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光芒に溶けゆく一輪の華  作者: 深淵ノ鯱
光芒に溶け行ゆく一輪の華
5/12

理想の天国

  4


 アプリでみんなが会話しているのを眺める。静かな部屋に、僕のスマホのバイブの音だけが小さく落とされる。一度、軽く深呼吸をし、そしてスマホを放した。

 胸を押さえると、まるで飛び出しているかのような僕の鼓動が感じられる。遠い日、さつきとの初デートに期待と不安を感じていた自分を思い出す。あの日から時は流れ、僕たちは僅かでも成長したはずだ。けれども、それを自覚することはできない。居間へ向かおうとしている足音が聞こえる。

「悠太……起きてますよね。早くご飯を食べちゃってください」

 僕は答える代わりに、彼女をじっと見つめる。さつきと僕の視線は交錯するが、どちらも逸らそうとはしない。恥ずかしがることも気まずくなることもなく、只々、無の時間が流れ続けた。

「……あぁ、うん。ごめん」

 たっぷり一分ほどそうした後、僕が先に動いた。さつきは踵を返し、どこかへ行ってしまう。一人取り残された僕は、冷めかけている朝ごはんに手を伸ばす。

 どれだけ時が流れても、特別な日の朝に慣れることはない。微かに寒さが残っている室内で、僕の指は震えている。食べ物は喉を通りづらいし、テレビを見て気を紛らわそうとしても、全く集中できない。お茶で無理やり流し込むが、結果的に半分ほど残してしまった。

 僕が運んできた茶碗を見て、台所にいたさつきは僅かに目を丸くする。

「体調、悪いんですか? それとも、おいしくなかったですか?」

 言いながら、僕の残したご飯の入っている茶碗にラップをかけ、冷蔵庫に仕舞う。おかずは、自身の胃の中に放り込んだ。咀嚼しながら「私はおいしいと思いますが」と、小首を傾げて言った。

「いや、そういうわけじゃないから安心して。今日もおいしかったよ。でも、まぁ、何というか…………。とりあえず、ちゃんと夜に食べるから! 心配しないで!」

 僕が内心を見抜かれないように繕って言うと、さつきはしばらく黙って僕を見た後、「分かりました」と頷き、作業に戻った。

 一時間ほど経ってさつきの家事が終わると、いよいよ僕たちは出かけることとなった。ドアを開けた途端に、にわかに温かな室内を冷気が襲う。僕は小刻みに震えながらも施錠し、片方の手をさつきに向かって差し出す。

「…………」

 僕の顔とその手を繰り返し見、でもさつきが僕の手を取ることはなかった。そっぽを向いて僕の先を歩き出す。予想していたことだったので、苦笑いを浮かべつつ、「待って」と彼女を追いかける。彼女の吐息が、小走りの僕に降りかかる。

 白い息を二人で漏らしながら、僕たちはどこに行くでもなく歩く。日程と言っても、どこか特定の行きたい場所を二人で相談したわけでもない。さつきが行きたがる場所に行けばいいと思い、道中で尋ねてみようと考えていた。「どこ行きたい?」と訊く僕に、さつきはすげなく答える。

「どこでもいいです」

「どこか言ってよ」

「どこでもいいんです」

「そんなこと言わずにさ」

 僕がくだらないことを続けて、その長さに笑みを浮かべながらも、彼女がそれに応えることは、一度として無い。僕は諦める、めげる、など考えるいとまもないほどに、他人が聞けば確実に鬱陶しいと思うであろう一言を並べ続けた。僕の言葉に気持ちをかき回されることもなく、さつきは「どこでもいい」という答えを変えようとしない。

「……じゃ、ここでいい?」

 町の小さなプラネタリウム会場が近づいていた。僕が指さし、さつきに視線を向けると、彼女は小さく頷いた。

 その後、僕たちはかつてのデートで赴いたことがある場所をひたすらに巡った。足が棒になりそうなぐらい歩き回った。さらにはさつきに話しかけ続けたため、僕の疲労はどんどん募っていった。道端に一軒のカフェがあったため、そこで休憩をとることにした。

 クラシック音楽がかかっている静かな店内に、僕たちのほかの客はいなかった。暖房による温かな空気だけが店内に満ち満ちており、寒かった外の世界がまるで嘘のようだ。マスターと思しき年配の男性が退屈そうに頬杖をついて、僕たちを物珍しそうに眺めている。コーヒーと軽食を注文し、固いシートに身を埋める。

 暑い……とぼやき、マフラーと手袋を外すさつきを見つめながら、今日の景色を回想する。

 プラネタリウム、ゲームセンター、映画館、ウィンドウショッピング……。多くの施設を巡り、多くの想い出を繰り返したが、さつきが以前のように燥ぐことも、目を輝かせることも、僕を強引に引っ張ってどこかに連れて行こうとすることも、当然ながら無かった。僕の前で眩しい笑顔を向けていた僕の恋人は、只々僕に引っ張られるおもちゃのようになってしまっている。運ばれてきたコーヒーに軽く口を突け、「あちっ」と慌てて離す。それを微笑ましげに眺めていた僕と目が合い、彼女は照れ隠しで僕を叩いた。……そんな妄想に、僕は思わず惑う。

