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漫画用短編

淀みを知らないあなたが好き

作者: 桧山いちか

 六月某日、今日は雨。肌に触れる雫は私の体温を含んでほんのりと温かみを帯びたように見えた。歩みを意識的に止め、水の流れだけを意識する。足元から下へ下へ――緩やかな斜面を下って行くその流れ。靴の中まで水は浸透しているし、もうこの雨とは一体になったようなものだ。

 死んだ兄が笑っている。だから傘を持って行けと言っただろうと。余計なお世話だ。


『まったくそのはこれだから。風邪を引いてしまうよ?』

「仕方ないじゃない、今日は持ち物が多いのよ。降るかどうかわからない雨のために傘を持てるほど余裕はないの」

『でも雨が降ってたら持って行っていたんだろう』

「何よ、折角会いに来たのに。そんなこと言うなら帰る」


 困ったような、それでいて少し照れた表情を見せる兄は、それなら雨の降りこまないところで話をしないとねと私の先を行った。兄はいつだってそうだ。私より早く、だから――。


『苑ももう中学生なんだな。早い、早い』


 雨を凌ぐには最適な、小振りの洞穴のあるところまでやってきた。蒼茫たる空は遥か彼方、薄墨色の雲の嘲笑だけがそれは静かに頭上を覆う。私の三つ上の兄は、生きていれば高校生だ。幽霊の時間は死んだその時に止まるというが、それにはどうも懐疑的だ。現に兄は私よりずっと、大人びている。


「子ども扱いしないでよ。学校はつまらない。子供って制約が多くて大変、無駄な規則が多いと思うのよ。早く大人になりたい」

『大人か……。でも、大人だって縛られて生きてるんだぜ』

「社会で生きるってそういうことよ。でも一々管理されなくて済むでしょう。一人でいいの、誰も要らない。兄さんがいてくれたら」

『きっと苑が大人になったらね、僕を必要としなくなるよ。それにほら、僕はもう死んでいるんだからさ』

「どういう意味なの、それは?」


 朧げな白糸を紡ぐ雨の連なりを横目に、私は思わず溜息をつく。この様子だとしばらくは止みそうにない。小さな洞窟から覗く外の世界は少しだけ特別に思えた。


『苑の言う大人っていうのはどういうものなんだい』

「兄さんみたいな感じよ! 自由なの、それでね、小さいことで怒ったり妬んだりしないのよ。私、お酒も煙草も興味がないのよ。粋がりたいわけではないの。ただ、無駄な縛りから逃れたいだけよ。自分のお金で生活して、自分のためだけに責任を持ちたいのよ。頼んでもいない世話をやかれて愛想笑いをするのはもううんざり」

『大人はね、子供に夢を見させないといけないんだ。早く大人になりたいっていう夢を。だから苑はまだ子供なんだ』


 何が面白いのか兄はそう言った後で声を出して笑い、苑には僕が大人に見えるのか、と私の方を向いて好奇の目を向けた。いいかい、と兄は続ける。大人になるとさ、今度は子供時代に返りたいなんてこんなことを言い出すわけなんだ。そう、子供もまた大人に夢を見させてあげなければならない。みんな夢を見ているんだ。苑だってそうだよ、いもしない僕の夢を――。


「やめてよ!」


 雨が途切れた。


「わかってるよ……兄さんが死んだのも、もうこの世には存在しないことも、私が繋ぎとめてることも……。でも、悲しいじゃない……」


 学校では夢を持て、目標は高くとそれは熱心に指導がされる。叶いもしない夢を持ったところで絶望するだけだ、身の丈にあった将来設計が一番だと、そう考える私はいまいち学校の環境には馴染めずにいた。夢を見ることは推奨されるのに、いざ夢のままに進もうとすると結局は現実に引き戻される。大人になれば何か変わるかと言えば、そうでもないことくらい知っている。何故なら子供の延長線上にあるのが大人で、その間にどんな紆余曲折を経ようとも一つの人生は一つの直線でしか表されないのだ。


「私、ずっとずっと夢を見ていたいわ。兄さんがいない世界なんて考えられないのよ。誰にも迷惑はかけないわ、もっと勉強を頑張って、就職するのよ。そうして生活の基盤を立てて、兄さんとこうしてたまに会えたら――」

『それが苑の夢なんだね』

「……どうしてそんな冷めた顔で言うの」

『冷めてなんかないよ。ただ僕はね、もうどうすることもできないんだ。夢を見ることも叶わない、何かを嫌に思うこともなければ嬉しく思うこともない。もし苑が僕に感情があると思っているのならね、それは苑の感情を投影しているだけなんだよ』

「兄さんは、私と会えて嬉しくないの?」

『苑が嬉しいと思うなら嬉しいし、嫌と思うなら嫌だ』

「兄さんの方から私に会いに来たことがないのってそういう理由だったのね」

『会いに行かないんじゃない、行けないんだ。何度も言っているように僕は……』


 わかってる、と私は兄の言葉を遮った。勢いのある風が雨粒を容赦なく振り落としていく様が見える。段々に斜陽の滑らかなグラデーションがその場を彩り始めた。

 未だに兄の死を両親が私に語ることはない。何せ私がずっと幼い頃のことだ、記憶にないと思われているのだ。兄は確実に存在していた、その事実を私は今も必死に守ろうとしている。たとえ目前にいる兄が幻であろうとも、私が思う限り兄は私と一緒にいてくれる。


『夢から覚める方法を教えてあげようか』

「教えられなくても知っているわ」

『じゃあ苑はどうして僕に会いに来るの? 僕が言うのもなんだけどさ、あまり勧められたことではないよね』


 外の世界はすっかり雨上がりといった様子で、私の衣服だけがずっしりと、水の重みから解放されずにいた。足に力を入れて立ち上がるのにも一苦労、空洞の外へ一歩踏み出し、私は兄の方へと向き直る。


「兄さんのことが大好きだからよ! 叶わないと知っていても見ていたい夢っていうのがあるの。私、子供だから」


 思ったよりも陽の光は鮮やかな眩しさを湛え、兄の姿をよく見ることはできなかった。それでも『またおいで』という兄の声はしっかりと聞こえたし、そこには微笑すらも感じさせたのだった。


好きになるのが対象とか存在とか、半ば擬人化したものに熱が入りがちなので……ジャンルを恋愛にしていいものか悩ましいところではありますが、ヒューマンドラマの方がかけ離れている気がするので一応恋愛に区分。

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― 新着の感想 ―
[一言] この文体、ゆっくりとした味、その中に、もっと我を詰めてみてください。これが好き、あれが好き程度で構いませんから、もっと、自分を隠さない、夢見ているものとは違う、己の現実を赤裸々に描くと、ずい…
2016/07/01 23:19 退会済み
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