第五話 学生たるもの本業は勉学なり
第五話 学生たるもの本業は勉学なり
星一朗達が通う大学のキャンパスは、
喫茶店【箱庭】から歩いて30分程度離れた市内の丘陵地にある。
キャンパスまでの道程はそこそこ勾配もある為、
徒歩や自転車で通学する者達からは校門までの坂道のことを、
畏怖を込めて“心臓破りの紅坂”と呼んで恐れていた。
ちなみに紅坂の“紅”は、
夕焼けの陽光を浴びて坂が朱色に染まるところから来ている。
そんな上り坂をインドア派と誉れ高い星一朗が、
何故かえっちらおっちらと歩いて上っていた。
あろうことか朝っぱらから汗にまみれていたのだ。
当然のように普段から運動をあまりしない星一朗は、
坂を上り始めて約5分もしないうちに足は重く息も絶え絶えになっていた。
ここで弱音を吐いたところでどうなるものでもない、と
理解している星一朗は、ただ淡々と歩みを進めるのであった。
「どうして俺はこの坂を上っているんだ、と小一時間……。」
否、理解はしていても納得はしていなかったようである。
思わず愚痴がこぼれる始末。
「良い運動じゃないすかチェスターさん!
あんまり文句ばかり言ってるとまた恵玲奈さんから怒られますよ。」
「うっせ!
お前もチェスターって言うなっ!」
星一朗に話しかけてきたのは彼の一学年後輩であり、
ゲーマー仲間の栗野海斗である。
口の軽い性格で人見知りせず交友関係は広く、
大学の意外な人物の情報を知っていたりする侮れない人物である。
夏場でもニット帽を被り、
黒いパーカーに意味不明な単語入りのシャツと着古したダメージジーンズ、
そしてバッシュを模したデザインのスニーカーを好んで身に付けていた。
だいたいいつも似たような服装ばかりで、
バリエーションは豊富だが雰囲気はあまり変わらない。
星一朗とは大学のサークル、
人が多いだけで実質何もしていない映像視聴研究会で知り合い、
共に幽霊構成員となっている。
「まさかこの坂を上る羽目になろうとは……
入学して二年と少し、上手くスルーしていたというのにっ!
やいこら栗野っ!
お前があそこで声を掛けなければ
今頃はバスを乗り過ごす事は無かったんだからなっ!」
「えーっ、そりゃあないっすよっ!
久しぶりにチェ……黒瀬さんを見かけたんだから、
そりゃ声も掛けますってば。」
「おう、そいつは有り難うよ。
だがな、タイミングってのはあらゆる物事に対して結構重要なんだぜ?
そいつを見極めないと火傷するぞ栗野よ。」
「はいはい、分かってますって。」
上り始めて約20分、
眼前に広がるはいつもより大きく見える校門の鉄格子。
妙な達成感を感じていたが、
それよりも身体的苦痛の方が大きい事実がある。
星一朗の足取りは重く、
まるで両足に鉛を仕込んでいるかのような動きになっていた。
朝練で校庭を走らされ、
ヘトヘトになった高校球児並の疲労困憊度である。
坂を歩いてあがっただけなのだが。
「く、このまま教室まで行けるのか、俺!?」
「いや、そこは頑張ってくださいよ。
オレ、今日は教授に呼ばれてるんで先行きます。」
「あ、こら! 栗野! てめぇ!
せめて入り口まで肩を貸してください!」
ほぼ強引と言える形で栗野の肩を借り、
星一朗はよろよろとよろめきながら校舎内へ入っていった。
その姿は丸で酒に呑まれた居酒屋帰りのサラリーマンよろしく、
見事な千鳥足であったという。
その様子を事細かに、
それこそ脚色も多少加えた形でチェスター武勇伝として流布させたのは、
もちろん言うまでもなく栗野自身だったりするのだが、
これはまた別の話である。
「ああっ! あの神々しく麗しい後ろ姿は女神!
