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プロローグ

 菩提寺の開山堂かいさんどうに続く廊下を見上げれば、年代を経た地獄絵図が飾られていた。

 そして今、私の両脇には、獄卒ごくそつと呼ばれる地獄絵図で描かれていたとおりの鬼がいる。

 ボサボサの頭から生える二本の角。太い筆で乱暴に描かれたような眉毛に、ランランと光るギョロリとした目玉。上を向いた鼻。牙を覗かせる大きな口。

 私の肩を掴む獄卒の黒く鋭い爪が、ナイフの切っ先を突き付けられたときのように、病と老いで痩せ細った薄い皮を隔てて骨に当たっている。

 痛みを感じている余裕などない。

 死してなお、生きているときと同じ感触を味わうことになるだなんて、予想だにしていなかった。

 死んだら、それで終わりだと。

 全てが終わりだと思っていた。

 なにもない『無』が、こと切れたあとには待ち受けているのだと。

 だが死してなお、私の人生は続いている。

 やっと、苦しかった人生に終止符が打てたと安堵していたのに……さらなる苦しみが待ち受けているようだ。


 私が息を引き取ると、子供たちは形式どおりの葬式をあげ、形式どおりに寺の坊主は引導を渡し、私として動いていた肉体は荼毘だびにふされて骨は墓に埋められた。私自身はといえば、肉体との繋がりが切れると同時に、導かれるように奈落の底に落ちたのだ。

 何百何千もの刃で一度に切り刻まれたような痛みに襲われ、光さえ呑み込んでしまうような漆黒の闇に落ちていく恐怖。

 舌の根はすくみ、悲鳴さえも出てこない。

 底に体が打ち付けられた私の前には、見下ろすように獄卒が立っていた。

 逃げる場所なんて、どこにもない。逃げようにも、体は動かない。

 動けない私を無理やり立たせ、獄卒は非情にも歩けと告げる。

 逆らう勇気などあるものか。

 灯り一つない暗闇を、漆黒の中をひたすら歩く。

 周囲に人の姿は見えないのに、遠くから聞こえる無数の悲鳴に呻き声。

 いったい、なにが起きているのだろう。

 足を止めて考えたくても、獄卒がそれを許してくれない。

 責め立てられるままに足を動かし、息つく暇さえ与えてくれない。


 苦しい。怖い。助けて!


 無我夢中で足を進める私の前にそびえる岩が、広野の終わりを告げたと思った。

 笑みを浮かべながら見上げれば、どこまでも続く山頂が見えない岩山。

 岩の角は剣のように鋭く、暗闇の中でも鈍い輝きを放っている。


 登れ、と獄卒は命じた。


 無理だ、と答えた直後、大きな鉄棒が脳天から振り下ろされる。

 遠心力で重さを増した鉄棒に頭を打たれた衝撃に意識が飛ぶ。


 あぁ、また死んだ。獄卒に殺された。


 これで本当に終われると思ったのに、意識が戻れば同じ場所に佇んでいる私。

 登れ、と獄卒は告げる。

 頭を横に振ると、再び大きな鉄棒が襲う。

 体は吹っ飛ばされ、剣のように鋭い岩が全身を貫いた。


 あぁ、また死んだ。これで終わりだ。


 やっと終われると思ったのに、意識が戻れば同じ場所に佇んでいる。

 登れ、と獄卒は告げた。

 死んでも蘇る肉体が憎らしい。

 生前は不老不死や不老長寿というものに憧れを抱いた時期もあったけれど、今更ながらそれが地獄だと気付く。

 この二度で、死ぬときの苦痛は同じなのだと理解した。

 鉄棒で何度も殺されて蘇ることを繰り返すのなら、言われるままに動いたほうが数倍マシというものだ。

 獄卒が命じるとおり、この岩山を登るほうがいい。

 覚悟を決めたけれど、登りながら何回も死んだ。


 なにが原因で、私はこんな苦しみを味わわなければならないのだろう。

 いったい、なにがいけなかった?


 山頂から吹きすさぶ風は刃のように鋭く、傷口は熱い。

 岩を踏み締める素足は皮と肉がえぐれて血に染まった。

 休めば鉄棒が襲いくる。

 考える余裕など微塵もない。


 苦しい。休みたい。辛い。怖い。助けて……助けて、助けて!


