魂の世界
昭典が去って誰もいなくなった公園で独り、ポツンとベンチに腰を下ろす。
冷たい風に時おり撫でられる頬が痛い。
心臓も喉の奥も、目の奥も痛い。胃も痛い。
「なんか、吐きそう……」
さよなら、私の恋心。
唇を引き結んで目蓋を閉じると、目頭からひと粒の涙が零れ落ちた。
憧れだろうと恋だろうと、胸を躍らせていた私の心。
決別しようにも、すぐには無理だ。
自分の気持ちと向き合って導き出した答えとはいえ、なんの前触れもなく突然襲来した喪失感は、想像以上に威力が大きい。
茫然自失と喪失感のダブルパンチだ。
『彼にカウントつけようか?』
「つけない……」
昭典からは、与えられたもののほうが多いから。
片想いをしている最中にしか味わえない心の騒めきと、姉との関係改善のきっかけもそうだ。
『悟ったフリしてんじゃないわよ~。いつもみたいに恨みつらみを叫んで、不安で胸を満たしなさいよ。そっちのほうが、断然キミにはお似合いだわ』
「そんなことありません」
聞き覚えのない声に、現実から目を伏せていた目蓋を持ち上げる。
眼前に、肩口からカバンを斜めにかけた、私と同い年くらいの女の子が立っていた。
女の子は緊張した面持ちのまま、微笑を浮かべて会釈する。
「初めまして。栗原理緒です。マカゲと契約を結ばれている明香里さんに、本日はご報告とご提案に参りました」
「なんで、そのこと……」
理緒と名乗った女の子は、どこで私がマカゲと契約を交わしたと知ったのだろう。
動揺する頭の中で、憎々しげにノンが呟く。
『またコイツ……っ』
ノンの知り合い?
『先に言っておくけど、あの子の言うこと信じちゃ駄目よ』
それは、どういう意味?
『答える義務はないわ』
「いいえ。明香里さんには、知る権利があります」
ノンとの会話に、理緒が割り込む。
理緒には、ノンの声が聞こえているようだ。
「あなた……何者?」
「修行中ですが、陰陽の術を駆使する者です」
姉の香澄なら存在を知っていたかもしれないけれど、陰陽の術と言われても、私にはピンとこない。
それよりも、気になることが他にある。
「さっき言ってた、私の知る権利って?」
「はい。姉である香澄さんに対するマカゲの契約行使は、無効となっています」
『信じちゃ駄目!』
落ち着いた理緒の声と、焦りを帯びたノンの声が重なる。
私の耳は、しっかりと二人の言葉を聞き分けていた。
「無効って……ホントに?」
目をみはる私に、理緒は首肯する。
『信じるなって言ってるでしょ! それに、キミと自分の関係は、キミが死んでからもずっと続くって、何度も言ってるじゃない』
「でも、無効になったって!」
理緒の言葉が本当なら、ノンとの契約行使で姉に与えられ続けていた害は、もうないということだ。
私は、理緒の言葉を信じたい。
『キミがお姉さんに対して劣等感やマイナス思考を抱かないから、カウントが貯まっていないだけ! 行使は変わらず続行中よ!』
「あぁ、もぅ……! 往生際が悪いですね」
理緒はカバンの中から柄が付いた金色の小さな鈴を取り出し、ひと振りして音を響かせる。
涼やかに伸びる鈴の音は、全身の毛を逆立てさせた。
鈴の音が響くたびに、足が無数に生えた虫が走るようなゾワゾワとした感覚に襲われる。
気持ち悪さから逃れたい一心で体中を掻きむしると、全身の筋肉が痙攣して硬直した。
私の中から、なにかが出てくる。
「あぁっ!」
首の後ろから、なにかはゾロリと抜けた。
途端に襲いくる脱力感。
長距離を走り終えたときみたいに、全身がダルくて力が入らない。
失いそうになる意識を引き留めるように、また涼やかな鈴の音が響く。
もうろうとしかける意識に鞭打って目蓋を持ち上げると、そこは公園ではなく、乳白色の世界だった。
「あまりにもうるさかったので、強制的に分離させました」
「……ここは?」
カバンの中に鈴をしまいながら、理緒は答える。
「結界の中です。マカゲの影響を受けない、異次元空間みたいなものです」
「そうなんだ……凄いね」
見た目の年齢は私と同じくらいなのに、こんなことができる子がいるなんて。
「いえ、まだまだ修行中です」
謙遜していても本心は嬉しいようで、頭の後ろを掻く理緒の頬は、ほのかに朱が差している。
「ホントに凄いよ。私は、受験勉強しかしてこなかった……」
入試対策のために国語を勉強して満点に近い点数を取っても、生身で向き合っている人間の心が解らなければ、なんの意味もない。
私は、昭典の心の解釈を間違えた。
自分の心の解釈も間違えた。
悔しくて、恥ずかしい!
「一つ確認したいのですが……明香里さんは、マカゲと仲良しですか?」
仲良し、ではないと思う。
「中にはいるんですよね。マカゲと意気投合して、バンバン他人に害を与えまくって楽しんじゃう人が」
「私は、そんなんじゃない!」
感情が高ぶって声を張り上げると、気分を害した様子もなく、理緒は微笑む。
「それなら、問題なしです」
肩から斜めにかけたカバンに手を伸ばし、理緒は書状のような物を取り出した。
「館田神社に祀られているアメノオシホミミノミコト様、賀茂神社天満宮に祀られているワケイカズチノミコト様と菅原道真公より報告と申請を受け、契約行使の対象となっていた香澄さんには、すでにマカゲの影響を受けないよう結界を施して対処が完了しています」
館田神社は秋に、賀茂神社天満宮は夏にお参りした神社だ。
祀られている神様の名前を知らなかったけれど、それでも大丈夫だったみたい。
どちらの神社に祀られている神様も、私の願いを叶えてくれた。
嬉しすぎる!