いつ見てもお美しい……。」
突然、栗野が叫んだ。
肩を借りていた星一朗は驚きと同時に、鼓膜にダメージを負った。
女神だとか美しいだとか、感嘆の声を挙げるのは結構だが、
TPOを弁えてほしいものだと
他人事みたいな表情で星一朗は栗野を見ていた。
とても肩を借りている人間の態度ではない。
「……本日もこの目で見られようとは。眼福眼福。」
「いきなり耳元で叫ぶなよ……それも俺みたいな言い回しで。」
「あ、すんませんすっ。
つい、本音が口から出てしまいました。」
「あー、あれか。
お前が前から散々言ってる“美人”の事か。」
星一朗が栗野と出会ってからしばらく後、
栗野が狂ったように騒いだことがあった。
女神がいた、こんなに美しい人がいるのか、いやイタ!(倒置法)と
毎日のように言っていたのだ。
流石に最近は少なくなっていたが、
現物を目にすると毎回この騒ぎになるのだった。
その噂の彼女と星一朗は面識がなく、
栗野情報によれば星一朗と同級生らしいのだが思い当たる節はなかった。
興味本位で一度会ってみたいと密かに思っていたのだが、
わざわざ会いに行く事ではないと決め込み、
今の今まで顔も名前も分からずじまいなのである。
今日のように見かけても、遠くから後ろ姿を見る程度で、
すぐに視界から消えてしまう。
白系統の服装が多いことから、
星一朗は密かに彼女のことを“白い女”と呼んでいた。
栗野が聞いたら顔を真っ赤にして烈火の如く怒りそうな異名ではあるが、
あながち見た目的に間違っていないだろうと言い訳するつもりである。
たぶん通じはしないだろうが。
「そうっす。
確か2年生のはずなんですが、黒瀬さん会ったこと無いんですか?」
「知らん。
生憎と単位取得が危なくなるレベルで授業に出ていないヤツだからな俺は。
同級生の顔と名前なぞ未だに9割5分ガタ一致せぬわ、
わっはっはっはっ!」
「笑うところじゃないっすよそれ……。」
教室の前までようやく辿り着いた星一朗は、
いち早く席に座り足腰を休めたかった。
こんなにも座りたいと思ったことは、
小学生の頃の体育大会以来ではないだろうか、と
自身の運動経験の少なさを思い返していた。
教室はそれなりに学生で埋まっており、
いい席(教授の目が届きにくい死角的位置)はほぼ全て埋まっていた。
まずい席(目に入り易い前線席)はしっかりと空いており、
猛者が数人座っているに過ぎなかった。
出遅れたか、と気落ちしてとぼとぼと教室へ入ろうとした時、
星一朗の黒歴史確定の渾名で呼ぶ声がする。
一体誰だ、俺をその名で呼ぶ不貞の輩の方へ視線を移すと、
そこには見知った顔が手招きをしてにこやかに微笑んでいた。
黒く艶やかな長髪をパール系のシュシュで後ろ髪を結いあげ、
虹彩が多めの双眸はどこか安心感を与える印象を持たせる。
黒髪に白系統の服のコントラストは絶妙だ、
清楚感が倍増しで上がっているように見える。
薄く化粧はしているようだが、ナチュラルメイクを体現していた。
はて、そんな可憐系美女が何故俺の黒歴史渾名を知っているのだ、と
星一朗は一秒程度思考を巡らせたが、すぐに思い出した。
その人物は無論本条セシル、
竜二の姪であり最近少しだけ仲良くなった同級生である。
星一朗が既視感を感じたのは言うまでもない。
「だ、大丈夫ですか?
何か辛そうですけど……。」
「ちょっと慣れない運動を強いられまして……。」
「良かったら、こっちに座りませんか?
丁度隣が一つ空いていますし。」
「マジで!? そいつは助かる。
あの死番席に座る勇気を俺は持ち合わせていないからなぁ。」
セシルは“良い席”に陣取っていた。
星一朗の接近に合わせてセシルは一つ隣の席へ移動し、
通路側に星一朗が座る形になった。
この時間に来てこの席とは幸運だとばかりに、
これ見よがしに周囲を見渡すと
星一朗を睨み付ける野郎達の鋭い視線があった。
妙な緊張感が走ったような気がしたが、
星一朗は意に介さず授業で使う教材をバッグから取り出していく。
「この席に座れるとは、本条さんのおかげだな。」
「そ、そうですか?」
「うむ。
普通ならあの最前線の死番席に座る事になるからね、
講義終わったらドリンクでも奢っちゃるわ。」
「そんな悪いですよ。」
ぱたぱたと手を振って申し訳ないです、とばかりに
やんわり断りを入れるセシル。
そして声のトーンを落とし、少しだけ顔を赤らめながら言葉を続けた。
「あ、あたしはチェスター君が隣に居てくれた方が……
その気持ち的に楽、ですし。
周り知らない人ばかりで緊張してましたから。」
「まあ俺も知らんヤツより、見知ってる本条さんの方が楽でいいよ。」
星一朗の言動の後、
先程より突き刺さる視線の量と威力が増したようである。
もちろん、星一朗が気づくわけがない。
学校内の噂はもちろん
普通に流れている情報にすら疎い星一朗が気づくわけがないのだが、
彼が勝手に呼んでいる“白き女”は、セシルなのである。
あまり現実世界の人物を評することがない星一朗が、
可憐と評しただけあってセシルの男性人気は高く、
大っぴらにアクションは起さないものの潜在的な隠れファンは多かった。
故に、今回のように突き刺さるような視線が、
星一朗へ注がれるのも当然の流れと言えよう。
またセシルがこれまで特定の男子学生と
親しくしていた様子も無かった事から、
突然現れたように見える星一朗へのやっかみもあったのだろう。
「……今日は何だか変に疲れたな、肩こりがやばいことに。
なんでだ。」
「だ、大丈夫ですか?」
講義が終わった後、
大学内にあるフリースペースで冷茶を飲みながら星一朗はぐったりしていた。
周りを見渡すと同じ講義を受けていた学生の顔が散見している。
たまにチラチラと星一朗達を見ているような気配があるが、
もちろん星一朗は気にも留めなかった。
結局、星一朗の押しに負け奢ってもらった紅茶をちびちびと飲み、
心配そうにセシルは星一朗を見つめていた。
本日の講義は残り一つ、もうひと踏ん張りである。
「そういや本条さんに聞きたい事があったんだ。
今思い出したわ。」
「な、なんです?
