祭の夕方
シャープペンシルの芯が紙を擦る音と、時を刻む壁掛け時計の音しか聞こえない。
塾の実習室は、適度に冷房も効いていて快適だけど眠くなる。
私は欠伸を噛み殺し、制服のスカートのヒダに乗っている消しゴムのカスを無造作に払い落とした。
床に目を向け、ふと気づく。
私の机や椅子の周りには、問題集と格闘してきた痕跡が散乱しすぎだ。
帰る前に箒で集めて捨てなければと、煮詰まっている頭の片隅で思った。
朝から実習室で問題と向き合い、早三時間。
英語の問題集は、いまだ目標ページに到達していない。
時の流れを実感すると、急に不安が押し寄せる。
今まで費やしてきた時間が、ちゃんと結果に結び付いてくれるのか……自信がない。
中学のときは特になにもしなくても勉強ができる集団に所属していたから、高校でも同じように勉強していれば余裕でやっていけると高を括っていた。
でも現実は、寝る間を惜しんで勉強しても成績上位に食い込めない。
どれだけ必死に頑張っても、湧き起こる感情は焦燥感。
制服が着たいという動機で、私が選んだ学校で得た物は、拭いようのない劣等感。
商業科に進学した五つ上の姉は、テスト前と検定前しか勉強をしていなかった。
専門学校も入学願書を提出したらオッケーというところに行ったから、今の私みたいな受験の苦しみを味わっていない。
私も姉と同じ高校に進学していれば、たった三年間しかない期限付きの、女子高生というブランドを満喫できただろうか。
『それもカウントしとこうか?』
これは……数えなくてもいい。
『そんなこと言わずにさ、塵も積もれば山となるって言うじゃない? ストックは大事よ』
いつの頃からか傍にいるマカゲのノンは、事あるごとに私の劣等感とマイナス思考を振り分けたがる。
『少しでも多いほうが、威力が倍になるのよね~。ね? カウントしていい?』
面倒臭くなった私は、好きにすれば? と頭の中で答える。
『面倒だからって理由はアレだけど、とりあえずワンカウントね!』
「明香里ちゃん、休憩中?」
隣の席で参考書を開いていた他校の男子生徒が、遠慮気味に声をかけてきた。
塾で同じ時間を共有し、仲良くなった長瀬典昭君。
顎が細くて切れ長の目をしている彼に、私は甘酸っぱい特別な感情を抱いている。
顔も声も性格も、全て私好み。
話しかけてくれた嬉しさを隠して不機嫌を装い、シャープペンシルの先で消しゴムを転がしながら怠そうに答えた。
「頭から湯気が出そう」
苦笑いした典昭は、少しだけ身を寄せてくる。
何事だろうと、私も少しだけ身を乗り出した。
周囲にはばかるようにひそめられた彼の声が、私の鼓膜を震わせる。
「息抜きがてら、外に出ない?」
典昭からの願ってもない提案に、鉛のようだった心が一瞬で弾んだ。
『出なくていいよ~。ここにいる人間って、思考の移り変わりが面白くて飽きないし! 自分は、ここにいたい』
ノンは楽しくても、私は息が詰まりそう。
シャープペンシルが紙を滑る音にも、だんだん嫌気がさしてきたところだ。
「行く」
「よし、じゃあ先に出といて」
典昭の言葉に無言で頷き、スマートフォンを手にして実習室のドアを開ける。
ドアのガラスに映ったノンは、とても不機嫌そうだ。
塾の玄関から外に出ると、七月最終日の太陽が容赦なく照り付けた。
「暑い……」
午後二時過ぎの太陽は、とても驚異的。
日差しを遮りたくて、頭上に手を掲げる。
塾の玄関前に走る四車線の道路は、自動車の交通量が多い。
空気というより、排気ガスを吸いに出ているようなものだ。
『あの男、一緒に行動しないほうがいいよ』
「なんで? 長瀬君のなにが気に入らないの?」
道路に面した塾の窓ガラスに向き合うと、影になっている部分にノンが映る。
ボサボサの長い髪を片側に寄せて耳の下で結んだノンは、腕を組んで視線を逸らす。
答えを待てども、ノンは口を開かない。
「ごめん、お待たせ!」
「うわっ」
我ながら、とっさのひと言が可愛くない。
せめて、キャッ、にしておけばよかった。
私の可愛くない悲鳴など気にした様子もなく、財布を手にした典昭は道路の先にあるコンビニエンスストアを指す。
