」
なびくマフラーを押さえ、白みつつある遠く先の空を眺めながら考える。
「明日の放課後、でしょうか。準備などもありますし、急だとあちらも困るでしょうから」
「分かった」
その日、学校が終わると僕たちは早々に帰宅し、さつきの着替えやらをバッグに詰め込んだ。淡々と彼女は作業をやってのけ、荷造りは三十分ほどで終了した。そして、授業の課題を片づけると、いつもよりも早く布団に入った。いつもと変わらず、十五分ほどで、さつきの静かな寝息が聞こえてきた。起こさないようにそっと自分の布団から抜け出し、その寝顔を見る。
「穏やかなものだ」
微笑ましく思いつつ、すぐに元に戻った。頭上でぽつんと灯っている保安球が、目を瞑ると緑色に浮かび上がり、そしてすぐに落ちていった。僕はぽつりと言葉を残す。
「……辛くなったら、無理せずに帰ってきてね……」
明日、改めてさつきには言うつもりだ。きっと、温かいものや、穏やかになるものだけではないと思う。あそこに待ち受けるものは、今のさつきをどう変えてくれるのか、正直不安も募る。でも、これは今のさつきにとっての大きな一歩なのだから。ようやく踏み出された彼女の人生を創造する第一歩を、僕が応援せずしてどうするのか。
小さな期待と小さな不安は、意識を失うまで僕の中に居座り続けた。
夜が明けると、いつものようにさつきが起こしてくれて、朝ごはんが用意されている。連絡させてもらってもいいですか、と電話を指さしてさつきは言う。僕が頷くと、さつきは小走りでそこに向かった。数分程で戻ってくると、「ふぅ」と息を吐いて座る。
「どうだった?」
「何か、不思議な感じがしました。お父さんが出たのですが、何といいますか……。ひどく平坦な声だったように思います……」
「そっか……」
僕は、それ以上は話に加わらないようにして、ご飯をかきこんだ。
今日の夜からさつきがこの場所にいないと思うと、少しさみしく感じる気持ちは抑えようがない。さつきは、今も昔も、背中を押せばどこまでも一人で歩いていける女の子だ。でもそれは、きっかけさえ作れば誰の助けも必要としないのと同じことだ。僕はそれをとても頼もしく思う。
「さつき」
学校に向かう為に家を出る直前、僕は先に外に行っていた彼女に声を掛ける。
「何ですか?」
何とはなしに玄関先から見える風景を眺めていたさつきは、長い髪を翻してこちらに向く。
「約束」
真面目な表情と声で、最大限のエールを贈った。さつきはすぐには反応を見せなかったが、深く頷いた。
そして放課後、荷物を取りに僕の家に入ったさつきは、それを最後にして本当の自宅へと歩を進めた。再び一人きりになった僕の家は、虚無という水滴を大量にばらまかれたようだった。
今日も雪は降らない。ただただ風が吹き、無理やり剥がされた枯葉が空を舞うのみである。
*
湿った空に、二日前の夕焼けを重ねる。まだまだ色あせることなく、あの小さな夕陽は心の中で燃えている。でも、ひとたび瞬きすると、幻想的な赤い光は消え去り、元の無機質な空に戻る。私は自分の家への静かな帰り道を、一人で歩いている。
私の家は住宅街の一角にある、きわめて普通の一軒家だ。豊かなわけでも、さりとて貧しいわけでもない家に生まれた私は、十六年ほどを、ずっとこの街で、そしてこの家で過ごしてきた。かつては小さな子どもたちの遊び声が温かく包み込んでいたこの場所も、今は主婦たちの家族に対する愚痴などが飛び交うつまらない場所へと変貌を遂げている。
でも、今日は人っ子一人いない。金切り声をあげて集団で喚く女性たちもいなければ、日々の健康のためと散歩をする老夫婦の姿もない。ごくわずかである子どもたちは自宅にこもってゲームでもしているのか、道路にも公園にも誰もいなかった。
ゴロゴロと、遠くで雷が鳴った音がしたような気がする。萎縮なんてするはずもなく私は歩き続ける。追い越す車の風が私を掠めて通りゆく。
間もなく、「月宮」と書かれた表札を持つ家に辿り着く。紛うこと無き私の家。私たち家族の家。インターホンを押す前に、ぐっと、二階にある私の部屋の辺りを見据える。天気の所為か、それとも私の心の問題なのか、ひどく薄暗く、陽炎のように朧にも見える。
ボタンに手を伸ばす。でも、触れる直前で窄んだ。家族と会うことを怖く思ったわけじゃない。久しぶりの再会に胸が躍っているわけでもない。悠太が恋しくてやっぱり引き返したいと思うこともない。伸びない腕を携え、立ち尽くす私。
それはきっと本能の所為だったと思う。私のどこかにある、私を抑えつけるものが「押すな」と命じているようだった。それに身を委ねるのか、それとも抗うのか……。私は誰も通らないある一軒の家の前で自問を繰り返す。
長い時間が経ち、その間、時が止まっているように感じられた。でも雷は徐々に近くなっている。刹那、空に稲妻が走り、辺りは白く染められる。
ガチャ……。
目と鼻の先のドアが開き、初老の女性が姿を見せる。雨でも降るのかしら……。そんなことを口にしながら四方を確認している。そしてその視界には私が居た。私が彼女を呆然と見ていると、やがて目が合う。
「……もしかして、さつき?」
少しくぐもった、おばあちゃんのような声。皺も白髪も増えた気がする。私が小さく頷くと、お母さんは険しい顔つきを見せる。
「……早く入りなさい。全く……」
言われるままに入り、玄関で靴を脱いでフローリングの上を歩く。リビングへとつながるドアを通ると、見慣れた我が家の風景が広がっている。
私に水を飲ませることも、おやつを出すことも、お風呂を勧めることもなく、お母さんは「そこに座りなさい」と床を指さして言う。
私たちは正座して対峙する。重い沈黙に包まれた私たちの憩いの間は、デジタル時計が時を刻む無音が響くとても暗い場所だった。
「今までずっと、どこに行ってたの」
女帝のような声を出す。私は正直に話す。
「クラスの子の家に行ってた」
私がそう告げると、お母さんは素っ頓狂な声を上げた。
「どなた様の家!? 電話番号は!? お礼しなくちゃいけないじゃない!! ……何を考えてるのあんたは! ちゃんと家に帰って来なさい!!」
この近辺の主婦を、もしかしたらお母さんは牛耳っているのだろうか。そんな勘違いをしてしまいそうなほどに、お母さんの金切り声は轟いた。私はおそらく、失踪でもしたような扱いになっているはずだ。何せ、この一週間ほどは全く家に帰らなかったのだから。でも、学校で教師からそのことについて説明を要求されたり、呼び出されたりしたことはない。街中を歩いていても警察官が私に接触してくることなど無かった。であれば、私の捜索や相談は一切、どこにもされていなかったことになる。信じて待ち続けていてくれたのだろうか。
――いや、ないな。
家の中で心細さを感じながら私の帰りを待つ両親を思い浮かべた。誰だ、これ。こんな風にそわそわして、落ち着きがないのは私の両親なんかではない。偽りの姿だ。本当は自己中心的で、私の言うことなど聞いてくれない人たちだ。
にわかに思いだした。私が昨日、彼に言った、家に帰る理由なんて既に塗りつぶされている。それにとってかわって、私が彼と出会った当初、家に帰ることを拒んでいた理由を少しだけ思いだす。どうして今まで忘れていたのだろう。
私はお母さんの「帰ってきなさい!」を無視して家を飛び出した。雷はひっきりなしに鳴り続ける。心臓が口から飛び出てきそうだ。一心不乱に走り続けた。後ろを向いても、誰も追いかけてきていない。きっと今頃お母さんは「あの子は親不孝だ」と私を心の中で罵りながら家事をやっているのだろう。それを考えても胸が痛くなることはない。
行くあてなど無い。悠太には、自宅に帰ると豪語してしまったため、しばらくは帰れそうにない。
いつしか私は山道で立ち尽くしていた。周りを見回しても、砂利だらけの歩きづらい道と、広がる田んぼ。そして鬱蒼と茂る木々のみ。冬の寒さにも負けず、風にざわざわと葉を揺らしている、とても元気なたくさんの大木が私を嘲笑っていた。