あたしに分かることであればお答えしますよ。」
「ゲーマーと見込んで意見を聞きたいんだけどね、
【ウィザードリィ】や【女神転生】みたいな
3Dダンジョン系のゲームシステムってすっげー苦手でさ、
今までまともに一つもクリアしたことないんだ。
マッピングすんの苦手ってのもあるけど、
なんつーかな、難易度の高さも苦手意識の一つかな。
プレイする上で何かコツとかあんのかなと。」
表情こそ変わらず平静を装ってはいるが、
内心でセシルはとても喜んでいた。
外でもガチゲーマーで一部で有名な
黒瀬星一朗からゲームについて話を振られたのである。
まだまともに知り合って話だけそんなに日にちが経っていないとは言え、
ゲーム談義がこうもあっさりと出来るなんて、と。
「そうですねぇ。
単純なところであたしは3Dダンジョン形式のゲームが
好きというところが大きいんですが。」
「そりゃそうか。
攻略本やプレイ動画見たところでどうにもならんもんな。
取り敢えず慣れか、やっぱ。」
「慣れは重要ですよ、後はやはり心持ちじゃないでしょうか。
あたしはあの狭い視野でこそ感じられる臨場感が楽しくて
遊んでいるので、これというコツは……
ご、ごめんなさい答えになってないですよね。」
「いや、構わんよそういうもんさ。
俺はアクション要素があるゲームが好きなんだけど、
アクションゲームならではの緊張感や操作感が好きで
プレイしているからね、俺も。」
一人納得してうんうんと首を縦に振る星一朗。楽しんだものの勝ち、と
いう点で大いに共感を覚えたのだろう。
星一朗のゲームに対する持論は
“とやかく言う前にまずはプレイする”である。
これは幼少期、前情報なしで中古ゲームを買い漁っていた頃の経験から来ている。
ワゴンの中のゲームでも、
もしかしたら物凄く嵌ってしまうゲームに出会えるかもしれない。
トレジャーハンターの気分だな、と
星一朗は良く知らない中古ゲームを買うときはいつもそう思っていた。
「挑戦してみようかね。
丁度携帯機で新作出るしさ、
世界観とかシステムとか気にはなってたんだよね。
いきなり最新作で大丈夫かね。」
「良いと思いますよ!
むしろ最新作のほうがビギナー用に調整されている事も多いので、
過去作を無理してプレイするより敷居は低いと思います。」
「じゃあ、今度竜二さんとこで一緒にやろうぜ!
経験者に助言してもらえれば楽しみ方の理解も早いだろうし。」
「は、はい!
あ、じゃああたしは何か役に立つ情報とか知識とか集めておきますね。」
この男、意識せずに言ったのだろうがセシルは意識しまくりだった。
聞く人が聞けばデートの誘いにも聞こえかねない内容である。
当の星一朗はそんな気は一切なく、
純粋にちょっとゲームのやり方を教えてよ的なノリなのだろう。
セシルが今まで必死に平静を装っていたのに、
星一朗の一言で簡単に崩壊してしまった。
一気に顔を紅潮させ、何だか暑いですね、と言うのが精一杯だった。
「黒瀬さんっ! ここにいたんすか!」
遠くで星一朗の後輩・栗野海斗の声がする。
栗野の声は良く通り、様々な音が飛び交う街中でもはっきりと聞こえる。
この声にセシルははっと我に返ると、
星一朗にあたしは次の講義が別の所であるので、と
言い残して足早に去っていった。
「あれ?
今、女の人と一緒にいました?」
「うむ。
知人の姪御さん兼ニュー友達だがな。」
「もしかしてお邪魔しちまいましたか?」
「いや別にそういう関係じゃないから、気にするな。」
「そうすか(あの雰囲気はどっかで……)」
時間を確認すると、午後1時をほんの少し廻ったところだった。
次の講義は午後2時半と中途半端な頃合いで予定されており、
栗野も今日は上がりと言うことで、
時間もあるから飯でも食いに行くかという事になった。
学食でお安く定番メニューで手を打つか、
それとも少し歩いて美味しいがお高いハイソなランチにするか。
ともかくまずは財布と相談してからであろう。
「学食だな。」
「学食っすね、今日のA定食って確か鶏の竜田揚げだったはずっ!」
「なん……だとっ!?」
「オレの情報収集能力を忘れたんすか~?
一ヶ月分の学食メニュー表くらい把握済みっすよ。」
思わず声を挙げる星一朗。
小学校の給食で級友達と、余りの唐揚げ獲得の為に
戦いを繰り広げた記憶が蘇ってくる。
学食でこのメニューが出ることは、月に一度あるか無いかという頻度の為、
狙っている輩は相応にいるのであった。
勝負法はオーソドックスにジャンケン、
熾烈な戦いを思い出す星一朗であった。
「あーでも、時間的にアウトっすね。
流石にこの時間では売り切れてるんじゃないすかね。
大人しくメンチカツにしましょうよ。」
「何を言うっ!
判断は実際に行ってから下す、まだ諦めるには早すぎる段階だぞ栗野!
諦めたら試合終了、手に入るものも手に入らん!」
「じゃあ急ぎましょうっ!
