第五話 兎と亀
1
いつもよりも早く目覚まし時計をかけて、その音で飛び起きた。慌ただしくリビングに行くと、お姉ちゃんの紺野こがめが朝食をとっていた。
両親は雄征と透華という素敵な名前で、二人ともデザイナーをしている。けれど、娘の名付けに関してはそのセンスを発揮出来なかったらしい。
私のお姉ちゃんは兎のようにせっかちに、私は亀のようにマイペースに。自分の名前に不満を持つ私たちは、とある童話のように育ってしまった。
「早起きなんて珍しいじゃん、うー」
「朝練があるの。唯ちゃんと一緒に行こうって約束したんだ」
お姉ちゃんは私を"うー"と呼ぶけれど、私は"こがめ"に上手いあだ名を付けることができずに"お姉ちゃん"と呼んでいる。
自分で言うのもあれだけど、面倒くさい姉妹だった。
「あー、バスケね。頑張ってんじゃん」
「お姉ちゃんだって、バレー頑張ってるでしょ?」
「まぁね。ま、最近は七海の影響でバスケも好きだからさ、試合あったら応援行くよ」
南田七海さんはお姉ちゃんの親友の人だ。高校で知り合ったらしいけれど、二人は意気投合するのが早かったみたい。
聞いた話では、私と同い年の妹が七海さんにもいて、東雲中に通っているのだとか。しかも性格が私に似ていて……という、本人たちとは関係のないところで盛り上がるのはある意味すごいと私は思った。
「えー……、来なくていいかな」
「照れなくてもいいじゃん」
「別にそういうわけじゃ……ないかな」
そこまで言って、できるだけご飯をかきこんだ。
「はいはい。うーって照れ隠し下手だね」
そんなことは一切、まったく、断じて、ないと思う。
私は朝食を食べることに専念して、お姉ちゃんからの話は全部無視をした。似ていない姉妹だけれども、嫌じゃない空気がリビングに広がっていく。
たったそれだけで、今日の朝練も楽しみだと思えた。
待ち合わせ場所に急ぐと、既に唯ちゃんが待っていた。
「ごごごごめん! 遅れちゃった!」
「ちぃちゃん! 全然平気だから慌てなくてもいいよ。っていうか、待ち合わせまでまだ十九分あるし? だから顔上げてよ」
下げていた頭を無理矢理上げさせられて、目があった私たちはおかしくなって笑った。私と唯ちゃんも似ていない性格をしているけれど、唯ちゃんの存在は心地よい。そして私は、彼女こそ真の主将だと本気で思っている。
体育館に着くと、茶野先輩が先に準備をしていた。
「せんぱーい!」
唯ちゃんが大きく手を振って、茶野先輩のところに駆け寄っていく。
「唯ちゃーん! ちぃちゃーん!」
茶野先輩も茶野先輩で、唯ちゃんに負けじと手を振った。茶野先輩はボールを出している途中で、その中からボールを二個を取り出し、私たちの方に放った。
「ありがとうございまーす!」
「ありがとうございますっ!」
一回だけ床に打ちつけると、いい感じにボールが返ってきた。跳ね具合が大きくて一瞬驚いてしまったけれど、誰も気づいていないみたいでホッとする。
「そいやー!」
ガァンッ
唯ちゃんの放ったボールはゴールの大きな四角いところに当たって。そして思いきりこっちの方に飛んできた。
「きゃぁー!」
「うぎゃー!」
二人して予想もできない方向へと跳ねるボールから一目散に逃げ出す。私たちの叫び声と茶野先輩の笑い声が体育館に響いた。
「昨日も言ったけど、ちゃんと小さな四角い枠に向かって投げるんだよー!」
と茶野先輩は言うけれど、その場所はちゃんとわかっている。けれど昨日、何度やっても私たちがシュートを入れた回数は合計一回。合計と言ったけど、シュートを決めたのは私だけだ。
「了解でーす!」
ボールを回収して、ドリブルをしながら唯ちゃんが戻ってくる。「じゃ、次はちぃちゃんね!」と、唯ちゃんはニカッと笑った。
「うん」
深呼吸をして、心を落ち着かせてみる。ドキドキとうるさくて、なかなか落ち着いてくれなくて。
緊張する中、それが少しだけ楽しいと思えた私はシュートを放った。
ボールはゴールに吸い寄せられるように弧を描いて。気持ちの良い音をさせて入った。
「っあ!」
「嘘ぉー!」
「すごーい!」