誰もいないこの場所で、私はようやく腰を落ち着ける。すると、遅れて寒さが私を襲った。二度三度、連続してくしゃみする。防寒具、何か持ってくればよかったな、と後悔したが、今更考えたところで仕方がない。冬の早い夜が訪れようとしており、さらにはここまでの道のりを覚えてはいない。途中で何度か分かれ道があったような気がするし、今から不用意に動いては、本当に遭難などしかねない。
「あ、そうだ、スマホ……」
それで連絡を取っても良いし、万一圏外などの理由で連絡ができなくても、ライト代わりに使える。私はズボンやパーカーのポケットを探る。
「……ない……。途中で落とした……? あ、そっか、家か……」
防寒具を取ってきていないのと同じで、スマホも持ってきていない。暗闇はどんどん森を、そして私を侵食していく。
「……とりあえず動こう」
止まっていては凍えてしまいかねない。月明かりもない、本当の暗闇の中を、私は恐る恐る歩きだす。
*
翌日、さつきは学校に来なかった。先生は、「家の事情で今日は来られない」と告げた。もし体調を崩したりしてしまっているのならお見舞いに行こうかとも思ったが、昨日、さつきは久しぶりの自宅へと戻ったのだ。もしかしたら、色々感じることがあって、家にいるのかもしれない。
「いや、今のさつきは無感情なんだっけ」
最近は、表情や仕草でさつきの状態が分かるようになってきた。僕がかつて付き合っていた時の彼女とは全く違う姿であるものの、意思の疎通に関する不便さを感じることは殆ど無くなりつつあった。だから、時折、今のさつきが感情を失っていることを忘れてしまいそうになる。
「やぁ、八柳君。今日は愛しの彼女さんがいなくてテンション低いのかな??」
そんな独り言を漏らしたりしながら一時間目の移動教室の準備をしていると、早速佐々木さんが僕の席までやってきた。
「何、愛しの彼女さんって」
「月宮さんのことに決まってるじゃん。分かってるくせにー。この前、あんなに堂々と宣言してたじゃない」
僕の耳元で、「これが僕がさつきを好きな理由だよ、って」と囁かれる。
「う、うん……。まぁそうだけど」
思いだして少し恥ずかしくなり、目を逸らす。
「ははっ、照れちゃってー」
僕は逃げるように席を立つ。また佐々木さんは手を振っていたが、今回は無視をした。
一人で目的の教室に向かって歩く。追いついてきた、同じ授業を履修している友人が横に並ぶ。他愛もないことを話しながら教室へ行き授業を受け、また戻る。そんないつもと同じ今日が流れた。
一日はとても早く終わった。佐々木さんから、「月宮さん家、行くの?」と訊かれ、「もし行くんだったら私も連れてって欲しいなー」とも言われたが、両方とも否定した。
せっかく、家族水入らずの時間を過ごしているかもしれないのに、それを無関係者の加入で壊したくない。それに、万が一、順調にことが進んでいなかったとしても、僕たちは約束した。何かあったらすぐに僕の元に帰ってくる、と。僕はさつきとのその約束を、信じて待ち続ける。
*
夜中、歩いているうちに一軒の木製の小屋を見つけた。何に使われていたのか分からない。窓ガラスには蜘蛛の巣のようなひびが走っており、風が吹けば壊れてしまいそうに感じた。でも、外で過ごすのと、心許ないとはいえ建物の中で過ごすのとは大きく違う。幸いにも、捨てられたと思しきジャンパーがあったので、それを被って夜を過ごした。
何度か寒さで目を覚ましたものの、体調の異変を覚えることもなく、朝を迎えることができた。今朝は晴れており、日光が差し込んでいる。改めて室内を眺めまわしてみると、床の木は腐って所々穴が開いており、天井や建物の角の部分には大きな蜘蛛の巣が垂れ下がっている。恐る恐る近づいてみてみると、糸に絡まってから既に長い時間が経過しているのであろう、無残な姿で息絶えている羽虫が多く沈んでいた。
息を吹きかけ、巣が崩れるのを見て、私は小屋を出る。眩しい光は、独りの私を容赦なく照らす。昨夜の光景とは、だいぶ違って見える。私を呑みこみそうなほどに大きく思える木々は穏やかに揺れ、今日も変わらぬ日常を奏で続けている。
「街……どっちだろ?」
背伸びしても、ジャンプしても木々の向こうに見えるはずの建物は見えない。みんなの生活が送られている場所はここからは隔離されていた。
一時間ほどふらふらと歩いただろうか。激しい空腹と喉の渇きを覚える。余計な力は使わないようにと叫ぶようなことはしてこなかったが、その考えとは関係なしに限界が近いようだ。でも、水はまだ何とかなる。公衆便所に行けば水道はあるから、そこの水を飲めばいい。食べ物はどうしようもない。水でお腹を膨らませるしか、選択肢は用意されていないようだ。
「……仕方ないか」
公衆便所はどこにあったっけ……? 疲労や空腹による衰弱と、体を裂くような気温の所為で、体力はどんどん奪われていく。それから三十分も経たぬうちに、軽度の眩暈を感じるようになってきた。それでも私は、無理をして歩いた。家に帰りたいわけでも、あの両親に謝罪したいわけでもない。動かないと消えてしまいそうに思ったからかもしれない。
「……ひゃっ」
突然、体が軽くなったかと思うと、次の瞬間には私は地面に横たわっていた。身体のあちこちが痛い。どうも、滑って転んでしまったようだ。
口の中に入った砂を吐き出し、顔に着いた砂や泥を払って立ち上がろうとする。でも、下半身にうまく力が入らない。踏ん張ると、まだ口内に残っている砂がじゃりっと不快な感覚と共に音を立てるだけだ。ズボンでは覆いきれなかった足のくるぶし付近の場所が、赤く滲んでいる。さらには、先ほどの衝撃で、ズボンの両膝の部分が破けてしまった。
「新しいの、買ってもらうべきだったかな」
言ったところで、面倒だからと一蹴されるだけだ。きっと無駄な行為になるはず。
今一度口の中の砂を吐き、そのまま地面の上で何をするでもなく過ごす。すぐに動こうとしても、またよろめいたりしてしまうに違いない。それなら少し休んで体力を回復させた方が得策だと考えた。
そうして五分ほどを、固い地面と冷たい風に晒されて送った。雲の少ない青空は、ほかの季節のそれとは違い、とても高く見え、蒼く澄んでいる。普段、わざわざ空を見上げてみようと思ったことはないが、ふとこうしてイレギュラーな事態が起こった時に仰ぎ見てみると、いつもは思わないことも、大量の水が押し寄せるように次々と浮かんでくる。
悠太と一緒に出掛けた日のことが、最も鮮明に思いだされる。あの日は今日よりも寒く、天気も沈んでいた。それ故に、彼とは、このような空を眺めることはできなかった。
きっと今日の夕方には、私も彼も、沈みゆく紅く鮮やかな夕陽を拝むことができるだろう。見る景色には大きな差はない。違いはただ一つだけ。
ふぅ、と息を吐き、今度こそ立ち上がろうとする。お腹も喉もさしたる変化は見えていないが、そろそろ動き出そう。
でも、ふらふらっ、と強風にしぶかれる雑草のように、私の身体は四方八方に揺れ動く。一旦は立ち上がれたものの、再び派手に倒れてしまい、顔面に酷い痛みが走った。幸いにも鼻や口からは出血していないようだったが、先ほど、ズボンに穴を開けてしまったせいで膝には線状の傷がつき、思わず強く押すと、血がにじみ出てきた。慌てて離し、為す術もなく溢れた血を呆然と見る。
じんじんと、傷は体の奥底にまで響き、這いずりまわる。
もう一度、空を見た。一羽の鳥が高い声で啼きながら、どこかへ飛んでいく。昔の人が夢見たようなことを、現在を生きる私もまた思う。
――翼があったらどこかに飛んでいけるのに。
――翼があったら私がいまどこにいるのかも分かって、帰る方角も分かるのに。
――空から全世界が見渡せたら、自分が行くべき場所も見つかるのに。
どれだけ考えようが、私が鳥になれるわけでも翼を授かれるわけでもない。なんだかんだ言いつつも、私に、これまで独りで長時間を過ごした記憶はない。家で待っていれば誰かが帰ってくるし、最近では一日中、クラスメイトの男の子と生活を共にしていた。私のそばには、必ず「誰か」が、そうでなくても「誰かの営み」が、存在していた。それを失った今、たった一晩だけなのに動けなくなっている自分がいる。
「…………」
意味もない沈黙。やがてまた、深く暗いため息が漏れた。