奇跡を信じてっ!」
「奇跡なものか、残っているか残っていないかは運次第だ!」
ここに校舎内を小学生ばりに疾走する二年生の男性一名、一年生の男性一名在り。
学食は予想通り学生で賑わっており、
メニューの販売機の前にも学生が並んでいた。
さて彼等は目標のA定食を食べることが出来たのだろうか。
*******
喫茶店・【箱庭】の店舗スペースにて。
洗浄したばかりのグラスやマグカップを丁寧にクロスで拭いつつ、
マスターである竜二は常連客がプレイするゲーム画面を見つめていた。
画面には常連客が操るワンダ(ゲームの主人公)が、
巨大な巨像に向かって剣を突き差そうとしていた。
だが、巨像がタイミング良く全身を震わせワンダを振り解こうとした。
案の定、ワンダは巨像から勢い良く離れ崖下へ落下していくのであった。
「指痛い、目がチカチカする、と言うかもう疲れたわ
……竜二君、パス。」
阿里沙は耳につけていたイヤホンを取り
コントローラパッドを竜二に手渡す。
「良く頑張ったねぇ、というか僕がプレイしても意味ないんじゃ……
ちょっと休憩しようよ。」
「ぬぅ……そうね、確かに一理あるわね。」
「それとちょっと作戦を練り直そうか。
(今回の失敗で20回目だったかな……)」
喫茶店【箱庭】は今日も今日とて早めの閉店となっていた。
カーテンを閉め切り、外から中を窺い知ることは出来ないようになっている。
良くこの営業指針で潰れないものだ、と近所の人達は誰もが思っていた。
午前は朝8時くらいから開店し、
午後は大抵3時前後で閉店することが多かった。
午後3時頃の理由は単純明快で、“常連客”が訪れゲーム談義に花が咲き、
竜二が仕事をしたがらないからである。
今日は珍しくいつものコレクションルームではなく、
一階の店舗スペースに設置してある19インチの液晶ディスプレイを使用し、
竜二は阿里沙が持ってきたゲームソフトに興じていた……
もとい、彼女の仕事の為に協力していた。
一階でゲームをしている関係上、音漏れに配慮しイヤホンを利用。
周りの人間がBGMを楽しめない点は残念だが今回は仕方が無いところである。
「最後の最後なのに、何なのこの難易度!
おかしくない!?」
「ははは、まあ最後だからねぇ、
これくらいの難易度はこの手のゲームなら当然だよ。」
そう言うと竜二は近くに置いていた【ワンダと巨像】のパッケージを開け、
取扱説明書を取り出しぱらぱらとめくりだした。
何か攻略のヒントでもと思って見てみたのだが、
流石に最後戦に関する記述があるわけもなく、
竜二の期待は脆くも崩れ去った。
竜二は取扱説明書を元に戻すと、
キッチンへ行きキンキンに冷えた水入りのグラスを持ってきた。
「はい、これでも飲んで少しクールダウンしよう。」
「ありがと。
うぐっ…うぐっ……あー冷たくておいしい。」
何を隠そう彼等は、と言うより阿里沙はゲーム最大のクライマックス、
つまりは最終戦でものの見事につまずいていた。
挑戦すること20回、
良いところまではいけるも後一歩というところで手が届かないのだった。
一体何がいけないのだろう、単純にプレイヤースキルの問題か、
ステータスの不足か、もしくは阿里沙のリアルラックか。
「いっつも最悪なタイミングで振り落とされるのよね
……やっぱ腕力が足らない?」
「ど、どうだろうねぇ……
でも前より動きよかったし、次は大丈夫だよ。きっと。」
余談ではあるが【ワンダと巨像】に
レベルや明確な数値でのステータスを見る事は出来ない。
あるとすれば画面上で確認できるワンダの腕力と体力くらいなもの。
これらのステータスはゲームの進行具合によって
自然に強化されるようになっており、
強化アイテムでステータスアップを図ることは出来る。
が、目敏くマップ上を走り回らないとそれらは手に入らない。
はっきりと分かるようにマップ上では設置されてはいない為、
意外と根性もいるのである。
今回は時間的制約もあって
ほとんど強化アイテムを使わずにここまでやってきた事もあり、
阿里沙はその点を気にしているようであった。
竜二の見解は異なっており、
単純なプレイヤースキルとリアルラックだと思っていた。
もちろん口が裂けても言えない。
「この最終戦って
これまで培ってきた経験を最大限に活かす、ってコンセプトじゃないのかな。
だからさ、今までの事を思い出して攻略してみようよ。」
「私もそうだとは思うんだけど、なかなか思うようにいかないのよねぇ
……ゲーマーである竜二君なら簡単にいけるだろうけど。」
「まあ前に一度クリアはしているから、いけるとは思うけどさ
……でも阿里沙さんがクリアしないと意味ないでしょ。」
「そうなのよねぇ……
ったく取材を受ける為の条件とはいえ……趣向が偏り過ぎなのよ!」
一体何の取材なんだろうと気にはなった竜二であったが、
変に聞くと妙なスイッチを入れてしまいそうで躊躇していた。
この場に星一朗がいたらきっと聞いていたんだろうなぁと、
想像した竜二は思わず身震いをしてしまった。
「休憩はお終い、プレイ再開よ!」
「巨像の腕に飛び移る瞬間さえ見極められる事が出来れば大丈夫だよ。」
「阿里沙、21回目行きます!」
たまには普段ゲーム話をあまりしない阿里沙さんと
ゲーム話をするのも悪くない、と竜二は一瞬思ったのだが、
本当にたまにでいいかなとも思っていた。
画面に視線を移すと阿里沙が操るワンダが華麗に空を舞っていた。
ああ、22回目のリトライ確定かなと竜二は青筋を立てたのだった。
*******
とあるバスの中、過ぎ去る町並みにゆっくりと視線を移し溜息を一つ。
右手には栄養ドリンク、
左手には栄養食品のあの有名なブロックタイプのヤツを持ち、
星一朗は疲れ果てた様子で一番後ろの座席に座っていた。
時折、がくっと気が抜けてずり下がろうとするが、
何とか踏ん張り元の位置に戻る。
負のオーラを纏っているようで、誰一人として近づこうとはしなかった。
目下のクマがさらに近寄りがたい雰囲気にしている。
だがそんな雰囲気をものともせず星一朗の隣に座っている人物がいた。
しかも少しぷりぷり怒りながら。
「ちょっとお兄ちゃんっ!
