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光芒に溶けゆく一輪の華  作者: 深淵ノ鯱
光芒に溶け行ゆく一輪の華
4/12

少女の疑問

  3


 週末まで、僕は同じような毎日を繰り返した。朝はさつきに起こされ、温かいトーストをコーヒーと共に食し、綺麗な制服で学校に向かう。道中は、黙ったまま歩き続けるさつきに必死に声を掛けながら、無感動な瞳の変化を一所懸命に探す。学校に到着すれば、僕は数人と雑談し、さつきは自席で独り、授業の準備をする。時々、クラスメイトがさつきに向かって何やら声をかけている姿を見かけるが、きっと事務連絡のようなものだろう。さつきは当然ながら表情に変化を見せないし、話しかけている子も、全く楽しそうではない。一方的な報告は十秒ほどで終了し、各々の楽園へと、彼女たちは向かう。

 歴史の授業を受けている最中、僕は教科書に載っている写真を暇つぶしに眺めていた。偶然開いたページに、モノクロの写真が印刷されていた。数秒見つめ、そして教科書を閉じる。

 まるで、僕が感じている世界のようだった。きっと、あの写真の中にいる人たちも、明るい、色彩豊かな未来など信じられていなかったに違いない。そのページの見出しが一瞬だけ目に入ったのだが、そこには戦争についての解説が広がっていた。

 戦争を経験したことはないが、それがとても怖いことだということは分かる。そんな時、昔の人たちは何を心の拠り所にしたのだろうか。僅かな食べ物、家族、友人……そして、恋人。自分の命がいつ失われるか怯えるよりも、大切な人の命が、もしくは存在が、遠く、手の届かない場所へ行ってしまう。そのことの方が怖かったのではないか……。この数日間を過ごし、僕はそう思う。

「……八柳君? ちゃんと教科書、見てる?」

 集中力が散漫になっていたのを女教師に注意され、僕は思わず「あっ、はい、見てます」と答える。

「じゃあ続き、読んでください」

 えっとー……と慌ててページを捲る僕を、周りのクラスメイト達が小さく笑いながら見ている。

「早くしてください」

 先生も茶化しているつもりなのか、笑いながら言う。顔が熱くなるのを感じながら、僕は「ごめんなさい」と謝った。

「はぁ……。じゃあさっき読んでくれた月宮さん、何ページが教えてあげてください」

 先生の視線がさつきへと向けられ、自然と僕の目もそれを追う。さつきは教科書を睨んでいた瞳を(すが)め、僕を見た。

「一二〇ページ」

 それだけ答え、また彼女は教科書に目を戻す。ありがとう、と僕は返事をし、言われた通りに教科書を読む。

「……はい、ありがとうございました。さて、江戸時代には様々な飢饉(ききん)が起こったのですが……」

 黒板に書かれていることを急いで写しながら、先生の声にも耳を傾ける。

「……一七三一年には、享保(きょうほう)の大飢饉という飢饉が起きます。これは徳川八代目将軍である徳川(とくがわ)吉宗(よしむね)の時代の話なのですが、実はこの時、皆さんにとっても比較的身近な、あることが吉宗によって行われました。それが何か、知っている人、いませんか?」

 これは余談ですからテストには出しませんよ、と微笑みながら先生は教室を見回す。誰も手を挙げない。

「それはですね……」

 へぇ~、と数人が声を上げたのを、朧に覚えていた。気づけば授業は終わっており、僕の机の前では佐々木さんがいつかのように僕を見上げていた。

「もう授業、終わったよ」

 目を擦り、体を起こす。腰の辺りから骨の鳴る音が聞こえ、そのまま体を捻る。

「……次、何だっけ……?」

「数学。八柳君は文系だから教室移動だよ。ホラ、さっさと行く」

 未だ完全に覚醒しきっていない頭のまま、僕は授業の準備をして立ち上がる。理系のため移動する必要のない佐々木さんは、僕の席にちょこんと座った。

「やっぱり、疲れてるの?」

「……かもしれない。さっきも知らない間に寝てしまってたわけだし」

 そっか、と佐々木さんはわずかに表情を曇らせて頷く。

「……まぁ、明日は土曜日だし、ゆっくり休みなよ。あ、何かおすすめの疲れを取る方法、教えよっか?」

 視界の端に、筆箱や教科書を手に教室を出ていくさつきの姿が映った。あっ、と僕は心の中で叫び、机上の道具を(さら)い、目的の教室に向かうことにする。

「ごめん、今はいいよ。ありがと」

 僕がそう謝りながら駆け出すと、佐々木さんは敬礼のように右手を額の前に(かざ)して応えてくれた。

「さつき」

 僕が彼女の名前を呼ぶと、さつきは一旦足を止め、ゆっくりと振り向いた。

「何ですか」

 低い声が僕を射貫く。

 僕はさつきの横に並び、歩き出す。少し遅れて彼女もついてきた。

「それで、何か用ですか」

「いや、特に用事はないんだけど……」

「そうですか。それではお先に失礼します」

 歩調を速め、僕を取り残していく。

「あ、ごめん! 実は聞きたいことがあったんだ!」

 慌てて呼び止めると、盛大なため息と共に再度振り返ってくれた。先ほどよりも僕たちの間の距離が狭かったため、さつきの長い髪の毛が当たりそうになる。わずかに身を引くと、訝しげな表情をされた。

