微笑み
9
時折、忘れそうになる。毎日のように彼女は僕の横を歩き、会話する。当たり前が当たり前じゃなくなった日々を思い出すことも、最近は殆ど無くなった。今が当たり前だと思ってしまっている自分がいる。
でも、さつきは既に死んでしまっている存在なのだ。だから、今は一時的にこっちの世界に留まっているが、いずれは戻らなければならない時が訪れるのだろう。今日のさつきを見て、僕は考えていた。熱は無いのに、体が異変を訴えている……これだけで決めつけるのは早計極まりないだろう。でも、佐々木さんが泣き止み、恥ずかしいからと外に出てしまった時に、さつきは一人きりになった時に起きたことを教えてくれた。
何かを愛しいと、綺麗だと思うことも、感情の一つに数えられる。つまり、さつきは一部の感情を取り戻したということだ。もし、それがさつきをあの世に戻す一つの鍵となるのならば……。僕たちがさつきと一緒にいられる残り時間は、そう長くないのかもしれない。
「さつき」
佐々木さんが戻ってくるまで、僕たち二人は、館内に設置されているソファに身を置いている。頭上では非常口を示す薄汚れた緑の光が明滅し、人がいない広い廊下をもの寂しく照らしている。
「この前、って言っても結構前の話だけど、一緒に遊びに行ったことがあったでしょ? あのとき喫茶店で話したこと、覚えてる?」
「天国と地獄の話だったでしょうか? 確か私が死んでいるとか死んでないとか、そんな奇妙な話をしましたね」
「うん、そう。あの時はごめんね。変なことを言っちゃって」
覚えてくれていたことに感謝しつつ謝る。だが、さつきは全く反応しなかった。僕に視線を向けることも、言葉を発することもなく、地面をひたすらに睨んでいる。
「どうしたの? もしかしてまた体調悪くなってきた?」
僕が急いで寄り添おうとすると、「大丈夫」と片手で制された。眼前に突き付けられた掌に驚きを隠せないまま、元の場所に戻る。
「そのことについて……今日じゃなくて構いません。いつか二人だけになった時に、お話し、させていただけないでしょうか……?」
自動ドアが開く音がして、佐々木さんが僕たちに向かって駆けてくる。さつきは俯いたまま彼女をも見ようとしない。突然のことに訳が分からないまま、僕は「分かった」と頷く。
「ありがとうございます」
この時のさつきは、これまでにもまして丁寧な口調だった。ひしひしと、その気持ちが伝わった。きっと意図して行ったことなのだろう。
静かな並木道を三人で歩く。一台のトラックが大きな風を巻き起こし、さつきの髪を攫って走り去っていった。
*
私を家まで送ってくれると、二人はお母さんの「上がっていかない?」という誘いを断り、それぞれの家路をたどっていった。今日のリビングには、きちんと暖房が点いていた。すぐに上着を脱ぎ、暖かい風が吹く場所へと身を寄せる。
「今日はどうだった?」
家事のきりが良かったのか、お母さんが手を拭きながら私の元へやってくる。心なしか、楽しそうに燥いでいるようにも見えた。
うーん、と私は少し唸る。今日を振り返ると、確かに初めての経験を色々積めたが、苦しいこともあった。でも、それは伝える必要はないだろう。私は一人、勝手にうん、と頷き、返す。
「たのしかったよ」
「……へぇ、それは良かったじゃない!」
夕食の際、普段は寡黙にみんなが箸を動かすだけの時間だが、今日の月宮家はとても明るかった。特にお母さんは一人で健気に離し続け、私にもたくさんの話を振ってきた。お父さんもそれに感化されたのか、嬉しそうに話しかけてくる。
それらの雰囲気に疲れ、夕食後、私は自室でしばし寝転がる。ベッドの柔らかさに身を浸しながら、思った。
なんか、懐かしいなぁ、と。
*
「お久しぶりです、おじいさん」
さらにその一週間後、僕たちは、山の中の村に住むおじいさんの家へ赴いていた。また遊びに来ると宣言していたし、何よりも、さつきに変化があった。そういうことがあれば訪ねるとも言ったので、その約束を果たすためでもある。
