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光芒に溶けゆく一輪の華  作者: 深淵ノ鯱
光芒に溶け行ゆく一輪の華
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辿り着いた未来

  10


 会場となった河川敷は、真冬にも関わらず多くの人でごった返していた。芝生が生えている場所は、花火の打ち上げを待ってレジャーシートを広げている家族連れやカップルで埋め尽くされ、その背後には、赤く灯る提灯(ちょうちん)や眩しく辺りを照らす裸電球でとても煌びやかに映る屋台が軒を連ねている。夏祭りのような、かき氷の屋台はさすがに見当たらなかったが、おでんやうどんなど、冬を象徴する食べ物は多くの道行く人が手にしている。すれ違う人々がまろやかな香りを運んでくる中で、特に佐々木さんは子どものように燥いでいた。

「次、あっち行こ! あ、それ終わったらこっち!!」

 母親に手をつながれてゆっくりと歩く小さな子どもたちを軽やかに躱しながら、佐々木さんはあちこちの屋台を巡り続けている。既に十軒ほどの屋台で食べ物を購入している。それでも佐々木さんは満足せず、次なる屋台を目指して元気に駆け回っている。

「すごいですね、亜実さんは」

 そんな彼女の様子を見て、さつきは僕の隣でため息を吐いている。

「まぁ仕方ないよ。真冬の夏祭りみたいなものだからね。佐々木さん、こういうイレギュラーなの好きそうだし」

 さつきは、ジャンバーに包まれた右腕で軽く額を撫でる。小粒の汗が眩い光に煌めいている。

「暑い? 何なら持つよ」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。これぐらいは持ちますから」

 さつきも佐々木さんも、今日は普通の私服で訪れている。佐々木さんはどうやら、当初は浴衣で来る予定だったらしいが、あまりの寒さに諦めたらしい。さつきは「見てみたかったですね」と、話を聞いて苦笑していた。

 先を行く佐々木さんの背中は既に数多の人の流れに消えており、もう追いかけることはできない。彼女なら迷うことはないだろうと思いながらも、念のために「落ち着いたら連絡よろしく」とメッセージを送っておく。すぐに既読と表示され、「了解!」とだけメッセージが返ってきた。

「佐々木さんですか?」

 スマホを操作する僕を見てさつきが尋ねてくる。

「うん。食事がひと段落ついたら連絡して、とだけね。返信も来たからひとまず心配はいらないかな」

 さつきは色々な屋台をじっくりと見渡しながら歩いている。四方八方から、香ばしい香りが漂ってくる。知らず、僕のお腹も鳴り始めていた。

「さつきは何か、食べたいものとかある?」

「食べたいもの、ですか?」

「お腹空かない? 僕はもうだいぶ減ってきてるんだけど」

 さつきは再び視線を彷徨わせるが、やがて僕を見て言った。

「多すぎて決められません。悠太が買ったものを私も買っていいですか?」

 もちろん、と僕は頷く。人の波は僕たちがそうしている間にも前方から後方から絶えることなく押し寄せてくる。僅かでも油断すると、佐々木さん同様、すぐに居場所が分からなくなるかもしれない。少し緊張する心臓を抑えつけ、僕はさつきを呼ぶ。

「何ですか?」

 言葉で説明するよりも早く、僕は左手を突きだした。さつきは歩きながら、僕の顔とその手とをかわるがわる見つめている。でも、やがて意図を察したのか、しなやかな右手で僕を包み込んだ。温かな感触が伝わると共に、やや汗ばんだ湿っぽさを感じる。

「ごめんなさい、汗、気持ち悪いですよね」

 答える代わりに、離さないようしっかり握る。さつきが口をぽかんとだらしなく開け、意外そうに僕を見る姿が目に入った。微笑ましく思いながら僕はぐっとその体を引っ張る。微かな悲鳴が聞こえ、振り返ったが突然のことに驚いただけらしく、照れくさそうにはにかんでいた。胸の音が時を刻むごとに深く、強くなっているのを聞きながら、僕は自分が希望する屋台を巡り歩く。

「これで全部だよ。さつきは、どう? 改めて何か食べたいものとか出来た?」

 料理が入った白い袋を両手に提げ、さつきは「いえ」と首を振る。

「それじゃあ……佐々木さんはどこにいるのかな?」

 新着メッセージがないか確認してみるも、先ほどの「了解!」以降、更新された様子はない。付近を見回してみると、少し開いている空間があった。僕たちは一旦そこに腰を下ろし、疲弊の息を吐き出す。

「亜実さん……今頃どこで何をしているんでしょうね……」

 前方に広がる河川の水面には普段は感じられない電飾が広がり、(さや)かに流れる水の音に合わせて、光がゆらゆらと踊っている。人々のにぎわいも、全て水の中に消え去り、そこだけは日々の平穏を保っているように思えた。

「……悠太、ちょっと、いいですか?」

 さつきは僕を見ずに、自身の膝の中に顔を埋めるようにして言った。

「うん? いいよ。何?」

 迷うように僕の顔を横目で見たり逸らしたりしながら、でもさつきは勢いよく空を見上げ、真っ白な息を吐きだした。

「この前、お花を見に行ったときに、私が言ったことです。二人きりで話がしたい、と」

「……うん、覚えてる」

 つられて空を僕も見ると、ぽつんぽつんと小さく瞬く冬の星の座があった。それは薄暗い闇の中で懸命に自らが受ける光を誇示し、僕たちに何かを伝えたがっているようにも見えた。

