第三話 唯一無二の少女
1
香ばしいパンにかぶりつくと、お母さんの橙乃花陽に驚かれた。お母さん曰く、「いつもそんな風に食べてたっけ?」らしい。
「お腹がすいてるの」
昨日の部活は激しかった。……ううん、初めての部活で初心者だったからそう感じただけだ。茶野先輩や琴梨や凜音は私たちほどではなかったのだから。
「確か今日は朝練だったわよね」
「うん!」
するとお母さんはクスッと嬉しそうに笑った。
「なんだか楽しそうねぇ、唯」
「そうかな?」
実際、お母さんの言う通り楽しかった。
今までやらなかった事へのチャレンジ精神が、ふつふつと体中から沸き上がってくる。
食器を片づけて歯を磨いた後、私は鞄を持って玄関で意味もなく跳ねた。
「じゃ、いってきまーす!」
「いってらっしゃーい」
ニコニコと手を振り返すお母さんに笑顔を見せながらアパートを出る。こんなに朝早くから家の外に出たのは、今日が初めてだった。
学校が近づくにつれて同中らしき生徒を見かけはじめた頃、前の方を歩く紺色の髪が揺れた。見たことがあるそれに私は迷う事なく声をかける。
「ちぃちゃん!」
「ふ、ふぇ?!」
普通ではないくらい驚いたちぃちゃんに、なんだか変な罪悪感を抱く。ちぃちゃんは話しかけた人物が私だと気づくと、ほっと胸を撫で下ろして微笑んだ。
「おはよう!」
「……お、おはよ」
二人並んで他愛もない話をしながら通学路を歩く。心なしかちぃちゃんは嬉しそうだった。そんなちぃちゃんを見ていると、なんだか私も嬉しいような気持ちになり、くすぐったかった。
「あ、そうだ。そういえばなんだけどさぁ、ちぃちゃんはどうして女バスに入ろうと思ったの?」
「え、わ、私? 私の入部理由なんて、たいしたことないよ」
「でも聞きたいの。だってさ、ちぃちゃんは大事なチームメイトじゃん?」
「橙乃さん……。私はね、茶野先輩に誘われたんだ」
はにかんだちぃちゃんは指先をいじった。
「茶野先輩に?」
「うん。入学式の日、私が一人で教室に残っていたら茶野先輩が来て『女バスに入らない?』って誘ってくれたんだ」
ちぃちゃんの話を聞いて、私はふと入学式の日を思い出した。私が茶野先輩に入部をすると言って、さらに一年の教室にまだ人がいたと言ったのも私だ。
「そっか」
私がそのきっかけになったのかもしれないと思うと、自然と頬がほころんだ。
「橙乃さんは? 橙乃さんはどんな理由で入部したの?」
「私?」
「うん。私、橙乃さんの話も聞きたいな」
今までどちらかと言うと俯きがちだったちぃちゃんは、しっかりとした紺色の瞳で私を捉えた。そんな目で見つめられたら自分の理由がちょっぴり恥ずかしく思える。
「私の方がたいしたことないよ。入学式の日に正門で茶野先輩が部活動勧誘をしていたのを見たってだけ。あんなに熱心に勧誘してたから、この人になら私の中学時代のセイシュンを全部あげてもいいかなーって」
恥ずかしいって思ってしまったから、自分の顔を髪で隠した。ちぃちゃんを盗み見ると、ちぃちゃんは何故か瞳を輝かせて私を見上げている。
「す、すごいね橙乃さん! か、カッコいいね!」
「え? え? カッコいいって何が?!」
「全部だよ!」
「普通に意味わかんないからそれ!」
恥ずかしい。
と同時にくすぐったい。
なんだろう、これ。今までだったら味わえなかった感覚だ。私はちぃちゃんから視線を逸らして、無意味に髪を整えた。
2
ちぃちゃんと一緒に部室に到着すると、琴梨と凜音が早くも部活着に着替えていた。別のロッカーにはこの場にいる誰の物でもない着替えがあるのが、開いている扉から見える。それで茶野先輩も先に来ているのがわかった。
「おはようございます」
「おはよう……」
律儀な凜音に、か細くちぃちゃんが挨拶をする。
「はよ、唯ちぃ」
「おはよう。……ってか、なによ"唯ちぃ"って」
まとめられた名前は芸人のコンビ名みたいで抵抗感があった。私が眉をひそめると
「そのままじゃん?」
