陰陽の視線
水盤の水を捨てて線香が香る部屋に戻ると、仕事を終えて帰ってきていた姉の律が、畳の上に大の字になって寝息を立てていた。
座卓の脇に放り投げられたように丸まっている薄手のカーディガンは、姉が着ていた物に違いない。
「も~っ! シワになっちゃう」
水盤を座卓に置いて、姉のカーディガンに手を伸ばす。
姉の仕事に対する姿勢は几帳面で事細かいのに、掃除や洗濯に料理といった家事全般は本当に適当だ。
「仕事とプライベートで、ギャップがありすぎだよ」
文句を垂れながら、カーディガンを姉の腹にかける。
七月に入ったとはいえ、腹が冷えては体調を崩しかねない。
水盤を棚に戻し、夢の世界にいる姉に目を向けた。
タンクトップから伸びる細い腕。ショートパンツから伸びる長い足。
呼吸と共に上下する胸も豊満で、妹の目から見ても羨ましいプロポーションだ。
「なに見てんのよ」
むくりと姉は起き上がり、あくびをしながら盛大に両腕を伸ばす。
「おっ、起きてたの?」
驚いて声が震えたけれど、姉は気にした様子もなく、私が姉の腹にかけたばかりのカーディガンを脇に退けた。
座卓に体を向けて両肘を突き、小首を傾げて上目遣いの瞳に私を映す。
「理緒ちゃーん、お姉ちゃん喉が乾いちゃった。冷えた炭酸が飲みたいな!」
「冷蔵庫にあるじゃん」
「持ってきて~」
言葉尻にハートマークを付けるように甘えた声を出した姉は、同性でも惚れぼれするような笑みを浮かべた。
この妖艶な微笑みに、いったい何人の男女が騙されてきたことだろう。
「私じゃなくて、義兄さんに甘えなよ」
要望を冷たく突き返すと、姉は頬を膨らませて唇を尖らせる。
「今いない人には、甘えられないじゃない?」
「それって惚気?」
眉間にシワを寄せて細めた目を姉に向ければ、楽しそうに肩を揺らした。
「つべこべ言わずに、さっさと持ってきなさいよ。私はね、理緒に聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
問い返しても、姉は笑みを深めるばかり。
このままではラチが明かないと諦め、台所へ向かいコップを二つ出して冷えたジュースを入れる。急いで部屋へ戻ると、姉はまた寝転んでいた。
「今回の仕事、そんなに大変だったの?」
「移動距離が長かったからね。仕事じゃなくて、そっちで疲れた」
むくりと起き上がり、姉は気だるそうに頬杖を突く。コップを前に置くと、姉は嬉しそうに口元へ運んだ。
「それで、聞きたいことってなに?」
喉をゴクリと鳴らして満足そうに頷いた姉は、コップを置いて両肘を突き、指を交互に絡めてその上に顎を置いた。
「理緒は、一人で何度か仕事をこなしたことがあったかしら?」
射抜くような鋭い姉の視線に、ピンと背筋が伸びる。
さっきまでの気だるそうな緩い雰囲気は姿を消し、私の眼前にいるのは面倒臭がりで適当な姉ではなく、凄腕と評判を高める一人の術師。
唐突に押し寄せた、師匠である父に相対しているときと同じ緊張感。
極寒の地に薄着で置き去りにされたような身も心も凍りそうな感覚は、何度味わっても慣れない。
姉は、私の答えを待っている。
修行を開始してからこれまでの記憶を懸命に掘り起こした。
「近場の簡単な案件は、少しずつ任せてもらえるようになった」
婿をもらったのを機にアパートで暮らすようになった姉は、仕事や用事があるときに家へ帰ってくる。
だから、姉がいないときの私を知らないのだ。
姉は私をフィルターにして私の全てを見透かすように、まったく目を逸らさない。
姉は低い声音で、静かに問いを重ねる。
「成果は?」
「魂の癒着がひどくて手間取ったことはあるけど、失敗はしてない」
ピンと張り詰めていた空気が緩み、姉の唇が弧を描く。
「分かった。ジュース、ありがとね」
ジュースが半分ほど残っているコップを手にし、姉は部屋を出ていく。
なにを品定めされたのか、さっぱり分からない。
分からないけれど、絶対になにかある。
言いようのない胸の高鳴りが、ジワジワと高揚感に変わっていった。