「あれがオリオン座だね」

 三つ、綺麗に並んだ星々を見つけ、僕は指さす。さつきも僕の指の先を視線で辿り、「ですね」と呟いた。

「ぽつ、ぽつ、ぽつ、と……。分かりやすいですね、本当に」

 僅かに目を細め、さつきは星空を眺める。背後の喧騒が遠くなった。お祭りから切り離された場所で、僕たちは二人だけの時間を過ごす。

「……まるで、私たちみたいです」

 微かに震えた声。それはもしかしたら独り言だったかもしれない。でも僕は、ちょっとだけさつきへと寄り、尋ねていた。

「オリオン座が?」

「ええ。オリオン座が、です」

「どういったところが?」

「……三つ、並んでるじゃないですか」

 僕は黙って再びその光を見る。さつきはさらに言葉を紡ぐ。

「仲良さそうに」

 静かな夜風に攫われるさつきの声。ふんわりと髪が揺れた。

「ずっと、離れることなく」

 毎年見る空と一緒だ。僕たちがこの世を去ってからも、この風景は変わらない。

「そう、……いつまでも……いつまでも……」

 優しげで柔らかな声であったが、さつきは再び顔を埋める。微かに肩が震えている。僕は背中をさすり、落ち着くのを待った。くぐもった嗚咽が耳に届く。

「……悠太は……人が、死んだら星になるという話……信じますか?」

 顔を上げぬまま問うてくる。一瞬は驚き、背中を擦る手を止めてしまったが、すぐに再開して考える。

「……いや、僕は信じないかな。もし星になるんだとしたら、多分それも――」

「はい。分かっています」

 言い切る前にさつきの声で遮られる。

「多分それも……夢、ですよね」

 さつきは顔を上げた。(はな)を再度啜り、ごしごしと目頭を擦る。そして、澄んだ、静謐な声で話し出す。

「ずっと、私は夢を見ていました」

 それはとても長かった。例え大切な誰かを失っても、ずっと暮らしてきた町が無くなっても、地球が消えてしまったとしても、宇宙が無くなってしまったとしても、続く夢。

「あの時の私は、それが夢だと知らずに見続けていました。とっても明るい場所で、暗闇なんてどこにもなくて。たくさんの人たちが、幸せそうに笑っていました」

 若い人も、年老いた人も、男の人も女の人も。みんなが平和に暮らしていました。そう、寂しそうに言う。

「でも、そんな中で……私だけが笑っていませんでした。私は光の中にただ一人佇む影のよう……。強い光に照らされては、私はその場所にいることができません。どうして私だけが影なの? どうして私は笑えないの? 何日も何日も自問を繰り返しました。そしたら、一人のおじいさんが近寄ってきて、私に言ったんです」

 ――何か、悔いはないか? あっちの世界に残してきた、大きな未練が。

「私は気づきました。あぁ、私は天国に行った夢を見ているんだな、と。おじいさんはそれだけ尋ねると私の答えを聞かずに去っていきました。とは言っても、悔いだとか未練だとか言われても私には分かりません。夢ならば早く醒めよう、と意識を集中させました。そうしたら、現実世界が『見えた』んです」

 眠る悠太の顔が映りました。やがてあなたは起きると、とても無気力そうな態度で朝の準備をするのです。制服はよれよれですし、朝食は適当ですし。

「何があったんだろう? と思いました。とはいっても、これも私の夢の中。起きれば問題ないのだから。そう言い聞かせて、私は悠太の行動を観察しました」

 僕が学校に行き、その時のさつきは見てはいけない物を見てしまったのだろう。クラスの誰かが亡くなれば、必ずおかれるであろう、その物体を。

「学校に着いた悠太は、まっすぐに私の席へ行きました。そして手を合わせだすのです。何着と思って見ると、花瓶に菊の花が差さっていました。悠太は一分ほど目を瞑って合掌すると、再びけだるそうに自席に座りました。……私は動揺しました。この夢はずっと続くのか? と。この悪夢はいつまで続くんだ? と。起きることもなく起こされることもなくその夢は続きます」

 風の冷たさに、現実に呼び戻される。さつきは表情一つ変えずに語り続けていた。前方で流れる川を時折見つめ、空に想いを馳せ、さつきは、彼女だけが知る過去を言葉で僕に伝えてくれる。

 彼女が語る日々が、とても懐かしく感じられる。全て、僕が経験したことのある過去だ。半年前の夏の日。既に遠く消え去り、いま燥いでいる誰の記憶にも残っていない、僕たちだけの秘密の季節。

「その後も、悠太は私の家に行ったり、見慣れた公園に行って手を合わせたりしていました。その頃になると、ようやく私も理解が追い付いてきたのです。もしかしたら私は死んでいるのではないか、と。今見ている夢は、私が死んだ後の世界の景色なんじゃないか、と。ならば、先ほどのおじいさんの言葉にも納得できます。私があの世界で笑えていなかった理由……心残り」

 そして僕はまた新しい朝を迎える。全てが始まった、あの日の朝を。

「私は悠太に呼びかけました。そして公園に導いたのです」

 そこからは、もう話す必要もない。さつきは申し訳なさそうな表情で僕を見た。

「ごめんなさい、悠太」

 そして深く頭を下げる。

「ど、どうして謝るの? もとはと言えば僕が――」

「私はあなたの言葉を嘘だと思い込んでいました。全然、嘘ではなかったのに……」

 ポケットの中でスマホが震える。何回も何回も。きっと佐々木さんからだ。でも僕は取れない。さつきは目を閉じ、僕の両手を震える自身の手で握る。


「私、やっぱり死んでましたね」


 そしてさつきは、そのまま僕の胸に顔を埋めた。

 泣くこともなく、怖がることもなく、ただ僕の腕の中で震えていた。



 *


 亜実は人の波にもまれながら、屋台と屋台の間の狭い空間を歩いていた。目的はもちろん、悠太とさつきを見つけることだ。買った食べ物は、偶然見つけたクラスの仲の良いメンバーと食べてしまった。一緒に花火見ようよ、と誘われたが、待たせている人がいるから、と理由を話して今は一人で悠太たちを探していた。