「おぉ、誰かと思うたらあんたらかい。何や、こんなジジイに会いにわざわざこんな所まで来てくれたんか。ホレ、そんな寒い所に突っ立っとらんと、早よう上がれや」
連絡をしていなかったのでもしかしたら不在かもと不安に思っていたが、そんな心配は杞憂に終わったらしく、おじいさんは元気そうな顔を奥の部屋から覗かせてくれた。
各々挨拶をして、早速家に入らせてもらう。以前よりも家が綺麗になっているように思う。そして、部屋の隅に置かれていた写真立ての埃は綺麗に拭われていた。
「今、あったかいモン入れてやるけんな。そこらへん、適当に座って待っといてくれや」
上機嫌にやかんを取り出し、火にかける。「あ、お構いなく」と佐々木さんが言うと、おじいさんは、「若ぇ者がそんな辛気臭ぇこと言わんでええ」と豪快に笑った。
「菓子はそこの戸棚に入っとるから、好きなん選び。まぁ、ジジイの選んだヤツや。あんたらの好物はあるかわからへんけど……」
急須に湯を注ぎながら指さすのでみんなで確認してみると、スーパーの袋に包まれた未開封の煎餅やクッキーが大量に顔を覗かせていた。おぉー、と僕たちは感嘆の声を漏らす。
「ど、どうや? 菓子なんか普段食わへんからだいぶ迷ったんやけど……」
茶碗の載った盆を机の上に置きながら、おじいさんは不安そうな表情で僕たちに顔を寄せる。
「いやいや、そんなことないですよ! 全部私たちの好物です! だからそんな、心配なさらないでください!」
ね? と佐々木さんは視線を寄越して言う。お世辞でも機嫌取りでも何でもない。僕とさつきは正直に首肯した。
「……せやったか。喜んでもらえたんなら、ワシも買った甲斐があったっちゅーもんや! ま、遠慮なく食ってくれ。どうせ、ここにあっても傷むだけやからのぅ」
ありがとうございます! と礼を言い、佐々木さんを筆頭に、お菓子に手を伸ばす。さつきもやや躊躇いがちに手を伸ばしたりひっこめたりしながらも、おじいさんが満足そうに笑っている姿を見ると、煎餅を齧り始めた。
「……おいしいです、これ」
さつきは小さく呟く。彼女の斜め前に座るおじいさんが目を丸くしたのが見えた。
十分ほどそうしてお茶を飲み、ひと段落ついたところでおじいさんが再び口を開く。
「んで? 今日は急にどないしたんや。まさかホンマにワシに会うためだけに来たわけとちゃうやろ?」
尋ねながら、視線はちらちらとさつきを窺っている。前回と雰囲気が違うことには、既に気づいているのだろう。さつきは静かにお茶を飲み、ふぅ、と一息ついていた。
「はい。あ、おじいさんに会いに来た、というのも確かに目的の一つです。でも、一つ……何といいますか、伝えたいこと? 報せたいことがありまして」
「報せたいこと、か。それはもしかしたら……」
「ええ。きっと、想像されていることで合っていると思います」
さつきもおじいさんをまっすぐに見つめていた。二人の視線が交錯し、そしておじいさんが僕を見る。明らかに戸惑いの色が浮かんでいた。
「何か……変わったな、あの子。あんな子やったっけ?」
「それがまあ……色々とありまして」
これまでのさつきは、おじいさんにも、出されたお茶にも特に関心を持っていなかった。人がいるからその人を見、出されるからお茶を飲む。それが、今では何か伝えたいことがあるかのように自身を見つめ、お茶菓子をおいしいと言って食んでくれるのだ。動揺するのも無理はない。
僕は、一週間前の出来事を詳細に話した。一部の感情を取り戻したこと。その瞬間、異様な体調不良に襲われたこと。おじいさんは喜んだり驚いたりしながら聞いてくれた。
「今では体調も落ち着いています。心配はありませんよ」
最後にそう付け加えると、おじいさんは心底安心に思う息を吐き出した。
「なるほど……じゃあ、今は喜んでもええわけなんかな?」
「手放しにはそうできませんが、感情表現ができるようになったのは、大きな前進だと思っています」