バスの中で飲み食いしないでよ!」
「いやー、今ここでチャージしとかないと俺死んじゃうかも?」
「ならせめてドリンクだけにしてよ!
もう……恥ずかしいなぁ……。」
恵玲奈に叱責され星一朗は渋々栄養補助食品を鞄に戻し、
既にフタを開けていた栄養ドリンクを一気飲みした。
何とも言えない、いや苦虫を噛みつぶしたような表情をして
ごくりと喉を鳴らした。
どこのメーカーのものかは不明だが、青い瓶に中の液体も青色だった。
本当に栄養ドリンクだったのかは定かではないが、
星一朗の表情は先程より若干明るくなっていた。
「……HPが回復した気がするぜ。」
「なんでそんなに疲れてるの?
まさか久々学校行って気疲れしたとか言わないよね。」
「こいつは気疲れとかってレベルじゃねぇ……
殺気混じりの戦場に長時間いた気分だ……。
まるでスパルタのグラディエーターになって、
見たこともないようなモンスターと一線交えた後みたいな……。」
「はいはい。」
恵玲奈はジト目で兄の話をいつもの調子で聞いていた。
この妙に芝居がかった大仰な言い方をするときは、
決まって星一朗が本音を語らないときである。
昔から星一朗はこうだ、厄介事や面倒事を抱えた時は一人で解決しようとする。
そしてその時の言いぐさは大抵、
この芝居がかった言い回しをする。
妹である恵玲奈は兄のこの癖を当然把握していた、
一緒に生活している家族というのはこういう事である。
「あー、MPも少し回復してきた。」
「いきなり現れて人の腕を掴んだと思ったら、
“竜二さんとこ行くぞ”なんだから……。
一緒にいた友達もびっくりしてたじゃん。」
「……ハトが豆鉄砲だったのは俺も理解している。」
「……もう、後でなんて言い訳しよ……。
お兄ちゃんもみんなに会ったら謝ってよね。」
「会ったらな。」
今日は恵玲奈も大学に来ており、
敷地内にあるちょっとした広場の椅子で、
友人達とお茶を飲みながら午後のスケジュールの相談をしていた。
映画に行こう、たまには運動もいいよね、
いやいやここはカラオケでしょ、等々実に楽しそうな話題ばかり上がっていた。
だが、突然現れた兄・星一朗に捕まってしまい、
友人達と遊びに繰り出しているはずが今は【箱庭】へ向かうバスの中である。
あまりに兄の顔が真剣だったこともあり、
恵玲奈はスルーする気にはなれず言われるがまま着いてきた。
兄をよく知る妹だからこそ感じ取ったものがあったのだろうが、
冷静に振り返ってみると、
状況的にちょっとブラコン気味な態度を取ってしまったのではないか、と
嫌な汗が噴き出てきていた。
よくよく考えると普通の兄妹ならあり得ない状況ではないだろうか、と
恵玲奈は自らの思考の深みにはまっていくのであった。
「……ご、誤解されてないといいけど……。」
「なんの話だ?」
「お兄ちゃんには関係ないっ!