 メッセージは既に何通も送ったが、未だに既読すらつかない。きっと気づいていないだけだと思うが、さすがに花火を一人で見るのは、いくら天真爛漫な亜実でも精神的にしんどいものがある。花火の打ち上げまで、あと三十分というアナウンスが流れた。亜実は一層踏み出す足を速くして、二人の影を追いかける。

 屋台に寄っているかもしれないと考えて、ちらちらと確認するも、それらしい姿はない。そんなうちに屋台の壁も薄くなり、開けた場所へと出る。この先は茂みが深くなって危険なので立ち入り禁止となっている。それ故に電灯も満足になく、少なくとも真面目なあの二人が入り込むような場所ではないと考えている。亜実は折角来たんだから、と周りをぐるりと見回してみる。

「……あっ」

 そして見つけた。周りにちらほら人はいるが、そんなことはお構いなしに抱き合っているカップルと思しき二つのシルエット。正面に流れる川に反射する光に照らされて、幻想的に映えている。

「恋は盲目、ってやつかな」

 亜実は少し羨ましく思いながら、後ずさって二人の姿がぎりぎり見える場所まで行く。そこで二人を見守りつつ花火の打ち上げを待つことにした。



 *


 十五分ほどさつきの震えは止まらず、僕はその間、ただ黙って彼女を抱きしめていただけだった。ようやく落ち着き、顔を上げた時、さつきは僕を見て逡巡に揺れる瞳を携え僕に問うた。

「無感情な……ロボットみたいな月宮さつきを、どう思いますか?」

「どう、って……?」

「ただの感想でいいんです。正直な意見を聞かせてください」

 思い返す、さつきと再会したばかりの日々。一か月ぐらいしか経っていないが、とても懐かしく感じられる。

「初めは正直戸惑ったよ。僕が知っているさつきとは全然違うしさ。顔が似てるだけの別人なんじゃないか、って思った。でも、一緒に暮らしているうちにね……」

 佐々木さんの助けもあり、さつきとまた話せるようになっていった。一緒に出掛けることもできたし、過去の日々とそう変わらない毎日が、最近は送れているように思う。

「人って変わらないんだな、って思った」

「……? どういうこと?」

「そのままの意味。すぐには会えないほど遠く離れても、互いの容姿が変わってしまうほど長い時間が空いたとしても」

 花火の打ち上げまで十分を切った。周囲で腰を下ろす人も増え始めている。

「再会した時には、『あぁ、懐かしいなぁ』って思えるんだ。その人の根底にある何かは変わってないから。さつきもそうだったんだよ」

 性格だけは全く違うが、クラスメイトの要望にはきちんと応えていた。加えて、家を気にしているところも全く変わっていない。だから、僕は親近感を覚えた。以前のさつきと違うところは実はきわめて少なく、同じところの方が多かった。

「だからさつき。心配しないで」

 しっかりとさつきの大きな瞳を見据えて言う。

「花火が終わって……その後に何があったとしても、絶対にさつきは変わらない」

 あと五分ちょっとだ。観客たちの熱も入り始めている。

「僕とさつきが再会するとき。きっと僕も今とは全然違う見た目になっていると思う。もしかしたらさつきもそうなってるかも。でも安心して」

 この前さつきと交わした約束は、もう果たせそうにない。だから、新たな約束で上書きしよう。大丈夫。僕たちならきっと果たせる。

 ――約束。

「今度は、天国で逢おう」



 花火が打ち上げられる。佐々木さんは開始五分ほど経ってから僕たちのもとに現れた。どこ行ってたのと尋ねると、後方でずっと僕たちを見ていたというのだから、二人して赤面してしまった。そんな僕たちを、佐々木さんは上機嫌に眺めていた。

 三人で並んで、冬の空に咲く花々に思いを載せる。勢いよく空に広がり、でも最後は後を引く音と光の粒を残して散っていく。例えどれだけ衆目を集められる美しさや煌びやかさを持っていても、それが生きていられるのはほんの数秒だけだ。そのわずかな間に、彼らは人々の心に感動や安らぎ、興奮を残していく。

 瞬く間に増えていく光の華を見ながら、ふと懐かしく思う。そう、確かにその美しさには心を動かされる。興奮もする。でも、僕にとって花火とはそれだけじゃない。恐怖と……そして悲しさを残した景色でもある。

 花火の打ち上げは三十分も経たずに終わった。祭りも終盤に差し掛かっており、見終わって満足した人は家路に就きはじめ、まだ騒ぎたい人は屋台を冷やかしに周り始める。最後の一発の灯りが消え、そして煙が風に流されてどこか遠くの場所へ消えていくまで、僕たちはその場に座ったままでいた。

「きれかったね、花火」

 僕の横に座る佐々木さんが、ぽつりと呟いた。

「うん。来た甲斐があったよ」

 僕が同意すると、佐々木さんは嬉しそうに笑んだ。

「さつきは、どうだった?」

 返答はない。さつきは、ぽーっと白みの混じる夜空を、心ここにあらずといった状態で未だ見上げていた。

「……ぅ……っ」

 辛うじてその嗚咽は僕まで届いた。さつきは、小さな、本当に小さな声を漏らしていた。まるで空気だけを外に出しているかのように。時折、少し苦しそうにあえぐ。煙は既にほとんどが消え、再び冬の星座が姿を見せ始める。並ぶ三つの星は、変わらずその場所にいた。