「なぁ、さつき……」

 マスターは再び元の姿勢に戻り、今にも舟をこぎそうになっている。今の僕にとっては好都合だ。思い切って名を呼ぶと、そのか弱き手で小さなサンドイッチを掴んでいたさつきはそれに注いでいた視線を上げ、そして僕を見た。

「……何ですか?」

 かたかたと音を立てる窓の隙間から僅かに吹き込んでくる風が、ゆらりと彼女の前髪を揺らす。二度三度触ってそれを直そうとするさつきの瞳は、それでも僕を見据えていた。

「……さつきはどうして、こっちの世界に帰ってこれたんだ? そもそも、どういった理由で帰ってきたんだ?」

 さつきは黙して僕の瞳を捉え続け、その姿は僕の問いを吟味(ぎんみ)しているように思われた。やがて、睫毛が動く。ゆっくりと持ち上げられたその容貌は、彼女の気持ちを代弁する。

 ――どういうこと……?

 愚か者でも見るような目に、僕は晒される。僅かに身を乗り出したさつきの腕がコーヒーカップに当たり、小さな波紋が広がる。すぐにそれは消え、接触に気づいたさつきは身を戻した。

「……こっちの世界……帰る……理由……?」

 ようやく呟かれた単語は、それぞれが泡のようにすぐに消えゆく。解決できぬ疑問に表情を歪め、顎に指を当てて必死に考え込んでいる。一筋の汗が静かに頬を伝い、落ちていく。

「……すみません、失礼な物言いですが、何を仰っているんですか? 私には悠太の言っていることが全く理解できません」

 汗の筋を手元のおしぼりで軽く拭い、深く頭を垂れてそう告げる。僕が絶句していると、間もなくさつきは顔を上げ、目を細めて僕を見た。

「それで結局、何が言いたいんですか?」

 既に湯気も消え、冷めているコーヒーを一口含む。心臓は再び熱く拍動を始め、液体が体内に、そして心に沁みることもなく霧散してゆく。

「……いや、なんでもないんだ。気にしないで。今のは…………うん、心理テストみたいなものだと思ってほしい、な」

 ぎこちない笑みが、彼女の疑念を一層膨らませると思う。でも、その時の僕には、張り付けた笑みを見せて場を誤魔化すしか、方法が思い浮かばなかった。ある意味で純粋な今のさつきは、いかなる状況であっても自分の気持ちに正直で、嘘は吐かない。彼女が「知らない」と言うのならば、ほかの誰もがそれを「知らない」だろう。

 話題を変えようと、脳内でキーワードを弄繰り回す。だが、僕がそれを口にする前に、さつきが声を発した。それは酷く意外な内容で、そして今の僕にとっては苦しいことこの上ない話題に相違なかった。

「今、私たちが生きている世界が『こっちの世界』ならば。……『あっちの世界』というものが、存在するのですか?」

 ロボットではない。微かではあるが、小さな灯火のような興味が、そこにはあったように感じられた。灰色の雲間から店内に差し込む光の帯が一瞬だけ僕を眩ませ、鋭い痛みに目を逸らす。

「悠太の言い方から察すると、私は『こっちの世界』に『何かの理由があって』来てしまったのですよね? ということは、私……」

 いつになく饒舌に話す。喜ぶべき場面なのかもしれないが、暑さで流れる汗に混じる冷たい液体が、僕の背中を伝う。再び思案に耽るポーズを見せ、でもすぐにさつきは結論付ける。

「私、死んでるんですか?」

 動かぬ瞳と固まる表情が、冷たく僕を劈く。

 その言葉を発しても、さつきが動揺したり恐怖したりすることはない。この世界ではさつきは死んでいないし、ずっと生きている。事故に巻き込まれることもなく、かといって誰かと笑いあう青春を謳歌することもなく、淡々と一日一日を消費している。それは他人から見れば「死んでいる」と十分に思われる可能性のある日々であるが、それでもさつきは毎日を懸命に生きている。だから、さつきの問いに素直に頷くことなど、出来るはずがなかった。

 肯定も否定もすることなく、僕とさつきは対峙を続ける。マスターの唐突な咳に我に返った僕たちは、互いに顔を逸らし、風が舞い踊る窓の外を見つめる。

「……すみません、変なことを訊きました。忘れてください」

 不快でしたよね、と宥めるように言い、そしてまた謝罪する。真摯な彼女の姿に大きな罪悪感を覚えつつ、でも何もすることはできずに、言葉を濁して再び僕は黙る。

 それからしばらくは、互いに飲食に集中した。初めてのお客さんだからということで、冷めてしまったコーヒーを無料で温かいものに交換してくれたマスターにお礼を言い、残り少ないサンドイッチで空き腹を満たす。

 食事を終え、外を見やると、雲間から僅かに青空が透けているのが見えた。

 さつきがこちらに戻ってきた日も同じで、小さな空が顔を覗かせていた。それはまるで、僕たちを辛うじて結びつける、世界と世界の狭間のような場所だ。最後に僕は、雑談を装って彼女に問いかける。

