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慣習

 ホワイトボードに英文を書き連ねる教師の背中を眺めながら、シャープペンシルの先で消しゴムを転がす。


 退屈だ。


 高校の授業は、塾で習った内容の復習にすぎない。

 今、英語の授業で解説されようとしている部分は、すでに理解ができている。


 欠伸を噛み殺して腕時計に目を向けると、待ちに待った授業終わりのチャイムまであと少し。

 英文を書き終えた教師も、教卓の上を片付けながら内容の解説を行っている。

 教師がペンケースのファスナーを閉め終えると同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 全員で礼をして、教師が出ていった教室の中は、すぐさま喧騒に包まれる。

 ルーズリーフをバインダーに綴り、控えめな欠伸を一つして机に突っ伏した。


「明香里ちゃーん!」


 声と共に肩口から侵入してきた二本の腕が、首元に巻き付けられる。


「ねぇ! 今日さ、館田かんださんのよい祭りって知ってた?」

「……苦しい」


 質問に答えず無感動に苦情を伝えると、私の首元から腕を解いた友人、林田玲子は満面の笑みを浮かべて正面に回り込んだ。


「ねぇ! 宵祭り、一緒に行こうよ」


 興奮気味な玲子に、私は視線を泳がせながら、いいよと頷く。

 昨日の夜、苛立つ感情に任せて館田神社の宵祭りに姉とは一緒に行かないと宣言したことが、なぜだかとても後ろめたかった。

 習慣というものは、時として罪悪感を招く原因にもなる。思考の洗脳とでも言うべき、幼い頃から受けた教育の賜物だろうか。


「実は昨日の夜、お姉ちゃんに誘われたんだけど……ウザすぎて喧嘩しちゃって。誰と行こうかなーって悩んでたの」

「ウッソぉ! 明香里ちゃんでも喧嘩するの?」


 驚きの声を上げた玲子の間違った認識に、私は眉をひそめる。


「口喧嘩なんて、そんなのしょっちゅうよ。だから私、最近ずっとイライラしてる」


 事あるごとに、ノンが私の負の感情を助長するような合いの手を入れてくるから、より苛立つ頻度が増しているのかもしれない。


「明香里ちゃん、白髪できるよ?」

「十円ハゲよりマシ!」


 たしかに、と玲子は楽しげに笑う。

 つられて小さく笑みを浮かべると、玲子はスカートのヒダを整えながら私の机に腰を下ろした。


「私は一人っ子だから、お姉さんって存在に憧れるけどなぁ……」

「美化すると憧れるんだよね」


 この友人が、姉という存在にどんな理想と憧れを抱いているのか不思議でならない。

 ただ私より先に生まれたという理由だけで、なにかと目をかけられ、優遇されてきたのが姉という存在。

 優遇されているという証拠に、小学校に入学するまで、私の使っていたオモチャや着ていた服は、流行もなにも関係なく、だいたいが姉の使い古しに着古しだ。

 小学校の入学準備で、私の名前が書かれた真新しいカバンや文房具を手にしたときの嬉しさは、今でも鮮明に覚えている。


「お姉さんと恋バナとかしないの? 相談に乗ってもらったりとかも」


 思い返してみるけれど、思春期に入った中学二年生頃から、姉に相談を持ちかけた記憶が全然ない。

 小学校低学年の頃は、金魚のフンみたいに姉のあとをずっと追いかけていたけれど……三年生か四年生頃から、自分の友達付き合いを優先するようになった。


「最近お姉ちゃんとは、口論しかしてない」

「え~意外! 明香里ちゃん、お姉さん嫌いなの?」


 一人っ子の玲子に、姉と自分を比較して、一方的に生じさせている劣等感が理解できるだろうか。


『想像はできても、トレースしたみたいに完璧な理解は無理よ。解ったフリで共感されても、嬉しくないでしょ?』


 見せかけの共感は、女子同士では当たり前の常識だ。

 そんな現実を今さらノンから突き付けられたって、落ち込みはしても傷付きはしない。


『あら、つまんないの~』


 ノンの空っぽの言葉に、胸中で苦笑する。


 さて、玲子にはなんと説明しようか。


 姉は私と違って、なんでもそつなくこなすタイプの人間だ。

 試しにやってみたことは、可もなく不可もなしというレベルでやってのける器用貧乏。

 だから勉強も、姉が本腰を入れれば、普通科の進学校に楽々と合格していたのではないかという気がする。

 私が人の倍努力しなければ成せない事柄をサラリとやってしまう姉は、誇らしく想う反面疎ましい存在だ。


「お姉ちゃんは……嫌いよりもウザいかな」

「ウザいって、キャラが面倒ってこと?」

「キャラが面倒ってより、存在がウザい」


 何事も意に介さないとでもいうように、飄々としている姉を意識してしまうと、羨ましくてイライラする。


「そうなん? じゃあ、だいぶ嫌いなんだねぇ……お姉ちゃんのこと」


 嫌いとウザいは、類義だけど同義じゃない。