「だ、大丈夫……? ほら、深呼吸して……」

 佐々木さんも気づいたのか、心配そうな表情でさつきを見つめている。僕の声に倣って数度深呼吸をすると、幾分かは落ち着いたようだ。胸の辺りを撫でながら、「ありがとうございます」と礼を言われる。

「別にいいよ。それよりも、今度は何? また何か変化があった?」

 尋ねながら、大体の予想はついていた。もし僕の仮定が当たっているとすれば、きっと今日が僕たちにとって最後の夜となる。この世界でみんなが過ごしてきた時間はなかったこととなり、時間は本当の世界に戻される。僕たちがこうして花火を見たことも、全ては起こりえなかったこととして処理されるのだ。

「……二人とも、この後、お時間はありますか?」

 僕たちが頷くと、さつきは微かに息苦しそうにしながらも、安堵したように微笑んだ。

「良かった……。私と一緒に来てほしいところがあるんです」



 さつきに導かれ辿り着いたのは、もう何度も来た、静かな町の一角にある小さな児童公園だった。さつきは無言のまま公園の中央まで歩いていく。

 心許ない灯りが、彼女を淡く照らしだす。漆黒の髪は艶を増して輝きはじめ、彼女の纏う空気を軽やかに切り裂いていく。僕は知らず、その光景に心を奪われてしまっていた。さつきはゆっくりと振り返り、辺り一面に沁みわたる声で言った。

「花火をしましょう。私たちだけで」

 また? と佐々木さんは反射的に口に出す。

「悠太、まだ家に花火、残っていますよね? あれを終わらせちゃいましょう」

 さつきの目的は分かっている。自分なりに踏ん切りをつけたいのだろう。それが分かっても、すぐには動くことができなかった。最後の問いを、僕は投げかける。

「怖くないの?」

 僅かに俯くさつき。声は低く落とされる。

「……正直に言うと、怖いです。でも……でも!」

 顔を上げ、叫ぶ勢いで僕に告げる。

「これが私の本気です!! ……悠太……最後に、させてください。きっと、私はもう満足するでしょう」

 その時、ふわりと空を舞う白い影があった。ふわふわと、それは徐々に数を増やし、僕たちに降り注ぐ。

「分かった。ちょっと待ってて」

 佐々木さんの戸惑う声などもちろん聞かずに、僕は自宅だけを目指して走った。途中、段差に何度転びそうになっても、雪が目に入っても、止まることはしなかった。まだあの日の形のまま、僕の押入れの中で眠っている。今日こそ、その輝きを僕たちに見せてくれる日だ。



「取ってきたよ」

 肩で息をしながら、僕は大きめのサイズの袋を差し出す。中には、手持ち花火と線香花火が数本ずつ残っているだけだ。公園には、二人が用意したのか、バケツの入った水が既に準備されていた。僕はライターを取り出すと、さつきに掲げてみせる。

「ありがとうございます、悠太」

 さつきはそう言うと、袋を破り始めた。糊の力はもう殆ど残っておらず、殆ど力を加えなくても破けそうだ。さつきはまず、手持ち花火を取り出し、僕たちに一本ずつ渡した。

「さぁ、始めましょう」

 さつきは早速、ライターで火を点けようとする。だが、寸でのところで我に返ったように佐々木さんが口を挟んだ。

「ちょっと待って! あの、これってどういうことなの? まず私、ここにいていいの? 全然状況がつかめてないんですけど……。さっきから二人とも変なこと言ってるし、今から何が起こるの??」

 早口でまくしたてる。だがさつきは、お構いなしと言った感じで佐々木さんの持つ花火の導火線に火を点けた。

「え? ちょっ、きゃあっ!!」

 突然のことに慌てふためく佐々木さんだが、とりあえず今は目の前の花火に集中しようと思ったのか、すぐに持ち直す。さつきはそんな彼女を見て、楽しそうに声を出さずに笑いながら、僕の前へやってきた。

「じゃ、火、点けますね」

 すぐにジュワッと音が立ち、光の筋が創られる。紅から緑に、緑から青に。さつきは自分の分の花火を僕の火に近づけ、着火させた。三つの光は見る間にその姿を変え、夜の公園を虹色に浮かび上がらせる。

 互いの顔がよく見えた。佐々木さんは初めこそ躊躇っていたものの、今は眩しそうにその光を見たり、時には少し離れた場所で振り回したりもしている。危ないよー、という僕の声も届いていないようだ。