「えっとー……今日提出の宿題、どこだったっけ?」

「やってなかったんですか?」

「いや、やったけど……。合ってるか確信がなくてね」

「昨日、私は家でやってましたよ。その時に聞けばよかったのに」

 ぶつぶつと愚痴のように言いながらも、さつきは答えてくれた。

「ありがと」

 僕の礼に、さつきの鼻を鳴らす音が重なる。

「これからはちゃんと聞いて下さいよ」

 僕を視界に収めることなく、さつきは言う。

「うん。今後は気を付けるよ」

 他クラスの喧騒に包まれていても、僕たちの周りだけは常に穏やかな空気が流れていた。ここだけが別世界のように感じる。例え、ほかのみんなには不快に感じるものだとしても、僕にとってはその不快さえもが特別だ。自分でも不思議だと思うが、その気持ちの制御ができない。可笑しく思った心は微笑となって、さつきの視線を僕に向けさせる。

「何がおかしいんですか」

「いや、ごめんね。何でもないよ」

「まぁ良いですけど」

 すたすたと歩く。目的の教室に辿り着くと、既に教師も到着しており、一緒に授業を受けるメンバーは全員がそろっていた。僕たちは駆け足で自席へと向かい、一時間を過ごす。

 そして授業が終わると、僕はまたさつきを追いかけた。僕が呼びかけると、さつきは変わらぬ口調と表情で僕を迎えてくれた。

 たわいもない会話を続かせる。これを会話と言っていいのかは僕にも分からない。僕がさつきと話したいという、ただの自己満足に過ぎないことは、自分でもよく分かっている。現に、さつきは頷くか生返事を返すだけだし、傍から見れば、ひとりごとを延々と女子に向かって語っている迷惑な人物だと思われかねない。それでも僕は、口を止めなかった。

 午前中最後の小休憩の時間。その間もまた、僕とさつきは教室移動だった。再び僕の席を占拠し、機嫌良さげに笑っている佐々木さんに手を振られ、僕は教室を出た。

「……また来ましたか」

 僕が並ぶよりも先にさつきは言った。

「うん、また来たよ」

「しつこい人ですね」

「……昔、よく言われたような気がするよ」

 さつきが返事をすることはなかった。

「あの、悠太。一つ、いいですか」

「……えっ?」

 さつきから話しかけられたことに、喜びと驚きが(ない)()ぜになる。いいよ、と答えるまでに数秒を要した。

「では失礼して」

 息を吸い込むことも、大きく吐くこともなく、かつてのさつきが日常会話の延長として話していたように、今のさつきは僕に問いかける。

「どうして、あなたは私にここまでの執着を示すのですか?」

 なぜだろうか。考えるまでもなく答えを告げることはできる。

「他の方と話している時間よりも、圧倒的に私と過ごしている時間の方が多いです。私にとってそんなことは些末な問題に過ぎませんが、理由をお尋ねしたいです。何か、特別な理由があるんですか? ……それとも、気分とでも仰いますか?」

 答えは簡単だ。君に感情を取り戻してもらいたいから。ずっと二人で話していれば、僕の想い出の中でずっと笑い続けてきた君に戻ると、僕は確信しているから。

 分かっているのに、僕はすぐには答えなかった。今の彼女は、この世界で『生きている』。昨日を、一昨日を、一週間前を、一か月前を、一年前を……。独りで過ごし続けている。それは僕が知らないだけで、この世界は、そしてこの世界で生きているみんなは、知っている。異端者は僕だ。僕の都合で何かを捻じ曲げれば、彼女に大きな混乱を与えてしまうのではないだろうか。今日まで『生きてきた』者が、突然、君は『死んでいる』と告げられる。信じるか信じないかは本人次第ではあるが、戸惑う人が多いと思う。もしかしたら僕は、彼女にとっての大切な何かを壊しかねないのではないか。そんな恐怖が、今になって込み上げてくるのを感じた。

