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梅雨の六月

 外界から干渉されることを拒否するように閉めたカーテンは、梅雨の湿気を吸収して重たくなっている。

 わずかな陽光もカーテンに遮られ、部屋の中は夜明け前みたいに薄暗い。

 大学の授業で使う教科書を頭の下に敷いて枕代わりにした僕は、ベッドに寝転んでスマートフォンのゲームアプリ攻略に全神経を集中させていた。

 落下してくるブロックを同じ色に揃えて消すだけという簡単なゲームだが、自分の記録を更新すると満足感が得られるから大好きだ。

 制限時間は約一分。スコアによって、徐々に時間が延長されるシステムだ。

 熱中していると、ドアが遠慮気味にノックされる。

 表示されている制限時間をチラリと確認すれば、残りは約十数秒。

 ゲームは大詰め。僕が優先すべきは、ノックの対応よりもゲームのスコアを伸ばすこと。

 しかし、間隔を空けずに何度も繰り返されるノックのせいで、雑念が邪魔をする。

 ドアを叩く主は、もうそろそろ諦めてくれないだろうか。

 僕の願いをあざ笑うように、遠慮気味だったノックは次第に乱暴な音へと変わっていく。

 無視を決め込む僕に痺れを切らしたようで、怒声と共に勢いよく部屋のドアが開いた。


「将斗! 無視すんなよっ!」


 声を荒げて部屋に乱入してきたのは、眉を吊り上げ、怒りを露わにする兄貴。

 怒声に驚いて手元が狂い、あえなくゲームオーバーとなってしまった。


「あ~っ! いいとこだったのに~っ!」


 もうあとたったの三点で、新記録更新だったのだ。悔やんでも悔やみきれない。

 スマートフォンをベッドの上に放り出して打ちひしがれる僕に、腕を組んで仁王立ちした兄貴は非情にも冷徹な言葉を浴びせかける。


「返事をしない将斗が悪い」


 後悔先に立たず。

 ただひと言、はい、と返事をしておけばよかった。


 ドアを閉めた兄貴は苛立ちを体現するように、ドカリとベッドに腰を下ろす。

スプリングがギシギシと悲鳴を上げ、荒波に揺られる舟のようにマットが上下した。

 暗くなっているスマートフォンのディスプレイを明るくし、どれどれ、と兄貴はゲームのスコアを確認する。


「おぉ! こりゃ惜しかったな」

「いったい、誰のせいだと……」

「ん? もとを正せば、誰がなにをしたのが悪いんだっけ?」


 兄貴のノックを無視した僕が悪かった、とは絶対に言いたくない。


 不貞腐れる僕の尻を軽快に叩き、兄貴は反動を付けて立ち上がる。

 また、スプリングが悲鳴を上げた。


「俺は札打ち行く用意できたけど、ゲームしてたってことは将斗も準備オッケーってこと?」

「えっ? もうそんな時間?」


 休日出勤をしている父と懸賞旅行に行っている母から、今日は今年の五月に亡くなった祖父の札打ちを頼まれていたのだ。


「昼から雨の予報になってるから、午前中に行こうって決めたの将斗だろ?」


 枕元にある目覚まし時計に目を向ければ、ただ今の時刻は午前九時より少し前。

 カーテンをめくって窓の外を見上げれば、今にも泣き出しそうな空模様。垂れ込める雨雲から逃げるように、羽を必死に動かして雀の群れが飛んでいた。


「ごめん兄貴。僕まだスウェット」

「見りゃ分かる。十五分で用意しろ!」


 顔を洗って歯も磨いたら、十五分なんてあっという間だ。

 小言が苦手な僕は、急いで準備を開始した。


◆◇◆◇◆◇◆


 僕が生まれた街には、古くから札打ちという習わしがある。

 寺町と街中を流れる川に沿って鎮座する地蔵を巡り、札を貼って故人の冥福を祈るのだ。

 地蔵を巡るときに必要なのが、故人の戒名と俗名、享年を書いた札の束と糊。

 近しい親族で、理想としては一週間に一回ずつ、四十九日の法事までに全部で七回行うことになっている。

 六回までは白札を貼り、最後の七回目だけ赤札を貼るのだ。

 仏典によれば、生前に犯してしまった罪を裁くために死んでから開かれる十王の裁判は、七日ごとに判決が下されると紹介されている。

 札打ちは、判決が軽くて済むようにと願いながら行われてきたそうだが……死んでから、本当にそんなプロセスを辿るか僕には疑問だ。