「さつきはどう? 楽しい?」

 小声で訊いてみた。爽やかなオレンジが、彼女の顔を明るく照らし出している。

「はい。とても楽しいです。……あ、もうすぐ終わりそうです」

 勢いが弱まり、それからはほぼ待たずして光は消えた。一番初めに点火された佐々木さんは既に終わっており、残念そうに水に浸しているところだった。

「じゃあ、残りの花火、やっちゃおうか」

 とはいっても、残りはもう線香花火しか残っていない。五本ほどだろうか。バケツのところに行っているさつきを待って、始めようとする。

「さつき。線香花火、やるよ……って、どうしたの?」

 さつきは歩いて僕の元まで戻ってくるが、やけに自分の手を気にしている。手のひらを見たり、そうかと思ったら裏返したりしてしきりに確認している。

「もしかして、やけどでもした?」

 いえ、と瞬時に首を振られる。

「さっき、手が透けたように見えまして……」

「透けた!? え、どういうことなの、さつきちゃん!?」

 いち早く反応したのは佐々木さんだった。一気に詰め寄り、その手を掴む。

「ちゃんと触れるし握れる……。さつきちゃんの気のせいじゃない?」

 安堵と動揺に揺れる声。だがさつきは、無言で首を横に振った。

「……気のせいじゃないですよ。はっきりと私は見ました」

 その時、僕の視界の端っこで、さつきの足が微かに光ったように見えた。それは佐々木さんの目にもしっかりと映ったらしく、震える指がその個所を示していた。

「今……さつきちゃんの……さつきちゃんの足が……」

「ええ。亜実さんもその目で見たでしょ? 私の気のせいなんかじゃないんです」

 怯える佐々木さんにさつきは一歩近寄り、そしてぎゅっと抱き寄せた。佐々木さんはもちろん、僕も目を丸くする。

「ごめんなさい。先に謝っておきます」

「え……? 何について?」

「すぐに分かると思いますが……。亜実さんに迷惑をかけることとなりますので」

 さつきはそう言い、包む腕に力を込めたようだった。佐々木さんが痛みに、顔を僅かに顰めるのが確認できた。それでも苦痛に感じるほどではないらしく、しばらく佐々木さんはさつきに抱かれるがままとなっていた。

 次は背中が微かに光った。それと同時にさつきからは呻くような声が漏れ、力の込められていたはずの両手は脆くも崩れ去る。足に力が入らなくなったように佐々木さんの体からさつきの体は引き離され、さつきは地面に膝を突く。そして胸元を押さえ、荒い息を吐き出し始めた。

「さつき!」

 僕が駆け寄るタイミングとほぼ同じく、今度は佐々木さんまでもが頭を抱え、苦しげに声を漏らしだす。辛うじて出せる限界の声で、佐々木さんは僕に助けを求め、僕の腕に縋った。

「や、やなぎ、くん……頭が……頭が、割れそう……!」

 涙を浮かべ、必死に苦痛に耐える。だが間もなく佐々木さんは土下座でもするような姿勢になり、地面に顔を押し付けてまでして痛みから免れようとする。やがて夜風を劈く雄叫びを上げ、動かなくなった。

「佐々木さん!? 佐々木さん! 起きて!!」

 何度も呼びかけるが、目を開ける気配はない、心臓はきちんと動いているようなので、最悪の結果は免れているようだが……。

「とりあえず救急車!」

 慌ててスマホを取り出して電話を掛けようとする僕の肩を、誰かの手が叩いた。こんな時に! と思いつつ僕は振り返る。「何!?」と荒っぽい声が出た。その主は一瞬びっくりして身を引いたようだったが、すぐにくすくすと笑いだす。

「大丈夫だよ。気絶してるだけ。もうしばらくしたら目を覚ましてくれるよ」

 高く澄んだ声。僕を覗きこむ眩い瞳。そして長く美しい髪。優しげに、柔らかな弧を描く口元。前かがみになった“彼女”が僕を見ていた。

「久しぶり、って言うべきなのかな? それとも普通にこんばんはでいいのかな? わかんないや。変わんない、ってキミは言ってくれたけど、私は変わってしまっているからね」

 言葉選びに迷い、そして恥ずかしそうに笑う。“彼女”は手を差しだした。僕は引っ張られるようにその手を握る。

 ぐいっと力強く引かれ、その整った顔が僕の眼前に迫った。嬉しさだけを全面に押し出し、“彼女”は言う。

「ただいま、悠太くん!」

 目の前に立っていたのは、確かに月宮さつきだった。僕が本当に知る……僕の記憶の中でずっと生きてきた、女の子だった。



「悠太くん、一つ、お願いがあるの」

 佐々木さんを自身の膝の上で寝かせ、時折その髪を撫でながらさつきは言う。彼女の体の一部は、未だ薄く光っている。

「亜実ちゃんが目を覚ました時……きっと亜実ちゃんは混乱してしまうと思うの。だから、彼女の戸惑いが少しでも軽減するように話してあげてほしいな。私が言っても効果は薄いだろうしね」

 ほぼ反射的に僕は頷く。いまだ僕も動揺を抑えきれておらず、さつきと話すことにドギマギしてしまう。さつきは嬉しそうに、僕に笑いかけた。

「ん……っ」

 佐々木さんが小さく声を上げる。そして寝返りを打とうとして、目を開けた。「大丈夫?」と僕は呼びかけるが、状況を把握できないようで目をぱちくりさせている。

「ここは……? 砂? 公園? どうして八柳君がこんなところにいるの……? 私、さっきまで家にいたはず……」

 どうも、一時的な混乱などではないらしい。僕がひそかに視線を上げてさつきを見ると、彼女は首を振った。さつきは今、不明瞭な、幽霊のようなモノとしてこの世にいるだけなので、少し前までの実体を伴った月宮さつきとは別の存在として認識される。感情が薄かった月宮さつきではなく、さつきがあの世に逝き、「本来」訪れるはずだった出来事の一ページとして、今の世界は紡がれている。

 先ほどの手持ち花火も、その「本来」の世界では起こり得ることのない出来事だった。だから、明るい月宮さつきの存在を知らない佐々木さんにとっては、初めからそのような出来事など無かったこととなるのである。佐々木さんは佐々木さんなりに、さつきがいなくなった世界でずっと生き続けてきたのだ。

