幕間七 仄明かりのホタル
1
今日も体調が悪くて試合会場に行けなかった私は、松岡の話に耳を傾けていた。
「東雲中と盛岡中の試合は、東雲中の勝利に終わりました」
「本当? どうだったの? 詳しく聞かせて」
私が起き上がると、松岡は少し慌てて駆け寄って私を支える。
白い病室が松岡で彩られていくのを感じながら、私は唇を尖らせた。
「これくらい平気だよ」
「ですがお嬢様……!」
「そんなことより、話の続きを聞かせて」
随分わがままなお嬢様だと、自分で自分を卑下した。松岡は困ったように私を見下ろしている。
「私は、松岡の口から、松岡の声で聞きたい」
誰よりも信頼している松岡だからこそ言えた台詞だった。松岡は聡明な瞳で私を見つめた後、文句も言わずに語りだした。
「……開始早々に橙乃様が転倒し、軽傷を負いました」
「えっ? そんな、だ、大丈夫なの?」
「少々動きが鈍りましたが、心配はご無用かと。他の皆様が橙乃様を思い死力を尽くされた結果、勝利を手にされました」
チームメイトでさえ見たことがないのに、そのシーンは簡単に想像ができた。誰もが仲間思いのある優しい人だと、私は直感で知っている。
そんなみんなと、私は。
この夏が無理でも、夏が終わったら。
「早くみんなとバスケがしたいなぁ」
それは私の独り言だった。
「できますよ、いつかきっと」
けれど松岡はそう言って珍しく私の思いを肯定した。
「ふふ、ありがとう。……あれ? ちょっと待って。橙野さんが怪我したってことは、明日の試合は大丈夫なの? 明日って確か、準決勝と決勝戦だったよね? 主将抜きでできるほど人数はいなかったはずだし……」
それに、みんなこの試合で力を使いきっていないか心配だった。そんな私に、松岡は迷うように視線をさ迷わせて答えた。
「何か策があるようには……見えませんでしたね、正直」
松岡の表情は曇っている。
あと二試合。たったの二試合でも、準決勝と決勝戦という大切な試合で。それがまだ残っているのに。
「……こんなのって……」
残酷だよ。
私が声を漏らすと、松岡も同意するように瞳を閉じた。
『えー……っと、あっ。ここだ』
『ホントだ。アンタ、よく覚えてたね』
『ねぇ〜。この病院広いから助かったよ』
握りしめていたシーツを離す。
この声には聞き覚えがあった。
松岡は振り向いて、ノック音と同時に「どうぞ」と許可を出す。スライドした扉の先に立っていたのは、三人のクラスメイトだった。
「みんな、来てくれてありがとう」
バレー部のジャージを着ている三人は、照れ笑いをしながら私に近づいてきた。
四月にプリントを届けてもらってから、こうしてたまにお見舞に来てくれるのがこの仲良し三人組だった。
「んーん。この部屋、涼しいね」
そう言って笑うのは、私、銀之丞蛍の一つ前の出席番号の北浜沙織ちゃん。プリントを持ってきてくれているのはそういう関係だった。
「アンタ、暑いの苦手だもんね」
そんな彼女の無二の親友が、東藤葉月ちゃん。
「だって夏だもん。沙織だけじゃなくて私も嫌になっちゃうな」
同じクラスで同じ部活、そんな関係で仲良くなったらしい西宮千恵ちゃん。
夏休みなのに来てくれるとは思っていなくて、私は心の底から嬉しくなった。
「それ、バレーの練習帰り?」
そしてずっと気になっていた校名が入ったジャージを指さして、私は首を傾げた。
「違う違う、試合だよ」
「試合? バレー部にもこの時期に試合があるんだ」
「そ。アンタってホントにバスケ以外はわかんないんだ」
「うん。松岡から教えてもらったことしかわからないの」
私がこう言うと、「へぇ〜」とみんなが声を漏らす。すると千恵ちゃんが後ろに下がっていた松岡に声をかけた。
「じゃあさ、松岡さん今度バレー部に来てくださいよ。蛍ちゃんにいろいろと教えるために」
「私はかまいませんが、私から伝えるよりもみなさまから伝えた方がよろしいかと。執事よりも友人の方がお嬢様もお喜びになられるでしょう?」
「あぁ、なるほど。それもそうですね〜。蛍ちゃん、なんでも聞いていいよ」
立っていた三人は、置いていたパイプ椅子に座った。私は一瞬遠慮しようと思ったけれど、三人のキラキラした表情が眩しくて口を開いた。
「じゃあ……試合ってなんの大会なの?」
「夏季大会だよ。女バレは人数が多くて試合にはまだまだ出られそうにないけどね」
沙織ちゃんは苦笑して頬をかいた。
「男バスには負けるけど、女バレも強豪だから。今年も結構いいとこまで行くんじゃない?」
