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光芒に溶けゆく一輪の華  作者: 深淵ノ鯱
光芒に溶け行ゆく一輪の華
2/12

夢見た奇蹟

  1



 何度も何度も、同じ夢を繰り返し見た。夢の中で僕は、無の空間を歩き続ける。たった一つの奇跡を信じて、僕はひたすらに歩く。

 起きた時、目の前の毛布が「現実だよ」と告げてくれることに安心を覚えつつも、小さな後悔に頭を抱える。もし醒めていなければ、僕は奇跡を見ることができたのではないだろうか。寝ぼけ頭でそんな戯言を繰り返す日々が、数か月続いていた。

 ベッドからゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。真っ白な閃光が瞼を一瞬焼き、思わず目を閉じる。次に開けた時には、いつもと変わらない、枯れ木が目立つ初冬の景色が広がっていた。

「――」

 もう一度、今度はゆっくりと目を閉じる。何かが見えた気がした。それは、夢で見ていた光景と恐らく同じ場所。光による残像などではない。僕が追い求めている世界へと通じる、長いトンネルのような道。

 見えた。

 心の中で呟いた。出口の向こう、誰かが立っている。その人の周りには、真っ白な光の塊が蠢いており、子細な姿まで確認することはできない。

 立ち止まる僕に、呼びかける声が聞こえる。何かに堪える苦しみを感じながら、大切なものを伝えようと足掻(あが)く、憐れな少女の姿が心の中に浮かび上がる。

 ――来て。

 声に背中を押されたように足が動き、明晰夢(めいせきむ)の中で、僕は一つの影を追いかけた。少女は光の中へ消え去ろうとしている。こんな夢は見たことがない。もし追いつくことができなかったら、きっとこの場所へ戻ってくることはできない。直感的に思った。

 少女が移動するスピードは、そう速くない。僕の脚力でも、すぐに彼女を近くに感じられるようになった。肩を掴もうと手を伸ばす。

「……あは」

 その刹那、彼女が振り返った。長く、流れるような髪を僕の目の前に漂わせ、口元だけが微笑を浮かべている。

……やっとだね。

 次に動いた唇が、そう言った。

 彼女は僕の腕をつかみ、どこかへ引っ張っていこうとする。温もりは腕を伝って、体じゅうを駆け巡る。

 それは、僕が長いあいだ希求しつづけていた、何物にも代えがたい奇蹟だったのかもしれない。


 ――ユウタ……ユウタ……。

 脳内に声が轟いた。僕の名前を呼んでいる。これを夢の続きだは思わない。僕にそう感じさせてくれる生者の響きを、彼女の呼び声は(はら)んでいた。

 なぜ今になって彼女の声が僕に届くのか、そんな疑問が頭を(よぎ)ることはあっても、熟考することはなかった。恐怖も感じない。僕じゃない誰かが経験すれば、怪奇現象と喚きかねない非日常の一ページを、僕はすんなりと受け入れ、そして気づけばその声に従っていた。

 コートを掴み、寒空の下を目的の場所に向かって全力で走る。今年度、雪はまだ降っていない。それでも気温はほぼ毎日氷点下を計測し、農業用に溜められている浴槽の中には、氷が漂っている。

 ゆっくりと道を行く人々は物珍しそうに、走る僕を見つめる。その最中も声は続いていた。公園の目玉でもある桜の大樹が見えてくると、彼女の語気は一層強まったように思われた。

 息を切らして公園に駆け込む。僕を呼び、導いていただけの声は、ここに至った瞬間に言葉を変えた。

 ――公園の中央に向かって。そしてしゃがんで。

 言われるままに動く。身体をちくちくと突き刺す冷風が通り抜けた。コートは途中で落としてしまったらしく、気づいたときには、既に手中から消えていた。流れる汗の所為で身体はどんどん冷えていく。

「着いたよ、さつき」

 視線を一旦落とし、そして虚空に向かって話しかける。僕たちが立っている場所で夏の日を思い返せば、今以上に身体が冷えることはなかった。

 ――ありがとう、ちゃんとここまで来てくれて。

 言葉の端々に、彼女の微笑が感じられた。声は少しトーンを落とし、そのまま続けて言う。

 ――一つお願い、いいかな?

 うん、と僕は頷く。十秒ほど間を置き、彼女は静やかに声を漏らした。

 ――今から、ちょっと、怖いことが起きるかも。でも……なんていうか……。

 訥々(とつとつ)とした彼女の声が届く。僕は黙って聞いていた。吹きすさぶ風に舞わされた砂塵が、僕の心をちくちくと刺す。怖いこと……。無意識のうちに呟いていた。

 ――怖がらないでほしいの。その…………何があっても。どんなことが起こるか、正直、私にも分からない。……怖がら、ないで……。

 彼女が何をしようとしているのか、僕には知る由もない。でも、並ならぬ覚悟の元での発言だということは理解した。彼女は既に多くのものを失ってしまっている。それでもなお、逆境に苛まれ続けていることを、不憫に思った。未だ迷っているらしい彼女に向かって、声を贈る。

