第八話 小鳥の巣
1
「ありがとうございました!」
頭を下げつつ、あたしはスコアボードを見つめる。
東雲40 ― 西大和39
結果はこうなっていた。
滴り落ちる汗を拭いながら、凪沙が恨めしそうに差し出す手を右手で握る。正直言うと、気を抜けば今にも倒れそうだった。
「琴梨!」
「っ、凜音」
挨拶が終わった途端、凜音があたしを支える。振り払おうと思ったが、そんなことさえ出来ない程あたしは疲れていた。
「よくやりました。……ありがとうございます」
「何言ってんの、当たり前のことをしただけじゃん」
「そうは言いますが」
「それに、"作戦通り"だったでしょ?」
凜音は申し訳なさそうに口をつぐんだ。
今日の試合は
茶野先輩だけがゴールを守り
唯とちぃがコート中を走り回り
あたしだけがシュートを決めて
凜音が全員のミスをカバーしていた。
ギリギリだった事はあたしも承知だった。
「あたしよりも問題なのが、あの二人でしょ」
凜音があたしの視線を辿る。
視線の先には、先輩に支えられた唯とちぃがいた。二人とも、立っていられない程疲弊していた。
練習と言えども初めての試合だった。しかもそれはフル出場で走り回るという内容で。
茶野先輩はまだ立っていたが、笑顔とは裏腹な荒い息が不自然だった。
凜音は音もなく唇を噛み締める。
試合には勝ったが、それを喜ぶ体力があたしたちにはなかった。こんなこともあるのか、信じられないがあたしは実感してしまった。
凪沙が、なんとも言えない悔しげな表情であたしたちを見ていた。
「それが勝者の顔なのだ?」
「あ、はは……」
「……次は勝つのだ」
凪沙はあたしを睨んで吐き捨てて、種島サンの元へと駆け寄った。
2
「……ただいま」
ヨロヨロと靴を脱いで、あたしは玄関に倒れる。
母さんの秋穂が慌てて出てきて、「どうしたの?!」と焦った声を出した。
「疲れた」
あたしはいつもの調子を出せないまま言う。
それを心配した母さんが、階段から上に向かって声を上げた。
「琴季ー! 琴羽ー! 琴梨を助けてー!」
それを母親が言うか。
あたしは横たわったまま、二人とも高校生である兄が降りて来るのを待った。しばらくして足音が聞こえる。
「助けてって言うからなんだと思えば。琴梨、こんなとこで寝るなバァカ」
長男で高三の琴季が、暴言を吐きながら降りてきた。
「バカじゃねぇし、アホ」
あたしもつい同じ口調で返す。あたしの口調は全部琴季譲りだ。
「アホっつったら禿げるぞボケぇ」
あたしの頭を足で踏みつける琴季に、母さんが悲鳴を上げる。ふざけんなバカ兄貴。あと母さんはうるさいって。
「琴季! 琴梨をいじめないでぇー!」
「わかってて呼んだんだろ、秋穂」
琴季はいつも母さんを呼び捨てで呼ぶ。恋人か。
「……ねぇ。玄関で茶番しないでくれる?」
迷惑そうな表情で降りてきたのは、次男の琴羽だった。琴羽は高一で、水樹家唯一のインテリバカだ。というのは、琴羽以外は何かしらのスポーツをしているから。
「それに、母さん。そろそろ父さんが帰ってくるんじゃない?」
「あ、そうね! 琴季、琴羽。二人で協力して琴梨を部屋に連れて行ってあげて」
あからさまにブーイングしてくる兄貴たちだったが、なんだかんだであたしを担いでくれる。なんだかんだで、あたしたちは仲がいいんだ。なんだかんだで。
翌日。久しぶりの筋肉痛があたしを襲った。
部室で眉をしかめて肩を動かしていると、凜音が入ってきて大きな紙をホワイトボードに貼った。
「凜音? 何それ」
「昨日の練習試合の結果を考慮して、新たに作ったメニュー表です」
淡々と答える凜音の隣に立って、そのメニュー表とやらを眺めると
「うげ」
その通常ではない量に、あたしはさらに眉をしかめた。けれどよく見ると一人一人が違ったメニューで、結構単純に作られていた。
「あんた、これを一晩で考えたの?」
「えぇ。そうですが?」
「マジかよ!」
しげしげとメニュー表を眺めていると、あたしのメニューだけがおかしな事になっているのに気づいた。
「……なんであたしだけ、スリーポイント"百本も"しなきゃいけないの」