その時、さつきがおずおずと手を上げているのが見えた。どうしたの、と問いかける。
「あの……私も喋っていいでしょうか? 私の話をなさっているようですし、私が何か言った方が、説得力があるかと思いまして」
「おぉ! そうやな! で、何を話してくれるんや?」
おじいさんの鶴の一声で僕は黙る。三人の視線を一身に浴びつつさつきは口を開いた。
「まず、その節はお世話になりました。おかげで私は今もこうして生きています。感謝してもしきれません」
深く深く頭を下げた。おじいさんは背中がむず痒く感じるのか、苦笑いを浮かべている。
「それで、これまでのご無礼をお許し下さい。何かお礼ができればよいのですが……。生憎今はお金も、差し上げられるような贈り物もありませんので……。また近いうちに伺ってもよろしいでしょうか?」
懇願するような瞳でさつきはおじいさんを見る。頭を掻きながらおじいさんは居心地悪そうに視線を彷徨わせている。
「……あぁ、いつでも来ぃや」
やっとのことでそう絞り出した。
「あとな」
付け加えて言う。
「さっきもあっちの嬢ちゃんに言うたけど、お礼とかそんなんはいらへんねん。ええもん貰っても、使えるかどうかわからへんからな。やから、もしそんなモン買うお金があるんやったら、自分たちのために使い。欲しいモンとか行きたい所とかあるやろ? 何回も言うけど、あんたらは若いんやから、楽しめるうちに人生、楽しんどきな」
「欲しいもの……行きたい所……ですか」
さつきが反芻して考え込む。
「そうや。そんな欲望に忠実に生きるんも悪くないもんやで? どうや?」
しばらくさつきは顎に手をあててあれこれ思考を巡らせているようだったが、やがて力なく首を振った。
「そうか……やったら、こういうんはどうや」
おじいさんは立ち上がり、何かを探してあちこち動き回る。間もなく、一枚の紙切れを手にして戻ってきた。
「スーパーに行ったときにもらったモンなんやけどな。どうも、近いうちにここらへんで祭りがあるらしいねん。冬やで多分寒いけど、屋台とかはあったかいモン仰山出すらしいし、ちょっとやけど花火も打ち上げるって書いたる。よかったら、三人で行って来たらどうや」
チラシを見ると、「○○町冬の花火大会!」と大きく装飾された文字の周りに、概要が書かれている。これまでずっとこの町で冬を過ごしてきたが、こんな祭りは初耳だ。二人に小声で訊いてみるが、二人も記憶にないという。疑問に思う僕たちを助けるようにおじいさんが、
「ここ見てみ。今年かららしいで。とりあえず実験的に行うんやろ」
と指さして言った。
「なるほど……考えてみます。ところでおじいさんは行かないんですか?」
チラシをポケットに仕舞い込みつつ聞いてみる。
「ワシか? ワシは行っても面白くないやろし、何せこの体やからなぁー……。あんまり長いこと外におると風邪とかひいてしまうかもしれへん。アンタらが行くって言うんなら顔を出すぐらいはするかもやけど、基本は別行動やろな」
冬の夜はどこでも冷え込む。それはこの町とて例外ではなく、確かに年老いた人が長時間、その風に晒されているのは良くない事だろう。
「分かりました。あの……おじいさんって携帯、持ってます? 宜しければ連絡先を教えていただけると嬉しいのですが……」
おじいさんは僕の言葉を聞くや否や紙を取り出し、鉛筆で走り書きした。「ホレ」と渡される。
「悪いけどワシゃ携帯は持ってへんのや。固定電話で悪いけど、何かあったらそれに掛けてくれ」
「ありがとうございます!」
紙に書かれている電話番号をすぐに自分のスマホに登録する。僕がそのまま紙を返すと、おじいさんは驚きを隠せぬ表情を見せていた。
「最近はそれだけで電話できるようになるんか」
「はい。簡単なものですよ」
そうして僕たちはその後も一時間ほど談笑し、帰宅した。帰り道、三人で例の祭りに行くか話し合ったところ、折角だし行くだけ行ってみよう、という結論となった。さつきはずっと、僕たちのやりとりを微笑んで眺めていた。