兄貴のそれから
兄貴の部屋の前を通ると、中から妙な唸り声が聞こえてきた。
具合でも悪いのだろうか。
ドアをノックすると、ぅあい、と返事が返ってくる。
中を覗けば、ベッドの上に胡坐を掻き、腕を組んでなにかと向き合っている兄貴の姿があった。
「なに唸ってんの? 廊下まで聞こえてんだけど」
難問に取り組んでいるような難しい表情を浮かべている兄貴は、僕を手招きする。
不審に思いながら中に入ると、兄貴は無言でベッドの上を指差す。
導かれるように目を向け、眉根を寄せた。
「忍? なにそれ、クッキー?」
「昨日もらったんだけど、どんな意味が込められているのだろうかと思って」
今、聞き捨てならない単語が含まれていた気がする。
昨日は二月十四日だ。
「兄貴……もらったって、バレンタイン?」
自分の失言に気付いた兄貴は、口をポカンと開けたまま動きを停止した。
眺めていると、どんどん耳と頬が赤く変色していく。
「う……うん。もらっちゃった~」
「一人で悩め!」
「わ~っ! そんな、殺生なー」
踵を返すと兄貴に腕を掴まれ、力任せに引っ張られる。重心を崩した僕はベッドの側面に背中を打ち付け、床に尻餅を突く。すかさず兄貴の腕が首に回り、羽交い絞めにされた。
「無駄に偏差値のいい将斗の頭脳は、なんのためにある! ちょっとは、知恵を貸してくれてもいいじゃないか!」
「努力の賜物を無駄とか言うな!」
文句を付ければ、首に回された腕に力が籠められる。
冗談じゃなく、本気で苦しい。
「分かった! 考える! 一緒に考える!」
ギブアップ宣言をして、やっと兄貴の拘束から解放された。
「で? その忍クッキーは、誰から?」
「えっと……花火のときに……」
「あぁ、あの女の人?」
浴衣を着て、アップスタイルにヘアセットしていた女性を頭の中に思い浮かべる。
「たしか正月も、その人と一緒に出かけてたよね?」
駅前のショッピングセンターに荒神神楽を観に行くと、着物と羽織を箪笥から引っ張り出していた姿は、まだ記憶に新しい。
「神楽公演と、初詣に行ってきた。しかも、賀茂神社天満宮のおみくじ大吉!」
「そんな情報要らねぇよ」
嬉しそうに報告してきた兄貴の言葉を一刀両断すれば、瞬時に表情は暗くなり、あからさまに肩を落とした。
よかったね、とでも共感してほしかったのだろうか。
哀愁を漂わせている兄貴の背中を見ていると、なぜだがイラッとする。
『ウザいでしょう』
突然話しに割り込んできたマカゲのナンの言葉に、胸中で同意した。
『でしょ? ウザいでしょ? さぁほら、やっぱり契約結びましょうよ!』
何度も断っているのに、いまだにナンは契約を結ぼうと提案を持ちかけてくる。
そんなナンのほうが、兄貴以上にウザい。
『どれだけウザいと邪険に扱われようが、自分は耐え得るだけの精神を持ち合わせているので問題ありません。一度ロックオンしたら易々と離れないのです。そう、それはまるでスッポンのように!』
スッポンは、銅鑼を鳴らすと驚いて離れるという。ならばナンも、デッカイ音で驚かせてやる。
『あぁっ! 鐘の音はやめてくださいね。毎年恒例で大晦日に鳴る除夜の鐘なんて、頭に響きすぎて……なにがとは明確に言いませんけど、破裂しそうです』
たしか役所の近くにある古寺では、悪業因縁や罪障消滅を名目にして自分で釣鐘を突けたはずだ。
『絶対に行かないでくださいよ』
雪が融けたら行ってみよう。
『やめて!』
ナンにささやかなダメージを与えて満足感を得た僕は、大事そうにベッドに置かれている《忍クッキー》と向き合った。
丁寧に開かれたラッピングの様子から、兄貴の気持ちが分かる気がする。
「忍、ねぇ……」
兄貴と額を突き合わせて《忍クッキー》を眺めるも、なにも頭に浮かんでこない。
ひたすら眺めていて頭に浮かんでくることは、生地の接続部分が綺麗に整えてあって、丁寧に作っているな~という感想だったり、艶が綺麗に出ているな、ということくらいだ。
女心って、難しい。
漢字の一字の《忍》で連想するものなんて、忍者や忍耐、とにかく耐え忍んでいる。
「ねぇ兄貴。忍って、想いを忍ばせているから気付いてくださいってことじゃねーの?」
「いや、そんな訳ない!」
兄貴は全力で否定しているけれど、この態度は絶対に照れ隠しだ。
『キシシ! キミのお兄さん、人間臭くて面白いですね。これがポジティブシンキングでなければ、大層自分好みなんですけど……』
兄貴が、僕みたいにマカゲに付け入られる隙はないと思う。
『そんなの分かりませんよ。人間の心は、常に揺れ動いて不安定です。例えば今、恋愛について悩んでいるお兄さんに囁きかければ、きっとすぐに契約完了です』
ナンの楽しそうな声で、嘘ではないと受け取れる。
『恋は盲目。疑り合いの探り合い。疑心暗鬼を生ずる源ですよ』
キシシと笑い、チャンスかもしれませんね~と、ナンは呟いた。
『気長に待つと言いましたけれど、契約件数を増やすほうが先決ですね。では、また』
え? おい、ナン!