「"百本も"って、少ない方だと思いますけどね。琴梨はいつもレイアップシュート(成功率が高い、基本のシュート)しかしていなかったので、得点が伸びなかったのを忘れたんですか?」
「傷口に塩を塗り込むな! 凜音のバカ!」
そんなことを言われたって、あたしは"レイアップシュートしかできない"のだから仕方ない。けれど、あたしの場合はそれこそ百発百中だ。それでも得点が伸びないのは、点数が低いからで。
「一点に笑う者は、一点に泣きますよ」
「うぐ」
「琴梨、我慢です。チームの為にも、自分の為にも、今こそプレイスタイルを変えるべきなんですよ」
凜音の言葉が、あたしの中に染み込んだ。
ミニバスの頃は今までのプレイスタイルで良かった。けれど、これからは違う。
試合になれば中学三年生もいるし、このまま高校に入れば、あたしは一番弱い選手になるだろう。
凜音の言う通り、ここは我慢の時期なのだ。
「……わかったよ、凜音」
「目標は高く、です。そうですね、"どんなシュートも百発百中"にしましょう」
「あたしを殺す気かっ!」
しれっと言った凜音につっこむと、「とんでもない」と真顔で返された。このポーカーフェイスめ。
「冗談ではなくて、本気です。この短期間で唯とちぃのシュート率を上げるよりも、琴梨のシュート率を上げる方が効率がいいんですよ。その代わり二人には体力の向上とドリブル、パスの上達を優先させます」
確かに、唯ちぃのシュートの得点率はひどかった。
あたしは改めて、色々考えている凜音のことを凄いと思った。凜音は短所と言うけれど、それは立派な凜音の武器だった。
ガンッ
ガンッ
ガンッ
周りからの視線が辛い。
唯とちぃは、あたしの命中率の低さに呆気にとられていた。茶野先輩は、心なしか笑っている気がする。凜音は多分、怒るっていうより焦っていた。
「凜音がそんな顔するなってのー」
あたしが唇を尖らすと、凜音は謝った。謝られると余計腹立つ。あたしはもう一度、離れた場所からシュートを放った。
「……あ」
外れる。
ガンッ
ボールの軌道を見ただけでわかった。外れる、と。
あたしは沈黙していたが、男バスのドリブルの音が体育館に響いていた。茶野先輩は男バスに混じって、シュートされているボールを片っ端から叩き落としている。
リバウンド(シュートされたボールが外れた時、掴み取って入れること)はあてにならない。それは最早わかっているのに、あたしは無力だった。
「唯、ちぃ。自分たちの事に集中してください」
唯とちぃはただひたすらドリブルとパスを練習していた。ノルマを達成すると、茶野先輩と同じで男子に混じって試合をする。
相手が男子で、しかも強豪だから本番では有利なのだと凜音は言った。
「……らしくないですよ、琴梨」
「何が」
「琴梨が落ち込むのは似合いません」
似合うとか、似合わないとか、勝手に決めんなよ。
あたしの勝手じゃん。止めろよ、そういうの。
「凜音に何がわかるのさ」
つい、冷たく凜音にあたってしまった。
しまったと思ってももう遅い。
「わかるも何も!」
急に凜音が叫んだ。心臓が飛び出そうな程驚いて、あたしは思わず振り返る。
「……わかるも何も、小学生の頃、何も出来ずに落ち込んでいた私に貴方がそう言ったんでしょう」
泣いた凜音は、「覚えてませんか」と切なそうに声を振り絞った。
「…………覚えて、る」
あたしは俯いた。
器用貧乏のあたしと違って、凜音は人一倍努力しないと何もできない不器用な奴だった。逆にあたしは人との付き合いが上手くいかなくて、上部だけでもすぐに打ち解けられる凜音が羨ましかったのだけど。
そんな凜音は泣いていた。
どうして自分だけ上手くできないのかと。
どうしてあたしは上手くできるのかと。
そんな凜音にあたしは言ったんだ。
「『らしくねーじゃん? 凜音が落ち込んでるなんて』」
小学生の頃から琴季の口の悪さの影響を受けていたあたしは、ちょっときつめに言ってしまったかもしれない。
それでも当時の凜音は何かが吹っ切れたらしく、その後すっごい成長をあたしに見せた。だから今の凜音がいるんだ。
