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マカゲ退治

 空を飛ぶ感覚というものを味わってみたかった頃がある。

 地面を離れて飛んでいるとき、体は重いのか、それとも軽いのか。

 足元に横たわる私の体を眺めながら、体が軽くなったという実感は特にないなと、どうでもいい感想を抱いた。


「明香里さん、聞こえますか?」


 理緒の声に、視線を動かす。

 私の体に腕を突っ込んだ張本人は、眉根を寄せて心配そうな表情を浮かべている。


 そんな顔しないでよ。白々しい。


「ねぇ……私に、なにしたの?」

「魂の緒を繋げたまま、肉体から引っ張り出しました」

「魂の緒?」

「肉体と魂を繋ぐ、ねった水飴を伸ばしたみたいに、ネバ~ッとした糸みたいなヤツです」


 説明されても、今の私にはどうでもいい。


「これから、衝撃的なものをお見せします」


 魂が抜かれる以上に衝撃的なものって、いったいなんだ。


 心の中で小馬鹿にしながら、理緒が手にする手鏡に目を向ける。

 手鏡に映る自分の顔を見て、考える間もなく反射的に甲高い悲鳴を上げた。


「ヤダ! なにこれ……ヤダ! 気持ち悪いっ!」


 右目は円い皿みたい。

 鼻は鉤鼻。

 シワまみれの首元。

 片側だけいびつに歪んだ口元。


 私の顔とノンの顔が、絶妙に融合している。


「これが、マカゲと契約している明香里さんの魂の状態です」

「ヤダ! お願い、助けて!」


 こんなみにくい姿、誰にも見られたくない。


 恥ずかしくて死にたい。

 嫌だ!


「約束してください」

「約束……?」

「そうです。少しくらい、羨ましいと思ったり、妬ましいと思ったりすることは、人として当然の感情なので特にどうとは言いません。ですが、必要以上に妬ましがったり、自分と比較して劣等感に苛まれてほしくないのです!」