「なぁ、さつき」

 無言で顔を上げる。机上で握られた両の手は、忙しなく震え、動いている。

「さつきは、天国ってあると思うか?」

「急ですね。ですが、答えは一つです。ありません。天国などは、空想の産物に過ぎないと、私は考えています」

 だよな。心の中で頷き、同時に安堵した。続けてさつきは話す。

「天国とか地獄は、死してなお人が見る、夢のようなものだと思います。……実際に死んだことは無いのでわかりませんが、そうであると、私は自分の中で考えてきました。明晰夢でも見ない限り、夢の中で自分は『ここは現実だ』と思い込んでいますよね? 人が奇蹟と呼ぶような、現実で起こりえるはずがないことが容易に起こるし、でもそれに疑問を覚えることなく、ある時は自由きままに、ある時は鬼気迫ってその時間を、その日の世界で過ごします。目覚めればその夢は終わりますが、天国や地獄は終わりません。永遠に見続ける夢が、まさに天国や地獄なのだと思います」

 つらつらと、単調な口調で述べ続けるさつき。彼女の記憶の中には無いのだろうが、僕にとってさつきは、一度天国に行ったことのある少女、という認識だ。その場所を、彼女は「夢」と言い切った。一度死した人間は、きっと、長い長い「夢」を見る。それが幸せなものかそうでないものなのかは分かり得ないが、かつてのさつきが見たその「夢」は、とても幸せなものであり、生きている僕たちが脳内で思い浮かべる天国のイメージそのものだったに違いない。だからこそ、彼女は僕の前で今を生きられており、温かい食事に手を付けることができる。

 天国とは万能な場所なのだろうか。再びこちらの世に送り返すことができるほど、自由の効く世界なのだろうか。雑談を止めることなく僕はさつきに問うてみる。

「さつき、天国って、どんな場所だと思う? 空想で構わない。さつきが想像する天国の姿でいいから、話してみてよ」

 続く僕の問いかけに、さつきは「何故?」と言いたげに眉を顰める。でも僕が微笑みかけると、小さくため息を吐いて虚空に視線を彷徨わせた。

「……想像、できないです」

 短い沈黙の後に、彼女は首を振った。

「どうも私は想像力が乏しいようです。いきなり天国を想像しろ、と言われましても思い浮かべられません」

 はは、と僕は笑う。何気なく視線を店内に回すと、こちらを眺めていたマスターと目が合った。ニンマリと笑う彼に僕も笑んで会釈し、再びさつきへと向き直る。

 ――今時の高校生は変なことを話しあうんだなぁ。

 そんな老いた声が聞こえた気がした。

「じゃあ、天国っぽい場所ってどこだろう? 現実世界の場所で例えるならさ」

「そうですね……」

 また同じぐらいの長さの沈黙があり、そしてぽつりと彼女は答えた。

「お花畑」

「お花畑?」

 反芻した僕と目が合うと、さつきは顔を伏せた。コーヒーカップを両手で握りしめ、自身が映る水面をじっと見つめている。

「絵本で、そんな描写があったと思います」

 なるほど、と僕は頷く。

 自身の心が躍っているのを、僕は感じていた。彼女の目の届かぬ場所では固く拳を握り、体の中だけで留めておけない喜びを見せている。

 不意にさつきは顔を上げ、同様の質問を僕に浴びせてきた。悠太は、天国ってどんな場所だと思う、と。

「僕は、願いが叶う場所だと思ってるよ」

 願いが叶う……。もごもごと口の中で僕の言葉を噛みしめているさつき。

「それは、さっき私が言ったことと同じような意味、でしょうか?」

「うん。そうだろうね」

 現実では起こりえない、奇蹟が起こる場所。その奇蹟の結晶が、月宮さつきだ。長く暗い、悲しいトンネルの出口で微笑んでいた一筋の光が、その存在に縋っていた僕に手向(たむ)けられた一輪の華だ。奇蹟とは起こるものなんだと、取り戻した存在を身近に感じられて、がらでもなく思った。

「……会いたい人がいればその人と会え、やりたいことがあれば、それができる。例え生前に果たせなかったことでも、その世界なら、果たすことができる」

 独り言のように僕は呟く。言い終わって視線を上げると、さつきは僕を変わらぬ瞳で、でも真剣な眼差しを向けてくれていた。

「僕が思い描く理想の天国、っていうのは、そんな所かな」

 さつきは何も言わず、ただ頷くのみ。静寂は、外の風景を店内に溶け込ませ、微かな寒さを僕たちに感じさせる。

「……今日も、寒いですな」

 頭上から声がして仰ぎ見ると、深く皺が刻まれた頬をくしゃりと綻ばせ、穏やかな表情で、マスターが僕たちを見下ろしていた。すぐに腰を低くさせ、「お代わりはいりませんか?」と二人とそれぞれ目を合わせ、尋ねられる。僕たちが「もう充分です。ありがとうござます」と微笑んで断ると、彼もまた子どものような笑みを浮かべ、身を上げた。

「失礼だとは思いますが、先ほどの会話、聞いてしまいました」

 しわがれた声が静かな空間に満ちる。僕は突然喋り出した彼に驚きを隠せず、思わず彼を凝視する。

「長い間、こうして小さな喫茶店のオーナーをやっておりますが、極力お客様の会話は聞かないようにしております。今回は、わたくしの不徳の致すところです。お許しください、お客様」