――ため息吐くと、幸せが逃げるよ。
さっき青い鳥、見たよ。だから大丈夫。
飛ぶ鳥は、背景の青と溶け合って、幸せを呼んでくれるという鳥にも見えた。
誰かの声に心の中で反駁し、私はそっと目を閉じる。
夢でも見よう。
*
さつきが僕のもとを離れた二日目。その日もまた、さつきは学校を休んだ。先生からは全く同じ理由を聞かされるだけで、クラスメイトの誰もが特に気にかけていないようだった。
「月宮さん、今日も休みっぽいね。家で何かあったのかな?」
佐々木さんが唯一、彼女を案じる表情を見せてくれる。せっかく家に帰ったのに、身内に不幸などがあったりしたのだろうか。だとしたら、無闇に首を突っ込むのは躊躇われる。
「八柳君は、月宮さんの家に行ったりしないの?」
「行きたいのは山々なんだけど……。逆に迷惑かけたら悪いな、と思って……。もしかしたら、深刻な事情かもしれないしね」
「……難しいね」
ホント、と僕は苦笑交じりに頷く。
「でもさ、実際には行けなくても、携帯で連絡とったりすることぐらいは、出来るんじゃない? メール送ったり電話したりした?」
「してないよ。特に心配はしてなかったからね……」
でも、一度メールを送ってみてもいいかもしれない。僕はスマホを取り出し、早速内容を打っていく。
「『家はどうですか? よかったら、近況を教えてください』っと」
時間もあまりなかったので手短に打ち込んで送信する。
「もししばらく経っても返信が来なかったら、家に行ってみるよ」
「うん、そうしなよ。……あ、私も行こうか?」
遠足に行く子どもみたいな眩しい笑顔を見せられる。しばらく考える素振りだけは見せたが、「いや、いいよ」と柔らかく断る。
「だよね」
彼女は微笑み、僕の席から離れた。
手の中で熱くなるスマホを、僕は一層強く握りしめる。
放課後になっても、さつきから電話はおろか、メールへの返信すら来なかった。
「……もしかしたら、忙しいだけかもしれないよ。まだ送ってから一日も経ってないんだからさ、もうちょっと待ってみようよ」
佐々木さんの言葉には、素直に従った。今も昔も変わらず、さつきはメールを送れば、遅くとも一時間以内には返信をくれる女の子だ。真面目と言うか律儀と言うか……。でも、緊急の用事などがあった際には、さつきのこの性格にはたくさん助けられた。
「うん。もうちょっと、ね……」
この日は、何の進展もないまま終わった。
*
けがをしてから一時間ほどが経過して、ようやく少しではあるが動けるようになった。とりあえず、この傷を洗いたい。まさか川の水などで洗うわけにはいかないので、水道を求めてゆっくりと歩き回る。
「……無い……」
田畑ばかりが広がる山の中。町の中みたく公園があるわけでもなく、水飲み場もない。
歩き疲れた私は、仕方なく小屋に戻る。
固い木の椅子に座っていると、痛みがひどくなることはなかった。でも、このままずっと治療されずにいると、化膿したりしかねない。出来るだけ早く対処しなければならなかった。
晴れているとはいえ、板の隙間からは冷たい風が吹き込んでくる。震える腕を手で擦りつつ、どうするか考えを巡らす。
「アンタ、ここで何しとるか?」
そんな折に、私に掛けられた声があった。私が住んでいる場所では聞き慣れない訛りが含まれていた。そちらに視線を向けると、見知らぬおじいさんがドアのところに立って、私を驚きに満ちた表情で見ている。
「あ、いや、その……」
私の態度を見て、おじいさんは訝しそうに目を細めた。
「……何や? この小屋に用事でもあるんか? ここぁ、わしの小屋やで!」
所々抜けた歯を覗かせ、おじいさんは大きな声で怒鳴るように言う。皺くちゃの顔にさらに筋が走り、これを彼が見たらすぐに怖気づくだろうな、と思う。
「いえ、特に用事があるわけでは。ただ――」
「あと、そのジャンバーもわしのモンや。勝手に使うな」
「……すみません」
おじいさんは最後まで話を聞かず、私の上半身を指さして、同時に手を私の前に突き出した。
足の痛みを感じながらも立ち上がり、ゆっくりと上着を脱いで再度の謝罪と共に返す。辛うじて遮断されていた冷気が、一気に私の肌と言う肌に襲い掛かってくるような気さえする。
「アンタ、この辺では見ぃひん顔しとんな。どこの者や」
ジャンバーを手に持ったおじいさんは、少し声の調子を柔らかくして私に問うてきた。
「私は市内に住んでます。今は事情があって、こんなところに来てしまっていますが」
ふぅん、と空中を睨んで唸るおじいさん。彼が何も反応を見せないのを確認して、私は小屋を後にしようとする。おじいさんの横を通り、雑草の上に足を踏み出す。
見上げる遠くの空は薄黒く沈んでいる。私はまた小さな夢を見られる場所を探し、彷徨い始める。
*
さつきが学校に来なくなって一週間が経過しようとしている。先日、担任教師が彼女の家を訪問したらしいが、母親に「体調不良だ」と説明され、結局合わせてもらえなかったらしい。「どのような症状があるのか」「あと何日くらいで登校できそうか」「さつきさんの容体は」……。先生は色々なことを質問したらしいが、母親は沈黙と反駁を繰り返し、話にならなかったという。先生は朝のホームルームで疲れた表情を垣間見せ、そのことを教えてくれた。
これまで誰とも交流をしてこなかったとはいえ、ずっと休まずに登校を続けていたさつきだ。さすがに一週間も欠席が続くとなると、関心を示さなかったクラスメイト達も少しずつざわつき始める。
佐々木さんはホームルームが終わるなり僕の席にやってきて「何とかしなくちゃいけないんじゃない?」と切羽詰った表情で告げ、席が近い男子からは「お前、確か月宮と仲良かったよな? 何か知らね?」と何度か尋ねられた。
数日前に送ったメールには相変わらず返信はないし、電話がかかってきたこともない。さすがに、違和感を覚えざるを得なくなってきた。スマホが壊れたから修理に出しているだけ。それが連絡をくれない理由なら、僕は高らかに笑いながら、さつきを小突いたりするだろう。親愛の証として、そしてそんなユーモアある結果を見せてくれた感謝も込めて。
でも、そんな結末は用意されていないように思う。母親がさつきと会うのを拒むことが、第一に変な話だ。本当に病気なら診断書を見せたり、せめて子どもの話ぐらいしたりするはずだ。それができない、やましい理由でもあるのだろうか。
「動くつもりなの?」
昼休み、メモ帳を睨みつつペンを走らせていると、佐々木さんが寄ってきて覗きこんだ。そこには、放課後の予定を書いている。
「うん。さすがにおかしいと思ってね。ダメもとでさつきに会いに行ってみる」
先生ですら会えなかったのだから、今の彼らにとってはただのクラスメイトでしかない僕が行っても何も進展はしないだろう。でも、そうならそうで、自分の気持ちがはっきり表れるように感じた。どうしても会わせてもらえないなら、自力で会いに行くのみだ。それぐらいの覚悟はできている。
「……そっか。頑張ってね。応援してる」
「ありがと」
それだけ僕に伝え、彼女は仲の良い女の子の元へと笑顔で走っていった。
「……今回は、一緒に行く気、無いんだな」
教室を出ていく佐々木さんを見送りながら、そんなことをぽつりと呟いた。前回は、嬉々として僕との同行の意思を表明していたはずだ。でも、今回はそれがなかった。
「佐々木さんなりに、気遣ってくれてるのかな」
もしそれが本当なら、少し微笑ましいなと思う。僕はひとたびクスリと笑い、また新たなことを書きこんでいくのだった。
授業が終わるとすぐ、僕はさつきの家へと向かった。彼女の四十九日の際に訪れて以来だろうか。もちろん、その家の外見にさしたる変化は見られず、僕を迎える佇まいも変わるものではない。
激しい音を立てて鳴りつづける自分の心臓を強く押さえつける。治まることはなく、体全体が熱を持ったようにどんどん熱くなる。このまま立っていれば、いずれ冬の風が宥めてくれるような気がした。慌てている僕を、早とちりしている僕を、「信じてあげろ」と説得し、逸る気持ちに終止符を打ってくれる冷たい風。吹けば僕は、踵を返していた……?