いいから大人しくグタッとしてなさいっ!」
星一朗の体力と精神力がある程度回復した事もあり、
何故このような行動に出たのか、をまずは恵玲奈に説明を始めた。
身振り手振りを交えて、
脚色と妄想も多分に含みながら星一朗は必死に説明した。
話を聞くにつれて恵玲奈の表情もどんどん険しくなり、
最後の方になるとどこか決意じみた表情をして、
オルレアンを解放したジャンヌ・ダルクのようにどこか凛々しくあった。
星一朗は一体どんな説明をしたのだろうか。
「た、確かに急いで【箱庭】に向かう必要があるわね。」
「だろ。
これがマジならちょっと色々本気で動かねばならん。
そもそも竜二さんはこの事実について知っているのか、という
基本的な疑問もある。」
「竜二さんなら流石にそこは把握してるよ。
お兄ちゃんじゃないんだし。」
恵玲奈の一言に星一朗は思わず自身の胸を押さえた。
ぐさりと何かが刺さったらしい。
「何だかさ、恵玲奈ちゃんは最近俺に手厳しいよね。」
「気・の・せ・い・で・す。」
「ああぁぁぁ……言葉と言葉の間に中黒点がはっきりと見える……。」
「うっさいなぁ、もう。」
【箱庭】に到着した二人は店のドアの前に
例の看板が掛けられているのを見つけた。
店は閉まっているが、竜二が店の中に居ないわけはないと踏んだ二人は、
コレクションルームの“常連客”専用の裏ルートから入ることにした。
建物の裏側から店舗の中を通らずに
コレクションルームへ入るルートのことであるが、端から見ると何とも怪しい。
そこの入り口は番号式の簡易錠があるだけで、
番号さえ知っていれば誰でも入ることができた。
念の為、竜二は月毎に新しい鍵を用意しているようであるが。
無事中へ入ることに成功した星一朗と恵玲奈は、
コレクションルームのドアに手を伸ばすも鍵がしっかりと掛かっており、
中に人がいる気配もなく思わず疑問符を飛ばした。
コレクションルームには人がいないのに店舗も閉まっている。
今までに無かった事態である。
「オカシイ。店は閉まっている=コレクションルームに引きこもっている。
この公式が成り立っていないではないか。」
「竜二さんだって家から出ることはあるってば。
私達のタイミングが悪かっただけじゃないの?」
「ま、そうだろうけどな。」
『うぎゃあああああああああっ!!』
突然、今まで静まりかえっていた一階の店から、
かなり大きな声が聞こえてきた。
声というよりは叫び声といった方が正しいだろうか。
声を聞いた二人の脳裏に苦悶に歪んだ女性の顔が浮かんでは消える。
あまりの唐突さにホラー映画のワンシーンの如く声にならない声を挙げて、
恵玲奈に至っては星一朗に抱きついたまま、
へたっと床に座り込んでしまった。
星一朗に至っては眉毛一つピクリとも動かない、いや動けなかった。
恵玲奈が力一杯、
それこそ抱き枕を引き千切らんかという程の強さで抱きついたせいで。
「……し、しぬ……。」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!?
って……あ、ゴメン。
力入れすぎちゃった。」
星一朗は妹の腕の中で白目を剥きかけながら、
何とか意識を現世に留めていた。
まだまだお空に昇るのは早いぜ、とどこかの誰かと会話していたようで、
声こそ出ていないが口は動いていたのは内緒である。
まさに生と死の迫間にいる星一朗であった。
「物音がすると思ったら、君達兄妹か。」
はっと恵玲奈は顔を声のする方へ顔を向けると、
そこには少し呆れた様子で階段の上から竜二が二人を見ていた。
思わず恵玲奈は掴んでいた兄の服から手を離す。
妹から解放された星一朗は、盛大な音を立てて床とキスをしてしまったのだった。
「す、凄い叫び声が聞こえたから思わずって竜二さんいたんですか!?」
「いましたよ、店の方にね。」
「……く……全身が痛い。」
「オニイチャンダイジョウブ?
何だか顔色が悪いよ?」
ぴゅうぴゅうと下手な口笛もどきを吹かして兄の心配をする恵玲奈。
星一朗の渇いた視線が痛い。
そこは妹に甘い星一朗である、特に咎める気はないようだが、
何か後で仕返しをしてやろう、とは考えている目をしていた。
星一朗と恵玲奈は竜二に連れられて一階の店の方へ向かうと、
普段ゲームをあまりやらない人が必死にコントローラパッドを握りしめて、
鬼の形相でアクションゲームをしている光景が飛び込んできた。
黒瀬兄妹は阿里沙との面識はあり、たまに来て話をする程度には仲が良い。
どうやら先程の絶叫の主は阿里沙だったようで、
今も似たような声をあげて
コントローラパッドを上下左右に揺らしながら操作していた。
19インチのディスプレイ内では壮絶な巨像との死闘が繰り広げられている。
星一朗はそのゲームが何なのか一目して理解したが、
今それについてはどうでもいい話である。
取り敢えずいつものカウンター席に腰を降ろすと、
先程までのダメージはどこへやら、真面目な顔で注文をした。
「【ワンダと巨像】か、
光るトカゲハンターと化していたな俺の操るワンダさんは。」
「巨像倒すゲームじゃないの?」
「…ふぁあ…やべ疲労&心労で超眠い。
光る尾を持つトカゲは、攻撃を当てると腕力アップのアイテムを落とすんだよ。」
「ふーん。」
「……うぅ……コイツは限界近いか……
あ、竜二さん、HPが回復するような飲み物をお願いします。」
「もう閉店してるよ。」
沈黙。
素で言ったのか、惚けたのか、審議が必要である。
「そんな事だから、妙な噂が立つんですよ!
箱庭は資金難で今月中に潰れるとか、
箱庭のオーナーは借金まみれで借金取りから逃げる為に良く店を閉めているとか!」
「そうですよ!