 感情がたかぶったようで、次第に理緒の声には力がこもる。

 理緒は拳を握り締めて私を見据えると、深呼吸を一つした。


「明香里さん。マカゲを引き剥がしたら……劣等感やマイナス思考の負の連鎖に、もう自分から落ちていかないでくれますか?」

「それができないと……どうなるの?」


 理緒は悲しげに眉根を寄せる。


「別のマカゲが、契約を持ちかけてきます」

「絶対ヤダ!」


 ノンみたいなマカゲとかかわるのは、金輪際こんりんざいこちらから願い下げだ。


「では、約束してくださいね。マカゲが囁いてきても、もう耳は貸さないと」


 思い切り頭を縦に何度も振ると、理緒は不敵な笑みを浮かべた。


「約束ですよ」


 理緒は両手の指を複雑に絡ませて印を組み、朗々と呪文を唱え始める。

 呪文を唱えながら、数珠を巻いた手で私に触れ、癒着する私とノンの境界を探し始めた。


 理緒の手が体の表面を滑るたびに、その手を振り払いたい衝動に駆られる。


「やめろ! やめなさいよっ!」


 私の口が、自分の意図とは関係なく動き始めた。

 理緒はかまわず、呪文を唱えながら私の背後に移動する。


「あぁ~っ! 憎らしい」


 ひとりでに両手が動き、理緒の声を遮断するように私の両耳を塞ぐ。

 首からちぎれんばかりに頭を振り、突然キシシと笑い始めた。


「あ~ぁ……姉さんは、どうしてあんなに綺麗なのに自分はいまいちなんだろう」


 呪文を唱える理緒の声が、かすかに震える。


「同じ親から生まれてきたのに、姉さんのほうが才能あって羨ましわ~」


 一瞬動揺を見せた理緒だったが、声の調子は元に戻った。


「ねぇ、不公平だと思わない? 少しくらい失敗してしまえ! って、思ったことぐらいあるでしょう?」


 勝手に喋る口を閉じたくても、私の手は両耳を押さえたまま動かせない。

 この言葉は、ノンが理緒に向けて発しているものだ。


 理緒の中で渦巻く葛藤を覗き見て、術をやめさせようとノンは必死になっている。


「劣等感を抱いて比べてしまうなんて、恥ずかしいことじゃないわ。みんながしている、普通のことよ? ほら、素直になりなさい。そしたら……契約関係を結びましょうよ?」


 理緒の声に力がこもってわずかに大きくなると、私の首筋に激痛が走った。


「ぅああっ!」


 理緒の指先は首の後ろから鎖骨を撫で、私とノンの境界線に指先を食い込ませていく。

 手を刃物のように動かし、慎重に癒着を削いでいく理緒の鼻頭には玉の汗が幾つも浮かび、額から汗の滴が流れた。


 理緒は別の呪文を唱えながらノンのパーツを掴むと、慎重に引き剥がしていく。

 引き剥がされるたび、苦痛に喘ぐノンの悲鳴が上がった。


「ぎ……ぃ、やぁああああああっ!」


 ノンの激しい感情が濁流のように流れ込み、断末魔にも似た悲鳴が私の口から迸る。


「踏ん張れ!」


 次の呪文を唱える合間にかけてくれた理緒の励ましが、混濁こんだくする私の意識をかろうじて繋ぎ止めた。

 数珠玉がジャラリと擦れ、私の体から激痛が消える。


『あぁ……悔しい! あと少しだったのにっ』


 理緒が最後のパーツを引き剥がすと、ノンの声も消えた。

 理緒はカバンの中からマグカップくらいの大きさをしている瓶を取り出し、ブツブツと呪文を唱えながら、私から引き剥がしたパーツを入れていく。

 原型を留めていないノンの姿は、まるでゲル状の生き物みたいだ。


「はい、終了」


 蓋を閉めた瓶の口に紙札を貼って封をすると、理緒は私に手鏡を向けた。

 そこには、憔悴しょうすいしてやつれきった私の顔が映っている。


 グロテスクなまでに絶妙に融合していたノンの面影は、どこにもない。


「ね? 元通り!」


 嬉しそうな理緒に、素直に頷く。


「これなら、魂を肉体に戻してもマカゲの影響は受けないから大丈夫。あとは、お姉さんにしたのと同じく、結界を張って完了ね」


 手の甲で汗を拭きながら微笑を浮かべる理緒の顔に、どことなく疲れの色が見える。


「……ごめんね」


 謝罪を口にすると、理緒は少し目を見開いて、脱力したように笑った。


「大丈夫。私の姉みたいに一人前になりたいのに、これだけで疲れてたら呆れられちゃう」

「お姉さん、いるんだよね」


 ノンと一緒に、私も見てしまった。

 理緒の中で渦巻く、お姉さんに対する葛藤と羨望。

 押し込めていた感情をこじ開けようとしているとき、ノンはとても楽しそうだった。


 理緒は恥ずかしそうに頬を掻く。


「十歳違うんです。勝気だけど頭の回転も速いし、凄い美人でスタイルも抜群なの。才色兼備って言うのかな? ぶっちゃけ、とっても羨ましいし、あんなふうになりたいな~って、尊敬の対象になってるんですよね」

「ノンが言ってたみたいに、やっぱり自分と比べて委縮しちゃったりするんでしょ?」


 様子を窺いながら尋ねると、理緒はあっけらかんと答えた。


「ない物ねだりっていうんでしょうか? そういうのは、もちろん私にもありますよ」


 だけど……と理緒は、紅水晶の数珠を目の高さに掲げる。


「自分にない物に目を向けるより、自分にある物に目を向けたほうが頑張れるし、そういう人のほうが私は素敵だと思います。カッコイイですよね? オンリーワンって」


 紅水晶の数珠をカバンにしまいながら、まるで自分に言い聞かせるように理緒は呟く。


「憧れって気持ちは原動力にもなりますが、諸刃の剣ですからね」

「諸刃の、剣……。たしかに、そうかも」


 同じように、姉という存在に憧れを抱く私と理緒の違い。


 マカゲの囁きに心乱されようと、ギリギリのところで踏みとどまれるのが理緒だ。


 私は姉が羨ましくて煩わしくて、楽になりたくて、ノンの囁きになびいてしまった。


 私になくて、理緒にあるものはなんだろう。

 同じような年頃で、妹という立場の理緒と仲良くなれたら、またなにかが変われるかもしれない。


「ねぇ、アドレス交換しない?」


 私の申し出に、理緒は目をまるくする。


「私、友達になりない!」

「えっ、でも……」


 戸惑う理緒の視線が泳ぐ。

 理緒の腕を掴み、ずいと顔を覗き込んだ。


「スマホやケータイ持ってないの? それとも仕事柄、友達作っちゃいけないとか?」

「そういうのは、ない……です」


 さっきまでの自信満々な理緒はどこかへ消えてしまったようで、目の前にいるのは、人見知りを発症している女の子。


「じゃあ、理緒ちゃんが嫌じゃなかったら!」


 名前を呼ぶと、はにかんだ笑みを理緒は浮かべる。


「ありがとう。では、急いで魂戻しますね!」


 理緒から目を閉じるように言われ、私は素直に応じた。

 涼やかな鈴の音が響き、徐々に意識が深く沈んでいく。


「はい、目を開けてください」


 理緒の声に従い、鈴の音を聞きながら、ゆっくり目蓋を持ち上げる。

 すると、そこはまだ公園ではなく乳白色の世界だった。


「しばらく体が動かしにくいと思いますけど、魂と肉体が馴染んだら元どおりになりますので、心配なさらないでくださいね」


 うつ伏せに転がったまま、顔の前にある手の指を動かそうとしてみたけれど、節々が硬直していて、たしかに思うように動かせない。


「ではこれから、ここでマカゲ除けの結界を張ります。のちほど、明香里さんから引き剥がしたマカゲには、しかるべき処置を施します。そしたら、完璧に契約解除です」


 瞬きで了解の意を示すと、理緒は手に持つ鈴を振り、一定の間隔を空けて鳴らしていく。

 涼やかに響く鈴の音と、呪文を唱える理緒の声が重なり、私は心地よいハーモニーと温かさに包まれていった。


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