 それに、札打ちに意味があるとないとに関係なく、二十歳になったばかりの僕にしてみれば、札打ち自体が面倒臭いことこの上ない。

 生前の祖父に対して、地獄に落ちればいいと念じていた僕が祖父の冥福を祈って札打ちをするなんて、なんとも皮肉で滑稽だ。

 口を開けば小言を浴びせかけてきた祖父が、僕は今でも苦手で大嫌いだ。


『あぁ、いいですねぇ……そういう感情! ドロドロしていて自分は大好きです』


 頭の中で響く声に驚き、ビクリと肩が揺れる。

 兄貴の声とは違う、少し潰れた高い声。


 家族以外の人間が、今この家にいるはずない。

 きっと、今の声は気のせいだ。


 無理やり結論付け、急いで顔を洗うべく洗面台の鏡に向き直った。


「うわっ!」


 ギョロリと円い目をした鉤鼻でシワまみれの知らない顔が、鏡に映った僕の背後にある。

 条件反射で腕を薙ぎ払うも、空気を切っただけだった。


『暴力はいけません。ご覧のとおり肉付きがよくないので、衝撃の吸収に向いてないのですよ』


 恐るおそる鏡に目を戻せば、また声の主は僕の背後に回り込んでいる。


「誰……?」


 喉の奥から、かすれた声を絞り出す。

 ボサボサの髪をシワが寄った手で丁寧に撫でつけ、申し遅れました、と声の主はいびつに顔を歪めて頭を下げた。


『自分の名はマカゲのナンと申しまして、陰の大将に仕える魔でございます』


 出てきた単語が、全て理解不能だ。

 陰とか魔とか、まったく要領を得ない。理解の範囲を超えている。


『おや? キミは理解が遅くて呑み込みが悪い方でしたか! しかし自己紹介ですので、他に説明の仕方がないのです。誠に、申し訳ありません……』


 眉根を寄せて肩を落とすナンの姿に、頭の回転が遅いと烙印を押されたようで、さすがに怒りが込み上げてくる。


 なんなんだ、コイツは。


 けれど一番の疑問は……言葉にしていないのに、どうして僕の考えていることに対して正確な返答ができるのか、ということだ。


『もう少し、説明が必要みたいですね』


 ナンは呟き、咳払いを一つした。


『最初にお伝えしておきますが、無駄ですよ』


 表情をいびつに歪めながら、ナンは自分自身の胸元を指し示す。


『自分を見た人間は、必ず他者に自分の存在を訴えますが……それは無意味です。自分の姿は、波長の合った人間にしか見えません』

「見えないって……どういうことだよ」


 こんなにハッキリ見えているのに。


 眉をひそめて問い返せば、鏡に映るナンは大袈裟にのけ反る。


『あぁ、誠に申し訳ありません。そうでした……君は呑み込みが悪く、理解も遅い方でございましたね!』


 なんとなく、癪に障る原因が分かった。

 逐一ナンの反応が、大袈裟でウザいんだ。


『自分が所属している陰という集団は、霊界に拠点を置いておりましてね。神や悪魔、死者と同じ部類に属しているとご理解ください。本来は若干違うのですが、そんな感じの認識で概ね大丈夫です』


 ナンの口から出た単語を聞いて、瞬時に脳が拒否反応を起こす。

 民俗的な概念や事柄に興味を持つ兄貴と違って、神とか悪魔とか、目に見えない存在が僕は大嫌いだ。

 兄貴を真似して本を読んだりテレビ番組の特集を見た時期もあったけれど、兄貴のいう面白さが解らない。

 あんなもの、解釈次第でどうにでも受け取れる都合がいい逃げ場所じゃないか。


「悪いけど……僕は、そういうの信じないほうだから」


 兄貴から告げられた制限時間は十五分。

 今の意味不明なやり取りで、どれだけの時間をロスしてしまったか分からない。

 祖父に言われ続けたせいで、胃にくるから小言は願い下げだ。

 蛇口のレバーを押し上げてぬるま湯を出し、ナンを無視して顔を洗うことにした。


『キシシ! いいですね~その思考! とてもいい! 益々気に入りました』


 嬉しそうに何度も頷きながら、ナンは喋り続ける。


『キミって最高ですね! トラウマに心を痛めて劣等感にさいなまれ、マイナス思考に陥っている人間を前にすると、瞬く間にテンションが上がります。いやぁ~実に楽しい! 特に……キミがひた隠しにしているつもりの、長年お兄さんに抱き続ける劣等感は、とても自分好みです』