 老父(ろうふ)は腰を折り、深く頭を下げた。その、紳士を思わせる態度に、僕がたじろぐ。年長者に極端に畏まられると、こちらの身がかゆくなる。

「……えっと、いやっ、店内は静かですし、仕方ないですよ! 別に聞かれちゃまずいことを話していたわけではありませんし! ですから……そ、そんな風に謝らないでくださいよ……っ!」

 両手をマスターの前でわたわたと振り、僕は慌てて彼を宥める。僕の言葉を聞いてようやく頭を上げた彼は、なおも申し訳なさそうに身を縮めこませて言った。

「あなた方は難しいお話をされるのですね……。聞いていて、わたくしの方が悩まされるほどでした。普段から、あのようなお話をお二人でされているのですか?」

 僕たちを順繰りに見て、彼は問う。さつきは、マスターと一切目を合わせようとせず、膝の上で固く拳を握りしめ、ずっとそこに視線を落としている。それに気づいたマスターは無言で笑い、僕と顔を見合わせてさらに苦笑した。代表して僕が答える。

「いえ、決してそんなことはないですよ。今日は、まぁ、何といいますか……二人とも疲れているんです。ですから変なテンションで、こんな会話をしてしまっただけですよ」

 ほうほう、と二度三度、マスターは頷く。

「左様でしたか。いや、お疲れのところ、こんな老爺(ろうや)戯言(ざれごと)に付き合ってくださって、ありがとうございました。わたくしも老い先短い身である故、死後のことが多少は気になりますので」

 そう言うと、彼はもう一度微笑んで自身の居場所へと返っていった。去り際、彼は何かを呟いた。それが何かは聞き取れなかったが、彼の表情も瞳も変わらず、人生を心の底から楽しんでいる姿を持っていた。

「さつき、大丈夫か? ずっと黙ってたけど」

 肩を軽く揺すると、ようやくさつきは顔を上げた。

「……知らない人と話すのは得意じゃないので。すみません、ご迷惑をおかけしました」

 そろそろ出ましょうか、とさつきは促し、僕が頷いたのを見て席を立つ。伝票を手にマスターの元へと向かうと、ゆっくりと彼は椅子から立ち上がり、のんびりとした手つきでキーを操作した。勘定を終え、扉へと向かおうとすると、「そちらのお嬢さん」と彼はさつきを呼び止めた。小さく肩を跳ねあげたさつきはゆっくりと振り返り、彼の笑顔を見る。

「コーヒーは、おいしかったですかな?」

 マスターからの、たわいもない最後の雑談だった。柔らかな表情は崩さず、いかなる客にも親身に話しかける彼の性格は、さつきを、軽く笑ませたように見えた。

「はい、とっても」

 それを言い残すと、さつきは僕を置いて先に行ってしまう。僕が再度「ごちそうさまでした」と礼を言うと、彼は何度目かもわからぬ微笑を見せ、店の外に出たのを確認すると、椅子に腰を下ろした。彼はまた独りの時間を過ごし始める。そこには、並ならぬ後ろ髪をひかれる思いを感じずにはいられなかった。

「……寒い寒い」

 コーヒーと暖房で温まった体も、三十分もすれば完全に冷えてしまう。だがさつきは何食わぬ顔して隣を歩いている。僕がそれを羨ましく思っていると、不意にさつきは自身の手を見つめた。そして何かに気づいたようにぱっと僕を見る。

「あ、手袋……」

 店に入った時、彼女は確かに手袋を嵌めていた。マフラーこそ今も巻いているが、どうやら手袋だけ店に忘れてきてしまったようだ。

「取りに戻るか?」

 こくりと頷かれる。

「分かった。寒くない?」

 さつきは首を振って否定する。だが、僕の質問で今まで忘れていたものを意識してしまったせいか、むき出しの両手は小さく震えはじめた。ポケットに突っ込むも、なかなか治まりそうにない。

「……仕方ないな。風邪、引くよ」

 僕は自分の手袋を取り、手を差し伸べる。布越しに握るより、直接握る方が温まると思ったが故の行動である。

「…………ん」

 おずおずとではあるが、さつきは僕の手を握った。僕が引っ張ると、自然体のままで動く。無表情は変わらないものの、彼女はずっと視線を逸らしていた。

 震えてこそいたものの、さつきの手は温かく、そしてマシュマロのように柔らかかった。風に乗って流れる長い黒髪は、僕たちが歩く仄白い道のりを明るく染めてゆく。僕たちは互いに何も喋らず、来た道を戻った。冷たい風は幾度となく僕たちを撃ち続け、そのたびに、どこかのぬくもりに縋りたいという欲望が増してゆく。無自覚の内に、さつきの手を握る力が強くなっていた。その時には気づかず、しばらく経って店が見えてきたあたりで、耐えかねたさつきが教えてくれた。

 片づけをしていたマスターが手袋の存在に気づいていたらしく、さつきの手袋はきちんと保管してあった。僕たちは彼に深く礼を言い、再び寒風の中を歩き出す。

 薄いピンクを基調にし、所々にこげ茶のラインが施されている毛糸の手袋に包まれた彼女の両手は、とても大きく見える。改めて僕は、先ほどさつきを握っていた自分の片手を見る。もう、温かさが残っていることはない。手を離した後、これ以上握っておく必要はないとさつきに言われたため、名残惜しい気持ちは未だ深く残ってはいたが僕も自分の手袋で覆った。