「外に出たついでに、アイス欲しくない?」
「アイス……」
喉の奥に、ヒヤリと冷たい感覚が呼び起こされる。
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
私が笑みを浮かべると、窓ガラスに映るノンは退屈そうに唇を尖らせて鼻で息を吐いた。
「アイスは奢り?」
冗談めかして問えば、典昭は苦笑を浮かべる。
「じゃあ、安いのね」
「やった! 私、クリームより氷がいい」
「あ~! 俺も氷にしようと思ってたのに」
八重歯を覗かせて笑う典昭の、この笑顔が人懐っこくて私は好き。
勉強を第一の目的で塾に通っているけれど、第二の目的は、彼に会うためだったりする。
『はぁ~……健気な恋心ですこと』
ノンが煙たがるこの気持ちが、今の私にとっては大事な原動力だ。
『そんなに好きなら、告白しちゃえばいいじゃない』
告白は……まだ、しない。
受験が終わるまで、友達のままでいたほうがいいに決まっている。
『じれったいわね。なんで、そう思うのよ?』
だって、成績が上がらないのは恋愛に現を抜かしているからだとか、点数でしか人を判断しない輩に窘められたくないし、成績が伸びない理由を恋心のせいにされたくない。
『うふ! キミのそういう臆病なところ、自分は大好きよ』
ノンに好かれても……心の充足感が得られないから、嬉しくない。
『なによ~、失礼しちゃう』
ノンが話しかけてくるせいで、せっかく二人でいるのに、二人きりじゃないのが残念。
彼が好きという気持ちを抑制している中で、一緒に行こうと昭典から誘われた、この嬉しさ。
たったこれだけのことが、私にとっては束の間の幸福なのに。
『も~! 邪魔者扱いしないでよ。寂しくなっちゃう』
ウザいノンでも、邪魔者の自覚はあるようだ。
赤信号の間にスマートフォンでSNSを見ていた彼が、小さく唸った。
「受験生で青陵祭に行けるヤツって、余裕があるってことだよなぁ……」
そうだ。今日は、青陵祭二日目の日曜日。
夜になると、夏の空には花火が上がる。
彼はスマートフォンを制服の胸ポケットにしまい、悔しげに顔を歪めた。
「花火、俺も行きてぇ~!」
一緒に行く? と言いかけて、私は言葉を呑み込んだ。
思い起こせば、青陵祭を心の底から満喫したのは、高校一年生の夏が最後。
高校一生年の冬には志望校合格を目標に掲げ、大学の過去問題やセンター試験の問題と向き合う日々が始まった。
だから今日も、普段どおり制服に身を包み、塾で黙々と一心不乱に問題と向き合う同級生に交じっている。
境遇が同じ人達の中に交じって得られるものは、自分も頑張っているという擬似的な安心感。
「明香里ちゃんは、花火行く?」
「私?」
夜空に咲く大輪の花は、もちろん好き。
でも、花火を見て勉強をしなかったという後ろめたさを持ちたくない。
大学に現役合格すれば、次の年は心置きなく花火が見られるのだ。
現在を取るか未来を取るか。
今年の花火を見るか否かは、私にとって天国と地獄の選択に等しい。
「今年は、やめとく」
「……そっか」
彼の寂しげな声が、私の胸を締め付ける。
『馬鹿ね。花火に行けばいいじゃない』
一つ教えてあげる……と、ノンは囁く。
『彼には今、お付き合いしている女性はいないわよ。ただね、彼を好きな女性は、キミだけじゃない』
「っ……」
いつもノンの囁きは、私の心を簡単に掻き乱す。
彼を他の女に奪われるのは絶対に嫌。
でも、彼が私を好きという保証はないし、確証はもっとない。
彼は、私のことをどう思っているのだろう。
そっと盗み見れば、昭典の視線はコンビニエンスストアの看板に向けられている。
今になって、花火を見ないと言ったひと言をとても後悔した。
◆◇◆◇◆◇◆
時間を無駄に過ごしている感じが否めない。
青陵祭に浮き足立つ空気に充てられたのか、昭典と昼間に交わした会話の内容が頭にこびり付いているせいなのか……。
あれ以来、集中力が途切れ途切れだ。
ほぼ埋まっていた実習室の机も、十九時が近い今は半分以上が空席。