「大丈夫だよ。これまで僕が君のことを怖がったりした?」

 僕が問いかけると、彼女はくすっと笑った。

 ――うん、そうだったね。いつでも君は私の横で笑っていてくれた。私もまた同じ。

「……覚悟はできた?」

 ――君は何の覚悟か分かって訊いてるのかな? まぁいいよ。それじゃ、ちょっと待っててね。そんな時間はかからないから。

 そして、しばらく無音の空間に僕は落とされた。辺りを見回してみても、何も変化は訪れない。

 間もなく、灰色の雲間から、一筋の光が地上に注ぎ込まれているのを僕は見た。「天使の梯子(はしご)」と呼ばれている光景。天国からの遣いが舞い降りてくるようなその幻想的な光線に、しばらく僕は見入ってしまった。


 とん、とん。


 控えめに肩を叩かれる。もしかして、ここを使う人の邪魔になっていただろうか。謝ろうと僕は慌てて体を反転させる。

「……」

 それはどちらの沈黙だったのだろう。目の前には大きな瞳で僕をわずかに見上げている一人の少女がいた。前髪は双眸の一部を隠すように垂れ下がり、僕の視線の届かない場所では、きっと長い髪が風に(なび)いている。最後に見た日と全く違わない容姿を携え、彼女は僕の前に現れた。

「な、何で……」

 驚きのあまり、声が裏返る。冷たい空気を瞬時に吸い込んで、改めて、彼女に一歩近づく。

「……さつき……?」

「……」

 ゆっくりと、しかもとても小さく、彼女の首は縦に動いた。

「嘘……」

 半年前の夏に失った僕の恋人が、今、目の前で息をしている。にわかには信じられず、彼女の顔と肢体を繰り返し見、狼狽する気持ちを抑え込む。

 彼女に触れようとしたとき、ふと、先ほどの言葉が脳裏をよぎった。

 ――怖がらないで。

 その言葉の意味を、僕はまだ正しく理解していなかった。友人以上の関係を持った二人にとって、一番「怖いこと」とは何だろうか。そんな哲学めいたことをこれまで考えたことがなかったので、近寄った刹那に、僕の身体は硬直した。

 見上げる彼女の瞳はとても大きく、それは変わっていない。

 ただ一つ、異なること。

 生前の、溌剌(はつらつ)とした彼女の姿は、面影すらも残っていない。

 昏い瞳が、僕を見つめ返している。



 互いに黙ったまま、時は自由に流れていった。小学生たちの列がきゃっきゃと騒ぎながら歩いて行き、その数分後には、仲睦まじげに歩く僕たちと同い年ぐらいのカップルの姿も見えた。眠たそうに欠伸を繰り返すサラリーマンも何人か通ったし、朝の散歩をしている老夫婦もいた。誰も、僕たちが公園内で無言の対峙を続けていることに疑問を抱かない。

 ニ十分ほどが過ぎただろうか。その間、さつきは身じろぎ一つしなかった。寒い、と表情を歪ませることも無ければ、「早く帰ろ!」と僕を促すこともなかった。さりとて、僕の言葉を待っているわけでもない。彼女は、「ただそこに居なければならないから」という理由だけで、僕の前に留まっているように思えた。

「……本当に、さつき、なのか……?」

 再度、(たず)ねる。正直に答えてくれ、という思いを込め、やや語気を強める。もしいたずらで僕をからかっているのだとしたら、すぐに止めて、僕の記憶の中で笑っている彼女に戻ってほしいと願う。

「…………はい」

 低く、ぼやくような声で、彼女は頷いた。きっと、嘘は吐いていない。彼女は誰とでもすぐに仲良くなれるという「強さ」を持ちつつも、真面目な問いかけには、自身の冗談を貫けない、ある種の「弱さ」を(あわ)せ持っていた。僕の表情を見れば、本当のさつきは困ったように笑みを浮かべながら、「ごめん」と謝るはずだ。

 数分待ってみても、彼女は……さつきは変わらない。こんな場面で時間差攻撃なんてするとは思えないが、それが叶ってほしいと思っていた自分がいる。

「信じられない、ですか?」

 口だけが動き、さつきは問う。すぐに僕は首肯した。

「……月宮(つきみや)さつき、一六歳。市内の公立高校に通う高校一年生。身長一五五センチ、体重……バスト、ウエスト……」

 自分自身のことを口にしているだけなのに、どこか機械仕掛けの人形のように感じられた。誰かにインプットされた情報を、命令されるがまま外に垂れ流している。生きているのか生きていないのか、はっきりとした境界線が、今のさつきには存在していないのだろうか。

 黙っていると、そのまま僕も知らないような内容を恥じらうこともなく言いだしそうだったので、とりあえず彼女の口に(てのひら)を当て、静止させようとする。意図を汲みとってくれたのか、ぴたりと止めてくれた。