 やっとの思いで岩山を越え、獄卒に連れてこられたのは広大な部屋。

 生前の行いを裁く十王じゅうおうと呼ばれる裁判官の一人、初七日しょなのかを担当する秦広王しんこうおうといわれる裁判官が亡者に裁きを下す場所だった。


「本当に、あったんだ……」


 地獄の裁判など、悪業を働いてはならないという方便だと思っていた。

 広大な部屋は私と同じ死した人間で溢れ返っている。

 順番は、いつになることか。


 待って待って、ひたすら待って。やっと回ってきた私の番。

 生まれてから死ぬまでの行いをどうやって把握しているのか不思議だったけれど、俱生神ぐしょうしんという存在に善業と悪業を記録され続けていたとは知らなかった。

 俱生神が作成した私の善業と悪業を記した報告書に目を通す秦広王は、ギョロリと円い目をさらに円くして顎髭を撫でた。


『なるほど……そなたも、マカゲにそそのかされたか』


 秦広王の口から出たマカゲという単語に、恐怖で縮こまる体がビクリと揺れる。

 ただそれだけなのに、肩を掴む獄卒の手に力がこもった。

 鎖骨がポキリと、小枝のように折れる音がした。

 けれど今は、そんなことに意識を向けている場合じゃない。


 なぜ秦広王は、マカゲを知っているのだろう。

 報告書に、私とマカゲに関する事柄も詳細に書かれているということか。


 上目遣いに秦広王の様子を窺えば、文字を目で追いながら豊かな顎髭を撫でている。


『そなたがマカゲと契約を交わし、成した所業は親族の殺害か』

「違います!」


 反射的に、私は声を張り上げた。

 獄卒が肩を押さえる力が増したけれど、もう気にしていられない。


「たしかにマカゲと契約は交わしました! だけど……私は、親族の殺害なんかしていません!」


 この手で殺したいと思ったことは、何度もある。

 二十歳そこそこで嫁いだあの日から、朝早くから夜遅くまで毎日こき使われ続け、理不尽な要求も必死にこなして生きてきた。

 言いがかりにも反論せず、自分を殺して従って尽くしてきた。

 なにかと干渉してくる義父母や親族、息子が結婚した高学歴の嫁にまで、奴隷と揶揄しても過言じゃない扱いを受けてきたのだ。

 なんのために生まれてきたのか分からない。


 ただ、尽くして尽くして尽くして尽くして。


 私の人権を迫害し続けたやつらの人生に害を与える契約をマカゲと交わして、いったいどんな罪に問われるというのか。

 私は、なにも悪くない。


「畏れながら大王様。むしろ私は被害者です」


 秦広王は、私を映していた瞳を俱生神の報告書に向ける。


『そなたの義父は、癌の手術に成功するも、退院一日前に心臓発作を起こして急死。義母は服用した薬が気道を塞ぎ、窒息死。義父と義母の兄弟姉妹は、クモ膜下出血や癌を始め、特発性といった原因不明の病にかかり治療のかいなく死亡。ほかにも、関わるある人間が何人も交通事故で死んでいるな』


 読み上げた秦広王は、再び私に目を向けた。


『これが、なにを意味するか解るか?』


 秦広王は、円い目をひんいて声を張り上げた。


『これら全てが、契約を交わしたそなたの願いに乗じてマカゲが成した所業だ!』


 だから、なんだと言うんだ。


 苦しさや辛さから逃げたかった。心の底から願うくらい、許されてもいいじゃないか。


『手を下したのはマカゲでも、元凶となったのは契約を交わして行使したそなた自身。そなたが妬みや嫉みといった負の感情を生じさせず正しく生きていれば、マカゲの囁きにそそのかされて悪業を負わずともすんだのだ』


 だったら、全部マカゲのせいだ。

 悪いのは全部、私をそそのかしたマカゲのほうだ!


『反省の色が、少しも見えんな……』


 溜め息を吐いた秦広王は、俱生神が記した報告書を脇に控えていた補佐官に手渡した。


初江王しょこうおうの、次の裁判に回せ』


 補佐官が目配せすると、両脇を獄卒に掴まれる。

 まだ弁解がしたい。


「ちょっと、ちょっと待って!」

『お待ちなさい』


 足を踏ん張って動こうとしない私を引きずる獄卒に、補佐官が告げた。

 互いに顔を見合わせた獄卒は、頷き合って私から手を離す。

 補佐官は、秦広王を見上げた。


『マカゲに関して、今後の参考になるかもしれません。一応、言い分を聞いてみては?』

『ふむ、それもそうだな。話してみよ』


 与えられた唯一のチャンスは、掴まなければ。

 何十年も前に交わした、マカゲとの会話を思い起こす。

 キシシと不気味に笑いながら、マカゲが告げたあの言葉。


「マカゲは、一度契約したら解約できないと言っていた!」


 私の口元には、自然と笑みが浮かぶ。


「だったら改心したくても、選択の余地がないじゃないですか! 全部、マカゲが悪い。だから、私に罪はない!」


 声を張り上げて必死に訴えると、秦広王ではなく補佐官が静かに口を開く。


『契約解除の方法なら、あります』


 契約解除の方法が……ある?


「う、そ……」


 マカゲは、私に教えてくれなかった。


「そんなの、嘘よ。嘘でしょっ?」

『ここで、私があなたに嘘を伝える意義があるとお思いですか?』


 意義は、ない。

 マカゲの嘘つき。


 どうしてマカゲは、解約方法はないと言い張ったのだろう。


 マカゲと契約を交わし、行使したことが原因で義父母や親族が亡くなったのかもしれないと脳裏をよぎったとき……その方法を知っていたならば、迷わず契約を解除していたのに。


 マカゲの囁きは、悪魔の囁きだ。

 契約行使の代償は、大きすぎる。


『私達、死後の裁判を請け負う側から契約解除の方法をお伝えすることはできません。なにか言えることはと尋ねられれば、ただ一つ』


 言葉を区切り、補佐官は静かに告げる。


『マカゲに目を付けられず、マカゲの囁きに負けないような生き方をすることです』


 それができれば、どんなに幸せだったろう。


 獄卒にズルズルと引きずられ、秦広王と補佐官の前を去った私は、三途の川の前で待ち受ける奪衣爺と奪衣婆の前に連行された。


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