 でも、とても小さな感触は残っている。僅かな感覚ではなく、それが限りなく小さな存在であったという認識はいつまでも僕の中で記憶として残り続けるだろう。放っておくと、心の底から不安に感じる存在を僕は見た。僕が守らないと誰からも守られることはなく、だから誰をも守る存在にならない少女。何かの弾みで霧のように辺り一面に粒となって広がっていきそうだ。

 風に吹かれて飛んでゆく小さな花びらは、誰からも気づかれず、どこかの地に落ちる。踏まれても、無視をされても、光を浴びるその「いつか」を待ち続け、願いが叶った日には、また誰かの笑顔を咲かせる力となるのだろう。

 僕の間近で落とされた僕の為だけの温かさが一つ。また花を咲かせる。

「悠太の手、痛かった。でも、温かかったです。ありがとうございました」

 もう一度、手袋越しであるが彼女の手を握った。嫌がって抵抗することもなく、さりとて握り返してくることもなく、片想いの僕の右手は互いの温かさを共有する。

「クラスの人に見られたら、面倒なことになるのではないですか? 私は別にかまわないのですが」

「……うん、そうだね」

「悠太はクラスの中でも、嫌われているような立場にはいません。友人だって多くいますよね。……いいのですか? もし噂にされたら、きっと悠太は困りますよ」

「大丈夫。その時はその時で、何とかするよ」

 さつきとの噂が立つことを困る僕はいない。さつきが困ることがないのなら、僕が気に病む必要性は感じなかった。騒ぎたい人たちには騒がせておけばいいし、勘違いする人がいるのなら、勘違いさせたままで無問題(もうまんたい)だ。それこそが僕が知っている過去であり、続くはずの未来だった。だから、これは本当の過去から続く、正しい未来への道筋の一つなのだろう。

「さ、次どこに行く?」

 僕は元気よくさつきに問いかける。さつきは僕の目を一度見て、そしてついっと逸らした。

「どこでも、いいですよ。悠太の行きたい場所へ」

 うん、と頷き僕はさつきの手を引いた。やがて僕たちは横に並び、同じ歩幅を意識して歩きだす。いつかは終わりが訪れる長い道のりも、永久に続くように錯覚する。

 ――永遠、か……。

 それが存在するはずのないものだということは分かりきっている。さつきはどんな天国を見てきたのだろうか。無性に気になった。



 短い一日が終わろうとしている。夕方になるにつれ、分厚い雲で覆われていた空は明るさを取り戻し始め、僅かな時間ではあるが夕陽を二人で拝むこともできた。

「疲れたなー……っ!」

 勢いよく背中を伸ばしながら独り言を吐き出す。小気味良く鳴る体をさつきは凝視しつつ、平然とした声で言う。

「私は全然疲れてませんよ。まだまだ歩けます」

 軽く胸を張っている。辟易交じりの息が漏れた。

「……さすが女の子。やっぱ男とは違うね」

 クラスにいたほかのカップルの彼氏は、彼女に一日中歩きまわされるので翌日は筋肉痛で体中が痛くて仕方がない、と嬉しそうな反面、辛そうに愚痴っていたのを思い出す。女の子は強いな、と思う。色々な面で、僕たち男を凌駕している。

「とりあえず、もう家に帰ろうよ。もうすぐ暗くなっちゃうし、ご飯も食べなきゃだし」

「……それでは、外食などどうでしょう。悠太がよければですが」

 言われて財布を確認する。あまりにも大きな出費は今後に影響しかねないが、高価なものでなければ、外食でも問題なさそうだ。

「そうだね、たまには家じゃないところで食べるのもいいかも。さつきはどこがいい?」

 お任せします、とさつきは会釈のように顔を落として言った。

「そんなこと言ってさ、ここ、って僕が言ったら『えー、そこー?』とか言うのは勘弁してよね」

 さつきがそんな面倒なことをするとは思えないし、実際にされたこともないが冗談っぽく注意しておく。

「心配なさらないでください。本当に文句なんて言いませんから」

 まぁ、意思がなければ不満を覚えることもないだろう。僕は近くの安価なファミリーレストランを選び、彼女の同意を得て入店した。

「あれ? 八柳君?」

 店員に案内されて席に向かっている最中、聞き慣れた声がした。その方向を確認すると、佐々木さんが一人でパスタを頬張りながら手を振っていた。

「……と、月宮さんかな? やっほ」

 さつきにも同様に手を振る。さつきは小さく振りかえしていた。

「……おぉ? 月宮さんがテンション高い……?」

 大仰(おおぎょう)に驚いているが、多分彼女の本心だと思う。

「よかったらこっち、来る? 空いてるよ」

 待ち呆けていた店員には事情を話し、席を移動させてもらった。佐々木さんはカルボナーラをフォークで巻きつけて口に運びながら僕たちを見る。

「今日は二人揃ってどうしたの? デートとか?」

「……あ、いや、別にそんなんじゃないよ?」

「何で疑問形なの。まぁいいけどさ」

 きっと彼女は察してしまっているだろう。興味はあるだろうが敢えて踏み込んでこない佐々木さんに、素直に感謝した。

「佐々木さんこそ、どうしたの? こんなところで一人でご飯なんて」

 注文を二人ともさっさと済ませてしまい、何気なく僕は問いかける。彼女は顰め面を作って僕を軽く睨んだ。

「人を毎日寂しく一人で食事しているボッチキャラ見たく言わないでもらいたい」

「……ごめん」

 僕が頭を下げると、すぐに、愉快そうに笑う声が聞こえた。

「はは、そんな真面目に謝らなくていいよ。私のいつもの冗談だって分かってるんでしょ?

