灯火の行列
思わず見上げてしまう、梵字と共に三界萬霊位と書かれた大きな位牌。
『夕日』とタイトルを付けられた子供と犬の像を覆い隠してしまうように高くそびえる位牌に、僕は圧迫感を覚えた。
位牌の前に設置された募金箱に、兄貴が小銭を投入する。
僕も倣わないといけないような気がしてズボンのポケットに手を突っ込むが、スマートフォンしか入っていなかった。
会場を見渡して、兄貴は呟く。
「同じ場所でも……青陵祭の花火のときと、全然雰囲気が違う」
港山公園と児童文化センターの間に横たわる道路に目を向ければ、青陵祭と同様に屋台が軒を連ねている。
だけど今日は、華やかな浴衣や甚平を着て無邪気にはしゃぐ老若男女はおらず、ポールに設置されたスピーカーからは読経が流れ、白いテントの中では各宗派の僧侶が待機していた。
粛々(しゅくしゅく)として重たい空気は、この場に集う人間の、死者を悼む気持ちが反映されているのだろうか。
兄貴は石段を登り、眼前に広がる夜の中海を臨む。
中海という湖は海水と淡水が混ざる汽水湖で、日本で五番目に大きな面積を誇っている。
夕日が沈む時間には水面が錦の色に染まり、錦海と呼ばれていた時期もあったらしい。
僕も兄貴に倣って中海に目を向けるが、端が見えない黒の世界は、高い所へ登ったときと同じような足元の不安定さを感じさせた。
このまま一歩を踏み出せば、奈落の底へ落ちるように、どこまでも沈んでしまいそうだ。
中海に出た舟は漆黒の水面に浮かび、一つまた一つと間隔を空けて灯籠を送り出す。
波に運ばれ、ゆったり静かに連なって進む数個の灯籠は、松明の行列に似ている。
灯籠が進む様子を撮りたくて、僕はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、カメラ機能を起動させた。
しかし、画面は真っ暗。
フラッシュをオンにしたけれど、まだ光源が少ないようで画面は黒いままだった。
心許なく波に揺られながら進む灯籠へ目を向けたまま、兄貴もズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
姿勢を低くして構え、兄貴は舟から連なる灯籠にスマートフォンを向けた。
無機質なシャッター音を響かせ、兄貴は刹那を切り抜く。
「暗いから、綺麗には写らないでしょ?」
「見てみろ」
撮った写真を確認した兄貴は、得意げにスマートフォンの画面を見せてくる。
真っ暗な画面に、淡い点の連なりがポツポツと写っているだけだろうと思いながら画面を覗いた僕は、見事に期待を裏切られた。
「なんで綺麗に写ってんの?」
「カメラのシーン設定を夜景にしてみた」
そんな機能があったのか。
「兄貴って、カメラ詳しかったっけ?」
「こないだ花火のときに教えてもらった」
花火といえば、青陵祭。
あのとき兄貴は、浴衣を着た女の人と一緒に歩いていた。
鎌をかけるべく、僕は声の調子を変えずに問う。
「それって、一緒だった女の人に?」
「うっ、うん?」
頷きかけた兄貴は、目を円くする。
僕は優越感を楽しみながら笑みを浮かべた。
「見たよ。青陵祭の花火で、兄貴が浴衣の女の人と一緒に歩いてたの」
口を半開きにしたまま固まる兄貴が面白い。
「あの人、誰? 彼女? 付き合ってんの?」
ここぞとばかりに畳みかけると、兄貴は僕の好奇心に満ちた眼差しから逃れるように背を向けて、呻きながら頭を抱えた。
「見つかってたのか……」
「たまたま目撃した。ね、兄貴! 誰?」
浴衣か甚平を選ぶのに付き合わされたのだから、僕に聞く権利はある。
「あの人は、その……」
ドギマギしつつ、言いよどむ兄貴が面白い。
「ほら! どこで知り合ったの?」
僕が引き下がらないと覚った兄貴は、観念したように、足を放り出して舗装された岸壁に腰を下ろした。
「市立図書館だよ。何回も同じコーナーの本棚で一緒になって……少しずつ話をするようになった」
週に一度は市立図書館に足を運んでいる兄貴が借りて帰ってくる本は、専門書から小説まで幅広い。
そんな兄貴と同じコーナーで何回も遭遇するとは、その女性もずいぶん物好きだ。
「連絡先の交換は、兄貴から?」
兄貴は、わずかに顎を引く。
「マジ? どうやって?」
「花火って花火師さんの最高傑作だよね~って話してたら、じゃあ見にいく? 連絡先交換しよーって」
「なに、その軽さ……」
ちょっとコンビニまで、とか……そんなノリだ。
俺の知る兄貴は、そんな軽いノリで女性と連絡先を交換するような男だったのか。
僕の知らない兄貴が、面白すぎる。
「だから、まだ付き合ってるとかじゃないの!」
「でも、気になってるんでしょ?」
同級生の男子としているような会話を兄貴と交わす日がくるとは、夢にも思わなかった。
「じゃあ兄貴、二択ね。一緒にいて楽しい? 楽しくない?」
スマートフォンを操作しながら、蚊の鳴くような声で兄貴は答える。
「……楽しい」
これは、もう決まりだ。間違いない。
俯く兄貴の肩に手を置き、僕は満面の笑みを浮かべる。
「兄貴。それ、世間一般では……恋してるって言うんだよ」
「……やっぱり、そっかぁ」
自分の感情と向き合うように言葉を紡ぐ兄貴が、僕よりも年下に見えるから不思議だ。
兄貴の色恋に、とても興味が湧いた。
「で、いつ告る?」
兄貴は僕の問いに答えず、灯籠の画像をコメント付きでSNSに投稿する。
