第六話 烏兎匆々
1
黄田くんが現れたその日から、私と唯ちゃんは、凜音ちゃんの考えたパス回しに特化した練習をする事になった。
凜音ちゃんは頭が良くて、こういうことを考えるのがすごく上手い。
唯ちゃんたちとは違う頼もしさが凜音ちゃんにはあって、私にはないそれが少しだけ羨ましかった。
「日に日に成長しているなんて、本当にすごいですね」
感嘆の声をもらす凜音ちゃんに、私と唯ちゃんは照れながら笑う。
「さすが、名コンビ"唯ちぃ"です」
「ちょっと! だからそれ芸人みたいだからヤメテって言ってるじゃない!」
憤慨する唯ちゃんは、ビシッと凜音ちゃんを指さした。
「それに、そう言うなら琴梨と凜音だって名コンビでしょ?! うちのチームの"手足"と"頭脳"なんだからぁっ!」
「琴梨ちゃんと凜音ちゃん……。あ、名コンビ"ことりん"?」
「ちぃちゃん、なにそれ可愛い」
「……止めてください」
嫌そうに顔を歪める凜音ちゃんに、唯ちゃんはニヤッとしながら「でしょ?」と笑った。
「なになに? 何の話?」
そこにぐいっと琴梨ちゃんが入ってきて、私たちの会話に加わろうとする。見れば、茶野先輩が体育館の何処にもいなくて、琴梨ちゃんはかなり暇そうだった。
「先輩がいないからって、こちらに来ないでください。まったく、予選が近いんですから」
「予選?」
キョトンとする唯ちゃんと私は、互いに顔を見合わせた。私たちと同じく琴梨ちゃんと凜音ちゃんも顔を合わせる。
誰かが何かを言う前に、呑気な茶野先輩の声が響いた。
「あっれ〜? どうしたのみんな、休憩〜?」
何故か必要以上にビシッと固まる琴梨ちゃんと凜音ちゃんを不思議に思いながら、二人とは対照的に私と唯ちゃんが喜ぶ。特に唯ちゃんは茶野先輩が大好きだった。
「茶野先輩、予選って何ですか?」
「え、予選? それって全中の予選の事?」
「当然、その全中の予選ですよ。予選まで日にちはないと今……」
茶野先輩は頬をほころばせて、ポン、と軽く手を叩いた。
「そうそう、思い出した。予選が近いから練習試合を組んだんだった〜」
「……っへ?」
真っ先に反応した凜音ちゃんは、ムスッと「そういう事は組む前に事前に私に相談してください!」と怒った。それなのに、茶野先輩はまるで空気中に花を散らすかのように穏やかな微笑みを浮かべる。
「つーか、どこと組んだんですか?」
「琴ちゃんは知ってるのかなぁ? 西大和中学校なんだけど」
「西中? 地元ではけっこー有名ですよね」
「まぁね。バスケにだいぶ力入れてるみたいだし〜」
「えっ、そ、そそそんなところと練習試合をするんですか?!」
私の焦りとは裏腹に、瞳を輝かせるのは琴梨ちゃんと凜音ちゃんで。唯ちゃんは楽しみ半分不安半分というような感じだった。
怖い。
それしか私の中にはなかった。
2
不安で押し潰されそうになる。
茶野先輩が呑気に告げた日程は恐ろしい程すばやく訪れて、私のわき腹を痛ませていた。
「ちぃ〜ちゃ〜んっ!」
そんな事なんて知りもしないで、茶野先輩が東雲中学校の校門前で手を振った。そこには一定の緊張感を持った唯ちゃんと、琴梨ちゃん、もちろん凜音ちゃんもいた。
「なんか珍しいね〜、ちぃちゃんが最後って」
「っご、ご、ごめんなさい……」
恩人とも言える茶野先輩の言葉が痛い。
茶野先輩はポン、と私の肩に手を置いて
「全然平気だよ〜。まだ待ち合わせ時間にはなってないし。だから、ね? だいじょ〜ぶ!」
私の不安を悟ったのか、茶野先輩は眩しい太陽のように笑った。
それでも、彼女の立場が先輩でありカントクだったからか、私の中の不安すべてが拭い去られる事はなかった。
「おっ。全員、揃ってるなー? 偉い偉い、先生感心しちまうぜ」
「あ、小塚先生だ」
「ほんとだ。先生、なんでいるんですか〜?」
笑っていた小塚先生は、カクッと膝を曲げてズッコケる。小塚先生には申し訳ないけれど、みんなと一緒に少しだけ声に出して笑ってしまった。
「ええぇ〜。おいおい茶野、それはないだろー。俺は東雲中女バスの顧問だからな、休日でもお前らの引率をしないといけないワケ。わかるだろ?」
「そうですよ、茶野先輩。こんなのが顧問なのですから、最低でも最年長者の貴方がしっかりとしてもらわないと困ります」
「おいおい、藍沢もひでー事言うな? 藍沢よ、余計なとこは茶野に似なくていーんだぞ? 茶野は後輩に悪影響を与えないよーに」
「えぇ〜?」
「茶野先輩は関係ありません。貴方のダメな人間性のせいです」
不満そうな茶野先輩と小塚先生は、凜音ちゃんに冷たく一瞥されて肩を落とした。
何気ないいつもの日常の一ページ。