 こっちが慌てちゃう」

 ころころと笑いながら言う。

「うん、分かってるつもりだけどね。でもまぁ、それでも不安になってしまうというか……。発言で嫌われたらどうしよう、って考えちゃってね」

 僕が苦笑すると、佐々木さんは僕に同調して軽く笑った後に、深くため息を吐いた。どうしたの、と僕は思わず尋ねかける。

「私がそんなことで怒ったり八柳君のこと嫌いになったりするはずがないでしょ。それに、一人でご飯食べてたのは事実だし……」

 少し寂しそうに言う。確か今日、佐々木さんは例の遊びグループの一員となっていたはずだ。

「……もしかして、遊びに行ったメンバーの中で何かあったの? 喧嘩とか……」

「え? ううん! そんなことはないよ。終始順調だったし、私も楽しかったよ!」

 満面の笑顔で告げ、そして慌てて口を噤む。誘われていないさつきや、実際に行っていない僕の前で言うのは悪いと思ったのだろう。

「気にしないで、僕たちも楽しい一日だったから。それで、どうしてここで食事を?」

「大した理由じゃないよ。みんなご飯食べてから帰るだろうと思って、晩ご飯いらない、って親に言ってたんだけど、誰もこの時間まで残ってくれなくて。それで仕方なく一人で食べてただけだよ」

「そっか。何もなくて安心した」

 もし仲間内で厄介なことになっていたとしたら、明日からの生活に影響を来すかもしれない。それは面倒なことなので、極力避けたいものだ。

「二人は、今日はどんなことしてたの?」

 僕よりも、彼女の興味はさつきの方に向いているようだった。答えようとしていた自らの口を封じ、僕もまたさつきへと視線を向ける。

「え、何ですか」

「月宮さんは、今日何をしてたの?」

 にこにこと微笑みかけながら、僕と話す時よりか少し口調を柔らかくして尋ねかける。

「……彼が答えます」

 右手で僕を差し、自身は何もないところに視線を彷徨わせる。

「佐々木さんはさつきに訊いてるんだから、さつきが答えなよ」

 僕が諭しても、聞く耳を持たなかった。やがて諦めて、注文した品を待とうとしていると、佐々木さんが、今度は僕を見つめていた。何? と軽く前のめりになって問う。

「……さっき、月宮さんのこと、『さつき』って呼んだよね? なに? そんなに親しい仲なの?? 学校では名字で呼んでるよね?」

 言われて気づく。佐々木さんの嫌らしい笑みに顔が熱くなるのを感じるが、虚勢を張ってまで隠し貫こうとは思わない。

「……うん。学校ではあぁ呼んでるけど、普段は名前で呼んでるんだ」

 ちらりとさつきを見るが、会話に参加することもなければ、僕に視線を寄越すこともない。目の前では佐々木さんが意外そうに呆け、その後つまらなさそうに唇を尖らせた。

「……へぇー、そうなんだ。意外と八柳君って自分に正直なんだね。からかったら照れてあたふたするかも、ってちょっと期待してたのに」

「僕をどんな人だと思ってるの……」

 僕のぼやきには答えることはなく、愛想よく笑って流した。

「あ、でも、このことは他の人には伝えないでね。あくまで佐々木さんとの間だけで……」

「うん、わかった。りょーかい」

 間もなく料理が運ばれてきたので、それぞれ食べ始める。自分のハンバーグを無言で食べていると、既に食べ終わっていた佐々木さんは手を伸ばし、「ねぇねぇ」と僕の肩を叩く。

「何?」

「ぶっちゃけ、八柳君って月宮さんのこと、好きなの??」

「それは友達として? それとも女の子として?」

「ははっ。分かってるくせに」

 僕の照れ隠しなど、すぐに掻き消される。ちらりとさつきを盗み見ると、こちらの会話には一瞥もくれず、至る所に視線を向けていた。聞いていないふりをしているつもりなのだろうか。だが、ここで僕がどう答えたかなど、彼女が気にすることはない。ならば僕は正直に答えようと決めた。