「こんなことしてる時間、無いな」
気持ちは既に固まっている。僕は一度だけ深呼吸し、インターホンを押した。マイクから聞こえてきた女性の声は、僕がかつて聞いたことのある声とはそう大差なかった。きっとあちらからは僕の顔が見えているのであろう、少し逡巡を含む声が、僕の目の前で落ちていく。
「えっと……どちらさまでしょう……?」
お久しぶりです、と言いそうになる自分をぐっと抑え、僕は努めて明るい声で、でも丁寧さを保った声で言う。
「さつきさんの友人で、八柳、と言います。少しさつきさんの事でお伺いしたいことがございまして。もしよかったらお話をさせていただけないでしょうか?」
マイクからはしばらく反応がなかった。吐息が、自然の音にまぎれて辛うじて聞こえてくるぐらいだ。僕も沈黙を守り、女性からの返答を待った。
「……分かりました。少々、お待ちください」
ほっと息を吐き、再度彼女の家を見上げる。それは僕の住まいよりも何倍も大きく、そのせいか頼もしく感じられる。プランターにはこげ茶色の土が入っているだけだが、これは春になれば見事な花を咲かせる肥やしとなるのだろう。新たな美しさの根源であった。
間もなく鍵の開く音がし、僕は扉の前へと移動する。皺が刻まれた女性の姿がすぐ近くにあった。だいぶ容貌は変わったが、さつきのお母さんで間違いなかった。
「初めまして。八柳悠太と申します。急にお伺いしてしまって、申し訳ありません」
改めて謝罪すると、お母さんは困ったように笑みを浮かべて、僕を玄関へ招き入れた。
「ご丁寧な挨拶ありがとうございます。さつきの母です。……ただ今、中が散らかっておりまして、とてもお見せできる状態ではありませんので、失礼を承知で、ここでお話を聞いてもよろしいでしょうか……?」
僕の視界には、その「散らかっている」という部屋は写ることはない。でも、それは本当の事であり、そしてまた口実でもあると思った。彼女は、僕がさつきは家にいると思い込んだ上で訪ねていると思っている。もしここに、さつきがいなければ後々面倒なことになると考えているのだろう。
「いえ、僕は散らかったりしていても気にはしませんよ。僕の自宅も大層、散らかっているものですから」
「……そうなんですか。いえ、あまりに丁寧な話し方をされますから、家でもしっかりなさっているのかと思いました。……それで、お話とは何だったでしょうか?」
「……はい、それではお話しさせていただきます」
どうしても僕を家に上げる気はないらしい。来客用であろう、小さなストーブをお母さんが点けたため、寒さを感じることはない。だが、それから送られてくる温風は生暖かく、異様な臭いを孕んでいた。僕は時折咳払いをしながら話を続ける。
基本的には、今朝、先生が僕たちに教えてくれた内容とほぼ同じことを尋ねた。お母さんはそのすべてに、何食わぬ顔で答える。「体調はまだ回復しないのか」との問いには「もうちょっとかかる」、「どのような病気なのか」には「ストレス性の胃腸炎」と、「会うことはできないか」には「体調が悪くなるといけないから……」と拒まれる。
五分ほどで僕が用意した質問は全て尋ね尽くした。
「……実は昨日、担任の先生もお尋ねなさったのよ。まるで同一人物みたいに質問してくるわね、八柳君……だったかしら」
はい、と僕は深く頷く。「わざとそうさせていただいてますから」。
「……どうしてそんなことを?」
僕と話していて疲れたためか、お母さんの顔色があまり良くないように思う。命令的に帰らせることはしていないが、内心では「早く帰ってほしい」ぐらいには思っていることだろう。
「お時間を頂いてすみませんでした。最後の質問だけ、させていただいてよろしいでしょうか?」
お母さんの言葉には返答せず、話を続ける。
彼女はおざなりに頷いた。溜まっていた唾を呑みこみ、問いかける。
「本当にさつきさんは、家にいらっしゃるのですか?」
静かな退散を見て、乾いた風は僕に同情する。その質問を投げかけたとほぼ同時に僕は外に出されていたような気さえする。確かに失礼極まりない質問であったことは認めざるを得ない。自分でも承知の上で行ったことであるし、そのことに関して後悔などは一切していない。僕がこの家に出入り禁止になったかもしれない事よりも遥かに大きな確証を得ることができた。それだけで存分に報われる。
――月宮さつきはこの家にはいない。
ならば、今はどこにいるのだろうか。もし家出や失踪なのだとしたら、警察に届け出はしているのだろうか。しているはずがないよな。見る限り疲れ切っている表情はしていたが、あれは大切な子どもを待っていることによる疲れではなかった。ならば、警察に届けることから始めるべきだろうか。さつきがいなくなってから既に一週間が経っている。僕と別れた直後から一人で動いていたのだとすると、命の危険は安易に想像できた。だが、僕が今いる場所から交番までは結構な距離がある。全力で走っても十五分以上かかるだろう。学校からの方が比較的早く行けるはずだ。僕は迷うことなくスマホを取り出し、佐々木さんに連絡を入れた。
『もしもし、八柳君? どうしたの?』
「佐々木さん? 悪いけど、頼みたいことがあるんだ」
『月宮さん関連のこと?』
「その通り。で、その内容がね……」
話し終わると、難しそうに唸る声が向こうから聞こえてきた。何分、警察に行方不明の人の事を伝えるなど、初めての経験だろう。色々、迷いとか恐怖とかがあって当然だ。断られても仕方がない。
『うん、わかった。私まだ学校にいるから、すぐに行くね!』
「……えっ、いいの!? 用事とかあるんじゃないの!?」
『用事はー……うん、大丈夫! 急ぎのことじゃないから!』
「本当に? じゃあ、お願いします!」
僕の大きな声に、「りょうかい!」とまた元気な声が返ってくる。通話を終えると、それとは別にメッセージが送られており、「何かあったら連絡してね! 私も連絡するから!」と書かれていた。
手短に感謝を述べ、僕は冷えた町を歩き出す。まずは、さつきがどこに行ったかを突き止めなければならない。彼女のことを知っていそうな人に話を訊いてみよう。どこに行こうか考えていると、一緒に遊びに行った日の事をすぐに思いだした。あの喫茶店のマスターなら、何か知っているかもしれない。
「こんにちは」
しばらく歩いて、今日も変わらず静かな音楽が小さな空間を癒しているこの店へとやってくる。カウンターで一人、コーヒーを飲んでいたマスターは、僕の姿を見ると、嬉しそうに破顔した。
「おぉ、この前もいらっしゃったお客様じゃないですか。みっともない姿をお見せしてしまいましたな。さ、どうぞ、こちらへ」
「……覚えてくださってるんですね」
正直な気持ちがそのまま、言葉となって流れ出た。
慌ててカップを仕舞って僕を案内しようとする彼に「大丈夫です」と告げ、その場にとどまってもらう。予想外の行動に驚く彼の表情の前に歩み寄り、さつきの写真を差し出す。
「この前、僕が来店した時に、一緒にいた女の子です。あの日以降、彼女を見たりしませんでしたか? 僕のことを覚えてくださっているのなら、きっと彼女のことも覚えていらっしゃると思うのですが……」
マスターは僕が持つ写真を受け取り、しばし睨む。だがすぐに合点の行ったように目を開いた。
「あぁ、この子ですか。もちろん、きちんと覚えておりますよ。わたくしのコーヒーをおいしいと仰って下さった女の子ですね。顔立ちが整ったすごく魅力的な方でしたので、印象に残っていますよ」
興奮冷めやらぬと言った調子でマスターはしゃべっていたが、僕の表情を見て冷静さを取り戻したのか、一度咳払いをはさむ。
「……おっと、失礼いたしました。どうも、そのようなことで喜んでいい状況ではないようですね。それで? この女の子がどうなさったのですか?」
僕は小さく頷き、現状を説明した。そして、一週間以内に彼女を見なかったか、と尋ねると、しかし彼は力なく首を横に振った。僕の質問が終わった後、彼は何も発することなく、微動だにせずに自身の記憶をたどっているようだった。その誠意には素直に感謝の気持ちを表したいが、結果は芳しくなかった。
「申し訳ないです。お客様の力になれませんで……」
肩を落とす老爺に僕はまた惑わされる。極力、彼に気を遣わせない言葉を選ぼうとするが、すぐには思い浮かんでこない。腕時計を見ると、時間はもうすぐ午後六時を指そうとしていた。
「……まだ、捜索を続けるおつもりですか?」
僕の行動から察したのか、マスターは窓の外の、薄暗く淀んだ風景を寂しそうに見つめながら問うた。
「はい。そのつもりです」
マスターの顔は見ることができなかった。それはもう、何も目に入れたくなかったからかもしれない。自分に都合のよくない現実など、見えなくていい。目を伏したまま、僕は深く頷いていた。
そんな僕に、マスターの弱いため息が重ねられる。上目づかいに彼をようやく見た。柔和な笑みに、僕の心で何かの音がしたのを感じた。
