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「ねー、ハル」
「…」
「ハルー」
「…何だ」
“ハル”と呼ばれた男は書類から目も上げずに名を呼んだ男に対して返事をする。
「ハールー」
「だからなんだ」
自分の呼びかけを存在に扱うのが気に入らないのだろうが、
ここはハルミオンの執務室であり、ついでに言うと仕事中に押し掛けているのは向こうの方だ。
でもまぁ、いい加減うるさいので顔を上げる。
「レイ、仕事に戻らなくていのか」
はぁ、君までそんな事言うの。レイモンドはため息をつく。
「今は休憩中。それに、さっきまでちゃんとしてた。 て言うか、もう疲れた」
どうやら珍しく機嫌が悪いらしい。
この時期―春―は毎年新人が入ってきたり、異動があったりと、王宮内は何かと忙しない。
「仕方ないだろう」
「分かってる、けどさ…」
「もう5日くらい、ディアとまともに会ってないんだよ」
なるほど、原因はそれか。ハルミオンは、半眼でレイモンドを見る。
“ディア”というのは、レイモンドの最愛の妻のこと。
結婚して早9年。子供までいるが、いまだバカップルだ。
「なら、さっさと終わらせろ。こんなところでさぼる暇があるのなら、もっと政務に励め」
レイモンドが忙しいのなら、同じようにハルミオンも忙しい。
ひどいなあとぼやいたレイモンドは、部屋から出…るのかと思いきや、座っていた長椅子にうつぶせになる。
「……おい」
「わかってるー」
全く…。ハルミオンはクッションに顔をうずめる友人に視線を向ける。
きれいな金髪に青い澄んだ瞳。優しげな甘いマスクの友人は、まるで物語に出てくる王子の様だ。
「実際、王子だがな」
小さな呟きが聞こえたのか、レイモンドは顔を上げる。
「んー?なんか言った?」
「いや」
レイモンド・リルテール。27歳になる彼はこの国の第一王子であり、時期国王となる男。
穏和な雰囲気を持ちながらも、やる時はやる。気さくな性格から、民の支持も厚い。
…とはいえ、妻リディアのこととなると途端に駄目になる男ではあるが。
「もー本当に、ディアと5日も会ってないとか、僕を殺す気か、って何その目。そんなわけないだろって思ってるよね」
そんなわけないと思う。そんなことで、死ぬわけがない。ハルミオンは頷く。
「ハルもさ、愛しい人と結婚でもすれば分かるよ」
「その手の話にはもう飽きた」
「だろうね」
ハルミオンは、レイモンドと同い年で27歳。
結婚適齢期は大幅に過ぎているが、未だ独身だ。若いが、既に公爵であり、王大子ハルミオンの従兄弟にして、彼の片腕手もである。加えて、一般的に美形の分類に入る精悍な顔立ち。
縁談は、ひっきりなしにやって来る。
しかし、ハルミオンは全てを断っている。
「…ハルが結婚を拒む理由は、僕も知っているつもりだけど、そうやってずっと逃げ続ける訳には行かないこと、君も分かってるよね」
レイモンドは、ふと真面目な顔をする。
「跡取りのこととか、ローウェル公爵家を潰すわけにはいかないしね」
「……」
無言のハルミオンに、レイモンドは、身を起こして苦笑する。
「それに君には、もう少し楽に息が出来る場所が必要だ」
「……」
無理強いをする気はないけどね。そう言ってレイモンドは、話を畳んだ。
この様子じゃ、妻を迎えるのはいつなるか、レイモンドは、そう思った。……が。