12 ルイトベルトさん
名前を呼ぶと、ルイトベルトさんは悲しそうな顔をしました。
あれ? ルイトベルトさん、どうしてそんな悲しい顔をしているのですか。
あの天使のような笑顔はどうしたのです。
「ルイトベルトさん?」
「あははっ」
ルイトベルトさんはとても辛そうに笑い出しました。
いつの間にか地上は静まり返っていて、砲撃すら止んでいます。
信仰の対象である天使族の姿は大きな衝撃だったのか、兵士たちは戦の最中にもかかわらず呆然とルイトベルトさんを見ています。
誰かの祈りの声が聞こえました。
時が止まったような二つの軍の真ん中で笑い続けていたルイトベルトさんが、ぴたりと口を閉ざしました。
「世界がクロティラを返してくれた。絶対に夢だ。でも、夢でもいいんだ」
小さな声でしたが、不思議とはっきりと聞こえました。
「ルイトベルトさん、夢だと思ってるの?」
彼はやはり悲しそうに首をふります。
「クロティラ、夢じゃないの? 触ったら消えてしまうんでしょう?」
どうやらルイトベルトさんは私を白昼夢か幽霊だと思っているようです。まあ仕方ないんですけど。
私は足に力を入れて、立ち上がりました。鼻血がでていて恰好つきませんが、背中をのばします。ルイトベルトさんは今の私の倍ぐらい背が高くなっていて、私は手を伸ばし…頭に届かなかったので、その頬をよしよしと撫でます。
「ルイトベルトさん、大きくなりましたね。そう言えばいま何歳ですか?」
「―――――――………さんじゅうろく…」
ルイトベルトさんはかすれた声でつぶやき、しばらく石像のように固まっていました。そして突然足から力が抜けたのか、私の上にかぶさってきてギューギューと抱きついてきます。
痛いほどと言うか、痛いです。
「あああああクロティラクロティラクロティラ…」
ちょっと危ない人みたいに私の名前を繰り返しているので、心配になります。
「ルイトベルトさん大丈夫? あんまり近づくとだめですよ、服に鼻血がつくから」
ルイトベルトさんも鼻血はいやだったのか、少し離れて私の顔をのぞきこみました。
「クロティラ、クロティラ、どうしてクロティラが怪我を? 誰がそんなことを」
「いえ、自分で鼻血を出したんです」
単なる治癒のかけすぎです。
ルイトベルトさんは昔のような、私が愛したあの天使の微笑みでにっこり笑いました。
「そう」
おお、これぞルイトベルトさん!
頭がぼんやりするような眩しい笑顔でした。天使族美青年部門でもナンバーワンに違いありません。
「クロティラ、力を使いすぎたんでしょう? 少し眠っていて。ぜんぶいいようにしておくから」
「え? 大丈夫ですよ」
それに両陣営が固唾をのんで見守る中で寝るのはちょっと難しいかな…。
「ううん。少し眠って」
あれ、意識がぼやけてきました。
ルイトベルトさん、何かした?
「次に起きたら、あなたと僕だけだ」
戦が止まった。
優勢だった敵軍も、敗走間近だったこちら側も共に魅入られたように動けなかった。
戦場に突如現れた銀髪の天使族は、それほどまでに美しかった。どんな女も及ばない氷のような美貌に、その背から伸びた一対の白い羽根。人間の少女を抱きしめる様は、神話の一場面の再現だ。
天使族は、突然糸が切れたようにくずおれた少女の身体を抱き上げた。
俺はその少女に見覚えがあった……天使族と会話をしていたあの教会の子供だ。 しかし天使族は以前見た金髪の個体ではない。明らかに別の、まだ身体も完成していない若い個体だ。
死を覚悟した戦のことも吹き飛び、頭の中に疑問が渦巻いた。
どうしてあの子供の周囲には天使族が現れる? 十にもならないあの幼い子供に一体なにがあるのだ?
どうすればあの子供のようになれる。
ふいに、天使族が叫びはじめた。
「あああゃった、やったっ!クロティラだ、僕のクロティラだ!!」
意識のない少女の身体を抱きしめ、天使族の男はくるくるとその場をまわり、少女の胸元へ顔をこすりつける。
「温かい、温かい温かい温かいなぁ!」
天使族は涙を流して喜び、子供のように無邪気に声を上げていた。
だが不思議と、彼の様子に少しも温かなものを感じられない。どこかそう、箍が外れているように思えた。
違和感に自分の手元をみると、無様にも剣先が震えている。
天使族また瞬きのうちに表情を変え、その氷の眼でぐるりと周囲を見回した。どんな魔法の作用なのか、先ほどからまるで耳元で話されているかのように天使族の声がよく聞こえた。
「それで――クロティラを傷つけたのは?」
だが敵も味方も、誰も彼の問いに答えることはできない。
「僕からもう一度奪おうとしたのは?」
皆が気づきはじめていた。
恐怖だ。
天使族から発される狂気に、ここにいる全ての人間がのみ込まれている。
問いかけながらも天使族は、答えを知っているかのように真っすぐに敵陣を見ている――おそらくは、砲撃魔法の使い手を。
天使族は少女を抱いたまま羽根を広げて宙に浮かぶと、二、三度の羽ばたきで敵陣の中央へと優雅に舞い降りた。
そして傍にいた魔術師らしき男の腕を、力ずくで引き千切った。
「ぎああぁあっああっ」
絶叫が聞こえる。
天使族はのた打ち回る魔術師には見むきもせずに、引き千切ったその腕に指を差しこんで何かを取り出した。そしてそれを空にかざして眺めている。
「あぁ金王種の鱗か…」
距離があるので確かではないが、天使族は透明な何かの破片をくるくると片手でもてあそんでいた。
「これはクロティラにあげよう」
天使族がそう言って少し微笑んだのと同時に、腕をもがれた魔術師の頭が前触れもなく破裂した。あたりに赤い血肉がはじけとぶ。何をしたのかもわからない。おそらく魔術を使ったのだとしか…。
凍りついていた周囲の兵士たちが、ようやく絶叫と共に走り出した。
「もちろん許さない。お前らも、お前らも」
天使族は笑いながら確かにそう言った。
空に、二つの陣営を覆う巨大な水の膜が生まれる。よく見れば精緻な模様となってるその膜は、すぐに形を変え、数万の針となった。
――なんだこの大きさは。
あまりに圧倒的だった――あの時のように。
そしてこの天使族は、この場にいる全ての人間を踏み殺そうとしている。
ここで死ぬ。
そう思った。