「正直に申し上げて、これ以上の捜索は危険だとわたくしは思います。女の子がどこに行ったのかはわかり得ませんが、もし遠くに行ってしまっていて、そして彼女を探してお客様まで迷われてしまっては、彼女は悲しまれると思います。お気持ちはお察ししますが、今日は……」
僕は何も言い返せない。彼にとって、それは間違いなく正論であろう。僕もそれは十分に分かっている。でも、受け入れたくなかった。一般的に正解と言われることをやっているだけでは、彼女は見つけ出せられない気がした。いつもと違う自分になって、その時にやっと、今の辛く苦しい現実という鎖から解放されるような気がしたのだ。
強く、強く拳を握りしめる。マスターの言葉を無視はしたくない。かといって、自分の中で煮えたぎり、鼓舞される想いをこの時間に留めておきたくもない。脂汗が浮かんだ。粘っこくしつこいそれは、舐めるように、不快感を増幅させつつ流れ落ちていく。
「……彼女の名前、何というのですか?」
えっ、と僕は思わず顔を上げる。驚くようなことではなかったはずだ。細められた、哀愁が漂う老いた瞳は、揺るぐことなくまっすぐに僕を貫いている。
「普段、お客様にこのような不躾なこと、お尋ねすることは決してありません。ですが、あなたはとても苦しそう。自分一人だけで走り始めてしまいそうです」
日常の中で、こんな風に達観されたことを言われれば、「何が分かって言ってるんだ」と、心の中での反駁はきっと止まらない。でも、これを年の功と言うのだろうか、長年、人と接する仕事を続けてきたという彼の言葉はとても柔らかく、それでいて僕の心に深く突き刺さった。痛みを覚えることも、怒りを感じることもない。安らかに眠らせてくれる毒薬が塗られているかのように、非常に穏やかに僕の心の中へと入り込んできた。
夜空に輝く星が、その美しさを保ったまま僕の身体に流れ込んでくるよう。時の流れが僕を優しく包み込む。
「そんな時は、一度落ち着きましょう。大切な人の……守りたい人の名前を呟くのです。きっとその人の顔も思い浮かんでくるでしょう。笑った顔、怒った顔、泣いた顔……。色々な表情があるはずです。そのすべての表情に問いかけるのです。そしてどんな変化が見られるのか……。頭の中で思い描いてみてください」
そう言って、にっこりと笑った。ひとたび、心臓が大きくドクンと脈打った。目を瞑って映し出してみる。どこからか、コーヒーのほろ苦い香りが漂ってくる。意識が赴くまま、より深い思考へと身を落としてゆく。最近は見られていない……でも、色鮮やかに再現されるさつきの表情。感情の変化に富んださつきは、どれを見てもその時の気持ちがはっきりと感じられた。何を考えているのか分からない、無表情な姿などどこにもない。そんなさつきに僕は、色々と問いかけてみる。今に関係することだけではない。雑談めいたことや、二人で笑い合った内容など。僕たちの過去が、真っ暗で何もない、どこかすらも分からない空間で、やがて色彩を帯びて輝きだす。
「…………すみません、落ち着きました」
力の抜けた体が、近くの椅子へとダイブする。「おっと」と小走りでマスターは駆け寄ってきてくれたが、大丈夫、と手を振って戻ってもらう。
「ブレンド、一杯お願いします」
畏まりました、とマスターはゆっくり頷く。しばらくの時間をかけて呼吸を整え、僕はマスターをより近くに感じられるカウンター席へと移動し、豆を挽くその姿をぼけっと眺める。
「月宮……」
はい? と顔を上げるマスター。ほぼ同時に、一つのカップが僕の前に置かれる。
「月宮、さつきです。その女の子の名前……」
言い終わって一口目を啜る。普段からブラックで飲む僕だが、今日はほろ苦く感じられた。
「さつきさん、ですか……。お名前の通りの方、というような感じがしますね」
「……どういうことですか?」
「花言葉ですよ。サツキの花言葉は『貞淑』。お淑やか、という意味ですね」
「お淑やか……ですか」
「えぇ、そうです」
もう一度目を瞑った。改めてさつきを思い浮かべる。
「……ははっ」
そんなことをしていると、少し可笑しくなった。自然と笑みがこぼれ、不思議そうな顔でマスターが僕を見る。
「どうか、なさいましたか?」
カップを磨く手を止め、僕を心配そうに見る。何でもないですよ、と、不規則な息を漏らしながら答える。
「……アイツは全然、お淑やかな女の子じゃないですよ。怒る時はすぐに怒るし、泣く時はわんわん泣きわめきます。でもその分……と言いますか、楽しんだり喜んだりする時には、目いっぱい笑います。僕だけじゃなく、周りのみんなをも幸せにしてくれるような笑顔を見せてくれます。だからさつきは、全然サツキじゃないんです。あの子にサツキという花言葉は似合いませんよ、本当に」
そんなさつきだから、僕は好きになった。そしてどんな奇跡か、彼女も僕を好いてくれた。そのことを、たまらなく嬉しく思う。
「さつきさんのこと、大事に思ってらっしゃいますか?」
どんな答えを返すかなんてわかっているくせに。心の中でちょっと意地悪に言ってから、僕はその予想通りの答えを返す。一字一句違わず、決意をしっかりと乗せて。伝わってほしい、この想いと共に。
「もちろんですよ!」
カップを前に突き出す。マスターは笑顔で僕からカップを受け取り、またコーヒーを注いでくれた。
ふらふらと彷徨う湯気は、やがてどこかへと消え去った。この店は、いつでも僕たちを迎えてくれる。次にまたさつきと来られる日まで、ずっと彼は待ち続けてくれるはずだ。
次の日は休日だったので、一日をさつきの捜索に使うことにした。警察からは誰のところにも連絡は入っていないらしい。そろそろ見つけ出さないと、いつさつきが変わり果てた姿で見つかるか、想像ができたものじゃない。
近所の公園で佐々木さんと待ち合わせし、簡単な相談だけしてすぐに捜索に向かう。前夜、一人で探しに行こうとしていた僕を止めるように、佐々木さんも同行を頼んできた。僕としては佐々木さんを巻き込むのは本意ではなかったが、彼女の説得と熱意に負け、手分けして捜索することにした。メッセージでやりとりしながら、僕は先日、さつきと一緒に行った場所へ向かう。
「あの、すみません……」
何度も何度も、そして何人にも、僕は虱潰しに声をかけた。顔写真を見せ、理由を添えて尋ねるも、誰もが首を横に振るばかり。やがて声は震えはじめ、真冬にも関わらず大粒の汗が頬や体を伝うようになった。外気に晒されると、それは体力と体温を蝕み、さつきをより遠い存在に感じさせようとする。もしかしたら近くにいるかもしれないのに手を伸ばそうとしても伸ばせず、やっとの思いで少しだけ前に進めば、現実を思い知らされる。吐き気を覚えるほど、今の僕を取り巻く状況は冷酷であった。
近くの電柱にもたれかかり、空を見上げる。厚い雲の狭間から何かが舞い降りてきた。僕の額に当たって、水滴と化す。
「……雪だ……」
ちらちらと、穏やかにそれは舞う。風にしぶかれると、それはまさに踊っているといっても過言ではない。幸せそうに、自由に空中を飛んでいる。
初雪に喜ぶ近所のちびっ子たちが大袈裟に騒ぐ。僕はそれを視界の外に追いやり、痛む体に鞭うって歩き出す。
徐々に雪はその勢いを強くし始める。初めは可愛げ漂う姿であったが、やがて風が加わり、間もなく、軽く吹雪きだした。傘など持っていなかったため、慌てて近くのコンビニで安い傘を購入する。ついでに、佐々木さんにもメッセージを送った。これまで連絡がなかったということはまださつきは見つかっていないということだろうから、「風邪、引かないようにね」と身を案じる内容だけを送る。すぐに既読がつき、「ありがとう」「八柳君も気を付けてね」と返信が表示された。
休憩は最小限にし、再び白い町中を歩き出す。透明なビニールを容赦なく打ち付ける風は、僕の前進をいとも簡単に拒む。次はどこに行こうかと十字路で首を左右に捻っていると、道端に見慣れないものを発見した。捜索に関係があるとは思えなかったが、好奇心で近寄ってみる。
「うわっ」
思わず悲鳴が漏れた。そして僕はすぐにその場を立ち去る。少しでも離れようと、直感的に曲がった。
寒さで衰弱してしまったのだろう、野良猫の死骸が横たわっていた。数多の点々が蠢いていると思ったら、それは死骸に群がる小さな虫だった。彼らも、厳しい環境を生き抜くために必死とはいえ、人から見ればそれはグロテスクと思う他なかった。そして、息絶えていた猫はきっと、さつきと出かけた日に見かけた猫と同じだったと思う。一瞬で目を逸らしてしまったが、柄や体型から、何となくではあるがそんな気がした。
