訪れなかった未来
2
*
誰かに揺すられて目が覚める。かなり懐かしい感覚だ。小学校に入学すると、目覚まし時計で起きなさいと親に命令され、寝坊していたとしても起こされることはなかった。とすると、幼稚園の時以来だろうか。寝ぼけた頭が幼き日の想い出を映し出す。だがそれは一瞬で消え去り、霞の中へと消えていった。
視界には僕をまっすぐに見つめる少女の顔があった。二度三度瞬きを繰り返し、僕はようやく現状を思い出す。
「おはようございます」
「……おはよう」
機械的に朝の挨拶を交わす。隣の部屋から、何やら香ばしい香りがしている。
「朝ごはん、作っておきました。早く食べてください」
「さつきが……作ってくれたの?」
寝ぼけ眼を擦り、体を起こす。枕元には畳まれた制服が置かれていた。
「はい。簡単なものですが。あと、制服も皺を伸ばしたりしておきましたので、確認してください」
顔を洗うために一度洗面所に行き、そして用意された制服に腕を通す。心なしか、甘く、そして爽やかな香りがした。
リビングではトーストとコーヒーが湯気を立てて待っていた。机の上にあるのは一人分だけだ。
「さつきはもう食べたの?」
「はい、勝手ながら冷蔵庫の中の食パンを頂きました。すみません」
「いや、いいんだけどね。僕の分も用意してくれて、寧ろ感謝してるよ」
「……そうですか」
さつきはそう答え、そそくさとリビングから出て行った。残された僕は一人で朝のニュースを見ながらトーストを齧る。ジャムやバターを付けずとも、温かいとやはりおいしい。独りで暮らしていた時は、焼くことすら面倒だったので、冷蔵庫から取り出した冷たい食パンをそのまま食べていた。今思うと、どうして焼くだけのことをしなかったのだろうか。口の中の食感に酔いながら自問した。
十分ほどで食べ終わり、洗いものだけ済ませておくと言ったさつきを少しだけ手伝い、家を出る。鍵をかけたところで、改めてさつきの姿を見て、疑問を投げかけた。
「その制服は……? どこから?」
さつきが死んだ後、彼女の制服がどうされたのか、僕は知らない。もしまだ残されていたとしても、目の前で立っている彼女は生身の人間と相違ない。自分の家に侵入して制服を取り出すのは難しいだろう。
「これですか。……先ほど、自宅に取りに帰ってきました」
「取りに帰った、って……。鍵は?」
「家族しか知らない隠し場所があるんです」
「そっか、ならいいんだけど……」
僕が歯切れ悪く唸ると、さつきは僅かに固い表情を崩した。
「何か言いたそうですね。何でも言ってくださって構いませんよ」
眼光が少し鋭くなっているような気がする。僕はしばらく逡巡していたが、一つ息を吐いて彼女に視線を向けた。
「……家、帰らないの?」
問いかけに対して、さつきの眉が僅かに揺れた。もし彼女に感情があれば、小さな後悔をその心の中に渦巻かせていることだろう。
長い沈黙があった。それは酷く気まずいものであったが、互いに逃れようとすることもなく、さりとてそれ以上の侵略を敢行することもなかった。
「…………帰りません」
変わらぬトーンで、さつきは告げた。
「どうして?」
彼女にとって圧にならぬよう、出来る限り優しい声音を贈る。
「…………わかりません」
瞳を閉じたさつきが、一歩退いた。
「悠太は私に、家に帰ってほしいんですか? あなたがそう望むのであれば、私はあなたの要望通りに行動しますが」
言葉に棘を感じた。無感情だからといって、自身の気持ちが完全に現れないのではない。心の底からの本音というものは、いかなる状況下においても、時には強く表れ、時には湧水のように染み出る。内心では、僕の方が、一歩後ずさっていた。
「うぅん、強制はしないよ。さつきがここに居たいなら、ずっといればいい。僕は追い出したりはしないよ。でも……」
「でも……?」
「……いや、なんでもない。そろそろ出ないと遅刻する。早く行こう」
言葉を続けようとした刹那に、かつて、さつきにしてもらった話を思い出し、口を噤む。あの時の彼女の表情は、怒りでひどく歪み、でも話し終わったら、目尻に薄く涙を浮かべて悲しがっていた。今、蒸し返す話ではないように思った。
きちんと施錠したのを確認して、僕たちは学校へ向かって歩き出す。