「じゃあホントに、お姉ちゃんは……もう、大丈夫?」
はい、と答えた理緒は、でも……と続ける。
「明香里さんが新たにマカゲと契約を交わして行使したら、大丈夫じゃなくなります」
「またマカゲと契約なんて、絶対しない!」
ノンとの契約関係が続いていることが疎ましくて、解約したくて仕方がないのに。
理緒は演技がかった咳払いを一つして、真剣な面持ちで指を二本立てる。
「今回の申請に伴い、明香里さんには選択肢が二つあります。一つは、マカゲの影響を受けないように結界を張ること。もう一つは、今のままマカゲと契約関係を続けていくこと」
「結界って、バリアっていうかシールドみたいな?」
唐突すぎて、言葉の意味が呑み込めない。
理緒は小さく唸りながら、再度言葉を選ぶ。
「えっと……明香里さんが望むなら、今回は特別にマカゲとの契約解除が可能となります」
「でも、ノンは解約できないって……何度も言ってたよ?」
手に持つ書状を掲げ、理緒は微笑む。
「今回は、条件が整ったので特別にできます」
「……条件?」
問い返すと、理緒は頷いた。
「死後の裁判でも度々、マカゲにそそのかされて起こした事件の取り扱いについて問題視されてきたそうなんですよ。それで、公にしていない特別ルールができました」
「特別ルールが、その条件?」
「そうです! 今回お二人がやってのけた、マカゲと契約した人間と、対象となっている人物が双方共に、マカゲとの関係を断ちたいと願うこと」
「たった、それだけ?」
達成条件が、簡単すぎる。
拍子抜けした私に、理緒は苦笑を浮かべた。
「たったこれだけのことが、なかなかクリアできないのです。マカゲに憑りつかれている人間が、邪魔をされないようにと願うことは多々あります。邪魔をされるのは嫌ですし、されたくありません。でも、マカゲとの契約者が、契約行使をした相手に対して影響がないように願うって、マカゲとの契約を後悔していないとできないじゃないですか?」
「たしかに、そうかも……」
後悔の念が押し寄せたから、秋祭りでお参りした館田神社の神様に私は願ったのだ。
「後悔する人には、改善の余地があります。だから、そういう人にはチャンスが与えられることになりました」
理緒は再び、指を二本立てた。
「さぁ明香里さん、選んでください。契約解除か、継続か」
すでに答えは決まっている。
「もちろん、契約解除!」
『そうはさせないわよ。やっと巡り合えた極上の劣等感とマイナス思考の持ち主なのに!』
突如として聞こえてきたノンの声。
理緒は周囲を警戒し、気配を察知しようとわずかに目を伏せて集中する。
理緒の背後からノンの姿が現れ、大きく腕を振り上げて襲いかかった。
『小娘が、邪魔をするな!』
瞬時に理緒は横に飛び、ノンの攻撃をかわす。
低い姿勢で着地しながらカバンの中に手を突っ込むと、紅水晶の数珠を掴み出した。
「結界をこじ開けて侵入してくるなんて、執念深いにもほどがありますね!」
『特別ルールだろうが条件だろうが、契約解除さえさせなければ自分の勝ちよ』
ノンが広げた両手を理緒に向けると、黒い煙のような靄が立ち込める。
乳白色の空間が、黒く塗り替えられていく。
『結界なんて、侵入してしまえばこっちのもの。お嬢ちゃんに格の違いを思い知らせてあげるわ!』
キシシと笑いながら、ノンが動かす手の動きに合わせ、靄は生き物のようにうごめく。
『さぁ、どうしてやろう。本意じゃないけれど、邪魔をする者は……排除してしまおうか』
ノンの姿は靄に溶け、どこにいるのか分からない。
不気味な笑い声は、四方八方から聞こえてくる。
「契約解除の手続きにあたり、マカゲにも確認事項があります!」
声を張り上げる理緒の姿を捉えようにも、靄が濃くなって場所が分からない。
『確認事項?』
「このまま引き下がってくだされば、手荒な真似はいたしません。ですが今みたいに危害を加える行動を続けた場合、封印という手段を選ばなければならなくなります」
ノンの笑い声が消えた。
「さぁ、どちらを選ばれますか?」
理緒が決断を迫ると、再びキシシという笑いが起こる。
『この子と契約を交わしてから、成績がいいのよね~』
ヒヤリ、と首に冷たさを感じた。
『キミは、自分が見初めた人間よ。特別に契約解除の条件が整ったからと口車に乗せられても、すぐにマカゲの能力が恋しくなるわ。だから、ずっとこのままでいましょうよ』
「わ、私は……ならない! もう二度と、マカゲと契約なんてしないから!」
キシシ、とノンは嗤う。
『強がっても無駄よ~。今だって、特殊な能力が使えるお嬢ちゃんのこと……と~っても羨ましく思ってるくせに』
「っ……!」
『マカゲに隠し事なんて無駄よ。自分の素直な感情を偽っちゃ駄目。だって人の性分はね』
変わらないんだから、とノンが囁く。
「なるほど。了解しました。では、明香里さんをどうにかしたほうが早いですね」
「えっ?」
理緒の言葉を認識すると同時に、ドスッと、胸元に強い位衝撃を受ける。
ゆっくり胸元に視線を下げれば、私の体を貫いているのは理緒の腕。
視線を上げれば、全く表情が読み取れない、綺麗に整った理緒の顔。
「うっ嘘……なんで?」
私、死ぬの?
理緒が勢いよく胸元から腕を引き抜くと、瞬時に私の意識は遠退いた。