ニカッと琴梨は笑って、タオルを肩にかけながら部室を出ていった。凜音も琴梨との間を開けずに出ていくものだから、部室には私とちぃちゃん、つまり唯ちぃ残される。
チラッとちぃちゃんに視線を向けると目が合って、もう一度お互いにはにかんだ。
慌ただしくグラウンドに行くとすぐに準備体操をさせられた。初日に教えてもらったストレッチもやると、朝という時間帯のせいか気分が良くなる。
「よし、まずはグラウンド八周しよっか!」
けれどその気分は一瞬にしてぶち壊された。
いまいち言葉の意味が通じなかったのは、私だけではない。他の三人も私と同じくらいに目を点にさせて、にこやかに微笑む悪魔を見上げていた。
「はい、返事!」
「ちょ、ちょちょちょ! マジで言ってます?!」
「大マジで~す。反論があるならプラス二周ね〜」
「ないっす!」
琴梨はすぐさま背筋を伸ばして誰よりも早くグラウンドを飛び出した。その後を凜音と私が、一瞬遅れてちぃちゃんが、最後に茶野先輩が続く。
チラッと振り返ると、早くも半泣き状態のちぃちゃんの後ろを変わらない笑顔でぴったりとついてくる茶野先輩がいた。
「ちぃちゃん、大丈夫?!」
コクコクと、喋る時に使う体力が惜しいのかちぃちゃんは頷いただけだった。当然グラウンドを一番に一周したのは琴梨で、数秒の差で凜音も二週目に突入する。
ちぃちゃんから視線を外すと、やっぱり既に半分泣いているちぃちゃんの後ろから変わらない笑顔で先輩がついてきていた。
ゾワッと鳥肌が立ったが、そうさせた先輩の一番近くにいるちぃちゃんに比べたらたいした事じゃない。
馴れている琴梨と凜音が徐々に徐々に私たちとの差を詰めてきて、私とちぃちゃんはペース配分さえもまだ出来ていなくて焦った。
「……ちぃちゃん、大丈夫っ?」
スピードを落としてちぃちゃんと並ぶ。ここで解ったけれど、先輩は私たちを追い抜かす気はないらしい。
「一緒に行こっ!」
その瞬間、ちぃちゃんが俯いた。ぽたぽたと水滴がグラウンドの地面に吸い寄せられては消える。「ありがとう」、かすかだったけれど確かにそう聞こえた。
「気にしないでっ!」
私も辛いけれどそれを二人で分かち合えたら。そう強く思ってしまった。……もしかしたら、"唯ちぃ"も案外悪くはないかもしれない。
琴梨と凜音がそろって先輩を抜かした。
だいぶ前から先輩に例の笑顔はないが、後輩に抜かされてもプライドは傷つかないらしい。そして必然的に私たちも二人に抜かされた。
まだ三週を過ぎたばかりだ。あと五週残っている。
私たちは私たちのペースで、そう思うのにちぃちゃんのペースがだんだんと早くなっていった。
「ちょっ、はぁ、ちぃちゃん?!」
私以上に息が乱れているちぃちゃんは、止まる事を知らないかのようだった。こういうのを負けず嫌いとでも言うんだろうか。
「ちぃちゃん、そんな事をしても無駄だよ〜」
走っているのに普段と変わらない声で、茶野先輩はちぃちゃんの背中に言葉を投げた。するとちぃちゃんのペースが元に戻っていく。相変わらず息は途切れ途切れだけれど、なんとかペースを保っていた。
「……ゆっ、はぁ、唯ちゃん!」
「……んっ?!」
初めてちぃちゃんから呼ばれた名前は、必死さを帯びていた。それが何だか"特別"って感じがしなくもない。
「はぁっ……! ……ご、ごめん、ね!」
"先に行こうとして"。隠れた想いを私は聞いた。
「いいよ、はぁ、別に……! はぁっ! 普段見れない、ちぃちゃんの事、見れたから!」
ボッとちぃちゃんの顔が赤くなった。
ちぃちゃんは照れ屋なのか。新たなちぃちゃんの一面を知れて、調子に乗って笑っていたら小石につまずきかけた。それをクスッとちぃちゃんが笑って、同じようにつまずきかける。
それを後ろの茶野先輩が笑っていた。
「お疲れ〜」
疲れを見せない笑顔で茶野先輩は私とちぃちゃんを立ち上がらせた。片腕で二人同時だったから、私もちぃちゃんも驚く。
立っていた琴梨と凜音は、息切れをしつつもそんな私たちを笑えるほどの体力が残っていた。