さつきは無表情で前だけを見つめている。時々盗み見するも、その表情は凛としたまま一切動かず、目の前を散る枯葉のように乾いている。地面に張った氷を割りながら歩く小学生とぶつかりそうになっても、注意することも笑いかけることもなく、手だけを使って追い払う。子どもたちは気味悪そうに、僕たちを交互に見た。僕が「気をつけてね」と軽く注意も含んで告げ、小さく手を振ると、ようやく彼らも破顔した。
でも、僕は言い知れない懐かしさを覚えずにはいられなかった。例え大きく変わってしまっていたとしても、やはり横に立つ彼女は僕の恋人だ。冬の、寒い朝の並木道で吹きすさぶ風に身を縮めながらも、微かに暖かさが届く。一晩経ち、僕の気持ちもだいぶ落ち着いた。僕はきっと、今の彼女を受け入れなければならないのだろう。恋人として、今のさつきにできる最大の貢献を為さなければならない。たった半年しか空白の時間は無く、同じ懐かしさなのに、十数年という月日の価値が僕の中では異様に小さく感じられた。
学校に到着する。さつきは自分の下駄箱へ向かい、靴を履きかえた。僕の周りを数人のクラスメイトが歩いていく。各々に挨拶をしながら、僕はこの世界の異常に気付く。
誰も、さつきがここで息をしていることに疑問を抱いていない。さつきが生きていた時と全く同じように、まるであの日々を再現しているかのように、懐かしい日常となって朝の時間は過ぎていく。教室に入って、喧騒に身を浸してもそれは変わらない。
「八柳君、おはよー」
僕とさつきが同時に教室に入ると、すぐ目の前の席の女子から挨拶をされた。ただ、それはあくまで僕にだけに届けられた言葉であり、背後のさつきには、彼女は声をかけない。ちらりと後ろを盗み見ると、さつきは視線を逸らすことも気まずそうにすることもなく、平坦な表情のまま自席へと向かう。
真横から、先ほど挨拶をしてくれた女子が小さくため息を吐くのが聞こえた。僕がそれに気づいて苦笑を浮かべると、彼女もまた曖昧に笑った。
「月宮さんと登校なんて珍しいね」
努めて明るく言われる。
「いつも一緒に登校してるよ……?」
「……え、そう、だっけ……?」
「…………ごめん、嘘」
大体、想像はついていた。
ここはきっと、月宮さつきが死んでおらず、普通に日々を送れている世界なのだ。ただしその月宮さつきが、僕が知っている彼女ではないだけ。明るいお月様のような美麗な少女ではなく、自分からは何も話さない、だから話しかけられもしない、暗く、人付き合いが苦手に周囲からは映っているのであろう一人の女の子が生きている世界なのだ。
さつきは着席すると、一人で教科書を捲ったり、読書をしたりし始めた。そんな彼女を、僕は複雑な心境で見守る。
――その本、何て本なの?
――あ、私も読んだことある! 最後めっちゃ泣けるよ!!
――そうなんだ? じゃあ期待しちゃお!
もはや、どれが彼女の声なのか、僕には分からない。
孤独でいる彼女など、見たことがなかった。それを「当たり前」として受け入れているみんなが、とても遠く感じられた。
喧騒の中に僕の小さく臆病な心の存在は消えていく。机に突っ伏して、寝ているふりをする。暗闇の中で、脳裏に未だ色濃く残っている笑顔が反響する。
「お疲れだね」
そんな僕に話しかけてくる声が一つ。わずかに顔を動かしてその方向を見やると、ひとつ前の席に座った女子が、僕を覗きこんでいた。ショートヘアが、柔らかに靡いている。
「うん、お疲れなの……」
それだけ答え、また伏す。
「まだ一週間は始まったばっかなんだよ。もっと元気出さないと!」
「うん、そだねー……」
くぐもった声が彼女には届いたことだろう。その後も何度か励ますような言葉を続けて発していたが、僕が顔を上げる気がないことをようやく悟った彼女は、声の調子を変えて僕に語りかけてきた。
「……何か悩んでんの? 相談、乗るよ」
すぐには答えず、数秒は沈黙する。
彼女のその言葉には、大きな既視感があった。かつて、悩んでいた僕に同じ言葉を投げかけてきてくれた。それもまた半年前のことなのだが、今度は異様に懐かしく、そして大切なものだと思う。
「昼休み……」
「ん?」
「昼休み……。ご飯食べながら聞いてもらってもいい……?」
口だけを動かして言う。それが人にものを頼む態度かー、と突っ込まれるかなと思ったが、意外にも彼女は「いいよ」と優しく告げただけだった。
「それじゃ、昼休みね。場所は……中庭で問題ない? ちょっと寒いと思うけど」
「うん、大丈夫。ありがと、佐々木さん……」