僕は息を荒げ、駆け足でどこへ向かうでもなく走る。もう、聞き込みをするような場所もない。そこらじゅうを歩いているうちの誰かが知っているかもしれないが、僕に、また「この子、見ませんでしたか」と何度も尋ねるだけの気力は残っていない。走ることだけで精いっぱいだ。走っていないと、さつきとずっと出会えないような気がして。止まると僕こそが取り残されてしまうのではないかという気がして。また、激しく動いていないと、あの猫の姿が再度、脳裏に浮かび上がってきてしまう。「最悪」なんて想像したくなかった。最後の最後まで、消えかかっている希望でいいから抱いたままが良い。
ポケットの中のスマホが震えた。急いで画面を見る。
「佐々木さん! 何かあった!?」
電話だった。思わず大声で怒鳴っていた。
『ちょっ! 気持ちは分かるけど、そんな叫ばないで!! あぁ、いや、そんなことどうでもいいや。八柳君! 月宮さん、見つかった?』
「ううん、全然。そっちこそ、どうなの?」
『こっちも全くだよ。親にも確認はしてみたんだけど、見てもないし、警察からの連絡もないらしいし。まぁ、実際には最初に月宮さんの家に連絡は行くんだけどね』
先ほど聞いた話によると、さつきが見つかった際、まず月宮家に連絡が行くようにしているが、もし不在だった場合には佐々木さんの家に電話がかかることになっているらしい。
『八柳君、今どこにいる? もし月宮さんの家に近かったら、一度確認のために行ってみてくれない?』
現在地を確認すると、さつきの家までは徒歩で十分もかからない場所だった。僕はすぐに了承し、走って向かう。
インターホンを押すと、間もなくお母さんが現れる。明らかに鬱陶しく思う表情をされたが、門前払いということはなかった。
「本日は、どういった御用ですか? さつきのことならもうあれ以上話すことはありませんよ」
挨拶もなくいきなりそう言った。いえ、と僕は首を振り、要件を話す。
「現在、僕たちは、いなくなったさつきさんの捜索を行っています。それで、警察などから連絡が入っていないか、その確認をさせてもらうために窺っただけですよ」
母親は盛大にため息を吐く。重々しい口調で言った。
「……あなたの仕業があったからなんですね、あの警察からの電話は。お宅の娘さんについて話を聞かせろ、ってしつこく……」
頭を押さえてその場に蹲る。僕が支えようとする手は、簡単に払われた。
「……家出だろうが失踪だろうが、全てはあの子が勝手にやったことです。私も、そしてあなた方も、決して関係はないはず。私の言うとおりにしないから、今こうやって誰かの手を煩わせてるんです。……お願いですから、私を巻き込まないでください。感情を表に出さないあの子は、きっともう帰ってきません。だからせめて、今は休ませて……! 疲れたんです、もう……」
僕は「失礼しました」とだけ残し、さつきの家を後にした。
散ることのない怒りは、沸々と燃え上がる。
忘れられるならさっさと忘れたい。想い人の親に対して失礼ではあるが、それ以前に、彼女は人間として貶されるべき対象だ。自分の娘が命の危機に陥っているかもしれないのに、彼女の心は決して揺らいではいないようだ。あの母親に育てられたさつきを不憫に思った。
「もしもし、佐々木さん?」
『うん。どうだった?』
「連絡、来てないって」
母親のことを話しそうになったが、寸でところで留まれた。わざわざ佐々木さんまで不快にさせる必要はない。
『ほんと、月宮さん、どこにいるんだろうねー……』
電話口の彼女の声に、疲弊の色を感じる。
「……もうちょっと、頑張ろ」
そうとしか言えなかった。「うん、そうだね」と小さな声で返す佐々木さんは、すぐに通話を切った。
そして僕はまた走る。悔しさを何とかエネルギーに変えようとして、激しく咳き込む。寒さも暑さも、既に感じることはない。早く見つけなければという焦燥だけに身を焦がし、どこへ向かうでもなく走り続ける。
すれ違う人たちが奇異の視線で僕を見るが、そんなのに構っている時間はない。走るにつれ、人はどんどん少なくなっていく。僕は世界の端っこへと向かっているようだった。たった一人の影を追いかけて、手を差しのばすために僕はその影を追い込んでいく。そして僕は、唯一僕たちが探していないと思われる場所……山の中へと続く道の前へと至っていた。
そこでもう一度佐々木さんへと連絡を取る。
「何回も連絡ごめん」
『いいよ、気にしないで。それよりも……』
その後は、彼女は口にしなかった。愚問だと感じているのだろうか。
「今、どこにいるの?」
『商店街。やっぱそれなりに人いるしさ。色々訊いてみようと思って来たんだけど……。なかなかうまくいかないもんだね』
たはは、と乾いた笑いが聞こえる。
「ちょっとさ……疲れてるところ悪いんだけど、来てほしいところがあるんだ」
僕は上方を見上げながら言う。冷たい雪の粒が僕の額に当たり、水滴となって消えていく。目の中に一粒入り、痛みに顔を顰めた。
『え? 心当たり、あるの?』
僅かに佐々木さんの声が明るくなる。
「心当たり、ってほどでもないんだけど……。僕たちが行ってないところ、見つけたんだ。だから、今から僕がいるところに来てほしい」
『分かった。どこ?』
現在地を告げ、適当なところで落ちあうことにする。
『あ、あと、八柳君』
「なに?」
『もうお昼すぎてるけど、ご飯食べた?』
言われて腕時計を見る。もうすぐ一三時を指すところだった。
「ううん、食べてない」
自覚すると、急にお腹が減ってくる。
『仕方ないなー。じゃあ、途中でコンビニに寄って何か適当に買ってくるから。後でお金、返してね!』
「……うん、ありがと」
通話を終えた僕は、近くの塀にもたれかかり、降っては溶けてゆく白玉たちをぼーっと眺める。風は、今は落ち着いており、平穏な雪景色がどんどん形成されていく。
不意に、歩き回った疲れからか眠気に襲われる。ちょっとだけならいいか、と僕は目を瞑る。しんしんと降る雪の声が、微かに聞こえてくるような気がした。
「八柳君!」
大きな声に驚き、衝動的に目を開く。佐々木さんの切羽詰ったような表情が、真っ先に視界に入る。
「え……? どうして佐々木さんが……? それに何でそんなに慌ててるの……?」
「どうして、じゃないよ! 言われて私がやってきたら八柳君地面に座ってて呼びかけても目、開けないんだから! 誰だって驚くでしょ!!」
ようやく立ち上がると、体の節々に痛みを感じた。加えて、服も水分を吸い込んでだいぶ重くなっている。
「…………やっぱ、疲れてるよね。そのままだと風邪ひくよ。一回家に戻る?」
佐々木さんは目を強くこすり、心配そうな表情で僕を見る、僕は体を軽く動かし、問題なく動くか確認をするが、特に異常は見られない。
「ううん、大丈夫。ちょっと休むけど、それが終わったらちゃんと行くよ」
僕の身を案じてくれる彼女の、納得がいかない気持ちに変化はない。でも、僕を止めたところで無駄だと思ったのだろう、一つ息を吐き、コンビニの袋を手渡した。
「……近くに小さなバス停があるから。そこでご飯、食べよ」
「八柳君は、山に月宮さんがいると思ってるの?」
食事の最中、佐々木さんが問いかけてきた。ちなみに彼女は、もう昼食を終えている。少食だから問題ない、とのことだった。僕は二つ目のおにぎりに手を伸ばしかけて、一旦止める。
「……確信はないよ。でも、もしさつきがお母さんと喧嘩みたいなことをして、その結果家を出てしまったのなら……。可能性はあるんじゃないかな、と」
さつきが感情的になってしまうということは、今現在ではありえない。だから、その正体が何かも分からぬままに、本能的に飛び出してしまったのかもしれない。
「喧嘩……。何か、厄介な事情があったりするの……?」
問う佐々木さんの声が低くなる。両の拳はきゅっとズボンを握っている。
「詳しいことは聞いていないから、何とも言えないんだけどね……。さつきのお母さんが、ちょっと……」
口ごもって、僕は佐々木さんから目を逸らす。風は再び吹き始め、仲間外れにされた雪の粒が僕たちに寄ってくる。
「どうしても言えない事なら仕方ないけど……。そうじゃないなら、私は言ってほしいな。できれば、情報は共有しておきたいから」
暫し黙り、僕は無言で小さく頷いた。佐々木さんは微笑を浮かべる。
そして僕は、先ほどさつきの家を訪ねた時の出来事を可能な限り子細に話した。短い話だったが、聞き終わった時、佐々木さんは何とも言えぬ苦しそうな表情となっていた。
「……つまり、月宮さんのお母さんは、自分の娘がいなくなっても何とも思ってない、ってことなんだね……。それどころか、他人に迷惑をかけている親不孝な娘だと思っている、と……」
そこまでは正直分からない。でも、思っている可能性は十分に考えられる。
「……ねぇ、八柳君」
声で応えることはせずに顔だけを向ける。目を細めて、淡泊に語る少女の姿があった。
「確か八柳君、前、もし月宮さんが明るかったら、って話、私にしたよね? それに、月宮さんは、以前はとても明るい、クラスの中心的人物だった、って……」
「うん。……覚えててくれたんだ」
僕が感嘆にも似た声を出すと、「当たり前じゃん。印象的だったもの」と笑んだ。
