13
ぱん、っと魔術がはじける音がして、壊れた魔術の残骸が豪雨となって降ってくる。
命を拾ったことが信じられず呆然と顔を上げるとそこにもう一人新たな天使族がいて、彼は空に浮かんだまま首をかしげていた。
金に赤を一滴おとしたような、奇妙な髪の天使族だった。
銀髪の天使族以上に小柄で線が細く、一見すると美しい女のようにも見えた。
「お前なにやってんの?」
その天使族は、容姿に似合わぬ乱暴な口調で続ける。
「わざわざ追いかけて来てみりゃ…なんで人間なんか殺そうとしてんだ…?」
「いけませんか」
「や、別にいいけどよ、意味がわからん。――なぁ…それなにもってんだ」
胡乱げに少女を顎で示す相手に、銀の天使族は笑みを浮かべた。先ほどの凶行が嘘であったかのような、幸福に満ちた笑みを。
そして彼は母親が赤子にするように、小さな少女に頬ずりしてその身を深く抱えなおした。
「ほら、貴方にはわからないでしょう?――もう昔のようには分けてあげません。僕だけのクロティラです」
昔のように? クロティラ?
先ほどからこの天使族が口にする女の名は一体なんだ。
小柄な天使族も怪訝な顔をして自らの髪を乱暴にかき乱した。
「はあ? あのな、クロティラクロティラって…」
彼は言葉の途中で顔色を変えた。そして身をのり出して、銀の天使族の腕に抱えられた少女をのぞきこむ。
「……確かに似てんな…」
「似てる? 何を言ってるんです」
「――…おい、おいおい…」
角度を変え、何度も瞬きし、羽根をばたつかせる。そして驚愕の声があがった。
「どういうことだ?…これ、小さいけどクロティラじゃねーか!?」
驚く彼に対し、銀の天使族は何故か自慢げに言葉を返した。
「世界が僕に返してくれたんです」
「なんだそれ!? おいこれ、クロティラ…人間なのか?」
「あ、触らないでください」
少女を遠ざける銀の天使族と、それを追いかけ少女の頬を指でつつく小柄な天使族。
「親父が言ってたのはこれか……最初に発見したのが親父って、まさかの事態だな」
「僕です」
「……いや、それでもいいけどよ」
「僕が見つけたんです」
幼い子供のような彼らのやり取りを見て、やはり天使族にも感情があり、想像よりずっと人に近いのだなと俺はそんな安易なことを考えていた。
言葉の応酬の末、小柄な天使族はため息を吐いて地面をける。
「とりあえず帰るぞ。」
「先にどうぞ。僕は人間を殺してから行きます」
銀の天使族があまりに自然にそう言ったので、俺も、そして周囲の兵士たちもその言葉を咀嚼するまでに時間がかかった。
ぞっと、一瞬にして恐怖が伝播する。
「……う、わ…」
兵士たちが恐慌をきたして逃げ出す寸前、もう一方の天使族が呆れたように首をふった。
「お前な、それ後でクロティラにバレてみろ。大変なことになるぞ」
銀の天使族はやはり平然としている。
「ばれなければいいじゃないですか」
「はぁ…いいからほっとけって。いくぞ」
それで――そのあまりに軽い言葉で――数万の人間の命は救われた。
銀髪の天使族はつまらなそうに俺たちを一瞥してから宙に舞い上がり、先を飛ぶ天使族の後を追った――その腕に少女を抱えて。
そして俺は、すべての兵士たちが危険にさらされるのを承知で、彼らの背中に叫んだ。
「教えてくれ、その娘は一体なんだ!?」
二人の天使族が、俺のほうをふりむいた。
俺は殺されるだろう。
誰もが俺の暴挙を信じられないという眼で見ている。だがこの機を逃したら、もう二度と彼らに近づけないと思った。
一方は奇妙なものを見るように眉をよせただけだったが、少女を抱く銀の天使族が、思案するように黙りこんだ。
「クロティラが、僕の……?」
彼は数万の人間がつくりだす沈黙と注視の中、眠る少女を見つめる。
「僕の」
さらに彼は言葉を探して、遠く視線をさまよわせた。
「この人は」
何かを続けようと口を開いた銀の天使族をさえぎって、もう一方が当然といった口調で告げる。
「はあ? お前の母親だろ」
……?
母親? 人間の少女が天使族の? 俺は混乱した。
銀の天使族は眼を見開き、その後で心の底から面白いことを聞いたように破顔する。
「イコ兄さんって…」
「ん?」
「――いえ、でも母親…母親もいいですね。名前を呼んで、撫でてもらって、たくさん僕の卵を産んでもらおう」
「ん?」
「クロティラ大好き。愛しています。温かい、柔らかくていい匂い」
「…ん?」
そして彼らは空のむこうに消え、見えなくなった。
それで終わりだった。戦を続ける気力のあるものなどもはや誰もいない。
天使族は人々の死を憂い、戦を終結させるため現れたこととなった。その場にいた兵士たちの記憶すら、こうも簡単に変容するのかと俺は驚いた。
一連の出来事は聖書に刻まれて、連れ去られた少女は教会により聖女と認定された。
俺は天使族と言葉を交わした人間として名が広まり、教主とも対面したが、俺に何が言えただろう。ただ問われるままに返事をしたように思う。
間もなく領民の声に後押しされるようにして、父から領主の地位を受け継いだ。
剣を置き、机にかじりつく日々の中、妻をめとり、後継ぎとなる子供も生まれた。安らぐこともあった――――それでも身体のどこかに虚がある。
執務の合間に空を見上げることが癖になり、空に何かが光ればつい身をのりだした。あれから十余年、俺はいまだに考え続けている。
「あの娘は…」
なんだったのだろうか。
そして俺は死ぬまでもう二度と天使族にも、あの少女にも会うことはなかった。