 腹に堪っていた怒りが一瞬にして頭に上り、衝動で思いきり壁を殴る。衝撃で歯ブラシ同士がぶつかってカタカタと鳴り、プラスチック製のコップが倒れた。


「なんで、そんなことが分かるんだよっ」


 兄貴に対して劣等感を抱いていると、それらしい会話もしていないのに、どうしてナンにバレてしまったんだ。


 誰にも知られたくない、僕の醜い感情。


『そんなの簡単ですよ。言葉ではなく、自分達マカゲは、思考で会話をしているからです』


 思考で?


『そう、思考で。だから自分には、考えて言葉にするまでのプロセスが丸分かり。自分に隠し事をすることは、自律神経をキミの意思で止めるようなものですからね』


 諦めてください、とナンはいびつに顔を歪めた。


 人間でいえば微笑んでいるのだろうけれど、ナンの表情は笑うことに失敗しているようにしか受け取れない。

 これがもしマカゲではなく人間だったならば、僕は間違いなく居たたまれない感情を抱いている。その感情は、同情と言い換えてもいいかもしれない。

 歯を磨くことを諦め、液体歯磨きを水で溶かしてうがいをする。軽く口の中をゆすいで、洗濯器の上に置いていたスマートフォンを掴み、兄貴が待つ駐車場へ急いだ。


 助手席のドアを開ければ、缶コーヒーと焼きそばパンが置いてある。


「なにこれ?」

「朝飯」

「僕の?」

「腹が減ってないなら、食べなくてもいいけど?」


 マカゲのナンと名乗る正体不明なヤツが現れたせいで、十五分では寝癖を直して顔を洗い、液体歯磨きでうがいをするのが精一杯だった。

 朝起きてから兄貴が部屋に来るまで、ずっとゲームに没頭していたから、腹の中は空っぽだ。

 兄貴は先を見越して、こういう気遣いがサラリとできる。

 嬉しいけど、妬ましい。


『あぁ、いいですね。その感情!』


 頭の中で響くナンの声に、思わず後ろを振り向く。

 けれど、姿は見えない。


「どうした?」


 不思議そうな兄貴の声に、警戒しながら顔を戻す。


「いや……気のせい。なんでもない」

『ひどい! ほんの数分前に姿を見て言葉も交わしたのに、今のは絶対に自分の存在を否定してなかったことにしようとしましたよね! マカゲにも感情があるんです。傷付くんです。あぁ~悲しい!』


