心の扉
朝の十時到着を目安に塾へ向かう途中、写真屋さんに入っていく親子連れが目に付いた。
子供用の振袖を着て化粧もし、成人式のようにヘアセットした女の子。
母親は訪問着に袖を通し、父親はスーツ姿だ。
母親に手を引かれ、転ばないように気を付けながら一生懸命歩く女の子の後ろ姿は、なんとも可愛らしい。
「紐落としかな……」
都市部から離れた地域に住む私にとって、七五三よりも紐落としというネーミングのほうが馴染み深い。
三歳で行う紐落としは、大人の仲間入りをしたような気分にさせてくれる。
私が化粧をして口紅を付けたのも、この紐落としが初めてだった。
口紅を付ける母の仕草を姉と一緒に真似していたから、美容院でヘアセットと着付けを終え、仕上げに付けてもらえた口紅でかなり気分が高揚したのだ。
しかしこのとき、当時八歳だった姉はフォーマルな子供服に袖を通して上機嫌。
姉がお姫様みたいに可愛く見えて、姉と同じ格好がしたくなった私は、着物より洋服がいいと駄々をこねたのを今でも覚えている。
姉がすることを羨ましく想う気持ちは、すでに三歳から芽生えていたということだ。
兄弟姉妹がいる環境で育つと、みんな私のような感情を抱くのだろうか。
『そうとも限らないんじゃない?』
ノンらしからぬ発言に意表を突かれる。
『珍しくもなんともないわよ。だって、仲がいい兄弟姉妹もいるからね。まぁ、そういう人達には自分の付け入る隙がないから寄り付かないけど』
そう、私が姉に負の感情を抱き続けていたから、ノンは私の所へやって来た。
「ねぇ……契約解除って、できないの?」
『残念ながら、無理よ』
館田さんに願っても、やはりノンとの契約解除は駄目だったか。
自転車のハンドルを持つ手に力がこもる。
契約行使を承諾したあの日から、私は怖くて仕方ない。
もし姉の身になにかが起きたとき、それはノンに契約行使を口にした私の責任だ。
私のせいで、姉が死んでしまいでもしたらどうしよう。
『なにを今さら。順調に準備は進んで、少しずつアクションを起こしているわ。キミにはこれからも、お姉さんに対してたくさん劣等感を抱いてもらって、マイナス思考に陥って、自分に譲渡してもらわないといけないのよ』
ますます血の気が引いてきた。
「ねぇ、ノンと手を切るって……できないの?」
『寂しいこと言うわね~。けれど、ご希望に添えずごめんなさい。キミと自分のお付き合いは、たとえキミが死んでしまっても、あの世でしっかり継続よ』
死んでからも継続?
「私、そこまで聞いてない!」
『あら? 説明ならしたわ。恨むなら、君の理解力が乏しかった事実を恨みなさい』
そんなっ! これから先ずっと、ノンに付きまとわれ続けるだなんて。
「最悪……」
苦々しく呟くと、ノンは私を鼻で笑う。
「お姉ちゃんは? お姉ちゃんも、死んでしまったらノンとどうにかなっちゃうの?」
尋ねれば、キシシという不気味なノンの笑い声が頭の中に響いた。
『さぁて、お楽しみ~!』
楽しげなノンの声に、全身がざわつく。
ノンは、きっと悪魔に違いない。
『嫌だわ。陰に属するマカゲだけど、悪魔なんかと一緒にしないで? 自分は、堕落した魂とは違うのよ!』
私にしてみれば、マカゲも悪魔も、どちらも同じだ。
本当に困った。どうしよう……。
◆◇◆◇◆◇◆
塾の駐輪場へ自転車を停め、憂鬱な気持ちで中に入る。
こんな気分でも、実習室のドアを開けて真っ先に確認するのは昭典の姿。今日も定位置に、彼は座って問題集と向き合っている。
昭典が座る隣の机を確認すれば、誰かが座っている形跡はない。
マカゲに魂を売るような私が隣に座っても、彼は嫌がらないだろうか。
徐々に心臓の鼓動が早くなる。
固唾を呑んで意を決し、私は一歩を踏み出した。
「長瀬君、隣いい?」
センター試験の問題に取り組んでいた昭典は、ノートから私に視線を移す。
わずかに口角を上げ、笑みを浮かべて頷いた。
トレンドマークの八重歯は見えていないけれど、私は彼のこんな笑い方も好き。
了承を得られたことに安堵して、昭典の座る隣の机にカバンを置いた。
「ねぇ……なんか、あった?」
昭典の問いかけに、息が詰まる。
平静を装いつつ、昭典に答えた。
「なにかって、なんで?」
昭典は問題文を目で追いながら、八重歯を見せて小さく笑う。
「入ってきたとき、なんか雰囲気違ったから」
まさか昭典に、実習室へ入ったばかりの姿を見られているとは夢にも思わなかった。
嬉しさと恥ずかしさで耳が熱くなる。
でも、今回ばかりは彼の洞察力が憎い。
なにかなら、もちろんあった。
心の底から、自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
だけど、昭典には口が裂けても言えない。
別の言い訳を考えながら、カバンの中からペンケースを取り出す。
そうだ。いい素材があったじゃないか。
「ここに来る途中で、紐落としの女の子を見たからかな?」
「紐落としかぁ……」
呟いた昭典はシャープペンシルを持つ手を顎に添え、天井を見上げて思いを馳せたように目を細める。
「女の子だったら、可愛いだろうなぁ~」
かすれ気味の低い声が、耳に心地いい。
しかし、今のは気になる発言だ。
「長瀬君って、小さい女の子が好きな趣味?」
昭典は眉根を寄せて首を捻り、私が発した質問の意味を考えあぐねている。