「……わかった。まだ完全には受け入れられてないけど、君がさつきだと信じるよ。……そのー……久し、ぶり……だね」

 苦笑いがどうしても浮かぶ。す、とさつきは首を縦に振った。

 公園に設置されている時計を見ると、一時間目は既に始まってしまっていた。僕はさつきをアパートに連れて帰り、冷えた体を温めるべくココアを出した。二度三度息を吹きかけ、そして、こくこくと一気に飲んだ。

「熱くないの?」

 思わず尋ねると、さつきは首を横に振る。

「……別に。問題ないです」

「……そっか」

 今日は学校を休むことにした。突然のことに、頭がまだ冷え切っていない。もしさつきを学校に連れて行けば、きっとみんなは驚愕するだろう。その様子を見てみたいと僅かに思ったりもしたが、如何(いかん)せん、僅かすぎた。

「部屋……散らかってますね」

 学校に休むことを連絡して、さつきが待つ部屋に戻ってくると、そんな言葉を彼女は漏らした。

「あぁ、ごめん……。気になった? 一人で暮らしているとどうもね……」

 僕の言い訳を遮るように首を横に振る。

「感想を言っただけ」

 僕は言葉に詰まって、結局、曖昧な苦笑を浮かべる。

 何よりも、怖かった。今のさつきを学校に連れて行って、その時のクラスメイトの反応を見ることが。クラスメイト達がさつきに対して抱いている感情といえば、尊敬、羨望、恋情、稀に畏怖(いふ)。でも、悪感情を抱いている人はいない。最後の畏怖だって、敬虔(けいけん)な気持ちに近いのだと思う。一度そう感じている人物に尋ねてみたことがあり、引っ込み思案な彼は、「近寄りにくい存在」と答えた。だが、直後に「嫌っているわけじゃない」と慌てて付け加えていた。

 みんなが持つ、「自分たちの月宮さつき」像を壊してしまいそうに感じた。受け入れられなかった時のさつきの心の内は、量る他できないが、僕は確実に悲しく思う。場合によっては怒りすら覚えるかもしれない。

 きっと自分が嫌になる。そして矛先は、変わってしまった彼女に向くかもしれない。共に特別な笑顔を見せあった相手を、特別な存在として受け止められなくなるかもしれない未来を想像すると、一人の少女から離れていく自分が、限りなく恐ろしく感じる。

 これが僕の夢見ていた奇蹟なのだろうか。追い求めていた幸せなのだろうか。まったく笑わないことを除けば、生前の彼女と何ら変わりはない。同じように愛せばいいじゃないか。心の中で誰かが囁く。

 トイレの中で独り、泣いた。激流のように込み上げてきた涙は、かつて僕たちが並んで歩いた梅雨の日の一ページに異ならなかった。



  *


 月宮さつきは、入学当初から一際目立つ少女だった。身長は決して高くはなかったが、森の中を流れる、美麗なる水のように輝いている長い黒髪は、教室のどこにいても目に映る。澄んだ瞳と、見る者の心を落ち着かせてくれる柔和(にゅうわ)な笑顔は男子にはもちろん、女子にも評判が良かった。

 僕とさつきが初めて話したのは、入学後、二回目の席替えを行った時だ。二か月ほどが経過すると、クラスメイトの人となりもわかり始め、人間関係も出来上がっていく。僕は女子と話すのがあまり得意ではなかったため、友人の多くは男子だった。それを嘆かわしく思ったことはない。学校生活は楽しかったし、文句など無かった。

「…………」

 くじ引きで自分の席を確認し、指定された場所に身を落ち着けたとき、真横から彼女の視線を受けた。気になってそちらを向くと、視線が完全に交錯し、反射的に僕は視線を逸らした。そんな僕の仕草を見て、さつきはくすっ、と笑い、清楚な声で自己紹介をした。

「月宮さつきです。よろしくね」

「……うん、知ってるよ」

 自分から視線を逸らした罪悪感からか、まともに目も合わせられず、視界の端っこに彼女を収めるだけの状態で返事する。僕の不器用な対応にも、彼女は嫌な顔一つ見せなかった。このままじゃ彼女に悪いと思い、思い切って僕も話題を振ってみた。

「えっと……どうして自己紹介を……? 月宮さんのことは知ってるけど……」

 僕が尋ねると、彼女は一瞬だけ瞳を大きくさせた。後に彼女は、それらの行為を、「言葉に出さなくても相手に気持ちを伝えらえる、私なりの手段」と教えてくれる。

「私も()(なぎ)くんのこと、知ってるよ。でも私たち、今日初めて話すでしょ? だから『これからよろしく』の証として、挨拶ぐらいはしておくべきかな、と思ってね」

 無邪気に笑う。真面目な子だなぁ、と思った。

 八柳くんは挨拶してくれないの? 小首を傾げ僅かに目を細める彼女が、そう告げていた。友人として、一緒に話す相手として受け入れてくれない。彼女にとっての挨拶とは、そのような意味を為しているのだろう。僕は慌てて姿勢を正し、少々緊張しながらも名前を言う。

「……八柳悠(ゆう)()、です。そのー……よろしく」

「うん! こちらこそ、よろしくね!」


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