 もしやと思い、車窓の影になった部分に目を向ければ案の定、両手で顔を覆って肩を震わせているナンがいた。

 ナンの姿は肉眼で見ることができず、鏡のような、映し出す物に反射した姿しか見えないのかもしれない。

 ということはナンの言うとおり、頭の中で話しかけてくる声を無視して、反射する物を見なければ、ナンはいないも同然だ。


『さては空気と同じに扱うつもりですね! いじめ、カッコ悪い!』


 いじめではなく、単なる認識の拒絶だ。


『もぅ……つれない人ですね。自分の存在を拒絶するなんて、醜い物に蓋をするも同然なのに』


 拗ねた口調のナンの言葉が、僕の胃を鷲掴む。

 キリキリと痛みを伴って重たくなる胃にも、醜い物に蓋をするのにも慣れっこだ。

 ナンが喜ぶ劣等感や妬ましいという感情が醜い物だというのなら、今までどおり胸の内に秘めて蓋をしてやる。

 ナンが僕の前に現れた目的は分からないけれど、こうなったら徹底的に無視だ。

 缶コーヒーと焼きそばパンを手にして助手席に乗り込み、ナンを拒否するように、車のドアを力任せに閉めた。


「将斗、なんか連れてきた?」

「えっ……?」


 兄貴には、ナンの存在が分かるのか。


『全体の二割くらいはいるんですよねぇ。キミのお兄さんみたいな、敏感なタイプの人間』


 サイドミラーに目を向ければ、ナンは後部座席で寛いでいる。


 どうして、車の中にいるんだ。


『やはりキミは馬鹿ですね。マカゲである自分に、物理的な境界の意味があるとお思いですか?』


 物理的な境界が通用するなら、家の中に突然現れたり、ドアも開けずに車に乗り込むなんてできないだろう。


『おや、珍しく正しいご判断をありがとうございます』


 サイドミラーに映るナンは、いびつに顔を歪めた。


「将斗、なに連れてきた?」


 缶コーヒーを所定の位置に収め、窓の外に目を向ける。


「……知らない。僕は兄貴みたいに、そういうの信じてないから」


 吐き捨てるように告げ、焼きそばパンの袋を開けると、大きく口を開いてかぶりついた。


『おいしそうですね。人間は食べているとき幸せそうな顔をしますが、そういう表情が自分は大嫌いです』


 そうか。ナンをどうにかしたかったら、マイナスの考えを思い浮かべなければいいということだ。


『あ、ちょっと! おやめなさいよっ!』

「兄貴!」


 慌てて制止するナンを無視し、兄貴に声をかける。

 兄貴は駐車場から車を車道に進めながら、僕に視線だけ寄越した。


「コーヒーとパン、ありがとう。空きっ腹に食欲を掻き立てる焼きそばパンは最高だ!」


 明るく礼を述べた僕に、兄貴はゲテモノを見るような視線を向けてくる。

 サイドミラーに目をやれば、ナンはムンクが描いた《叫び》のようになっていた。


「珍しく素直って不気味。どういう心境の変化で、どういう風の吹き回しか知らんけど……途中で雨が降ったら、将斗のせいな」

「なんだよ。珍しく素直に思ったこと口にしただけなのに、ひどい言いぐさ」


 缶コーヒーとパンは、本当に嬉しかった。


『キミね、そういう嫌がらせはホントやめてください! 性質が悪いです』


 後部座席に姿勢よく座ったナンを鼻で笑い、焼きそばパンを口に運ぶ。

 ほんの少しだけ鬱憤が晴れた。


「将斗、これ持って」


 赤信号でブレーキを踏んだ兄貴から手渡されたのは、糊の入ったチューブと白い札の束。

 白い札には、葬式のときに親戚一同で一心不乱に書いた祖父の戒名と俗名、享年が記されている。

 一番上にある束に書かれた右上がりの文字は、父のものだ。目を真っ赤にして、黙々と書いていた姿が脳裏に浮かぶ。

 父と祖父は、顔を合わせれば互いに文句ばかり言っていたのに……。

 今にして思えば、耳を覆いたくなるような文句の言い合いが、二人のコミュニケーション手段だったのかもしれない。


 だとしたら……二人共、不器用すぎる。


『キミも十分に不器用ですけどね。キミとおじいさんの関係を棚に上げて、よくぞ言えたものですよ』


 ナンの言うとおり、僕と祖父の関係も良好だった訳じゃない。

 なにかにつけて兄貴や近所の同級生達と比べられ、劣れば小言を言われ、優れても小言を言われる。

 祖父と顔を会わせれば、いつも小言。祖父が口を開けば、いつも小言。

祖父は小言のオンパレードだ。


『あぁ、いいですね。そういう感情は大好物です。ですが対象のおじいさんは亡くなっているので、可能ならば生きている人間に、その感情を抱いて向けてください』


 またナンを喜ばせてしまった。


 胸中で舌打ちをすれば、キシシというナンの笑い声。

 口に含んだパンを咀嚼しながら鼻で息を吐き、サイドミラーに目を向ける。

突如として洗面台の前にナンが現れてから、この数分で判明したことは……負の感情をナンは喜ぶということ。

 その感情で、ナンがなにをどうしたいのかは、いまだに不明。


 ナンの目的は、なんだ。