「恋愛対象……女の子として、だよ」

 白い歯を覗かせて僕に笑顔を見せ、返答を待つ佐々木さんの前で僕は佇まいを直し、彼女の瞳を見て答える。

「うん。好きだよ」

「へぇ……」

 再度、佐々木さんは躊躇いを含んだ小さな相槌を打つ。

「このことはオフレコ、なんだよね」

「そうしてくれると助かるかな」

「分かった。それじゃあ……ちょっと訊いていいかな?」

 さつきが「お手洗いに行ってきます」と席を外れる。僕と佐々木さんの二人きりの恋のお話が始まろうとしている。

 僕が頷くと、佐々木さんは極めて小さな声で問いかけた。

「月宮さんの、どんなところが好き?」

「どこが好き、って……そりゃ全部だけど」

 僕の答えに、不満そうに首を振る佐々木さん。

「そんな一辺倒な答えを私は求めてないの。そうだなあ……具体的に好きなところ、トップスリーを挙げてみて」

 シートに深く身を埋め、しばし思案する。数十秒で上位三つが定まった。

「分かった。挙げていくよ」

 店内の客の数は、だいぶ少なくなってきた。支払いを終えて、家族で、友人同士で笑いあいながら外に出ていく人たちに掛けられる「ありがとうございました」が、店内に大きく木霊する。僕の赤裸々な想いも、それに同調するように、静けさが漂いつつある空間に落とされる。

 僕は軽く息を吸い込み、強く波打つ心臓を抑えつける。僕の、さつきの好きな個所を挙げるのは、避けては通れぬ道が確実に存在する。自分の想いを封じ込めてまで、楽な道を歩こうとは思わない。

「正直な話、一つは見た目。長い髪はきちんと整えられていて美しいし、顔も人形みたいで可愛らしい。そういったところに惚れた、というのも否定できないな」

「うん。まぁ、仕方ないよね。同性の私から見ても、月宮さんは綺麗な子だよ」

 前髪を自身の指に巻きつけていじりながら、少し悔しそうに言う。僕は同意の意味を含めて頷き、続ける。

「二つ目は、優しいところ。佐々木さんも言ってたよね、勉強を教えてもらったりしたことがある、って。僕も、さつきに優しくされたことがあるんだ。僕が学校を休んだ時に、何も言わなくてもノートのコピーを渡してくれたり、これは言っていいのか分かんないけど、長期休みのとき、宿題を手伝ってくれたり。他にも、悩み相談にのってくれたこともあった。そんな風に、親身になって僕と接してくれることに、好感を覚えたんだ」

 佐々木さんは僕が話している最中、何か言いたそうに身をよじっていた。ようやく話が終わると、やや躊躇いがちに尋ねてきた。

「あの……八柳君って、これまで学校を休んだことがあったっけ? この前は月宮さんと一緒に休んでたからノートを見せてもらうことは無理だと思うんだけど……。あと、宿題も……。八柳君、夏休みとかでも毎日ちゃんと計画表通りにやってるよね? 私が、『何で宿題を終わらせられるの!?』って涙ながらに訊いたら、自慢気に教えてくれたし……。うぅん……??」

 深く首を捻らせて自身の考えに、佐々木さんは耽る。僕は彼女の疑問には答えることなく、話を続ける。

「三つ目も、性格のことかな。さつきは、とても楽しそうに日々を過ごしている女の子だった。僕に限らず、人と話すときには、絶対に笑顔で応じる女の子だった。それだけじゃなくて、彼女自身もまた、面白い話でみんなを楽しませてくれた。さつきといるとき、僕はいつからか、とても安らかな気持ちで過ごせてるって気づいたんだ」

 佐々木さんは、もう口を挟むことすらしなかった。僕は、そんな彼女に向かって笑みを浮かべ、「これが、僕がさつきを好きな理由だよ」と()めた。

 ややあって、さつきがようやく席に戻ってくる。互いに沈黙し、片方は混乱を隠しきれていない様子であるこの状況に、しばらく目を瞬かせていたが、何も言及せず着席する。

「どう? 驚いた?」

 素直に佐々木さんは、深く頷く。

「驚いた、なんてもんじゃないよ……。まったく理解できてない」

「……うん、そうだと思うよ」

 ちゃんと分かっている。今のさつきとの矛盾点が多すぎる。僕が理由を話すときに思い浮かべていた情景の中には、さつきの隣で笑う佐々木さんの姿も多くあった。そして、彼女もまた僕にとって、大事な想い出のひとかけらであることに変わりはない。君も、そんなさつきと一緒に笑って日々を過ごしていたんだよ……。そう告げたいが、それを信じてもらえるだけの根拠を僕は持ち合わせていない。

「……とりあえず、一旦落ち着きたいから、外に行っていい? もういい時間になってきたし」

 僕たちのほかには、お客はあと数人ほどしか残っていない。時折傍を通りすぎる店員さんからの視線を、僅かに感じるようになっていた。

 僕たちは頷き、お金を払って外に出た。足元を、一匹の猫が歩いてゆく。

 寒空の中、(もや)のようにあやふやな輪郭を伴って並ぶ街灯は、柔らかく、そして麗かに、静かで寂しい夜の街を照らし続けていた。



 最も道路寄りに僕が立ち、横に佐々木さん、さらにその横にはさつきが並んでいる。普段は邪魔になるのでこのように並んで歩くことはないが、夜になると、通る自動車や自転車の量もまばらになり、わざわざ出歩く人もいなくなる。狭い道ではあるが、僕たちは遠慮することなく広がって歩く。