「……佐々木さんに会いたがってる人がいるんだ。一緒に話してあげてよ」

 僕は出来る限り耳触りの良い言葉を選んで佐々木さんに告げた。

「会いたがってる人……? 八柳君じゃなくて……?」

「うん。僕なんかじゃない。もっと……佐々木さんにとって大切な人だよ」

 そうして佐々木さんは、今、自分がどこで寝転がっているのかを自覚した。恐る恐る顔を上げ、二人の瞳が交錯する。

「さつき……」

 放心しているように呟いた。「うん」とさつきが頷く。

「こうして話すのは久しぶりだね、亜実ちゃん」

 髪を撫で撫で、さつきは笑みをこぼす。佐々木さんはしばらく黙したのち、ようやく違和感の正体に気づいたらしい。公園中に響き渡る大声を出し、跳ね起きた。

「さつき!?」

「わっ!? びっくりしたなぁ……。そんな驚かなくても……って、驚くよね、普通は」

 ごめんね、とさつきは謝る。

「えっ? 何でさつきが? そんな……さつきはとっくの昔に……も、もしかしてオバケ!?」

 慄きながら距離を取ろうとする佐々木さんを、僕が止める。

「ちょ、八柳君、何!? あ、あんたは怖くないの!? さつきが、さつきが……!」

 確かに今のさつきは柔らかく発光し、透き通って反対側が見えてしまっている。怯えるのも無理はない。

「大丈夫。大丈夫だから。佐々木さんが知ってる、生前のさつきと一緒だよ。さっきも言ったけど、佐々木さんに会いたがってるんだ。だから……ね」

 僕が必死に宥めると、ようやく佐々木さんは暴れるのをやめた。それを見て、さつきが一歩ずつ近寄ってくる。僕は佐々木さんの肩から手を離し、数歩下がった。佐々木さんは足を震わせているものの、もう逃げることはしない。息がかかりそうな位置まで歩き、さつきは足を止める。

「改めて、久しぶり。亜実ちゃん。怖がらせたりしてごめんね。私はさっき亜実ちゃんが言った通り、オバケみたいな存在なの。だから、こっちに長くはいられない。亜実ちゃんと……したいことがあるんだ。一緒に、やってくれないかな?」

 二人の間を一粒の雪が舞い落ちていく。さつきはそれを手で掬い、佐々木さんの前まで持って行った。

「こんな季節だけどさ。私がこの世で生きていた、っていう証づくりみたいなもの。大丈夫、すぐに終わるから。時間はとらせないよ」

 佐々木さんはまだ心のどこかで小さな迷いがあるのかもしれないが、それでも意を決したように首肯した。

「ありがとっ」

 笑って言うさつきを、「待って」と佐々木さんは呼び止める。

「ん? なに?」

 さつきとは目を合わせられずに、もじもじしながら佐々木さんは言う。

「さっき、すぐに終わる、って言ったよね?」

「うん。言ったよ」

「すぐに……終わらなくていい」

「……え?」

「すぐに終わらせる必要はないよ! せっかくさつきが来てくれたんだ……。どうせなら少しでも長く一緒にいたい……」

 さつきはしばらく呆然と佐々木さんを見ていたが、やがて「ありがとっ」と子どものように、無邪気に再び礼を言った。

「私も同じだよ。でも、どれだけ一緒にいられるかは……亜実ちゃんの技量次第かな」

 白い歯を見せてやんちゃに笑い、さつきは花火の袋を手にする。

「じゃあ、初めよっか。これが本当に、最後の花火だよ」



 僕たちに一本ずつ線香花火を渡し、三人そろって一カ所に集まる。互いの体を寄せ合うようにして円を作り、吹く風が落ち着くのを待つ。

「よし、そろそろいいかな」

 さつきが手慣れた動作でライターの火をそれぞれの導火線に近づける。先端に光の玉が現れ、四方八方に火の筋をまき散らしながら燃え始める。

「……綺麗……」

 佐々木さんの自然なつぶやきが聞こえた。

「真冬に花火、って何か斬新でいいね」

「でしょ?」

 さつきが楽しそうな声音で言う。

「でも、何で花火なの?」

「……うん。理由は聞いてないのかな?」

 頷く。担任教師はさつきが事故で死亡した、とだけ伝え、細かいことは知らさなかった。佐々木さんが知らないのも無理はない。

「私の死因は覚えててくれてる?」

 さつきは花火の粒を見ながら尋ねた。パチパチ、と中心の周りで、火が枝を張り巡らす大樹のように瞬いている。

「それはもちろん。……居眠り運転のトラックにはねられたんだよね」

「そう。多分、学校でもニュースとかでもそれぐらいしか伝えられてないと思う。まぁ、必要ないことだからね」

 ニュースでは、トラックのドライバーが人を死に至らせてしまったということで懲役刑になったことがメインに報道されていた。その背景や被害者については殆ど触れられていない。

「私ね、その時、この公園で悠太くんと一緒に花火をしてたんだ。コンビニとかスーパーで買えるような、手軽な手持ち花火。いっぱいやってだいぶ盛り上がったんだけどね。ちょっと疲れたから休憩しよう、って悠太くんが言いだして、それで何本か勢いの良い手持ち花火を残して、線香花火をすることになったの」

 線香花火はたくさん封入されていた。僕たちは点けてはすぐに消えるその脆い光の美しさを感じていた。暗がりで微妙に浮かび上がるさつきの顔は、少し蠱惑的(こわくてき)でもあったように思う。

「でもその途中でね、コントロールを失ったトラックが公園に突っ込んできたの。先に悠太くんがそれに気づいて、私に逃げるよう伝えてくれた。でも私は、目の前の光に集中してしまっていた。悠太くんが叫んでくれた時には、もう目の前までトラックが迫ってた。そこからは早かったよ。私の体は飛ばされて、気づいたらとっても明るい場所にいた」