『ふっふ~ん! 簡単に教えるとお思いですか~?』


 しかも、思考に割り込んでくる面倒臭さ。


『それ、よく言われます……』


 肩を落としたナンをサイドミラーで確認した僕は、いい気味だとほくそ笑みながら、兄貴から押し付けられた札に目を向けた。


「なぁ、兄貴……これって無意味で時間の無駄だと思わない?」

「無意味で無駄って、札打ちのこと?」

「そうだよ、他になにがある? 昔からの風習かもしれないけど、律儀にやる意味があるのか僕には疑問」


 石で形作られた地蔵菩薩に、札を貼ってなんになる。

 戒名と享年を書いた、ただの紙切れじゃないか。

 こんなものは、故人を偲びたい生者のエゴにすぎないと僕は思う。


『あぁ、やはりキミは最高ですね!』


 嬉しそうなナンの声が僕の頭の中で響くと、兄貴は瞬時に後部座席を睨んだ。

喜んで浮き足立っていたナンが、兄貴の視線を受けてわざとらしく肩を縮こめる。

 信号が青になり、正面に顔を戻した兄貴は黙って車を発進させた。

 僕が投げかけた問いに対する答えを考えているのか、ナンの気配を感じて警戒しているのか、兄貴の沈黙が重くて痛い。

 サイドミラーに目を向けると、ナンは大人しく座ったまま、のんきに鼻歌を口ずさんでいる。

 僕も、車窓から見える景色に目を向けた。


 祖父が亡くなってから、ときどき考える。

 人は死んだらどうなるか。

 地獄に行くのか、天国に行くのか、はたまた消えてしまうのか。

 たとえば、この流れで兄貴から宗教的な話をされたとしても、僕は素直に受け入れられない。

 だからなんだ、というのが正直な感想だ。

 科学的な見方をすれば、細胞分裂を繰り返す人間は、有機質と無機質で構成されると解明されている。

 人が死んだらどうなるか……今の僕には、生体電子が活動を停止した肉体は、腐敗し朽ちていくという答えしか導き出せない。

 スピリチュアルやカルマ、精神世界という言葉に拒否反応を示してしまう僕は、幽霊を見たという人間がいても、一般的に霊感と呼ばれる力があると受け入れられない。


 そんなものは、脳が創り出した幻想だ。


 脳ミソの中から、それぞれのイメージを引っ張り出しているだけにすぎない。


『おやぁ? では、やはり自分の存在は完全否定ですね』


 そうか。神や悪魔、死者と同じに分類したらいいと言っていたマカゲのナンは、僕の脳が創り出したイメージだということになる。


『イメージなんかじゃありませんよ! 自分の存在を否定しないでください。今こうして、会話をしているじゃないですか。自分とキミは、まったくの別です~ぅ!』


 喚き立てるナンは僕の創造の産物である、と思い込もうと必死になる耳に、盛大な溜め息が聞こえた。

 ナンではなく、溜め息の主は兄貴だ。


「お前さ……前から思ってたけど、ユーモアの欠片もないよな。人生息苦しくない?」


 僕を鼻で笑う兄貴の言葉に、なにも言い返せない。


「将斗、お前どこの国の人間だ?」

「生まれも育ちも日本ですけど、なにか?」


 ユーモアの欠片もなく、人生が息苦しいだろうと断言し、どこの国の人間かと問う兄貴の意図が分からない。


『自分にも分かりかねます……。キミのお兄さんは、なにが言いたいのです?』


 バックミラーに目を向け、視線を正面に戻した兄貴の唇は弧を描き、不機嫌になった僕を一瞥する。


「正月は初詣。彼岸や盆には寺に参って墓にも行く。春と秋も神社の祭りに行くし、ハロウィンの仮装も楽しむ。クリスチャンじゃなくてもクリスマスを祝って、また正月の準備をする。なんでも慣習に取り込んで、独自に楽しむ日本人」


 改めて要約された日本人像は、解っているけどハチャメチャだ。

 ハチャメチャだけど、僕もしている行動パターンだから否定ができない。


「それなのに、どうして死後の世界に対しては……寛容さがないのかな?」

『そうですよ! ここは自分も同感です。自分はキミの脳が創り出した産物なんかじゃありません!』


 抗議するナンは無視し、親指で札の端をペラペラとめくりながら呟いた。


「だって……死後の世界は、目に見えない。あんなの、各宗教の概念じゃないか」

『その定義でいけば、自分のことは信じてくださいね! 姿が見えているのですから』


 キシシと笑う、ナンがウザい。

 兄貴の咳払いが、笑い続けるナンを黙らせた。


「初詣や墓参り、ハロウィンやクリスマスのイベントも、目に見えないけど実行してんじゃん」

「だって、それは……カレンダーにも書かれてる、確立されたイベントだもん」

「確立されたイベントって言うなら、札打ちも同じだと俺は思うよ」


 静かな兄貴の声音に、言葉が詰まる。


「ずーっと昔から受け継がれている札打ちの概念は、七日ごとに開かれる死後の裁判で、なるべく判決を軽くする手助けになるように、地蔵菩薩や観音菩薩に遺族が願うこと。将斗は、その死後の世界や死後の裁判が本当に存在するのか疑わしいのに……札打ちをする意味があるのかってことだろ?」