胸中で呼びかけても返事がない。
嘘だろ? ナンはマジで、兄貴のところへ行ったのか?
目の前にある兄貴の表情を観察しても、変化は見受けられない。
ナンの手法は、経験済みだ。
共感するように囁いて、劣等感やマイナス思考を増幅させるように仕向けてくる。
「兄貴!」
《忍クッキー》を凝視し続けていた兄貴の二の腕を掴み、瞳の奥を覗き込む。
「マカゲの囁きに、耳を貸しちゃ駄目だ!」
「は? マカゲ?」
「そいつは、兄貴の気持ちを食い物にする。絶対に、契約に同意しちゃ駄目だ!」
待て待て待て、と兄貴は待てを連呼する。
「話が飛躍しすぎて、理解が追い付かないんだけど?」
ということは……ナンは、まだ兄貴に自己紹介をしていないのか。
「ってか、お前一歩下がれ! クッキーが割れる」
僕の膝先数センチのところに、兄貴がバレンタインにもらった《忍クッキー》。
丁寧に整えて広がっていたラッピングペーパーにシワが寄り、《忍クッキー》が入っている白い箱がわずかに傾く。
振動を緩和させるように敷き詰められた紙パッキンのお蔭で、かろうじて転倒を免れたという状態だ。
「あ……ごめん」
乱れを直そうと、箱を持ち上げる。
すると、ラッピングペーパーと箱の間に、メッセージカードを見付けた。
「兄貴、これ……なに?」
摘み上げたメッセージカードに記してある文字を読み上げる。
「恋一・六二二? 兄貴、心当たりは?」
「ない!」
「即答かよ」
こういうメッセージカードを見付けると、謎解きをしている気分になってきた。
「メッセージカードと忍クッキー」
この二つに、関連性は絶対にあるはずだ。
少し、楽しくなってきた。
「検索したら出てこないかな?」
スマートフォンを手にする兄貴に、僕は白い目を向ける。
「なんでも検索して解決しようって、現代人の悪い癖だと思うんだけど」
「だって、これくれた子は、俺が謎解き苦手なの知ってんだよ」
「あんなに本を読むのに?」
「推理小説は、読み進めながら自分で推理したがる人もいるけど、俺は自分で推理せずに、解決役の解説を読んで納得するタイプなの!」
「推理力ゼロじゃん」
「そう! だから、それを知ってる香澄ちゃんが難しい暗号を入れるはずがない」
ほぅ、あの浴衣の女の人は、香澄という名前なのか。
将来、僕の義理の姉になるかもしれない人の名前を頭にインプットした。
「じゃあ検索すれば?」
「もうしてますよーん」
兄貴が手にするスマートフォンの画面を覗き込み、僕も検索結果を一緒に確認する。
「なんか、よく分からないの出てきた……」
兄貴の言うとおり、スマートフォンに表示された検索結果は漢字のオンパレード。
日本語ではなく、これでは漢文だ。
これの一体どこに、《忍クッキー》との関連を見い出せるだろう。
「他に検索方法ないの?」
低く唸りながら画面をスクロールさせていた兄貴が、あっ! と嬉しそうな声を漏らす。
「忍発見!」
「マジ? どれ?」
「拾遺集、恋一、六二二、平兼盛」
再度検索をかけた兄貴がスマートフォンの画面に表示させたのは、百人一首に選ばれた一首。
《しのぶれど 色に出にけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで》
現代語訳を読んで、僕は兄貴の肩を思い切り叩いた。
「女の人にここまで言わせてなにもしないじゃ、男が廃るよ!」
「いや、でも……」
兄貴が、こんなに煮え切らない男だとは思わなかった。
「でも……じゃないって! だって、忍クッキーだよ? しかも恋一・六二二。ある意味これはラブレターだろ」
《心に秘めてきたけれど、顔や表情に出てしまっていたようだ。私の恋は、「恋の想いごとでもしているのですか?」と、人に尋ねられるほどになって》
この現代語訳を読んでも心が決まらないなんて、兄貴はとんだ腰抜けだ。
それとも今、ナンが兄貴に囁きかけているのだろうか。もしそうなら、ナンの思惑は阻止しなければ、兄貴が不幸になってしまう。
