8
茫洋とした心のまま、故郷の街に帰った。
無為の日々を過ごしてきた俺を、領民も父も、誉と、誇りと言って温かく迎え入れてくれる。
これでいい。
ここでこの人たちの役に立ち、街を守って一生を終えられたらそれでいいじゃないか。
しかし、身体の中心に大きな穴を穿たれたように、力が入らない。
誰と戦っても負けはしないが、何の高揚もなかった。…このままここで朽ちていくのか。
瞼を閉じるといつも、無感動なあの眼が浮かんでくる。
――――天使族
いつの間にか教会の中に立っていた。
薄暗い壁の隅に掛けられた聖教画の中で、天使族の白い羽根がぼんやりと浮き出ている。
荘厳だったが、人間を愛しげに見守る天使族たちに、強烈な違和感を覚えた。
「これが天使族であるものか」
「…完全に間違っていますね」
…?
いつの間にか隣に小さな少女が立っていた。
暗くて分かりづらいが黒に近い紺の髪を伸ばしており、質素な服を覆うほど長い。教会の孤児か見習いだろう。小奇麗な顔をしている。大きな眼には子供らしからぬ静謐があった。
少女の気配に気がつかなかったことに驚きはしたが、なぜか警戒心は生まれなかった。
…衰えたのだろうか。
それよりも少女の言葉が気にかかった。聖画を否定するなどおよそ教会の子供らしくない。
「何を知っている」
少女は首をかしげる。
「え?」
「教会の子供だな。先ほどの言葉は?――何を知っている」
少女はためらったようだった。
「あの、天使族はもう少し………勇壮な気がして」
この娘、もしやわずかなりとも天使族のことを知っているのか?
「何故だ?」
「…勝手にそう想像していました」
少女の表情からは真意が読めなかった。
「…天使族を、見たことがある」
そう切り出すと、少女は多少ながら興味を示した。
「どこでご覧になったんですか?」
あれはどこだったのか。壁のように切り立った山肌、山頂の雪、…どこかの国境沿いだったか。
「遠く、…遠い国の山の上で」
「旅をしておられたんですか?」
「…ああ」
「ご領主のご子息の、ランドラム様ですか?」
「…ああ」
これまで会話をすることさえも憂鬱に感じていたが、不思議と今は苦痛でなかった。
「また旅にでられるんですか?」
少女はなんのためらいもなくそう尋ねてきた。
「いや…もう、旅には出ない」
旅は彼等を見たときに終わった。
絵の中の天使族をもう一度見る。
俺が見た天使族はこのようなものではなかった。
一振りの剣だった。鋭く尖っていて、凍るように冷たかった。
いつまでもぼやけることのない記憶に浸かっていると、遠くより声が聞こえて少女は走り去っていった。
絵に覚えた違和感が、ふと口からあふれ出る。
「やつらは神の使いなどではない」
クスクスクス…
笑い声が聞こえたような気がしてふり返るが、もう少女の姿はなかった。
俺は、本当にあの少女が存在していたのか、確信が持てなくなった。
記憶の中で生きてきた。
あの人が生きていた世界。
覚えている限りのあの人との一日を頭の中で繰り返した。
何度も何度も何度も……あの人の腕の中で目覚めて、あの人の手からものを食べ、あの人にしがみついて眠った日々。
ただ少しずつ記憶が変容しているような気もしている。あの人を犯したのは現実だったか…?
あの人と暮らしたこの神殿は、全てそのままに置いているのに、もはや何もかもが違っている。
あの人がいない。
ここにはもう澱みしかなかった。
でもまだ何かあるはずだ、きっとまだどこかにあの人がいる。
面影を求めて神殿を這うと、落ちていた紫紺の髪の毛を見つけた。
泣いたのは久しぶりだった。
記憶の中だけは幸せだ。
いつもあの人が微笑んでいる。
僕はただ泣いているだけでよかった。
白い胸元に顔を埋めて、子供のように恐かったと言えば、あの人は微笑んでキスをして慰めてくれる。
クロティラ、クロティラ、クロティラ、クロティラ。
助けて。
死にたい。
でもその前にもう一度あなたに逢いたい。