「それで、さっきの話、素直にどう思った?」

 佐々木さんに顔を向けて問いかける。マフラーから口をすぽっと出し、白い息を大量に漏らしながら答える。

「悪い言い方だけどね。八柳君の話を聞いてると、八柳君が話す月宮さんは、八柳君の妄想か夢としか思えない。自分が理想としている彼女を語っているだけにしか、私には思えないよ」

 うん、と僕は怒ることも悲しむことなく、極力何も思わずに頷いた。

「信じられる自信はないけど、訊いておくよ。さっき八柳君が話した月宮さんは、本当に現実世界での月宮さんなの? 八柳君の妄想とかではなく」

「もちろん。本当だよ」

 短い僕の返答は、背後から吹く風に乗って遠く消えてゆく。佐々木さんの固い顔越しに見えるさつきは、興味無さげに、自身の視線を虚空へと向けていた。吐き出され、どこかへ霧散する自分の息をずっと眺めている。

「証拠、みたいなものはあるの?」

 佐々木さんの訝しく思う顔は変わらない。やや険しくなったようにさえ見える。

「証拠……証拠かぁ」

 僕の独り言を耳にして響く、佐々木さんの深いため息。時折、前方を確認しつつ自身のスマホを操作し、端末を僕に手渡す。

「これは?」

「これまで、遠足とかに行ったときにクラスで撮った写真。月宮さんも多く写ってるはずだよ。八柳君の話では、このころの月宮さんは、元気で明るい、クラスの中心的存在になるような子だったんだよね」

 僕は画面をスワイプしながら、一枚一枚を確認していく。けれども、その中に、さつきが笑顔で写っている写真など一枚もなかった。周りがどれだけ楽しそうに笑っていても、仲睦まじげに肩を組んでいても、さつきはそれらに一切染まることなく、自分の世界から抜け出せない幼子のように佇んでいた。中には、まだ出会ってすぐのころのものなのだろう、クラスの誰かがさつきの両頬を、むにょっと引っ張り、無理やり笑わせようとしているところを撮ったものもあった。佐々木さんと、彼女と協力した誰かの苦笑とため息が聞こえてくるように感じた。

「八柳君は、月宮さんの写真、持ってたりしないの?」

 僕に意見を聞くことはない。僕は彼女の端末を返し、自分のものを取り出す。

 そういえば、さつきが戻ってきてから、過去に撮った写真など全く見ていなかった。さつきの写真を消したことは一度たりともなかったので、一緒に撮った記録は全部残っているはずだ。小さな期待と大きな不安がせめぎ合う中で、僕は操作を続ける。

「…………あぁ」

 長い沈黙の後に漏れたのは、そんな諦めにも似た情けない声だった。何となく予想はしていたことだったが、いざ、それが実際に起こったとなると、戸惑いを隠すことはできない。「どうだった?」と僕を覗きこむ佐々木さんには、無言で端末を渡す。

「……私のと一緒だね」

 ここは、『月宮さつきが生きていることが当たり前』の世界。明るい月宮さつきが存在していない場所なのだから、僕が持つ写真の中で笑んでいた彼女は、表情の全てを失っていた。今を生きているさつきの表情を、そのまま僕が持つ写真に張り付けたように、画面には写っている。初めて赴いたレストランで、二人で食事している場面を、店員さんに撮ってもらった写真。僕は片手だけだが、さつきは両手でピースサインを作り、それを顎の辺りまで寄せている。緊張でぎこちなく笑んでいる僕とは正反対で、二つのピースサインの横では、カメラに向かってえくぼを浮かべ、柔らかく笑うさつきがいた。でもそれは、あくまで僕の記憶の中の記録に過ぎない。写真の中では、淡く美しい光を失った僕だけが、一人で生き続けていた。

「証拠と呼べそうなものは、見せられそうにないよ。でも――」

 ぽつりと落ちる僕の諦念。そんな僕をしばらく黙って見ていた佐々木さんは、やがて軽く僕の丸まった背中をたたいた。

「八柳君は、こんなことで嘘を吐くような人じゃないよね」

「……信じてくれるの?」

 しっかりと首を横に振られた。そこには彼女なりの意思が含まれているように感じた。

「ううん。でも、時間が欲しい。図々しいのは分かってるけど、私が信じられるようになる日まで、時間をちょうだい」

 さつきの本当の姿を誰よりも早く知った女の子は、真面目な表情でそう言ってくれた。驚いた僕を尻目に、佐々木さんはさつきへも声を掛ける。われ関せずといった姿で只々歩いていたさつきの両手をいきなり掴み、大きく目を見開いた少女に向かって、「もうちょっと待ってて!」と呼びかけている。さつきはこくこく、と首を動かすのみ。きっと何を言われているのか理解できていないだろう。間もなく手を離した佐々木さんは、今一度さつきへと言葉を送る。

「……いつか、私にも笑顔を見せてね」

 佐々木さんの言葉に、さつきが答えることはない。目を二、三度瞬かせ、再度白い息を大量に吐き出す。そして昇っていくそれらを眺めていた。

 彼女の視線を追えば、真っ白な姿で僕らを照らしだす大きな月が望める。

 太陽の光を受けて光り輝く月のように。いつか叶う夢を信じる僕自身の淡い心に、今は縋りたいと思う。

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