「じゃ、早く体育館行きましょうよ! そろそろ朝練の時間終わっちゃうって!」
汗を拭った琴梨は、どこにそんな体力が残っていたのか跳ねながら茶野先輩を急かす。けれど茶野先輩は首を縦に振らなかった。
「今日はもう終わりだよ」
「……っえ?」
琴梨の動きが一瞬で止まった。まつげ一本も動いていないように見える。
「だから、もう終わり。みんな~部室に戻るよ~」
「ちょちょちょ、先輩!」
慌てているのは琴梨だけで、私とちぃちゃんは当然ホッとし、凜音も妥当な判断という表情で部室に戻る。
「えぇー!」
琴梨の悲痛な叫び声と共に、朝練終了のチャイムが鳴った。
3
一区切りついた時間と空腹を満たす昼休みは、極上の時だ。私は大きく伸びをしてちぃちゃんの席に向かう。
「ねぇ、ちぃちゃん。お弁当一緒に食べない?」
「えっ、う、うん! 私で良かったら!」
「何その言い方。私にはちぃちゃんしかいないんだからさ、ちぃちゃんじゃなきゃダメなの」
ちぃちゃんの机でお弁当を広げると、ちぃちゃんが恥ずかしそうに小さく頷いた。
「あー! 橙乃の弁当なんかうまそー!」
「へ?」
お弁当から顔を上げると、そこには同じクラスの赤星健一くんがいた。ちぃちゃんの名字が紺野だから、赤星くんとは席が近い。
「えー、そう?」
「そうだって。でもアレかな、他人の弁当はうまそうに見えるアレかも」
「ちょ、それ言った本人が言う?!」
「あはは。ごめんごめーん」
赤星くんは笑いながら私に背を向けて教室から出ていった。
「……なんだったの、今の」
「さ、さぁ?」
お弁当を広げながら首を傾げたちぃちゃんのそれも、赤星くんの言う通り何故かすごく美味しそうに見えた。
(……欲しいかも)
一瞬でもそう思う。
その瞬間、ぎゅるぎゅるとお腹が鳴った。
「ひゃぐ!」
「あ、朝練があったから……お腹がすくよね!」
ちぃちゃんのフォローが恥ずかしかったけれど嬉しかった。
「唯、ちぃ」
「……あ、凜音ちゃん」
体ごと教室の出入り口を向くと、ちぃちゃんの言う通りそこには凜音が立っていた。何故かお弁当らしき物を片手にしている。
「どうしたの?」
「実は、部活の事で今から集まってほしいんです。集まれそうですか?」
「部活? うん、全然大丈夫だよ! ね、ちぃちゃん」
「う、うん!」
「なら良かったです。ついてきてください、琴梨が先に行っているので」
凜音と同じようにお弁当を持って歩く。凜音の後をついていくと、たいした時間がかからない場所で足を止めた。そこは空き教室みたいで、私たちは凜音に通されて中に入った。
「おーっす、唯ちぃ」
真っ先に声をかけた琴梨は、椅子に座って机なしでお昼ごはんを食べていた。
「品がないですよ、琴梨」
「別にいーじゃん。これくらい」
「良くありません」
琴梨と凜音が無言で視線をぶつける。それを止めたのは私たちではなく茶野先輩だった。
「はいは~い、二人共ケンカしないの~。今来た三人は適当に椅子に座って、食べながら話を聞いてくれるかなぁ?」
「はい!」
茶野先輩は「いい返事だねぇ」と、教室の奥に置いてある明らかに邪魔そうなホワイトボードを持ってきた。そしてそのホワイトボードに茶野先輩は私たちの名前を書き入れる。
「茶野先輩、これは?」
私の質問に、茶野先輩は微笑みを浮かべただけで返した。それからさらに名前の隣に何かを書き込み始める。
・小塚礼二:顧問
・茶野灯:監督
・藍沢凜音:部長
・紺野うさぎ:副部長
・橙乃唯:主将
・水樹琴梨:副主将
・銀之丞蛍
ホワイトボードにはそう書いてあった。
「まぁ、こんな感じかなぁ〜」
ペンをキャップに戻して、茶野先輩はホワイトボードを見ながら呟いた。
「……っへ?」
そう声を漏らしたのは私で、琴梨とちぃちゃんは言葉を失っている。凜音は表情をまったく崩さずにそれを見ていた。
「…………ちょ! なんで?! おかしいでしょ! なんであたしが副主将?! ……はぁ?!」