嬉しそうに笑う凜音は、時を越えて同じ事をあたしに言ったのだ。
「……だね。ごめん。ありがと、凜音」
「いいえ。こちらこそ、あの時はありがとうございました。私は、本当にあの言葉が嬉しくて嬉しくて仕方がなかったんですよ?」
照れ隠しなのか、そっぽを向く凜音は。
今よりもちょっと幼く見えて、それが当時の凜音だと気づくのにそう時間はかからなかった。
あたしは精一杯笑って、凜音から的確に回されたボールを受け止める。
そして、シュートを放った。
放たれたシュートは綺麗な弧を描いて、あたしも、凜音も確信する。
――入る。
スパァンッ
ボールは、ネットにかすりもせずにゴールに入った。
「っあ……!」
「おおっ、入った入った!」
側にいた凜音よりも喝采の拍手を送ったのは男バスの奴だった。その男子の隣には黄田もいて、同じく拍手をしながら笑っている。それがなんかめちゃくちゃ腹たった。
「黄田のクソ野郎! バカにしてんのかぶん殴るぞ!」
「なんで俺だけなんだよー、コト。照れ隠し?」
「違う!」
敵意むき出しにして叫ぶと、黄田の隣にいた男子が声に出して笑った。
「赤星くん、元気だね。そんなんじゃコトにぶん殴られるよ?」
「お前だけだよ殴んのは!!」
猛ダッシュでネットまで駆け寄ると、檻の中の動物を見るかのような目で「怖い怖い」と黄田はあたしを見下ろした。
「黄田、赤星。さっさと練習に戻れ」
「あ、拓磨さん。ごめんな、この子すっごく頑張ってたからさ」
赤星と呼ばれた奴は、黄田を引っ張るようにして練習に戻る。その様子を同じく男バス側にいた茶野先輩は「拓ちゃんおっとな〜」と煽った。
「灯ぃ!」
煽られて怒鳴った奴は、確か茶野先輩がよく気にかけていた緑川だった気がする。唯とちぃがよく話しているのは黄田と赤星で、なんというか……
「……めっちゃ馴染んでる!?」
「ですね」
凜音が呆れたような声であたしに同意した。
「おい、お前」
ネットの奥から近づいてきた青髪に、あたしは眉をひそめた。初対面でお前呼びなんて失礼な奴だ。
「さっきからうるせぇ。黙れ」
「はぁ?!」
カッと体が一気に熱くなった。
胸の奥からわき上がる怒りを押さえつけることなんてできない。
「ああああ! 直也! 何言ってんだよー!」
ネットに指を絡めてあたしを見下ろしていた奴は、慌てて駆けつけた赤星に羽交い締めされる。「お前もうるせぇ赤星!」と奴はあたし以上に暴れ始めた。
「あぁもう、お前ら一年なんなんだよ! 次から次へと騒ぎやがって……! 赤星、青原離すんじゃねぇぞ」
「うぃっす、向坂主将!」
終いには向坂サンが出てきて、あたし含む黄田と青原は怒られた。
3
あの後は本当によく入った。
自分が自分じゃないような感覚。あたしはそれを、この身に刻むように覚えようとした。
けどまぁ、上手くいかない。
別に今はいい。
だって、始めたばかりなんだしな。それでも全中の予選が始まったら普通にピンチだ。
あたしはそれを理解しないといけない。
なんて事を考えながら、あたしはギターを弾いていた。ギターの名は"エンペラー"。琴季のお下がりだ。
「〜♪」
ガチャッと扉が開かれる。
「琴梨。てめぇギター弾いてんのか」
「バカ兄貴! 自分のだったギターの音色くらい覚えとけ!」
「いやそこかよ。別にいいけど」
琴季は後頭部を掻いて、あたしの部屋に入ってきた。
「……な、なんだよ」
「お前さぁ、ちゃんとバスケできてんの?」
「できてるし!」
「あっそ」
琴季があたしのベッドに寝そべった。なんなんだ、今日の琴季は。
「頑張れよ、マジで」
「え?」
琴季の台詞にあたしは耳を疑った。
「色々噂で聞いた。お前ら六人しかいねぇんだろ?」
実際は五人しかいないんだけど、あたしは黙る。
「孝介も心配してたぜ」
「父さんだろ、孝介じゃなくて」
琴季は「いーんだよ細かいことは」と、あたしの部屋から出ていった。なんだかんだで優しいから、あたしは琴季も琴羽も嫌いじゃない。
「……ありがと」
負けられないって、本気で思った。
まずは自分に勝たなきゃいけないとも思った。