僕は、兄貴の耳元で叫んだ。
「惑わされるな!」
兄貴はビクリと肩を揺らす。
「ビックリしたぁ……。真剣に考え事してる最中に、突然耳元で大きな声出すなよ。まだ心臓がドキドキしてる」
ぼやく兄貴に、僕は真剣な眼差しを向ける。
「楽なほうに流されたら駄目だ。自分の気持ちも、偽ったら駄目。もし、この忍クッキーの返事をノーで答えたら、僕は兄貴のこと見損なう。男として最低の烙印を押してやる!」
目を瞬かせ、兄貴は驚いた表情のまま口元だけ笑う。
「……なに熱くなっってんだよ。将斗の言ってる意味が、よく分かんないんだけど?」
「真剣に話してんだから、真面目に聞けよ!」
ナンの言いなりに、なってほしくない。
嘆息と共に額を擦った兄貴は、胡坐を掻く足を組み直す。
「将斗がなにを心配しているのか知らないけど……俺だって、彼女のことは真剣に考えてる。中途半端な気持ちで、軽く考えてなんかないよ」
「じゃあ、どうして煮え切らない態度を取るんだ? 夏のときは妹さんが受験で不安定だって理由があったけど……向うからアクションがあったってことは、問題が解決したからオッケーってことじゃないの?」
「もぅ、将斗うるさい!」
「うるさいって、なんだよ!」
僕は、兄貴がナンにそそのかされないか心配なだけなのに。
「分かった! 分かったから、一回深呼吸して落ち着け! ヒートアップしすぎ」
兄貴の言い分に、僕はグッと喉から出かかった言葉を呑み込む。
たしかに、頭に血が上っていては、冷静な判断はできない。
落ち着いた? と尋ねる兄貴に、僕は頷く。
「いいか? 彼女には、きちんと交際を申し込む。ただ……」
「ただ?」
眉根を寄せて問い返せば、兄貴は顎に手を添えた。
「これを超えるメッセージの伝え方が、思い浮かばなくて困ってる」
「これって、忍クッキーと暗号のメッセージカード?」
箱を手に取り、兄貴は《忍クッキー》を大事そうに摘まみ上げる。
「俺も、こういうのしたい」
推理が苦手なら、無理だろ。
『無理ですね』
なんの前触れもなく戻ってきたナンに、僕の警戒心はフル稼働する。
『そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。キミのお兄さんには、手が出せません』
ナンの言っている意味が、よく分からない。
『不安定そうに見えて、キミのお兄さんの芯はブレていないのです。掛け合ってみましたが、付け入る隙も取り付く島もありません』
さすが兄貴だ。
ナンの溜め息が聞え、僕は安堵する。
『それにしても、キミは今までにないくらい頑張っていましたね。なんとも滑稽でした。あんなキミは、自分は好きになれません』
だったら、もう僕に契約を迫るのをやめてほしい。
『やめませんよ。持っている要素は変わりませんからね。他のマカゲに横取りされないように、しっかり見張っておかねば……これまでの自分の労力が無駄になってしまいます』
やはり、まだナンとの縁は切れないのか。
『言いましたよね? 目を付けられたら一生だって。これまでもこれからも、キミが劣等感にさいなまれ、マイナス思考に陥って憎悪を芽生えさせる機会を狙い続けていきますよ』
元を辿れば、僕が兄貴に対して一方的に抱いていた劣等感やマイナス思考が原因なのだから、結局は身から出た錆だけど……我ながら、厄介な存在に目を付けられた。
『ほら、告白の返事の趣向に悩んでいるなんて、贅沢だと思いませんか? キミには、彼女候補になる女性も身近にいないのですよ?』
本当に、余計なお世話だ。
『キミのお兄さんに助言なんかしないで、早く部屋に戻りましょうよ。そして、いつものゲームをしたらいいじゃないですか』
マカゲのナンの囁きに、耳は貸さない。
「ねぇ、兄貴。返事の仕方、いい案あるよ」
頭を抱え込んでいた兄貴は、僕の申し出に、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。