そうやってマシンガンのように抗議する琴梨だったけれど、茶野先輩はニコニコと笑って琴梨をなだめた。それだけじゃ私が納得出来なくて、琴梨と同じように抗議する。
「そうですよ、私が主将って……! っていうか、ぎん……なんとかさんって誰?!」
「唯。一度に言わないとこちらも答えられません」
凜音がやれやれと首を振って先輩の隣に立った。
こちらも、と言うのならこれを考えたのは茶野先輩だけではなく凜音もという事でいいのだろうか。
「先輩が説明しますか?」
「ううん。私、そういうの苦手みたいだからパスね~」
凜音はため息をついて、未だに混乱している私たちを見回した。
「まず、唯が尋ねた彼女の名は"ぎんのじょう ほたる"です」
「それってあの不登校の奴?」
「えぇ」
凜音によると銀之丞さんの不登校の理由はまだわかってないらしい。けれど琴梨にとってそれはどうでもいい事らしく、話を急かした。
「その話ですが……」
「だって唯は初心者だろ! 普通、経験者のあたしか凜音か先輩が……」
「普通は、ねぇ」
茶野先輩が琴梨を遮り、それきり琴梨は口をつぐんだ。
「……私たちのチームは、"普通"とは呼べません」
「そ、それは……ど、どうして?」
おずおずと、黙っていたちぃちゃんが尋ねる。ちぃちゃんの言う通り、普通とは呼べないってどういう意味だろう。
「全員、現在の我々女バスの人数をご存じですか? 今いるメンバーだけを見回してみてもわかると思いますが、明らかに人員不足なんですよ」
生まれて初めて、私は中学生の口から人員不足という単語を聞いた。
「無茶苦茶かもしれませんが、監督がいない今年度は茶野先輩に監督を務めていただきます。すると主将は残りの一年生となりますよね? ですが、一人は現在不登校です。その中から部長を含むすべての役職を決めなくてはなりません」
凜音から出てくる話は、とてもじゃないけれど中学一年生から出てくるものとは思えなかった。
「……要するに消去法って事?」
私が聞くと凜音は顔をしかめる。
「その言い方は好みませんが、それもあるのは事実です」
「じゃあ、どう消去したらあたしが副主将なのさ!」
噛みつくように立ち上がった琴梨を凜音は一瞥して
「……そういうところです」
と、少しだけ悲しそうな瞳を見せた。
「貴方が強いのは私が一番知っています。ですが、貴方は主将に向いていない。それだけです」
「ッ!」
琴梨はショックを隠しきれない表情で、ほぼ力なく椅子に座り込んだ。その表情を見ていたら、ぐさ、と自分自身の胸が痛む。
「……無理だよ」
「……今、なんとおっしゃいましたか?」
「私、初心者だから、無理だよ。琴梨の方がいいに決まってるよ」
「唯……」
琴梨が顔を上げて、だけどまだ悲しそうで。
私がもっと言葉を重ねようとすると
「……唯ちゃん、それ、多分違うよ」
ちぃちゃんがポツリと口を挟んだ。隣に座るちぃちゃんを見ると、ちぃちゃんは相変わらず俯いている。
「ちぃちゃん?」
長いスカートをぎゅっと握りしめたちぃちゃんは、ちぃちゃんらしく床だけを見て口を開いた。
「……初心者とか、そういうのじゃないんだよ。必要なのは……上手く言えないけど、"信頼"なんじゃないかな。私、琴梨ちゃんの事好きだけど、唯ちゃんはこんな私にも気を遣ってくれる。……だから唯ちゃんなんだよ、きっと」
ちぃちゃんにしては珍しい、ううん、初めての長い台詞だった。
琴梨に視線を移すと、琴梨は「やっぱりそうだよなぁ」と苦笑いを浮かべている。琴梨は多分、あの悲しそうな表情の時点で気づいていたんだ。
「まさかちぃに言われるとは思ってなかったけど、それならあたしも理解出来る。唯、さっきはなんかごめん。……あんたがこのチームの主将だよ」
「私が、チームの……」
凜音と茶野先輩を見ると、二人は力強く頷いてくれた。
「……わかりました。こんな私だけど、精一杯頑張ります!」
こんな私にも出来る事。
私にしか出来ない、唯一無二の事。
それをいっぱいいっぱい自分の頭で考えて、思う。
ーーただ単純に、純粋に、やろう、って。