竜二さん、これ本当に一部で噂になってるんですよ!」
珍しく熱のこもった剣幕で竜二に詰めよる黒瀬兄妹。
竜二は少し驚いた表情を浮かべたが、
ぽりぽりと頬を掻くも困惑した様子はなく、
淡々と否定の言葉を発したのだった。
「潰れたりしないし、僕には借金なんてないよ。
まあ良く店を閉めているのは事実だけどね。」
「でも火のないところに煙は立たないって言うじゃないですか。」
星一朗は食い下がった。
俺が聞きたいのは“俺達”を安心させる言葉じゃない、
俺が聞きたいのは“事実”なのであると。
ヤバイならどれだけヤバイ状態なのか星一朗は本気で知りたがっていた。
ゲーマー仲間達にとって、
ここ【箱庭】は地上の楽土と言っても過言ではないくらいに楽しい場所だったからである。
リリースされたありとあらゆるゲームソフトが所狭しと陳列され、
最高クラスの音響設備と映像出力機器も取りそろえている。
この世界、趣味レベルでここまでやっている人間は
竜二くらいではないだろうか。それも一部公開するとか。
コレクションルームに入ったことがある人間こそ数少ないが、
入ったことがある人間達は揃って桃源郷・シャングリラ、
呼び方はともかくとしても口々にその素晴らしさを語っていたのである。
それを聞いた無関係の人間があらぬ方向で話を展開させ、
今回の【箱庭】閉鎖騒動が発生したのではないか、と
後にライターである阿里沙は語っている。
もちろん現時点で黒瀬兄妹が知る由もない話である。
「確かに売上はそんなに多くはないけど、
経営を継続できる程度には儲かっているよ。
それに僕がここで嘘を言ってもなんのメリットもないから、
本当のことだからね。」
「私もそう思う。竜二君が君達二人に嘘を言ったりするわけないじゃない。
私もここに頻繁に来ているわけじゃないから、
売上云々は只の印象ではあるけどねっと
――あああああっ!
もう、なんでこの時に上手い具合に振り落とされるかなー……。」
三人の問答を聞いていた阿里沙は、ゲーム画面を見たまま、
視線を変えずに口を挟んだのだった。
意外なところから助勢があった。
それはともかく彼女は現在25回目の挑戦中である。
「大上姉さん聞いてたんすか。
お久しぶりです。」
「大上さんこんにちわー。」
「はーい黒瀬兄妹オヒサ~。
聞いていたというよりは、“勝手に聞こえてきた“というのが正しいわね。
ほら職業柄、聴覚とかそう言う感じで発達してたりするかもだし。」
「そういうもんすか。」
取り敢えず竜二の言動と様子から、
やはり単なる噂だったのかなと星一朗と恵玲奈は安堵していた。
恵玲奈はともかくとして星一朗は本気で心配していた事もあり、
一気に全身の力が抜けたかのようにカウンター席に突っ伏した。
そしてしばらくすると静かな寝息をたてはじめたのだった。
心配事が無くなったこともあり、緊張の糸が切れ疲労の蓄積もあり、
一気に睡魔が襲いかかったのだろう。
幸せそうな顔をしていたので、ふいに兄の頬を縦横斜めに引っ張る恵玲奈。
きっと小さい頃にやられた腹いせだろう。
「そう言えば今日バスの中で、やたらとグッタリしてたなぁ。
普段、絶対に食べない栄養食品片手に。」
「大学で何かあったのかな?」
「さぁ、どうでしょうね。
そういうのメンドくさがって絶対に話してくれないから。」
「そういう人だよねぇ、星一朗君は。」
そう言うと竜二は店の奥から店のロゴ入りタオルケットを一枚持ってきて、
スカピーと寝息を立てる星一朗に掛けた。
「最大戦力を失ってしまったけど、恵玲奈ちゃんもいるし何とかなるさ。
さぁ、阿里沙さん挑戦を続けようじゃないか。」
「私的にはそろそろギブリたいです、真面目に。
だいたい私にはこのゲーム向いてないのよ、
毎回同じところでやられるし……。」
「そう言うわけで恵玲奈ちゃん、
何か阿里沙さんに助言をお願いできないかな。」
「うーん。
そうですねぇ、やっぱタイミングの問題じゃないすかね。
1・2の3で行くところを1の2の3で行ってみてはどうですか?」
恵玲奈は星一朗の口調を真似して、普段兄がやっているように言ってみた。
とてもじゃないが兄の前で出来る事ではない。
物真似度については議論の余地はあったが、
流石兄妹と言うこともあり雰囲気はばっちりだった。
助言の内容については、
以前恵玲奈が同じゲームをプレイしていた時に星一朗が言っていた事である。
所謂受け売りである。受け売りではあるが、
実際に恵玲奈はクリアすることが出来ているので、
説得力は充分にあると言えるだろう。
「声こそ違えど、言い方や雰囲気はそっくりだね。
でも僕も恵玲奈ちゃんの意見に同意するよ。
ここまで来たんだ、絶対にクリア出来るさ。」
「その言葉、信じるからね。」
――二時間後
「感動のエンディングってこういうのを言うのよね!