「そこって……」

 それ以上は、さつきは言わなかった。ポトリとさつきが持つ光の玉が落ちる。ほぼ時を同じくして、僕たち二人のも消えた。

「あと二本だけあるんだけど……どうしよう?」

 さつきが僕たちを見回す。佐々木さんが半歩下がった。

「私はいい。最後は二人でやるべきだよ」

 僕とさつきは目を合わせる。そんな光景に、佐々木さんの苦笑交じりの声が届く。

「二人は恋人同士なんだからさ」

 にかっと笑い、早くやるよう促してきた。僕たちも苦笑し、

「ありがとう。亜実ちゃん」

「ありがとう」

 二人揃って礼を言う。

「じゃあさ、亜実ちゃん、一つ頼みごとしてもいいかな?」

「いいよ。何でも言って」

「カウントダウン、してくれない? どっちの線香花火が長く燃えていられるか。勝負したいんだ」

 一本ずつ花火を持つ。心なしか、ほんのりと温かいように感じた。

「分かった。じゃあ、ちょっと待ってね」

 自分の腕時計を操作して、機能を呼び出す。

「準備オッケー。いつでも行けるよ」

 さつきが二つの導火線に、同時に火を点けた。朧な光が僕たちを包み込む。



 ――ひとーつ。

 思い返せば、本当に短い再会だった。でも、これは叶うはずのなかった夢のようなもの。


 ――ふたーつ。

 奇蹟なんてものは起きるんだよ、と、君は笑う。滅多に起きないからキセキなんだろうけど。


 ――みーっつ。

 もしあの事故が起こらなければ……とはやっぱり思ってしまう。でも、それが運命というものだとしたら。


 ――よーっつ。

 ……いや、もうそんなことは考えない。


 ――いつーつ。

 炎の筋が華麗に舞う。あつっ、とさつきが声を漏らした。目が合って笑いあう。


 ――とおー。

 時は続く。止まることなく、流れ続ける。


 ――にじゅうー。

 光の枝が騒ぎだす。パチパチと軽快な音が僕たちの鼓動を速める。


 ――さんじゅうー。

 炎は全盛期を迎える。カウントダウンの声に混じって、さつきがぽつっと呟く。もうすぐだね、と。


 ――よんじゅうー。

 燃え盛る火も徐々に弱まりだす。対照的に、さつきを包む青白い光はその濃さを増す。


 ――ごじゅうー。

 もうちょっと……。接戦だ。ジジジ……とか弱い音が聞こえるだけ。


 ――ろくじゅうー……。



「あっ……」


 ポトッ……。そんな音がして、さつきの手から灯火が消えた。僕の光も数秒の後に終わり、辺りは静寂に巻き戻る。

「負けちゃった」

 悔しそうに、でも満足したように笑みを浮かべながら、さつきは勢いよく立ち上がった。

「さつき……体……もう……」

 カウントダウンを終えた佐々木さんが、彼女の放つ光に気づく。ほの白く周囲は照らされ、暗闇は訪れなかった。まるで蛍のように、柔らかな光は冬の冷たい空気を眩しく照らす。

「もう、行っちゃうの?」

 僕はさつきに近づき、その手に触れようとする。でも僕の腕は空気を裂くように透過する。

「そうだね……。でも最後に一つだけワガママ、言ってもいいかな」

 もちろん。僕は答える。

「お母さんに……両親に挨拶しておきたい」



 月宮家には、今日も一部屋だけ灯りが点いている。インターホンを押すと、すぐにお母さんが顔を出した。

「夜分にすみません。でも――」

 僕が言い終わるよりも早く、お母さんはその存在に気付いた。

「……さつき?」

 お母さんがふらふらと娘に向かって歩いていく。

「うん。久しぶり、お母さん」

 控えめにさつきは笑った。でも、僕の気のせいか、肩は小刻みに震えているように見える。

「さつき!!」

 お母さんは倒れ込むようにしてさつきを抱きしめようとする。……が、叶わない。

「ごめんね、お母さん。私はもう死んじゃってるから、触れないの」

 ぐっ、と奥歯で何かを噛みしめる音が響いた。「そう……」とお母さんは悲しそうに俯く。

「お母さん、最期にもう一度だけ、あなたを抱きしめたかったよ……」

 何も掴めない手を虚空で繰り返し握りしめながらお母さんは言う。何かに耐えるようにさつきは両の拳を固く閉ざしている。「本当は」怒るような声をさつきは出す。

「……え?」

「本当は私だって、こんなの嫌だ!! 何で受け入れなくちゃいけないの!? どうして触れないの!? まだまだ後悔してることたっくさんあるのに!! お母さんに、お父さんに、謝りたいことたくさんある!! ずっと、ずーっと迷惑かけ続けてきたのに、どうして私は最期まで迷惑かけっぱなしなの!? ……ごめんね、本当に……こんな娘で……」

 恐らく最後の力を振り絞って……さつきは叫んだ。長年の不孝を、ようやく吐露した。騒ぎを聞きつけて、お父さんもやってきている。神妙な顔つきで、娘の告白を聞いていた。

「さつき……ほら、泣き止んで」

 触れないと分かっていて、お母さんは手を伸ばす。

「無理……無理だよ……もう止まんないよ……」

 嗚咽を漏らしながら、次々に流れる涙を手の甲で拭う。

「まったく……お前はもう子どもじゃないと思ってたんだがな」

「……本当にね」

 お父さんとお母さんは顔を見合わせて苦笑する。

「まだまだ子どもなんだな、お前も」

 わんわん泣きながら、さつきは言い返す。

「当たり前、だよ……っ! 死んでもずっと、私はお父さんたちの娘だよ! 子どもだよ! 口ではあんなこと言っていても、何かちょっと時間経てば寂しくなっちゃうの! 私はずっと子どもだよ……!」