それぞれがそれぞれの反応を示す。ボールが入ったという喜びの余韻に浸るのも束の間、いくつもの拍手が鳴った。見ると、琴梨ちゃんと凜音ちゃんが体育館に入ってくるところだった。
「すごいじゃん、ちぃ!」
「やりましたね」
「う、うん! ありがとう!」
嬉しさのあまり唯ちゃんを見ると、彼女はものすごく微妙な顔をしていた。
「……あ」
「そんな顔するなよ、唯。一緒に喜んであげなって!」
「……う。ちぃちゃん、おめでと」
「唯ちゃん……」
すると、パァンッと叩かれた音が体育館に響いた。それは唯ちゃんが頬を叩く音で、次の瞬間には笑っている。
「私も頑張るからね!」
けれどその日、唯ちゃんは一本も入れることができなかった。私もそれ以降は中々入らず、一時間目の授業は疲労しきった体で教室の椅子に座った。
2
翌日の朝練も、似たような結果を私と唯ちゃんは残していた。初心者の私たちの練習は主に体力作りなのだけれど、少しでも早く他の三人に追いつきたくてシュート練習をする。茶野先輩はそんな私たちの気持ちを汲んで、練習を手伝ってくれていた。
「では、今日はパスの練習をしましょうか」
放課後になれば凜音ちゃんが私たちの指導を買って出てくれていた。琴梨ちゃんは茶野先輩に何度も何度も勝負を挑んで、その度に負けてはアドバイスを貰っている。
茶野先輩は自分で「教える才能がない」と言っているけれど、そんな事はまったくなくて。琴梨ちゃんは悔しそうな表情をしながらも、茶野先輩のアドバイスを急速に取り入れていった。
一方の私たちは、凜音ちゃんの指示で新しい練習をすることになった。今日の体育館の半分は別の部活が使い、男バスは別の体育館を使用している。これで、必要以上に恥ずかしい思いはしないで済んだ。
「パス練って何処でやるのよ」
唯ちゃんが体育館を見回して、凜音ちゃんに尋ねた。
「それはもちろん同じコートですよ。琴梨と茶野先輩の対戦の中で、二人がパスを出し合うんです」
「えぇ?! だ、大丈夫なの……?」
「さぁ? 私は知りませんよ。ですが、フォローはします」
凜音ちゃんが一瞬肩を上げて微笑んだ。凜音ちゃんは時々、薄情なところがある気がする。
「おらぁ!」
琴梨ちゃんがゴールの近くからボールを放つと、スパンっといい音がした。鈍いボールの跳ねる音がして、茶野先輩がそれを拾いに行く。
「っしゃぁー!」
「行きますよ」
琴梨ちゃんの嬉声に負けない、凜とした声が合図を出した。凜音ちゃんは入るタイミングを見計らってたようで、スタスタと半分しか使えない体育館の端から奥へと行ってしまった。
「わっ、待ってよ!」
唯ちゃんに続いて私も走り出す。
ダムダムッとドリブルが茶野先輩によって始まり、私はボールが自分にぶつかりはしないかと恐怖した。
しかし、それは杞憂だった。
二人は経験者だから、間違えて誰かに当てるという事はない。その姿を見て私は気づいた。
ーーバスケは一人じゃなくて、五人でやるという至極当たり前な事に。
「ちぃ?」
「っあ、ご、ごめん!」
二人が私たちを避けながら、反対方向のゴールへと走る。その姿を見送って「私たち、本当に邪魔じゃないかな?」と唯ちゃんが眉を下げた。
「障害物を避けながらドリブルするんですから、これはこれでいい練習になります。大丈夫ですよ」
「……なら、いいけど。どうするの?」
唯ちゃんがボールを床に打ち付けた。跳ね返ったボールを平然とキャッチして、その感触を確かめている。
「私のポジションはPGと言って、別名は司令塔です。これは前に教えましたよね?」
「うん。パスコースみたいなのを決めたりするんでしょ?」
「そんな感じです。ですから、二人はまず私にボールを回してください。もちろん、琴梨と茶野先輩に気を付けてくださいね」
口で言うのはとても簡単だけれど、それはどう考えても難しそうだった。
「唯、いつでもどうぞ」
刹那、バンッとボールをカットする大きな音がした。それは唯ちゃんの持つボールではなくて、琴梨ちゃんと茶野先輩のボールだった。
「ッ!」
私たちを上手く避けながら、二人は反対方向のゴールへと走る。呆然と、私と唯ちゃんはその場に立ち尽くした。
「……何してるんですか。こんなの、試合になればずっとありますよ」