 僕はしばらく考える振りをする。そして一言だけで返事した。

「分かんないな」

 返答を聞くと、そうですか、とさつきは無関心そうに前を向いた。

「がっかりです」

 授業中、時々さつきを視界に入れるが、これまでと大きな変化はない。

 さつきのその言葉は、何かしら感じるものがあって発せられたものではない。隔壁(かくへき)のようで、彼女の中で自然に造られたものであることは、容易に想像できた。

 もし、さつきが本当に「がっかりした」のならば、それは感情の一部を取り戻したことを意味する。現実になれば、嬉しいことこの上ないが、そのような未来は訪れていない。

 授業後、僕は一人で教室へ戻った。さつきは僕が気づくよりも早く姿を消していた。そのことについて、嫌われたのではないかと不安に思ったり、焦ったりすることはない。感情が戻らない限り、今のさつきが僕を疎ましく思うことはありえないのだから。



 昼休み、食事を摂っていた僕のもとに、クラスメイトの一人が歩み寄ってきた。今度の日曜日にみんなで遊びに行くから暇だったら来ないか、と、彼は笑顔で僕を誘った。

「誰が来るの?」

 咀嚼を終えて僕が尋ねると、彼は数秒、虚空を見つめ、何人かのクラスメイトの名前を挙げていった。

「……とまぁ、こんなところ。どう? 日曜日は忙しい?」

 ううん、と僕は首を振る。

「じゃあいいじゃん! ……あ、それとも、メンバーが不満? さっきの中にお前の苦手な奴は入ってなかったと思うけど……」

「いや、そうじゃなくて……。その、ちょっと言いづらいんだけど……」

 僕が逡巡の瞳を携えて彼を見ると、彼は不思議そうに小首を傾げながらも、しっかりと頷いてくれた。何でも言えよ、とその表情は物語っている。

「……月宮さんは、来ない?」

 一瞬、彼は呆けた顔をした。だが、それとほぼ同時に苦虫を噛み潰したような表情も浮かべた。言葉の意味を理解しない赤子のごとく固まったのち、取り繕った笑みを張り付け、彼は僕に弁解した。

「えっとー……月宮さんは、誘ってもまず来ないし、それに、その…………来たとしても盛り上がってくれないから……空気がちょっと重くなったりもしたり……」

 額に小さな汗が光るのを僕は見た。しどろもどろに話を続ける彼にごめん、と謝り、微笑を向ける。

「気にしていないよ。でも……今回は遠慮しておく。折角誘ってくれたのに悪いね」

 彼もほっとしたのだろう。僕たちを取り巻く空気が弛緩するのを感じる。

「……もしお前がどうしても、って言うなら月宮も誘ってみるけど……?」

「ありがとう。でも、僕の我儘でみんなを困らせるのは嫌だし、別にいいよ。また今度、誘って」

 さつきも誘う、と自分で言った時、彼の視線は僕に定まらず、四方八方に泳いでいた。

 空気が悪くなってしまう、というのはきっと彼らの実体験だろう。休日の遊びに限らずとも、席替えで隣の席になったり、授業でグループワークをしたりする時には、必然とコミュニケーションを取らなければならなくなる。その時に、彼らは大きな苦労を経験しているのだろう。

「……」

 黙々と食事を続けているさつきを視界に入れる。彼女から離れた場所では、早速、週末を共に過ごすメンバーが集まって予定を立てている。僕とさつきの付近だけは、別世界でも何でもない、ただの『無』の世界だった。得る物も、失う物も、何も無い。何も存在していないからこそ何もかもが存在できる、僕たちだけの空間だった。

「さつき」

 席に赴いて小声で呼びかけると、彼女は垂れていた頭を僅かに起こした。

「何でしょう」

「週末、どっか行かないか?」

「……? 遊びに行くのなら、あちらの皆さんに混じればいいのでは……?」

 内心では解せぬと思っているのだろうか、でも表情には現れない。視線だけで彼らを差し、さつきは言う。

「ううん、そうじゃなくてね……」

 次の言葉を探して、僕の口は止まる。いくつもの誘い文句が頭に浮かんだが、長く迷うことはない。

「……僕たちだけで、遊びに行かない?」

 どく、どく、と熱く拍動を続ける心臓の音が、体中に響いている。目の前のさつきは変わらず一定のリズムで呼吸を続け、大きく澄んだ瞳で僕を見つめ返す。

「……なぜですか」

 間を置いてさつきは問うた。僕は彼女の机に軽く両手を突き、前のめりになる。整ったさつきの顔がより間近に感じられた。

「僕がさつきと遊びに行きたいから。それだけじゃ駄目かな?」

 長い間、さつきは沈黙した。間もなく、午後の授業の始まりが近いことを告げる予鈴が鳴ったため、返答は後にしてください、という彼女の言葉に従い、僕は自席に戻った。

 そして放課後、僕の横で歩くさつきは、思いだしたように僕を見て告げた。さつきの表情に全く変化は見られなかったが、心なしか、僕たちの歩くスピードは昨日よりも速かったように感じる。

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