 ついにさつきはその場に(くずお)れる。透き通った体は、もはや美しいとすら感じるほどだった。幻想的な淡い光の粒子が降り続く雪と混じり、さつきを包み込んでいる。

「もう……時間なのか?」

 お父さんが尋ねる。うん、とさつきは頷いた。

「そうか……もうちょっと話していたかったがな」

「ごめんね。でも、私は最期に話せてよかった。私は何も遺せずにこの世を去ったからさ」

 お父さんが屈み、さつきと視線を合わせる。そして触れられない頭を撫でた。

「いつでも、帰ってこい。お父さんたちが会いに行く日までは、ずっと待っておいてやる」

「そうね。部屋も掃除しておくから。何なら勝手に入ってきてもいいわよ。でも、その時はちゃんとお母さんたちにも挨拶に来てね。……ちゃんと、準備しておくから」

 優しい声に、さつきはもう耐えられないようだった。「……うんっ!」と言い残し、逃げるように彼方へ向かって走り出す。

「あらあら……もう、照れ屋さんなんだから」

 可笑しそうにお母さんは笑う。

「ほら、あなたたちも追いかけてあげなさい。悠太君、さつきをよろしくね」

「見ての通りあの子はお転婆(てんば)だが、優しい子だ。君と一緒にいられて、幸せだったと思うよ」

 二人の声に背中を押され、僕は走り出す。さつきが通った残滓のように雪が風に舞い、僕の顔に当たる。何度も何度も払いのけ、僕たちは走った。

 さつきは公園のベンチの上で、一人漂っていた。僕たちにはそう見える。

「もう、殆ど見えなくなってるな」

 僕たちに気づいたさつきは、気まずそうに視線を逸らす。

「罰が当たったんだよ。そんな感じ」

「罰?」

「そう。親不孝な私に、神様が与えた罰」

 空を見上げてさつきは話し出す。

「私の夢はね。自分で言うのも何だけどとってもシンプルなものだったんだ。留年することもなく高校を卒業して、いつか良い人と巡り合って結婚。二人ぐらい子どもを産んで、その子ども達が成人したら、穏やかな老後を過ごす。そしてお父さんたちにも楽な生活をしてもらいたかった」

 もう涙は流さない。さつきは淡々と口にする。

「親より早く死ぬなんて最低の親不孝者だよ。私を育てるためにいっぱい苦労したのに。私は迷惑をかけたまま死んで。人生……もう一度やり直したいよ」

「やり直せないよ」

 僕は思わず声を出していた。さつきに詰め寄り、目の前で屈む。

「そんなこと、悠太くんに言われなくても分かってる。私はこのまま消えるだけなんだよ」

「そうだね。だから、その前に聞かせてよ」

 頭上で光る街灯と相まって、さつきの体は真っ白だ。もう時間はない。

「たった一度の人生……後悔はある?」

「当たり前だよ。数えきれないくらいある」

「人生、楽しかった?」

「楽しかったか楽しくなかったかで答えるなら、楽しかった。でも満足はしてないから」

「うん。じゃあさ、人生、幸せだった?」

「幸せ……」

 多くの人と巡り合って、仲良くなって、笑い合って、時に喧嘩して、涙を流しあって。平凡を望んでいたさつきにとって、そんな「当たり前」の人生の価値はどうだったのか。

「入学してすぐに佐々木さんと仲良くなってさ。二人ともとても楽しそうに話してた。傍から見てると、羨ましく感じるぐらいに」

「そう、だった……?」

「そうだよ。ね、佐々木さん?」

「うん。初めて見た時からあの子といると楽しくなれそう、って気がしたんだ。実際、さつきと過ごした日々はとても楽しかったよ。さつきから幸せを受け取ってたよ」

「亜実ちゃん……」

「僕も同じ。初めて隣の席になった時、恥ずかしがる僕にも隔てなく話しかけてくれて。こんな僕にも優しくしてくれる女の子がいるんだな、って、その存在をとてもありがたく思った。楽しかったし、幸せだったよ。僕も。さつきはどうだった?」

 さつきは顔を上げて僕たちを見ようとする。でも、もう力が入らないのか、がくっと首が倒れた。でも、小さな声が聞こえる。

「そんなこと……そんなこと言われたらさ……私が幸せじゃなかった、って言ったらそれこそ罰が当たるじゃん。まぁ、そんなこと言うつもりもなかったけどね」


「私はずっと、ずーーーーーーーっと幸せでした!!」


 夜空じゅうに届く大声でさつきは叫ぶ。雪はそれに鼓舞されたように勢いを増しはじめ、僕たちの頭に積もりだす。

「うん。……きっと、ご両親もその言葉を聞きたかったんだと思うよ」

「そう、かな……?」

「伝えておくね、さつきの気持ち」

 しばらく迷ったようにして、「うん。そうして」とさつきは言い、立ち上がる。

「時間だよ」

 さつきは僕たちの元に歩み寄る。

「ありがとう、悠太くん。私と席が隣になってくれて」

「はは、本当だね。もし違ってたらこうはならなかったかも」

「ううん。きっと、行く先は同じだったよ。何らかの経緯できっと君を好きになっていた」

「そっか。うん、きっとそうだね」

「うん。そして亜実ちゃん。私の一番の友達でいてくれてありがとう」

「本当に……本当にもう逝っちゃうの?」

「ええ、もう限界だもの。私の体も見ての通り。もう保っていられない」

「そんな……そんな……」

「もう、泣かないでよ。……って、さっきまで号泣してた私が言えることじゃないか。でも、大丈夫だから。ちゃんと見守ってる。亜実ちゃんが幸せになるところ、ちゃーんと」

 佐々木さんは手を伸ばそうとするが、さつきの体は……いや、魂は、光に呑まれながら空へと舞いあがっていく。ジャンプしても、どうあがいても、もう届く場所に彼女はいない。

「あ、そうだ。言い忘れてたことがあったよ」

 声だけが聞こえた。優しい天使のような声。


「天国で、待ってるね」


 もう、さつきは帰って来なかった。

 舞い落ちる雪だけが、静かな空間に響く僕たちの鼓動を刻んでいるようだった。

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