「それでね。その……私もどう言えばいいのかよくわかんないんだけど、その頃の……つまり八柳君が言う『明るい月宮さん』の時は、どうだったの? 両親との関係、とか……。もしかしたら、何かヒントになることがあるかもしれないよ」
眩く固い決意を持って、その言葉たちは放たれたように感じられた。僕は思わず固まってしまう。
「それって……。さつきのこと、信じてくれるの?」
「八柳君だけが知ってて、私たちの知らない月宮さんがいた、ってことは、正直今になっても信じきれてないよ。あの日……三人でご飯食べた日にはいつか信じられるまで待って、って言ったけど、その時がいつになるかは、私にも分からない……」
自身に辟易でもするように力なく首を振る。
「あくまで仮定だよ。イフの話。さっきも言ったけど、何か手がかりになることがあるかもしれない。月宮さんを見つけて、助け出すための材料になればいいかなと思って言っただけだよ」
淡々と佐々木さんの言葉は続く。僕にはそれが、少しだけ冷たく感じられた。
「……なるほど。ちょっと待って」
微妙な空白の後に、僕は当時の記憶を呼び戻す。とはいっても、それ自体はすぐに思いだすことができる。一番重要なのは、いかに佐々木さんに理解してもらうか、さつきの家庭事情として起こったと推測されることを信じてもらうかである。
五分ほど互いに沈黙した。吹き付ける雪を鬱陶しそうに払う佐々木さん。僅かに苛立ちが混じっているだろうか。
「お待たせ。じゃあ話すね」
「うん。よろしく」
佇まいを直し、僕と向き合う。訥々(とつとつ)と紡がれる僕たちの過去のお話。
「さつきは……これまでも言った通り、とても明るくて、素直で、話しててとても楽しいって思える女の子だった。でも、その反面というか……反動、みたいなものなのかな? 家族の事を話すときは、全然楽しそうでも嬉しそうでもなかったんだ。具体的なことは避けるけど、平気な顔で毒々しい言葉も発したし、そうでなくても愚痴は頻繁に聞いたよ。さつきのことは今でも勿論好きだけど、家族のことを話すときのさつきは……正直、あまり好きじゃなかったかも……。怖いな、って思ってたよ、その時の僕は」
さつきは、一通り愚痴った後、「このことは誰にも言わないでね! 誰にもだよ!!」と毎回、念押ししていた。僕はそのたびに「もちろん。約束するよ」と言っていた。満足そうな笑みを浮かべて自宅に入っていくさつきに、不安と、塵のような充足感を覚えながら帰路に就いていたことは記憶に新しい。約束を破ってしまったことに対して、意味なんてないと分かりつつも心の中で謝り、佐々木さんの反応を待つ。
「……話は、それで終わり?」
「うん。悪いけど、僕が知ってるのはここまで。さつきの家の中で実際に何が起こっていたか、までは僕にすらも教えてくれてないんだ」
うーんと唸る佐々木さん。「とにかく、家庭内で何かあったかもしれない、っていう推測が有力だね」と結論付ける。
「僕もそう思う。……でも、それが今回の失踪と何か関係があるものなのか……?」
佐々木さんは僕の顔を二、三度瞬きして見つめ、ころっと表情を変えて質問してきた。
「じゃあさ、八柳君。八柳君のご両親は、いま何してるの?」
え? と呆気にとられる僕に「いいから」と回答を催促する。とりあえず僕は正直に答える。
「家にはいないよ。今もどっかで仕事してると思う」
「え、そうなの?」
予想外の答えだったのか、目を丸くされる。
「うん。それがどうかしたの?」
困ったように視線を逸らし、何やらぼそぼそ囁いている佐々木さん。
「うぅぅ……考えてないような答えを出さないでよ……」
「そんな理不尽な」
僕が呆れると、「まぁいいや」と再び僕と向き合う。
「八柳君は、ご両親とはいつから別の場所で暮らしてるの? 月宮さんと付き合ってたころは?」
「そのころから僕は今の暮らしだよ。高校入学と同時に一人暮らしやってる」
「ふーん……」
全然知らなかったなぁ……と嘆息する佐々木さんだったが、不意に表情を曇らせる。
「……だからこそ、もしかしたら八柳君には月宮さんが家出した理由が分からないのかもしれないね。八柳君、どうせご両親と一緒に暮らしてた時も、ろくに喧嘩とかしてなかったでしょ?」
思い返してみるが、確かにそんな記憶はない。何かの理由で怒られても、「自分が悪いんだ」と言い聞かせて、込み上げる気持ちを抑えつけていた。だからかは分からないが、大きな喧嘩などは起きることなく、今に至っている。
「うん。きわめて平穏だったと思う」
「だからだよ。やっぱり、喧嘩して家族と距離を感じる、ってことをしないと、今の月宮さんの心境は推し量れないよ、きっと。かくいう私なんて家族との喧嘩はしょっちゅうだからね。今の状況を抜いて考えれば、八柳君のその精神は羨ましいよ」
苦笑して、でもすぐに頬を叩いてその笑みを雪の中へと消し去る。
「だから……普段から喧嘩とかしちゃってる私だから……月宮さんの気持ち、ちょっと分かるかな」
弱気に落とされた彼女のぼやき。目の前は強く吹雪いている。僕たちの心の中にもそれは積もり始める。消えない埃のように、それは僕たちの中で量を増やし続ける。
数センチ、佐々木さんに近寄った。
風が奏でる音楽だけが僕たちを包み込んでいる。天候が落ち着いたら探しに行こう。そう言うと、佐々木さんは「うん」と消え入りかけた声で答えた。
互いに何も喋らぬまま三十分ほどが経過した。この時期の天候は変わりやすい。気づけば風はやみ、歩いて捜索できるぐらいには天候が回復しつつあった。
「そろそろ、行こうか」
呼びかけると、佐々木さんは頷いて立ち上がる。
少し歩くと、住宅は無くなり、所々白く染まった景色だけが広がるようになる。ざわざわと、木々が嘆いている。
「佐々木さんはこの道、通ったことある?」
「うーん……最近は無いかな。でも、小さい時ならあったかも。おばあちゃんと散歩するときに来てたぐらいかな」
懐かしそうに、雪の止んだ空を見上げながら言う。
「そういや、おばあちゃんが言ってたんだよ。ここには一人で来ちゃダメだ、って。『亜実はとっても元気な子だから、絶対に迷子になる』って。たぶん、こんなに広い場所なんだから、調子に乗って一人で遊びに行っちゃう、とか思って心配したんだろうね、おばあちゃん」
どう話をつなげればよいのか分からなくて、僕はしばらく黙る。足を踏み出すたびにじゅる、と不快な感覚が伝わり、僕たちの跡がはっきりと刻まれる。
「あぁ、ちなみにおばあちゃんはまだまだ元気だよ? 別に気とか遣ってもらわなくても大丈夫」
そっか、とようやく僕はほっとする。
「それで、佐々木さんとおばあちゃんはどの辺まで行ったことがあるの? この先、実は結構たくさん分かれ道とかあるんだけど、そこまで行った?」
「え、そうなの? ていうか八柳君は詳しいね。これまでにも何回も来たことがあるの?」
まぁね、と答える。
「別に趣味ってほどでもないんだけど、僕も散歩は嫌いじゃないから。暇な時とかイライラしてしまった時とかは歩いたり、たまには走ったりすることもあるよ」
意外そうに目を丸くされる。
「……それに、デートとかって以外と体力使うから……。特に女の子は買い物とか始まると長いからねぇ……」
先日のことを思い出して、最近体がなまってきたかなぁ、とこんな状況ではあるが考えてしまう。この先、さつきとまだまだたくさん楽しい時間を過ごすのならば、もう一度体力をつけなおした方が良いかもしれない。
そんな考えを巡らせていた僕の横で、佐々木さんは僕に同情するように宥め、後に快活に笑った。
「……っと、話が逸れちゃったね。で、分かれ道の事だけど、多分そこまでは行ったことがないと思う。さっきも言ったけど、おばあちゃん、私のこと心配してたからね。帰りがあやふやになるような場所までは行かせなかったんだと思う」
「分かった。じゃあ、暗くなったり天気が悪くなったりする前にちゃんと帰れるようにしよう。僕は一応帰り道も覚えてるけど、さすがに視界が悪くなるとどうなるか分かったものじゃないしね」
この道は、迷路のように、分かれ道の先にまた分かれ道があり、さらにそのまた奥にも……という形で、複雑な造りになっている。そんな形状だから、迷ってしまってとりあえず戻ろうとしても、自分がどちらの方向から来たのか分からなくて、挙句違う場所へ向かってしまう……ということは、十分にあり得る話だ。なお、どこかの分岐の先には、ある寂れた村があるらしい。昔、父親から聞いただけで、調べたことも実際に見たこともない。
「あ、あれ……」
佐々木さんが指さす先には、一つ目の分かれ道があった。
「どっちに行く?」
「月宮さんは、どっちに行くと思う?」
ほぼ間をはさまずに逆質問された。思わず返答に窮す。
「えっと……さすがにそれは……」
「月宮さんとはここには来てないの?」
「そりゃ……ね、何もない所だし、来ても面白くないかなと思って」
