はじまり
ずいぶんと長く続いた沈黙の日々は、御山香織が三十三歳になった夜に終わりを迎えた。
「ねぇ、私のお願い覚えてる?」
「ねぇ」と声をかけられた時点で、吉野誠治はこれから始まる話が何についてのものなのかを察した。来るな、来るなと思い続けていた日がとうとうやってきてしまった。
「私、あれからずっと考えてたの。言われたように、今まで通りの平凡な日々を送って、みんなと同じことに興味を抱いて…って生きること。でもね、やっぱり無理なのよ。」
吉野は「でも」と口にしたが、それに被せて御山は続ける。
「お願い。あなたしかいないの。何度も考えたの。」
エアコンの無機質で静かな、普段なら気づくことのない音が今夜はやけにはっきりと聞こえてくる。時計の針が動く音を何度か聞いた後、吉野は口を開いた。
「僕は、あの時も言ったけど、僕はどうなってもいいんだよ。香織さんに拾われてから、香織さんのために生きるって決めたからね。だから、それが本当に香織さんの願いなら、僕は何だってするよ。」
「ありがとう。あなたにしか言えないし、頼めないの。本当にありがとう。」
少し眉を下げながら申し訳なさそうにしてはいるが、目や口元からはいたずらっ子特有の悪そうで可愛らしい表情が見えている。出会って数年、この表情を見せたのはこれが二度目だ。一度目は、ちょうど一年前だった。吉野がぼんやりと過去の記憶に身を委ねようかというとき、一年前と全く同じ言葉が発せられた。
「じゃあ、最初で最後のお願い。私のために死んでください。」
去年の誕生日にプレゼントとしてほしいものは何かを聞き、「欲しいものは何もないけど、お願い事はあるんだ」と言われ、それまで何も頼まれたことがなかった吉野が何でも言ってと言った時と、全く同じ表情で、全く同じセリフ。
久しぶりに聞くお願いの内容を噛みしめながら、吉野はやっぱりそれは違う気がするんだよなと考えていた。