「っえ、ずっと?!」
「…………休憩以外は、ですよ?」
凜音ちゃんは私の誤解を解くように、念の為そう言った。
「わ、わかったわよ。じゃあ、やるからね?」
唯ちゃんが凜音ちゃんに真っ直ぐとボールを放った。ボールはバウンドすることはなく、凜音ちゃんの手元に綺麗に収まる。
「……!」
「で? 次は何をする……って、どうしたの?」
凜音ちゃんは目を見開いて、自分で持っているボールを穴が開く程見つめていた。ゆっくりと顔を上げ、唯ちゃんを見て
「……上手いですね、唯」
そう、彼女を褒めた。
「え? きゅ、急に何よ」
たじたじになりながら、唯ちゃんは頬を朱に染める。凜音ちゃんは手のひらでボールを回して、次に私にパスを回した。
「きゃっ!」
あまりにも急だったせいで叫んでしまったが、何とか受け取る事が出来た。凜音ちゃんが視線を私に送って確かに頷く。
「……ッ!」
凜音ちゃんに回したボールは、唯ちゃんと同じようにバウンドする事はなく再び手中に収まった。凜音ちゃんは唯ちゃんの時と同じように驚いて、私たちを交互に見つめる。
「……もしかしたら二人は、シュートよりもパスの方が才能があるのかもしれませんね」
そう言って凜音ちゃんは、私たちの混乱を無視して自分で納得した。
「へ? そ、それってどういう事よ」
「二人共、正確にパスを出せています。……正直、この正確度が何故シュートに反映されないのか、不思議で仕方ありません」
「……うぅ」
「落ち込まないでください、ちぃ。これは立派な長所ですよ。あれを見てください」
凜音ちゃんの指差した方向にいたのは、高く飛んでシュートを決めた琴梨ちゃんだった。
「琴梨はバカなので、パスコースを考えるのが苦手です。が、その代わりにシュートは高確率で入れます。……と言っても、スリー……長距離からのシュートも苦手ですけどね」
「……ふぅん。じゃぁさ、ちぃちゃん!」
「え?」
唯ちゃんが私の側まで駆け寄って、何やら万歳をしている。どうしたんだろう私が首を傾げると
「『え?』じゃなくてハイタッチ!」
ニカッと唯ちゃんが笑い、少しだけ両手を前に出して、エアハイタッチを見せた。
「はははハイタッチ?! や、やった事ないよ!」
「そんなの全然関係ないわよ。っていうか、ちぃちゃんの初ハイタッチは私じゃダメなの? ならしょうがな……」
「そ、そんな事ない!」
私も唯ちゃんにならって、万歳をする。唯ちゃんは満面の笑みで、私の手を叩くように押した。
パンッ
「っわ!」
ちょっとびっくりする。胸が緊張やら何やらでドキドキしていた。
「……やはり、琴梨が言ってた"唯ちぃ"はあながち間違いでありませんでしたね」
クスッと、歓喜する唯ちゃんと戸惑う私を見て、凜音ちゃんが笑った。
「ちょ、だから何なのよそれ!」
「こちらの話です。"唯ちぃ"はどうかお気になさらずに」
「もー!」
地団駄を踏む唯ちゃんに、「怒らないでください。ほら、気をつけないと琴梨が激突してきますよ?」と、凜音ちゃんは苦笑を見せながらドリブルをしていた琴梨ちゃんを避ける。
「そんなことするかぁー!」
通り過ぎた琴梨ちゃんは叫び声を上げながらシュートを放ち、茶野先輩が見事なブロックをして着地した。
「あははっ、琴ちゃんならやりそ~」
「茶野先輩まで?! しかもブロックされたし! 茶野先輩、もう一回……」
「だーめ。そろそろ休憩しなきゃ」
茶野先輩に止められて、琴梨ちゃんは唸り声を出す。野生動物のような琴梨ちゃんはまだまだ元気そうだった。
「琴梨、喉が渇いたでしょう? 水分補給をしなさい」
「……確かに渇いてるかも。ポカリどこに置いたっけ?」
珍しく素直に凜音ちゃんの言葉を聞いた琴梨ちゃんは、キョロキョロと水を探し始めた。余程喉が渇いていたのだろう。凜音ちゃんは琴梨ちゃんをよく見ている。
「私たちはもう少し練習をしましょう。二人が抜けていてもパス練習に支障はないので……」
凜音ちゃんがボールを唯ちゃんに投げた瞬間、閉ざされていた体育館の扉が開いた。たいして大きな音ではなかったけれど、誰が来たのか気になって視線を移す。
「あっれー……? 女の子がいる」