ああぁ、涙で画面が見られないじゃない。
って、ここも私が動かすのか……あー指が言うことを聞いてくれない。」
阿里沙は親指に激痛を走らせながら何とかクリアまでこぎ着けた。
途中、何度も諦めかけるも、
竜二と恵玲奈の必死の説得と助言のおかげでプレイを継続していた。
挑戦回数はゆうに30回を超え、
端で見ている方もなかなか大変な状態だったのは言うまでもないだろう。
約一名を除いては。
「いやー、見ているだけのコッチも手に汗握っちゃったよ。」
「流石に最後の挑戦で巨像に一刺しした瞬間振り落とされかけたじゃないですか。
でも踏ん張ったから、私はそこで今回は違うなって思いましたよ。」
「あれは偶然という名のラッキーね。
もうね、指がガタガタなのでどうやったか全然覚えてないの、
いわゆる無意識ね。」
そう言うと阿里沙は荷物の整理を始め、
ゲーム機からディスクを取り出しディスクケースに収める。
そして飲みかけだった冷水をぐびっと一飲みで空にすると、
二人に向かって礼儀正しく頭を垂れた。
「竜二君、それに恵玲奈ちゃん。
二人とも忙しいところ有り難うね、
これで何とか取材の条件をクリア出来たわ。」
「良かったよ、
僕としては君がこのゲームを自力でクリアしてくれた事が嬉しいね。」
「あはは、お兄ちゃんも同じ事言いそう。」
拍手喝采、
そしてこの苦行から解放された安堵感で胸一杯な竜二と恵玲奈であった。
「ところで阿里沙さん、
取材の条件とか言っていたけど一体どんな取材なんだい?
差し支えないようなら聞かせてくれると嬉しいな。」
「そうね、場所も機材も借りちゃったしそのくらい良いわよ。
今度の週末に小規模だけどゲーム開発者向けのフォーラムがあるの。
業界的にはわりと注目されてて、
ライブラリの技術的な事からゲームデザインや
マーケティング話まで多岐に渡るんだけど、
主催側の取材に対する態度には妙な癖があってね。
ゲームを知らない・やったことない・興味のない方はご遠慮くださいってね。」
「それで……。
まあ業界向けのフォーラムじゃあ
そんなところもあっても可笑しくは無いけど、それまた趣向が偏っているね。」
そう言って阿里沙は何度か礼を述べた後、足早に【箱庭】を後にした。
そんなに遅い時間ではないが件のフォーラム開催まで日が無いと言えば無い。
予め調べておく必要があったり、用意する資料もあるだろう。
ゲームクリアよりも現実的且つ物理的な大変さがこれから始まるのだろう。
阿里沙的に言えば、
数時間で一番難関だったゲーム自力クリアが達成できたのだから、
意外と気分はいいのかもしれない。
余談ではあるが、机に突っ伏した星一朗は一向に起きる様子は無い。
恵玲奈はこのまま放置してもいいんじゃないだろうか、と
一瞬思ったが後がくどくどと面倒くさそうだったので、
ゴリ押しのパワープレイで星一朗を叩き起こすことにした。
・レベル1 身体を優しく揺すり、静かに声を掛ける
・レベル2 身体を激しく揺すり、耳元でそれなりの声で呼ぶ
・レベル3 身体を激しく揺すりながら、叫んだり音が出るものを使ったりする
・レベル4 もう面倒になったので口と鼻を塞ぐ
恵玲奈は状況に応じて兄を叩き起こすスキルを習得しているが、
この時使用したスキルはレベル4だった。
星一朗は一発で目覚めた、実に無慈悲かつ殺伐とした技である。
「おはようございます。
そしてさようなら竜二さん。」
半分目をつぶったまま、足をふらつかせながら、欠伸を一つ入れながら、
目覚めの挨拶と別れの挨拶を同時に行う星一朗であった。
今日一日はもう完全に使い物にならないだろう。
「気をつけて帰るんだよ、特に星一朗君はね。」
「大丈夫です、今日はタクシーで帰りますから。
もちろんお兄ちゃん持ちで。」
「なるほど、それは名案だ。」
竜二も納得の表情を浮かべる。
タクシー代がいくらになるかは分からないが、
ふらつきながら帰って、途中事故に遭うよりは絶対に安全だろう。
「叩き起こされたと思ったらタク代を支払わされる仕打ち
……しくしくしくしく……。」
「鬱陶しいのでさっさと連れて行きますね。」
「竜二さん、取り敢えず大学の方は一段落したんで、
明日また改めて来ますよ。
借りていた【ファイナルファンタジー5】について聞きたい事もあるし。」
「それは別に構わないけど……
今後は節度を守って遊びに来てくれた方がいいね。」
ギロリと恵玲奈の鋭い視線が星一朗に突き刺さる。
星一朗はしゅんとなり、とぼとぼと恵玲奈の後について店を出たのであった。
竜二は黒瀬兄妹のやり取りを見て思わず一笑してしまった。
尻に敷かれた旦那と肝の据わった奥さん、
と言うよりは世話好きな母親に頭が上がらない大きな息子に見えたからだ。
「妹に甘いと言うよりは、
弱いと言う言葉の方がしっくり来るんじゃないのかな。」
続く!
ゲームソフトの選定は作者個人の独断とプレイ経験で決定しています。
一部偏ってしまう事もありますが、何卒ご了承ください。