 訂正をしようか迷ったけれど、どうしても解きたい部類の誤解じゃないから、玲子の認識はそのままにしておくことにした。


「それで? 今日、一緒に館田さん行くの?」

「行く!」


 玲子は即答し、楽しそうな笑みを浮かべる。


「あ~、屋台でなに食べようかなぁ~」

「えっ、館田さん行く目的って、お参りじゃなくて屋台がメイン?」


 そうだよ! と嬉しそうにしている玲子の返答に、私は違和感を覚えた。


◆◇◆◇◆◇◆


 館田神社の宵祭りは、私が小学校入学前に比べて屋台が減った。

 金魚すくいの屋台はスーパーボールすくいに置き換わり、手で枠の調整ができるオモチャの指輪やオルゴールを取り扱っていた屋台は姿を消して、今はゲーム機関連や人気のあるキャラクターのバルーン人形が幅を利かせている。

 屋台で取り扱う食べ物も緩やかに様変わりをしているけれど、鯛焼き、たこ焼き、イカ焼き、リンゴ飴、そして綿菓子とでこまんは不動の地位を確立していて健在だ。


 学校に自転車を置いたまま、玲子と二人で館田神社を目指して歩く。

 学校が終わってすぐの時間帯は、まだ人はまばらで、道路の両脇に設置された屋台の番をしている人も暇そうだ。

 ピークはおそらく、十九時や二十時といったファミリータイムの頃だろう。


「あ、たこ焼き買お!」

「え? お参りしてからじゃないと、屋台の物って買っちゃ駄目でしょ」


 神社に祀られている神様へ挨拶をしてからじゃないと、屋台で買ってはいけない。

 ずっとそう躾けられていたから、玲子の発言に抵抗を感じてしまう。


「お参りは、食べてからすればいいじゃん」

「だって、お姉ちゃんが神さん先で買うのあとって言ってたよ」


 私が異を唱えると、玲子は小首を傾げる。


「そういう決まりがあるの?」

「私は知らないけど……お姉ちゃんが言うんだから、あると思う」


 納得できないという表情を浮かべながらも、玲子はたこ焼きの屋台から離れた。

 石造りの鳥居をくぐり、私は手水舎へ向かう。しかし、玲子は神門へ直行した。

 驚いた私は、慌てて玲子を呼び止める。


「ちょっと! 手と口を浄めてからじゃないと、神さんに失礼になるってお姉ちゃんが言ってたよ」


 玲子は嫌そうに眉をひそめた。


「だって、なんか汚いもん。柄杓に口付けてる人がいたら嫌じゃない?」

「ちゃんと、やり方があるから!」


 柄杓を手にし、玲子に実演して見せる。


「まずは柄杓に水を汲んで、左から右の順に手を浄めて、左手に水を溜めて口を浄める。ほら、柄杓には口が付かないでしょ?」

「たしかに、そうだけど……」


 玲子はしぶしぶ柄杓を手にし、冷めた視線を私に向けた。


「これも、明香里ちゃんのお姉ちゃんが言ってたの?」

「うん。そういう作法なんだって」


 嘆息吐いた玲子は、たどたどしく手と口を浄め、冷笑しながら柄杓を戻す。


「さっきから明香里ちゃん、口を開けばお姉ちゃんが言ってた、ばっかりだって気付いてる?」

「……うん」


 それは、自分でも気付いていた。


 だって、仕方ないじゃない。

 こういうことを私に教えてくれたのは、母ではなく姉なのだから。


「明香里ちゃんって、お姉ちゃんに洗脳されてんの?」


 洗脳という言葉に、否定したい気持ちと認めざるを得ない気持ちとがせめぎ合い、胸をざわつかせる。

 あざけるような玲子の表情に腹が立つ。

 けれど険悪な雰囲気になるのが嫌で、私は教室で口にした言葉を繰り返す。


「だから、ウザいって言ってるじゃん」


 口にした途端、胃の奥が重くなってきた。


 姉がウザいと口にして言えば言うほど、姉の存在が黒く塗りつぶされていくようだ。


『それが、キミの望んでいることでしょう?』


 ドクリと、心臓が嫌な音を立てた。


『自分と契約するって、そういうことよ』

「えっ?」


 思わず、声に出した私を玲子が振り返る。


「なに? 明香里ちゃん、どうかした?」

「いや……ちょっと」


 ノンは説明で、私の劣等感やマイナス思考を譲渡したら、対象になった人間に害を与え、幸せの邪魔ができると言っていた。


 邪魔って……具体的に、なにをするの?

 そしたら姉は、どうなるの?


 待てども、ノンは答えない。

 ノンの沈黙が、私の不安を強くする。


 もしかしたら私は、取り返しのつかない契約を安直に結んでしまったかもしれない。


 鉛のように重たくなった足を引きずって神門をくぐり、賽銭箱の前で私を待っている玲子の隣に並ぶ。

 財布から小銭を取り出す間、胸の奥を激しく打ち続ける鼓動のせいで息が苦しい。

 暴れる心臓の上に手を添え、私は決心した。


 希望の大学に合格できますように。それから、ノンと契約の解除ができますように。

 今日は館田神社の神様に、この二つをお願いしよう。


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