机にかじりついている人数を数えても、私を含めて片手で足りる。
昭典も、十八時過ぎには帰ってしまった。
『ねぇ~つまんない! もう帰ろうよー』
付きっきりじゃなくて、どこか他所へ行って時間を潰しておけばいいじゃん。
『それだと、キミに対応できないでしょ! 劣等感とマイナス思考のビックリ箱みたいなキミから、いつどんな極上の感情がと飛び出してくるか分からないじゃない!』
マカゲという種族は、人間が抱く負の感情で仕事をするらしい。
マカゲに感情を譲渡すると、契約した人間が負の感情を抱く原因となった人間に害を与え、幸せを邪魔できるそうだ。
私が抱く負の感情の割り振りは、姉が六割で受験が三割、同級生や姉以外の人間によるものが一割だ。
ついこないだも、浴衣を選ぶ手伝いをしてほしいと部屋に押しかけてきた姉は、約一時間も私を拘束した。
姉は自分が大学受験を経験していないから、死に物狂いで受験勉強に勤しむ妹の邪魔をすると思い至らないのだろう。
とても貴重な一時間。
問題に取り組んでいたならば、どれだけ順調に進んでいたことだろう。
『ほらほら! 来たじゃないの。これだから、キミの傍を離れられないのよね~』
嬉しそうなノンの声に、頭痛を覚える。
駄目だ。今日は、もう帰ろう。
『今の、カウントしていい?』
「好きにすればいい」
ノンのウザさにイライラしながら、小声で吐き捨てる。
ノートと参考書をカバンに詰め込み、実習室の隅に設置されている掃除道具入れに向かう。
箒と塵取りを手にし、散乱させた消しゴムのカスを集めて塵取りに入れると、ゴミ箱へ投入した。
箒と塵取りを掃除道具入れに戻し、カバンを掴んで塾を出る。
自転車にまたがって横断歩道で信号待ちをしていると、綿菓子を手にした男の子と、茶色い紙袋を手にした母親が隣に並んだ。
キャラクターが描かれた綿菓子の袋が懐かしくて、殺伐としていたのに自然と笑みが浮かぶ。
「ママ~! 一個だけ食べたい」
せがむ子供に、母親は眉根を寄せる。
「あと少しでお家でしょ? 我慢しなさい」
「一個だけ! 一個だけちょうだい!」
子供がせがむと、母親は観念したように嘆息吐く。
「もぅ……パパには内緒ね」
ガサガサと茶色い紙袋をあさった母親の手に持たれていたのは、親指サイズのでこまんだった。
「ママ、これ誰?」
「それは毘沙門天さん」
「顔がへこんでるね~」
男の子は笑いながら、嬉しそうにでこまんを頬張る。
『アレって、おいしいの?』
珍しく、ノンが食べ物に興味を示した。
食べたいの?
『神様を模った物なんか、口にできなわよ』
ノンの声は、嫌悪感がたっぷりだ。
「ママ、もう一個ちょうだい」
「駄目っ」
「あと一個だけ!」
せがむ男の子を見ていると、困り切っている母親と目が合った。
申し訳なさそうな目礼に、笑顔で首を振って応える。
「だったら、あのお姉ちゃんと半分個ね」
「いえ、そんな! 私ただ見てただけなんで」
紙袋から一つ取り出し、母親は男の子に手渡す。
小さな手で半分にして、男の子はでこまんを握り込んだ手を私に向けた。
「僕お家でいっぱい食べるから、お姉ちゃんに大きいほうあげる」
「あ……ありがとう」
戸惑いながら開いた手の平の上に、弁財天の胸から下がコロリと転がる。
幸せそうに弁財天の頭を食べた男の子は、私に満面の笑みを向けた。
「おいしいね」
でこまんを慌てて口に投げ入れ、笑みを浮かべる。
「そうだね。どうも、ありがとう」
嬉しそうに手をパチパチと叩いた男の子は、褒めてほしくて母親の元へ戻っていく。
男の子の背中を見送っていた私に会釈をし、母親は青信号を確認して、男の子の手を引いて歩き出した。
母親に会釈を返し、咀嚼せず、頬袋へ避難させていたでこまんを奥歯の間に挟む。
でこまんの香りと共に、口の中にジワリと唾液が広がっていく。
私も、たくさんでこまんが食べたくなってきた。
スマートフォンで時間を確認すれば、花火が始まる二十時には、まだ時間がある。
勉強のお供に買って、すぐ帰ろう。
花火会場になっている港山公園を目指し、自転車を走らせた。




