4 クロティラ
ルイトベルトさんが六歳になり、私の膝上ぐらいしかなかった身長も伸びて、羽根も健やかに広がりはじめています。
最近の悩みは、ルイトベルトさんがかわいいことです。
鳥と戯れたり、花をつんで来てくれたり、まだ甘えて膝の上で眠ったり。
私の三番目の兄、ピンクがかった金髪がチャームポイントのイコ兄さんとはじめて顔を合わせたときも素晴らしくかわいかったです。
恥ずかしがって私の後ろに隠れて、こっそり私の足の後ろから顔をのぞかせてイコ兄さんを見ているのです。
私はその愛らしさに胸が苦しくなりました。
しかしそんなルイトベルトさんを見てイコ兄さんは、
「あ?かわいくねぇガキ」
なんておっしゃるので、人見知りをしているルイトベルトさんの猛烈なかわいさがわからないなんて、さすが血も涙もない天使族だと感心しました。
「イコ兄さん。眼が節穴ですね」
「ちげぇよ」
今日はいつものように、朝起きて、治癒をかけて、果物を採る時までは一緒にいたのですが、あれー、ルイトベルトさん?
最近では自分でだいぶ高くまで飛ぶようになったので、ときどき見失ってしまいます。
「ルイトベルトさん?」
と言ってもあまり心配はしていません。
ルイトベルトさんは無邪気なようで頭のいい子ですから、不用意に危険に近寄ったり、好奇心で我を忘れたりしないのです。
こういうときはたいてい、こっそり探してきた綺麗な花や石を私にプレゼントしてくれて…出来すぎの六歳に、将来がちょっと不安です。
「クロティラ!」
満面の笑みで空から降りてきたルイベルトさんは、足取りも軽く私の目の前まで走ってやってきて、両手で小さな紫の花を差し出して、にっこり。
「クロティラ、受け取ってくれる?」
おっと。鼻血が出てないか、鼻の下に手をあてて確認しました。ぬるっとしないのでセーフです。
「ありがとう。綺麗な花ね」
「クロティラの髪に色が似てるから、この花が一番好き」
ちょっとすごすぎる。私が仕込んだと思われたらどうしよう。
手をつないで神殿に戻る途中で、ルイトベルトさんの身体が急に強張りました。
「…どうしました?」
ルイトベルトさんは答えずに森の一点を見ています。
同じ方向を見て、ふいに、ぞっとしました。
ガサリ
森の中から私たちの庭へ、なにか、黒いものがやって来ます。
それははじめ獣のように四つん這いでしたが、私たちを見るとすっと立ち上がりました。
そうするとただの手足の長い人間にも見えますが、ひどい血臭がします。
なにこれ。
黒いものの全身は、何かと戦ったように、あちこちが引き裂かれて血がこびりついて…そして片手に、天使族の羽根を握っています。
羽根の根本からは筋がぶら下がって、まだ血が滴っていました。
それは、能面のような顔を歪めて、くくっと哂いました。…その口もとが血で汚れていて、なにか食べてきたような…。
ルイトベルトさんを抱き上げ、全力で空に飛び上がります。
どんな存在かわからないけれど、あれは絶対によくない。
「クロティラ、追ってくる」
後ろを見ると、それは踏み場もない宙を四足で駆けています、私よりも速い。
そう、イコ兄さんに聞きました。
この世界で羽根を持たずに空を駆け上がるのは、魔族だけです。
でも魔族は、天使族を食べたりしないはず…あの魔族は異常です。
必死で羽ばたいても、魔族は息遣いさえ聞こえるほどに近づいてきました。
「触るな」
ルイトベルトさんが水と、風と、雷をありったけ集めて、空中で大きな爆発を引き起こしました。爆風が羽根にあたります。
魔族は壁を張ったようでしたが、透明なそれは耐えきれずに砕けて、受けとめた魔族の片腕が弾け飛びます。
でも魔族は痛みを感じないのか、口から涎を垂らして変わらない速さで迫ってきています。
ルイトベルトさんが二度目に放った雷は魔族にかわされ、三度目の水は腕の一振りでかき消されました。
ルイトベルトさんの息が上がっているのを知って、決断しました。
「いい?一人で飛んで逃げなさい。ふりむいては駄目よ」
「絶対に嫌だ!!」
この子が声を荒げるのをはじめて聞きました。
「絶対に嫌だ!一人で残されるくらいなら、死んだ方がいい!!クロティラ、ここに置いていって!」
それは絶対にだめ。
最後のルイトベルトさんの魔法は、弾かれもせず魔族の顔を濡らしただけでした。
けれど上へ上へと飛ぶうちに、私たちは別の柱の頂上に近づいています。
あそこなら森がある。身を隠してやり過ごせるかもしれない。
「ああっ」
ルイトベルトさんが悲鳴を上げます。
魔族が私の右羽根に手をかけていました。
力まかせに引きちぎられます。
激痛。
片羽根がなくなりました。けれどそんなのいい、お願い、この子だけでいいから助けて。
体勢を崩しながら、柱へ上がりました。
追いついた魔族が、もう片方の羽根を、笑いながらもぎ取ります。魔族は遊んでいました。
「やめてやめて」
ルイトベルトさん泣かないで。
大丈夫、じっとしていてね、大丈夫よ、守ってあげるから。
ルイトベルトさんを抱いて走り出します。私は昔人間だったから羽根がなくても走ることができるのです。
でも、羽根がないと傷口に治癒をかけることができない。バランスがとれない。血がとまらない。どうする? どうやしたらこの子を助けられる?
私は無様に転びました。
ルイトベルトさんが腕から抜け出して、私をかばおうとしています。
それはだめ。
そのとき、ルイトベルトさんが、何かを見つけて叫びました。
「助けてっ!!」
血が流れて霞んだ目に、銀色の光が見えました。
天使族
成体の天使族が、右手に剣を持ち、私たちの横に優雅に舞い降りてきます。
朦朧とする視界の中、彼は僅かに眉をしかめ、私とルイトベルトさんを見下ろしているようでした。
ルイトベルトさんが、涙にぬれた声で叫びました。
「お願い、助けて!!」
ああ、ルイトベルトさん。
あなたは私とイコ兄さんしか天使族を知らないんだった。
渾身の力で、ルイトベルトさんを抱きしめました。
「え?」
天使族の太刀は、私の首筋を大きく切り裂き、飛び散った血が、ルイトベルトさんを汚します。
「不愉快な」
天使族は剣をはらうと、もう私たちを無視して狂った魔族に向き直ります。
そう。魔族に遅れをとった同族など、天使族は決して助けない。
「………?」
ルイトベルトさんが呆然と、私の血をみています。
ごめんね。
あなたに、この世界の厳しさも残酷さも教えずに育てたのは、私の身勝手だわ。
あなたが傷つくのも、苦しむのもわかっていた。
でも心の中では、快哉を叫んでいました。
よかった、ルイトベルトさんはきっと助かる。この子はこれからも生きていく。
「………え…?」
私が生まれ直した意味も、価値も、喜びもすべてあなたからもらったの。
かわいい、かわいい私の子。愛してるとも、ありがとうとも言い残せなかったけれど、私が最期に、笑っていたことだけは、覚えていてね。
「…………………………え?」