「意気地なし」
責める口調の僕に、兄貴は頬杖を突いた。
「だって、事情があるみたいなんだよ。しょうがないじゃん」
「事情? バツイチ子持ちとか?」
「違うよ。妹さんが大学受験で精神面が不安定だって、彼女が心配してんの! だから、俺が今のタイミングで告っても、相手の負担になる……」
長男として生まれた気質のせいか、兄貴は自分の感情を後回しにする悪い癖がある。
「そうやって相手を思い遣るのは兄貴のいいところだけど、俺があなたを支えます! って言葉を待ってるかもよ?」
「お前、他人事だと思って……」
恨めし気な兄貴に、僕は肩を竦ませる。
「弟はね、心配なのです。兄貴が、後悔しない人生を送っていけるのかって」
いつも自分が引くことで事を収めようとする兄貴には、人を好きになることくらい自由に、自分に正直にしてほしい。
『あぁ~いけません。好ましくないですね、その感情は……!』
嘆いているナンの声に、嫌悪が滲み出る。
契約を結ばないと宣言しているのだから、いい加減、スッパリ諦めてほしい。
『お忘れですか? いつぞや、自分は気が長いほうだとお教えしましたよね? 諦めという二文字は、自分の辞書に存在しません!』
黒い中海に目を遣れば、揺れる水面にナンが映る。
陽炎のように水面で揺れるナンは、人差し指を立てた。
『いいですか? 自分は、キミより何百年と人間を見続けています。いつの世も、家族同士や兄弟間で生ずる諍いが争いの火種です。連綿と続く因果関係が、キミ達だけ例外だなんてあり得ませんよ』
たとえそれが世の理で、大半がそうだったとしても、契約は絶対に結ばない。
どれだけ付きまとわれようが、兄貴の幸せを邪魔するような契約に、同意なんてするもんか!
『ほぅ、そうですか……。やはりキミも頑固ですね』
しばらく訪れた沈黙ののち、ナンはキシシと力なく笑う。
『了解しました。その意気やよしです。だったら、せいぜい抗い続けてください。契約を結びたいという言葉を引き出す日まで、自分は根気よくキミに囁き続けますから』
頭の中から、キシシという聞き慣れたナンの笑い声がフェードアウトしていく。
今度ナンが僕の前に現れるのは、また僕が兄貴に対して劣等感を抱き、マイナス思考に陥りかけたときに違いない。
そしてナンは今と同じように、僕の心を揺さぶる言葉を囁いてくるはずだ。
祖父の札打ちの日から、今このときまでのように。
だけど、絶対に一線は越えるもんか。
ナンとの戦いは、僕自身との戦いだ。
それでも……もし、僕がナンの囁きに負けたら、そのとき僕は祖父になる。
マカゲと契約を交わした末路は、あの姿。
あんなふうには、絶対になりたくない。
「ねぇ、兄貴。もし、じいちゃんがさ……札打ちしたのに、あの世で地獄絵図の餓鬼みたいな姿になってたら、どうする?」
声が震えないように気を付けながら、仮定の話として兄貴に話題を持ちかける。
兄貴は立ち上がり、低く唸りながら額を擦って前髪を掻き上げた。
「もし本当に、じいちゃんが餓鬼界に落ちて餓鬼になっているんだとしたら……それはじいちゃんの業だからなぁ」
「じいちゃんの、業?」
「そう。だからそういう場合は、地道に供養を続けていく以外に助ける方法はないって、住職さんが法事のときに法話で話してた」
そうだったのか。寺の住職の話なんて、僕は全然覚えていない。
「供養って、どんな?」
「住職さんが言うには……盂蘭盆会は施餓鬼供養っていうヤツで、餓鬼界に落ちて餓鬼になってしまった人に施してあげる供養。それに併せて、彼岸や年回、祥月命日で回向供養をしてあげて、死んだ人が住む階級を地道にランクアップしてあげるしかないって」
死んでからも、そんなシステムがあったとは。
「なんて言うか……パッて拝んでサッと成仏じゃないんだね」
「そりゃそうさ。そんな簡単に成仏できるのは、物語の中だけだよ」
ならば祖父も、施餓鬼供養と回向供養を繰り返さなければ、餓鬼界から抜け出せないということだ。
なんとも先の長い話で、想像しただけで気が遠くなってくる。
ニンマリと笑みを浮かべた兄貴は、僕の頭に手を置いてワシャワシャと髪を掻き回す。
「も~! 急になんだよ。やめろって!」
「普段は全然興味持たないくせに。場の雰囲気に当てられたか?」
スピリチュアルやカルマ、精神世界という言葉に拒否反応を示してしまうけれど、まだ兄貴の言葉なら聞く耳が持てる。
それに、今日は自分の体から魂が抜け出し、この目で死んだ祖父の姿を見てしまった。
自分が体験してしまったことは、偽れない。
そして今日、あの祖父が僕に謝った。
生前の祖父を知っている人間からしたら、絶対に信じられない行動だ。
それだけ、僕がナンを知っていたことが、祖父にとってはショックだったのだろう。
マカゲと契約を結んでいたかもしれない祖父は、マカゲが好む人種を知っているのだから、無理もない。
「将斗は気付いてないかもだけど、この灯籠流しも立派な供養だよ」
「そっか……そうだよな」
兄貴の言葉を受け、海に向かって連なり漂う灯籠に目を向ける。
灯籠流しは、死者を弔うために行う日本の伝統行事。
弔うとは、冥福を祈るということ。
そして冥福とは、来世での幸福を祈るということだ。
ひとまず僕は、来世における祖父の幸福よりも、祖父が一日でも一年でも早く餓鬼界から脱出できますようにと、読経が流れる港山公園で密かに願った。