いいよ、と柔和に笑う。彼女は、それ以上は何も言わずに僕の前から去った。
昼休みになるまで、僕は時間があればさつきに話しかけた。以前の僕がどうやって彼女に接していたかを目の前に映し出しながら、自身の影を追いかけた。
周囲はそんな僕を訝しんだ。何度も、「今日は何かいつもと違うね」と声を掛けられた。
彼らの言う、「いつも」を、僕は知っていない。知らない方が良いと思った。きっと、大きな恐怖と自身への怒りに身を震わすことになる。彼らの、興味本位な言葉には軽く苦笑を返すだけに留め、詳細は一切尋ねなかった。
「本当に今日の八柳君は不思議だね」
昼休み、約束どおり中庭に向かうと、既に彼女はベンチに腰かけており、開口一番にそう言った。
「もう何度も言われたよ」
そのせいでかなり疲れてしまった。佐々木さんは膝の上に置いていた弁当箱の包みをほどき、箸を持つ。
「食べながらでいいよね」
澄んだ青空が広がっており、真っ白な太陽はこの寒く、麗かなる世界を鋭く照らしている。時折吹く風は冷たいが、決して身悶えするほどの環境ではなかった。
僕も、持参しているパンを齧る。数分間、互いに何も喋らない時間が流れた。足元で波を打つ芝生が、僕に向かって押し寄せてくる。
「……佐々木さんにとってさ……」
「ん?」
ご飯を口に運ぼうとしていた彼女の腕が止まる。
「佐々木さんにとって、月宮さつきってどんな女の子?」
一枚の枯葉が、風に吹き惑わされながら遠くへ飛んで行った。知らぬ誰かのはしゃぐ声が聞こえる。雑音に苛まれているように、佐々木さんは顔を顰める。
「正直に言ってほしい。別に、回答でこれから接し方を変えるとか、悪く思うとか、そんなことは絶対にしないから。良いことでも悪いことでも、何でもいいから教えて」
一旦箸を弁当箱の上に置き、お茶を飲む。大きく息を吐き、それからやや間を置いて発せられた彼女の吐露は、映える青空の下、ひどく康寧な声音で続いた。
「物静かで、誰も染まらなくて、誰とも染まろうとしない。唯我独尊、ってのはさすがに言い過ぎだと思うけど、結構近寄りがたい存在……かな」
佐々木さんの優しさを、その言葉から、そしてちょっと辛そうな表情から感じ取った。きっと、ほかの女子の間では、もっと悪く言われているのだろう。そんな中で、少なからず周りに影響を受けている自分がいることを悟ったのは、ほんの数回ではないはずだ。さつきを話の肴として見たくない、悪評で笑いあいたくない。そんな気持ちが、小針のように突き刺さる。
「でも、悪い人じゃないよ」
え? と僕は聞きかえした。彼女の視線は僕たちの教室を捉えている。確信を孕んだ瞳はまっすぐに教室を射貫き、一度たりとも揺らぐことはない。
「どうして、そう思うの?」
ううん、と首を振った。
「思ってるんじゃないよ。分かってるの」
止めていた箸を再び動かし始め、佐々木さんの笑みは少しずつ増えていく。
「これまで、何かについて熱狂的に話したことがあるわけじゃないよ。でも、落ちたシャーペンを拾ってくれたり、授業で分からないことがあれば教えてくれたりしてくれたことはあるんだ。落ちている物を拾うなんて一瞬のことだし、勉強を教えてもらったのも誰もいない放課後の話だから、きっと知ってる人はいないと思うけどね。八柳君は知ってた?」
首を横に振る。少なくとも今の僕は知らない。
「月宮さん、成績良いもんね」
さつきは、学年で上位五位に入れるほどに頭が良い。みんなそれは知っているだろうが、あえて今のさつきに頼もうとする人は少ないだろう。
「うん! もちろん他の人でも訊けば教えてくれるんだけどさ。みんな説明がややこしいんだよね。何か馬鹿にされてるような話し方されることもあるし。その点、月宮さんは端的にヒントとか解法とか教えてくれるから、わかりやすいし、訊いて良かった! って思えるの」
無垢に佐々木さんは笑う。気づけば彼女の弁当箱は殆ど空になっており、対照的に僕のパンはまだ大半が残っていた。スマホの画面を見ると、昼休みはそう長く残っていない。急いで残りを腹に詰め込む。袋の中にはもう一つパンが入っていた。
「佐々木さん、これ食べる?」
「え? いや、もう私じゅうぶん食べたし。食べ過ぎになっちゃうよ。腹ぺこクイーンにでもあげたら?」
茶化すように言う。
「……そだね」
ようやく僕にも笑える余裕が生まれた。パンを袋に戻し、教室に戻る準備を終えていた佐々木さんに続く。