ふーんと相槌を打つ。
「でもさ、意外と、来て良かったって思える場所とかあるかもよ? 今度一緒に来てみたら?」
「……考えておくよ」
雑談はそれまでで終わりにし、とりあえず左に進んでみる。僕の記憶が正しければ、件の
集落は、次の分かれ道の先にあったはずだ。勝手に家の中に住みつくにせよ、誰かに助けてもらったにせよ、その集落にいる可能性が極めて高い。そう理由を話すと、納得した表情で佐々木さんは頷いてくれた。
そしてまたニ十分ほど歩くと、次の分かれ道に辿り着く。案の定、風雨にさらされ、ぼろぼろになった看板が示す先は、「○○村」となっていた。
「んん?? んー……読めないけど、これがさっき八柳君が言ってた村?」
「多分。そうだと思う。さつきがいるなら、ここだろうね。逆にここじゃなかったらどうしよう、って今かなりドキドキしてる」
苦笑いとも自嘲的な笑みともつかぬ曖昧な表情を浮かべる僕に、佐々木さんは何も触れてこなかった。きっと、彼女なりの優しさだったのだと思う。「大丈夫」とか「絶対にいるよ」とか、そんな不確実な言葉で僕を刺激したくなかったのだろう。緊張と小さな期待を携えた僕たちは、その村がある方向に向かって足を踏み出す。
「……月宮さん、いてほしいな……」
道中、独り言のように彼女は呟いた。理由を尋ねると、少し頬を染めながらも、彼女はきっぱりと言い切った。
「月宮さんの笑顔、まだ見せてもらってないからね」
そう言って浮かんだ笑顔は、自らの希望の表れだろうか。前を見据え、低い声で言う。
「笑ってくれるまでは、絶対にどっかに行かせたりしないんだから……」
森の音に混じって届く佐々木さんの想い。一歩、また強く、彼女は地面を踏みつけた。
荒れた道を進むと、間もなく開けた場所へと辿り着いた。野球場ほどの大きさの敷地には、茅葺きの家が数軒と、何も植わっていない小さな畑、それに加えてぼろぼろになった道具小屋のような建物が、所狭しと鎮座しているだけの空間である。人の気配は感じられない。ざわざわ、ざわざわ、と僕たちを取り囲んでいる高木たちが騒いでいる。
「これが……村?」
驚きのような、怖がるような声が佐々木さんから漏れた。
「うん。多分、間違ってないと思う」
「それじゃ、ここに月宮さんが……?」
「いる……なら、ここしかないと僕は考えてる。もし勘が外れたら、また一から探し直さなきゃならなくなる」
雪はやんでも、気温はどんどん下がっているように感じられる。辛うじて寝られる場所がここだから、いなかった場合は、もう警察の力を頼るしかなくなるだろう。
「つ、月宮さーん!」
村じゅうに響く大声で、佐々木さんは呼びかける。それに倣って僕も叫んだ。
家屋の屋根には、薄らと雪が積もっている。風に吹かれて、どこかに飛んで行った。
声が掠れる。見つかってほしいという願望と、もし見つからなかったらという恐怖。両方に心を固く縛られ、その先に待っているであろう幸福さえもがあやふやに思えてしまう。
僕たちは移動しながらさつきの名を呼んだ。ある一軒の前を通った時、偶然家の中が見えた。窓ガラスは粉々に砕け、障子には至る所に穴が開いていた。薄暗い屋内も、たんすや置物が倒れており、とても人が生活しているようには見えなかった。
「……ねぇ、本当に月宮さんはここにいるの? こんな……廃墟みたいなところに……」
この光景は、着実に僕たちの精神を蝕んでいく。雪の中に落とされた蝋燭がすぐに消えてしまうように……。僕たちの希望も、また一瞬で消えてしまうのだ。
それでも僕は、最後の最後まで自分が信じる「未来」というものに縋りたい。不安そうな表情で僕に寄り添う佐々木さんの目を見る。
「廃墟だからだよ」
「……え?」
「廃墟だったら誰にも邪魔はされない。追い出す人もいないし、そんな必要もない。強いて言うなら動物、っていう脅威があるけど……この季節だ、多くの肉食動物は冬眠してるはず」
全ては自分を信じたいだけ。自分の心を平静に保ちたいだけ。現実には追い出したがる人もいるし、冬眠からたまたま目覚めて人里に現れる野獣もいる。
「で、でも……月宮さんは女の子だよ? こんな汚い所、きっと嫌がるに決まって……」
「今のさつきは感情がないんだよ。きっと構うことなんてないさ」
「でも、ほかにも色々……食糧とかさ……」
「食べ物の貯蓄ぐらいあるよ。畑もあるんだしさ」
「でも――」
諦めの気持ちが強くなってきたのか、助けを求めるようにきゅっと上着の裾を握られる。決して不快だと思ったわけじゃない。気づけば僕は彼女の細い腕を振り払っていた。
「――さっきからでもでもでもでも、って!! 探す気がないならどこかで待ってて!!」
彼女の言葉は、夢を見ている僕に現実を容赦なく見せてくれる。ぼんやりとしか浮かんでいない目の前の景色が、彼女の言葉を聞くたびに確かな輪郭を持って浮かびあがってくる。
それがとてつもなく怖かった。まだ夢を見ていたい。僕たちの前に姿を現さないのは、どこかの家の温かい場所で熟睡していて、目を覚ましていないだけだと信じたい。もしくは、家主さんと一緒に散歩にでも行っているのだと思いたい。さっき、佐々木さんが話してくれた中に出てきたような優しいおばあちゃんと一緒に歩いているのだと。
でも、彼女はそれをさせてくれなかった。悔しさと悲しさは、そろそろ怒りへと変わりつつあった。
「……ごめん」
三つの謝罪が同時に響いたような気さえする。僕と、佐々木さんと、そしてさつき。幻であったとしても、久方ぶりにさつきの声を聞いた。僕はその場に頽れて、空を見上げる。雲間から、青空が少しだけ確認できた。乾いた笑みがこぼれる。どこかから降ってきた一粒の雪が、僕の頬に当たって、水となって落ちていった。
町に流れる、午後四時を報せる鐘の音。冬の夜は早い。早く戻らないと、僕たちまでもが遭難してしまう。
「……そろそろ、帰ろうか」
僕の声に、たまげたという表情をする佐々木さん。当たり前だよね。
「いい、の……?」
答える前に立ち上がる。
「さっきは怒鳴ったりしてごめん。手伝ってくれてありがとうね」
彼女をおいて、この場を後にする。呆然と佇んでいたのも数秒だけ。すぐに彼女のスニーカーが土を踏む音が聞こえてくる。
「帰りは暗くなると思うから気を付けよう。佐々木さん、必要になったらスマホのライト、貸してね」
「う、うん……」
そして村の出口へと差し掛かる。振り返ることもなく歩き続ける。後ろ髪をひかれる思いがなかったとは言い切れない。でも、さつきなら絶対に僕たちの呼び声には応えてくれるはずだ。だってあのさつきだよ。過去も今も、真面目にお付き合いを続けてきたさつきがだよ。聞こえているのに無視するはずがない、感情が無くなってしまっている今でも、僕の声には何かしらの反応を見せてくれるはずだ。それが無いんだから、仕方がないじゃないか。
「あ……八柳君八柳君」
ちょんちょんと肩を叩かれる。「何?」とうなだれたまま応えた。
「前から人が来るよ。おじいさん」
顔を上げると、鎌らしき刃物を持った人物が向かってきているのが見えた。真冬にも関わらず麦わら帽子を被って、首にはタオルを巻いている。鎌は、草刈りにでも使っていたのだろうか。
「あの人なら……何か知ってるかも」
そう佐々木さんが囁いたとき、向こうも僕たちの存在に気付いたらしかった。駆け足で僕たちの元へ向かってくる。佐々木さんは刃物を持った男が来ているということで小さな悲鳴を上げて後ずさったが、間もなく無害だと分かると再び僕の横へと戻ってきた。
そしておじいさんはしわがれた声で僕たちに問うた。「おめぇら、こんなところで何しとるか」と。
いえ、ちょっと迷い込んじゃっただけです。僕が平然と言うと、おじいさんは少しがっかりしたような表情を見せた。
「ここらはアンタらのような元気なモンが来るような場所ちゃう。とっとと帰りな」
そして何やらぼそぼそと呟きながら村へと歩いて行った。僕は早く帰ろうとしたが、その様子が気になったのか、佐々木さんは僕を制しておじいさんの元へと向かった。
だが、それも一分ほどの事で、再びおじいさんは僕の前へと歩んできた。背後には笑顔の佐々木さんが立っている。何事かと不思議に思っていると、おじいさんは僕を真摯な目つきで睨み、訊ねた。
「お前、誰か人を探しとるんか?」
素直に頷いてしまった。誰かに背後から首を動かされたように……。
「……そいつぁもしかして、髪が長くて色白で、人形みたいにめんこい嬢さんか? ぜんっぜん喋らへんけど」
あ……と僕の口からは声にならない声が漏れた。心臓が早鐘を打ち、すぐに立っていられなくなる。足はぴくぴくと痙攣し、体中に虫が走っているような感覚だ。一歩、近づく。おじいさんは一歩遠ざかった。
「……やとしたら心当たりはある。着いて来いや」
木の隙間から、一筋の光が差し込んで僕たちを照らしだす。
天使、っているんだなぁ……。そんなことを思いながら、僕は泣いていた。