「長瀬君って、ロリコン?」
言葉を変えて問い返せば、キョトンとした昭典は声を抑えて笑い出した。
「いやいや、違うって。ロリコンとかって意味じゃなないよ」
「じゃあ、なに?」
「妹がいるんだけど、紐落としのとき日本人形みたいで可愛かったなぁ~って記憶が蘇ってきてさ」
昭典と家族の話をしたことがなかったから、彼に妹がいるとは知らなかった。
「そうなんだ! 妹さん、何歳?」
「今は小学校六年生」
六年生ということは、十二歳。
高校三年生で十八歳になる私達とは、六歳離れている。
年齢が離れていて、性別が異なる兄と妹でも、私のように劣等感を抱いてマイナス思考に陥ることがあるのだろうか。
「妹さんと、喧嘩する?」
昭典は、腕を組んで小さく唸る。
「喧嘩……は、ほとんどしないなぁ」
「お互いが部屋に引きこもってる、とか?」
いや、と彼は即座に否定する。
「みんなが自然と居間に集合しているような家なんだ。だから、気付けば家族全員が同じ空間に集まっちゃってる感じ? それぞれが自己主張はするけど、喧嘩にならないラインを探して折り合いをつけてるんだ」
彼は笑っているけれど、私には驚きのほうが大きい。
そんな家庭があるなんて、思いもしなかった。
「明香里ちゃんは、お姉さんが嫌いなの?」
「私は……」
今この問いかけは、タブーだ。
目頭が熱くなり、泣きそうになる。
私は……妬ましくても、お姉ちゃんが好き。
本当は、大好き。
だけど、以前友人の玲子から受けたものと同じ内容の質問に、素直になれない私は、全く同じ答えを昭典に返す。
「嫌いじゃないけど、ウザい……かな」
「とか言いつつ明香里ちゃんは、お姉さんのこと大好きでしょ?」
強い確信を含んでいる彼の言葉に、私は目を円くした。
「なんで、そう思うの?」
「わざと嫌いになろうとしてるって感じ? 今の明香里ちゃん、ウザいって言いながらお姉さん大好きって顔してるから」
とっさに両手で顔を覆うと、昭典は楽しげに笑う。
『あぁ~! だから自分は、この男が嫌いなのよ』
実習室の壁に沿って設置されているガラス張りの棚に目を向ければ、ノンは頭を抱えて悶えている。
ノンが昭典のことを嫌う理由が、私にも少しだけ分かった気がした。
彼は相手が発した言葉のままを受け取るのではなく、本質を見て判断しようとするから、多分マカゲがそそのかしにくくて不得手とする人種なのだ。
そういう人は自他の住み分けができるから、劣等感も抱きにくいし、マイナス思考に陥っても私のように長々と引きずらない。
私も、彼みたいになりたい。
自然と笑みが浮かんだ。
「その表情は、俺の推測が的外れじゃないってことかな?」
「うん、正解」
私の中で、何年も混濁している感情を昭典に一瞬で見透かされた。
いっそ、清々しいくらいだ。
「やっぱり姉妹だと、憧れとか羨ましいとか、ライバル関係になりやすいのかな?」
「なんで、そう思うの?」
昭典はシャープペンシルを置き、両手を伸ばして筋肉の緊張をほぐす。
「妹の友達の話だったんだけど、妹から意見を求められて、相談に乗ったことがあるんだ。だから、もしかしたら明香里ちゃんもそうかなぁ~って」
昭典の予想どおりで、凄く恥ずかしい。
「もし、そういう感情で気まずいんだったら、価値観を変えたほうがいいよ」
「価値観?」
どの価値観か分からず、オウム返しに問う。
「だって、お姉さんと明香里ちゃんが一緒に過ごせる時間を考えてみなよ。立ち止まることなく進んでいる人生なのに。あと、どれだけの期間を一緒に暮らせると思う?」
私が希望の大学に合格できて、その間に、もし姉が花火に一緒に行っていた男性と電撃結婚してしまったら……一つ屋根の下で過ごせる時間は、今しかない。
姉は家から専門学校に通っていたし、ずっと一緒にいる存在だと思っていたから、別々に暮らす日のことなんて少しも頭になかった。
「お姉ちゃんが結婚しちゃったら……一緒に暮らせるの、今だけかも」
「だったら、気まずい思い出よりも楽しい思い出がいっぱいあるほうが……お互いに幸せだと俺は思うな」
彼が言うお互いの幸せなんて、少しも考えようとしたことがなかった。
『やめなさい。もう、この男と喋らないで!』
珍しく、ノンが慌てている。
せっかくなにかが掴めそうなのに、ノンに邪魔してもらいたくない。
「そうだ! 明香里ちゃんもお姉さんも、お互いがお互いの見ている世界について話してみるのも楽しいんじゃないかな?」
そう、一番の原因はそこなんだ。
私も姉も、お互いが自分の世界を持って生活している。
私の世界よりも輝いて楽しそうに見えてしまう姉の世界が、私はただひたすら羨ましくて妬ましい。
『いいわね! その調子! そういう思考をキープするのよ!』
中途半端に姉の世界が見えてしまうと、どうしても私の世界と比較して、姉にはあって私にはない物を探してしまうのだ。
ない物ねだりで羨ましがっている限り、ノンが好む、負の思考のスパイラルからは抜け出せない。
ノンと交わした契約のみならず、今のままの関係では、私の中に未練と後悔が必ず残る。
心境の変化を察知したノンが言葉を挟む前に、私は彼に宣言した。
「ちょっとずつ、お姉ちゃんに対する気持ちと対応……変えてみる」
ノンの悲鳴が頭の中で響く。
それがいいよ、と昭典は嬉しそうに微笑んだ。