「東雲はスポーツならどこも強豪だよ。女バスも今すごいんでしょ? 急に決まったことらしいけど、明日応援団を会場に送るんだって。そのおかげで男バスの応援団は縮小するとかなんとか」
「そうなの? うー……。ちゃんと諦めたつもりなのに、ますます行きたくなってきたよ」
私ははぁとため息を吐いた。
中学だからテレビ中継なんてされるはずもない。だから明日は松岡に頼んでスマートフォンで撮影された映像をリアルタイムで見ることになっていた。
それでも、生で見るのとは何もかもが違う。
松岡の高校時代の試合でバスケに興味を持ったけれど、私は本物を知らない。
知らないまま、ホタルなのに飛べないまま囚われて衰弱していく。
「……っ」
「お嬢様?!」
目頭から溢れた温かい雫を私は拭った。
「……ごめんね、大丈夫だから」
生で見たこともないくせに、ボールに触ったこともないくせに、それでも私はこの窮地に駆けつけてチームメイトを助けたいと思った。
ここで願うままは嫌。
同じコートに立って戦いたい。
大丈夫だよって、ヒーローみたいに言って救いたい。
それでもここは、暗闇だった。
「……強がらないでください、お嬢様」
松岡はいつの間にか反対側に回って、私の止まらない涙を拭った。
「どうか、すべてを私に任せてください」
「……え?」
視線を松岡に向ける。
松岡は
「それが私の、"存在理由"ですから」
そう言って大好きな優しい微笑みを見せてくれた。
「……うん。みんな、急にごめんね」
頷いた私は三人に謝る。
おろおろとうろたえていた三人は首を横に振って、沙織ちゃんが私の手を握ると葉月ちゃんも千恵ちゃんも重ねるように握ってくれた。
「大丈夫だよ蛍ちゃん。ちょっと遅れちゃったけど、私たち三人で短冊に書くよ。蛍ちゃんが良くなりますようにって、絶対に」
「アンタのこと、よくわかんないけどさ。アタシは絶対に諦めちゃダメだと思う」
「二人の言うとおりだよ。願うだけじゃ叶わないけど、蛍ちゃんは努力の子だもん。奇跡は絶対に起こるよ」
三人は"絶対"を強調して私に伝えてくれた。
ここは暗闇だ。
そう思った私の世界を吹き飛ばしてくれる。
窓の外は枯れ木で埋め尽くされていたはずなのに、いつの間にか花が咲き、新緑が生い茂っていた。
「……うん、うん……っ」
拭った涙は止まりそうになかった。
助けたいって思ったのは私なのに、一番助けられているのは私だった。
2
コンコンと、今日もノック音がする。
何度も聞いたからちゃんとわかる。
「どうぞ」
「失礼します、お嬢様」
松岡は珍しくそう言って、私の側についた。
あと少しで準決勝が始まってしまう。
「松岡、どうしてまだここにいるの? ビデオ撮影は……」
「しません」
「えっ?」
「言ったでしょう? お嬢様。『すべてを私に任せてください』、と」
松岡はたまに見せる怪しい微笑みで、壁に立てかけてあった物を手にとった。それはまったく使われていないせいで、ほこりは被っていないもののずっとコンパクトに折りたたまれてある。
「まさか……」
「えぇ。この私がお嬢様をお連れいたしましょう」
毎日綺麗に掃除されている車イスを開いて、松岡は私に手を差し伸べた。
「失礼します」
「……っ! うん!」
松岡に抱き抱えられ、車イスに座る。
そしてここ半年で初めて私の世界が動き出した。
熱い外に出た刹那、松岡が手配した冷房が効いた車に乗り込む。
着いた会場は思っていた以上に熱気で満ち溢れていた。
「お嬢様、ドリンクとタオルをお持ちください」
「わかった」
「それと、くれぐれも我慢はなさらないように。お嬢様がお倒れになられたら私の首が飛びますので」
松岡は私のことをよくわかっているからか「私がお側にいないと嫌でしょう?」と笑顔で釘を刺した。
「うっ……わかった」
「はい」
ニコニコと笑って、松岡は観戦席まで私を移動させる。その間反対側に見えたのは東雲の応援団だった。
「あっちじゃないの?」
「応援団の隣だとうるさいでしょう。お嬢様に酸欠になられても困りますからね」
「そっか」
私は二階からコートを見下ろして息を吸い込む。
「ねぇ松岡」
「はい?」
「私ね、今とっても幸せだよ」
振り返ると、松岡が青い目をまんまるにさせて驚いていた。
「ふふっ、変な顔」
「おっ、お嬢様……!」
松岡はあわあわと呆けた顔からいつもの引き締まった顔に戻す。
「もちろん、私も今が一番幸せです」
なのにすぐに幸せそうに笑うのだから、私は松岡が大好きだった。
『これより準決勝、東雲中学校対、滝井中学校の試合を始めます』
アナウンスが入る。
私と松岡はコートに視線を戻してその時を待った。