「茶番は終わりにしてはやく行こーぜ」
「そうだな。俺は車で先に行ってるから、お前らは後から来いよ?」
「え? なんでですか?」
「先生にはいろいろあんだよ、いろいろな」
「はいはい、わかりました〜。さっさと行ってくださ〜い。みんな、行こ?」
けれども完全には収まりきれない不安と恐怖。
そんな心情のまま、相手校の西大和中学校へとバスで向かう。こんなに不安なのに、何故だろう、腹痛さえなかったのは。
「着いた着いた!」
茶野先輩が真っ先に西大和中学校へと駆ける。私たち一年生はそんな茶野先輩の背中を眺めながら歩いていた。
「おー、お前ら! やっと来たか!」
聞き覚えのある声が聞こえて、茶野先輩の絶叫にも似たような驚き声で慌てて走る。「うげ」琴梨ちゃんが眉をひそめて、凜音ちゃんは頭を抱えた。
「小塚先生!」
唯ちゃんを見て、小塚先生は嬉しそうにヘラッと笑った。「橙野は優しいなぁー」なんて呟いて。
「お前ら俺がいねぇと駄目だもんなー。まぁでも、よくここまで来た。褒めてやるぞー?」
「気持ちが悪いので結構です」
「私もそういうのはいらないかな〜」
「おい! 藍沢と茶野は本当に俺に冷たいな?! 水樹は興味なさそうだし橙野と紺野は見てるだけだけども!」
「ん? ならもう来なくていいんじゃねーの?」
子供のように憤慨する小塚先生は、琴梨ちゃんの一言でさらにぷりぷりと怒った。
「いやいやそれはふざけるな! 俺だってお前らのバスケを見た……って待て待て! 俺を犯罪者を見るような目で見るな!」
「キモいですよ、小塚先生」
「藍沢! 名家のお嬢様がそんな言葉使っちゃいけません!」
「私じゃなくても他の誰かが言いましたよ。ねぇ、唯」
「気持ち悪いです」
「ついに橙野まで! ひっでぇ!」
小塚先生がみんなから集中攻撃を受けている中、私は一人、西大和中学校の校舎を見上げていた。普段からこういう場面では発言しないから、放っておかれていると思ったのに。
「ちぃちゃん?」
「……え?」
きょとんとした表情の唯ちゃんと目が合った。
「どうしたの? なんか今日は元気なくない?」
「……え、そ、そうかな?」
表情を曇らせる唯ちゃんに、私は無理して笑って答える。他のみんなからの視線も集まって、私は思わず俯いた。
「そっかぁ? 紺野はいつもこんなもんだろ」
「……小塚先生はいつも生徒の何を見てるんですか」
凜音ちゃんは小塚先生に向けてため息を吐いて、「ちぃ。無理をしないでくださいね」と微笑んだ。
「そうだな! 無理はキンモツだ!」
「……琴梨、それの意味わかって使ってますか?」
「お、おう!」
凜音ちゃんが頭を抱えようとする前に、遠くから私たちの方に向かって歩いてくる生徒が見えた。
ジャージを着ている彼女たちは、私たちを視界に入れて軽く頭を下げた。
「はじめまして。西大和中学校女子バスケットボール部主将の、種島都樹です」
軽く微笑んで、右手を差し出す向こうの主将さんに
「はじめまして。東雲中学校女子バスケットボール部カントク、茶野灯です」
ニコッと笑った茶野先輩が手を重ねた。
「……カントク?」
訝しげな表情をする種島主将に、茶野先輩は崩さない笑顔で唯ちゃんを前に押し出す。
「……あ、えっと、東雲中学校女バスの主将! 橙乃唯です!」
空気を読んだ唯ちゃんがすぐさま反応したけれど、何故かもう一人の迎えに来てくれていた女の子が眉をひそめた。「こんなに小さい子が東雲の主将なのだ?」と。
「凪沙」
種島主将は女の子を叱咤するように名前を呼んだ。凪沙さんは何故か茶野先輩を睨むように見上げて、ぷいっとそっぽを向き目を合わせようとしなくなった。
「では、体育館へと案内しますね」
種島主将はスッと目を細めて先行する。凪沙さんはそんな種島主将の後をぴったりとくっついたまま離れなかった。
「あの凪沙って奴、茶野先輩の知り合いなんすか?」
体育館へと案内されている途中、ヒソッと小声で尋ねたのは琴梨ちゃんだった。茶野先輩は「えへへ」と笑って、凪沙さんの後頭部を見つめる。
「フルネームは緑川凪沙って言って、実は幼馴染みの従妹なんだよね〜」
茶野先輩が笑いながら口にしたのは、衝撃的な事実だった。
「え、そ、そうなんですか?」
「うん。なんか小学校の時に転校しちゃって、今日すごく久しぶりに再会したって感じかな〜」
「聞こえてるのだ、灯」
凪沙さんが振り向いて、今度は本当に私たちの事を強く睨んだ。
「凪ちゃん、その頃にお母さんが死別しちゃったみたいでさ。その頃からちょっとグレてるの。だから許してくれるかな?」
本当に、本当に一瞬だけ。
私は初めて、茶野先輩が悲しそうに笑うのを見た。