「あ、そうだ。最後にもう一つ」
「何?」
「もし、月宮さんが今の……あんな何も喋らない、感情を見せない女の子じゃなく、もっと活発で、誰とも気さくに話せて、いつもみんなの輪の中心にいるような女の子だったら、佐々木さんはどう接する?」
うーん、と彼女は唸る。正反対な月宮さつきを頭の中で思い描き、動かすことはとても難しいだろう。それでも彼女は、真剣に考えてくれた。
「今一つそんな月宮さんは想像がつかないけど……。多分、良い友達になれると思う。それはそれで、きっと楽しい学校生活になると思う」
視線を落とし、先を行く他クラスの生徒の影を追う。僕らの影もまた、踊るように揺れている。
「うん、僕もそう思う。きっと楽しいよ」
自然と笑みがこぼれる。さつきと笑いあう佐々木さんの姿は、きちんと覚えている。
「……。でも……」
予鈴が鳴る。やばっ、と背後からダッシュを始めたクラスメイトがいる。「八柳君! 亜実! 遅れるよ!」と切羽詰った表情で叫びながら横を通り過ぎていく。その後、僕たちの周りは沈黙に包まれた。乾いた風が廊下を通り抜けているが、静寂の所為か粘っこく感じる。
「なれるなら……もし友達になれるなら、私はやっぱり、自分の知ってる月宮さんと友達になりたい。もちろん、元気で明るい月宮さんも素敵だと思う。月宮さん、多分、笑ったら可愛いよね。でも、私はそんな月宮さんを見たことがないから……。だから、『本当の』月宮さんと、仲良くなりたいな」
タイミングよくチャイムが鳴った。「遅刻しちゃうね」と彼女は微笑み、一気に階段を駆け上がった。
僕は一人、誰もいない階段をゆっくりと上った。途中、洗い場の鏡に映った自分の姿を見る。
「……これじゃ、心配かけちゃうかな」
頬を軽く叩き、再び教室に向かって歩き出す。
この世界も、案外悪くないような気がする。
*
さつきと佐々木さんは、すぐに仲良くなった。佐々木さんの性格のおかげ、というのもあったかもしれない。入学式が終わり、初めてのホームルームが始まるまでの僅かな時間で、佐々木さんは一切躊躇うことなく、さつきに話しかけていた。
「すごーい、髪、綺麗だね!」
最初の言葉はそんなものだったと、僕は記憶している。さつきはその瞬間こそ驚いた表情で佐々木さんを見つめていたが、二言三言会話する中で悪い人じゃないと思ったのか、柔らかな笑顔を携えて、雑談を始めた。
佐々木さんはクラスのムードメーカーとなった。快活な性格でみんなを笑わせたり、もめ事が起こった時にはそれを宥め、全ての問題を向かうべき正しい場所へと修正させたりもした。
さつきは、積極的な発言こそ多くはしないものの、成績や人柄などをクラスから認められ、委員長として冷静にクラスを運営した。さつきと佐々木さんのコンビは、向かう所敵なしと噂されたほどだ。
そんな二人は、休日でも頻繁に会っていた。お互い暇な時にはゲームセンターや本屋に赴いたり、テスト期間になれば図書館で一緒に勉強したりした。
さつきが恋路で悩んだときにも、佐々木さんが相談相手になってあげていたらしい。彼女の助けがなければ、私たちの関係は円滑に進まなかったかもしれない。過言かもしれないけど、とさつきは笑いながら、でも表情のどこかでは訪れなかった未来の姿に安堵しながら僕に話してくれた。
大きな喧嘩をすることもなく、二人は日々を送った。彼女たちの間に笑顔がなかった日は無く、麗しき太陽と月のような存在として、クラスを輝かせ、柔らかく照らした。
だからこそ、僕は心の中では、佐々木さんに期待していた。彼女だけは僕の知るさつきを覚えているのではないだろうか、周りのみんなよりも一歩前に進んでいた佐々木さんなら、時間という逆らえぬ永遠の束縛から抜け出して、僕に懐かしい想い出話をしてくれるのではないだろうか。
ほんの僅かな期待であることに間違いはなかった。だから今、「やっぱりか……」という軽い落胆だけで自身の心を抑えつけられている。
でも、もしこの先も、僕の知らない未来が淡々と続くだけならば……。忘れ去られた過去の想い出が、誰の心からも消され、僕もこの現在に、徐々に順応していくのならば……。
きっと、過去の僕はいなくなる。そして、「いつもの月宮さつき」と、新しい日々を送っていくのだろう。
訪れなかった未来を再び動かそうとして。
僕自身の罪をいつか忘れ、僕は長閑な日常を、大きな過ちを繰り返しながら、生きていく。