そこには、恐らく同じクラスの赤星くんよりも背の高い少年が立っていた。一瞬だけ先輩かと思ったけれど、童顔であるのと履こうとしていた体育館履きの学年カラーは私たちと同じだ。
細身の長身で金髪という、何処までも目立った外見の少年は、小首を傾げながらも体育館の中に臆する事なく入ってきた。私は色んな意味でギョッとして、数歩後ずさる。
「ちぃ?」
「り、凜音ちゃん……」
おかしい。
私たちは女バスで、隣は女バレが使っている。少年が入ってくるなんて、口には出せないけれどおかしくてあり得ない。
「あ、すいませーん! 俺も仲間に入れてくださーい!」
「え、えぇ……?!」
だと言うのに、その少年は茶野先輩を見つけた途端、駆け寄りながら大きく笑った。水筒を見つけて水分補給をしている琴梨ちゃんの隣で、茶野先輩は「いいよ~」と軽いノリで承諾する。
「本当ですか? だったらめちゃくちゃ嬉しいな。今日はとってもいい日だよー」
「……茶野先輩、いいんですかー? 黄田のクソ野郎なんか入れて」
「いいのいいの。よくわかんないけど面白そうじゃない?」
「えー……?」
嫌そうに顔を歪ませる琴梨ちゃんに、キラキラの笑顔で喜ぶ黄田くんという名前らしい少年。私はその二人を交互に眺めて、目が合った唯ちゃんと眉を下げた。
「ちょっと、黄田さん。本日の男バスの活動場所は第二体育館です。遅刻した上に間違えてここに来るなんて、本当に信じられない人ですね。常識外れにも程があります」
「あちゃあ、リンリンは手厳しいなー。コトも俺の扱いひっどいしぃー」
「その呼び名は止めてくださいと何度言ったら……!」
怒りで拳を震わせる凜音ちゃんに、ブーイングを止めない琴梨ちゃん。この二人の反応は出会ってまだ日が浅くても何度も見るものだったけれど、今回のは度合いが違っていた。
「ちょっと、二人とも。誰なのよこいつ」
何も言えない私とは違って、少年を指さす唯ちゃんは今日もかっこ良かった。少年も少年で整った顔立ちをしていて、私たちを初めて視界にいれる。
「おぉっ、二人は初めましてだね。俺の名前は黄田宗一郎。コトとリンリンの小学校からのクラスメイトなんだ。よろしくねー」
「二人とも、逃げてください。彼の暴挙は茶野先輩以上ですよ」
「えぇっ、凜ちゃんそれどういう事?!」
抗議する茶野先輩をあしらい、私たちに迫ってくる黄田くんの白シャツの裾を掴んで凜音ちゃんが止める。凜音ちゃんが器用だという事は充分わかっていたけれど、これは誰も真似できなさそうだった。
近くで見ると百八十センチはありそうな黄田くんは、さすがに持てなくて凜音ちゃんが落としたバスケットボールを片手で拾う。それは女の子慣れだけではなく、ボール慣れしている手つきだ。茶野先輩もそれに気づいたのか、凜音ちゃんに絡むのを止めてじっと黄田くんを観察する。
凜音ちゃんの説教をBGMか何かだと思っているのか、ころころ遊ぶ黄田くんを止めたのはたった一回の開扉だった。
「黄田ぁ! お前、やっぱりここにいたのか!」
姿を現したのは、男バスの主将、向坂晴一先輩。茶野先輩と仲が良いのか悪いのかよくわからない関係を築いている先輩だった。
「……げ、ハルちゃん先輩」
「誰がハルちゃん先輩だ、クソ黄田」
「晴ちゃん口悪~。宗ちゃんビビってるよ」
「頼むから茶野は黙っててくれ。こいつが迷惑かけて悪かったな」
凜音ちゃんから黄田くんを回収した向坂先輩は、主に一年生に向かって軽く手を上げた。引きずられていく黄田くんは、手中のバスケットボールをクルッと回して放り投げる。
無造作のようで無駄がないそれは、目で追う隙も与えずにリングをくぐる音をたてた。
「二人とも。神様がもう一度俺らを巡り合わせてくれたら、その時に名前を聞かせてくれると嬉しいな」
完成されたウインクと剥がれない衝撃を残して、黄田くんは向坂先輩とともに去っていく。
私たちはとある童話の亀だ。
赤星くんや黄田くん。琴梨ちゃんや凜音ちゃん、茶野先輩という兎の後を追う亀だ。
追い抜かす事はとても難しい。けれど、兎の隣を歩けるようには強くなりたい。
私は、兎になりたい。
生まれて初めてそう思った。