 無言で頷けば、ウインカーの左指示器を出して曲がりながら兄貴は笑う。


「生きている者に対して意味を持たせるとするなら……札打ちは俺や将斗にとって、死んだじいちゃんと折り合いをつけるために必要な、俺達の儀式でありイベントだ」

「僕や、兄貴の?」


 横断歩道を渡りたがっている歩行者を見付け、兄貴は停止線で止まるべくブレーキを踏んだ。


「じいちゃんが死んで一ヶ月ちょっとだけど、将斗はポッカリ抜け落ちてないかな? じいちゃんが埋めてた……将斗の一部」


 ピタリと、札をいじっていた指を止めた。


「じいちゃんが埋めてた、僕の一部?」


 意味が分からない。


 兄貴は首を捻り、小さく唸った。


「たとえば……そうだな。将斗が、じいちゃんと接するたびに生じてた感情とか?」


 横断歩道を渡り終えた歩行者の会釈に会釈を返し、兄貴は車を発進させる。


「あとは……将斗が、じいちゃんに対応するために蓄積してきた、小言の対策部分って言い換えてもいいかもね」


 たしかに、それはもう必要なくなった。

 抜け落ちた部分に含まれるかもしれない。


「寺のやり方に則れば、葬式を始め、人が亡くなったらたくさんの儀式が続く。一つひとつクリアしていく過程で、そういう穴を遺族は埋めていくんだと……俺は、そんなふうに理解するようになった」

「その考え方、兄貴は誰かに教わったの?」


 疑問を口にすれば、いんや、と兄貴は否定する。


「受け売りが悪いって訳じゃないんだけど……誰かに教えてもらったことって、結局は俺が自分で納得しなかったら完璧に理解したってことにはならないと思うんだよね。参考にする本やコラムはたくさんあるけど、第三者の意見と事実と自分の感情に折り合いをつけて、そうやってやっと自分の意見になると俺は思ってるから」

「なるほどね……」


 これ以上の感想を述べることなく、僕は焼きそばパンを口に運ぶ。

 たった四つしか年齢が違わないのに、兄貴の考えつく発想が僕にはできない。

 親の育て方は同じなのに、思考パターンはまったく違うベクトルだ。

 兄貴の考え方に賛同するなら、僕にも札打ちに意味が見い出せるような気がする。


『つまらない……』


 退屈そうに呟いたナンの姿が薄れ、サイドミラーから消えた。

 もう現れるなと願いながら、僕は軽口を叩く。


「てゆーか、どうして札を貼るのが地蔵なんだよ」

「学校の勉強はできるのに、将斗って日常生活に必要な知識はからっきしだな」


 事実なだけに、返す言葉もない。

 学校で必要な知識と社会に出てから必要な知識も、微妙にベクトルが違うのだ。

 兄貴はウインカーの右指示器を出し、右折専用車線に車を走らせる。


「仏教の経典によれば、地蔵菩薩の仕事が衆生の救済であり、もう一つの顔が……地獄の裁判を司る閻魔大王その人だからさ」


 何台か車が停まっている県の総合事務所の駐車場に入り、出入り口近くに兄貴も車を停めた。


「ほら。コンビニの横を流れる川沿いに、小さい社が見えるだろ?」


 目を凝らせば、コンビニの駐車場脇から川に沿って走る細い路地の少し奥。向かって右側に、兄貴が説明した社が見える。


「あそこのお地蔵さんからスタートだ。ぐるりと寺町のほうまで歩くんだから、時間が惜しい。急いで食べてしまえ」


 そういえば、僕の左手は半分残った焼きそばパンを握ったまま。

 缶コーヒーに至っては、まったく手を付けていない。


「全行程約二時間半。途中で腹が減ったって駄々をこねても俺は知らん」


 エンジンを止めた兄貴はシートベルトを外し、体勢のいい位置にシートを調整して、スマートフォンをいじり始めた。


「さーて、将斗君。何分で完食?」

「うっ、あっ! なるべく急ぐ……!」


 缶コーヒーのプルトップを開け、冷たいコーヒーを喉に流し込む。焼きそばパンを頬張ると、兄貴が落胆した声を上げた。


「あ~ぁ、やっぱり将斗が柄にもない素直な発言したからだ」


 なにが? と問えば、兄貴はフロントガラスを指差す。


 ポツリポツリと、暗い空から小さな雨粒が落ちてきた。


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