第二章・3
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ポツポツと一定の間隔を開けながら、電灯が照らしだすアスファルトの地面。その小さな光だけを頼りに、家路を急ぐでもなく東田は歩いた。珍しく早めの帰宅に、コンビニで買った晩酌用のビールの入った袋をぶらつかせながら。
人のあまり降りない駅から十五分以上歩く安アパートに、帰りを待っている者はいない。いつもよりちょっと長めの風呂に浸かって、温めるだけの夕食を食べて、寝るだけ。
東田はふと足を止めた。
真っ直ぐ家へと続く表通りから、奥へと伸びる横道。
手前にはトタン板で覆われた何かの工場。人の居ない建物に囲まれた電灯も少ないそこは、暗い表通りよりさらに暗い。多少、遠回りにはなるが、この道を行っても家へはたどり着く。
あの『みー太』のいる家の前を通り抜けて……。
急いで帰る必要はない。
家には帰りを待っている者もいない。
東田はいつもは通らない、暗い横道へと足を踏み入れた。
これはただの気まぐれなのだと自分に言い聞かせながら。
古い木造一軒家の玄関前。昼間、東田が置いた場所に『みー太』はいなかった。
あのサヨとか名乗った少女が後で自分で取りに出たか、帰って来た親が気づいて持っていったか。
それにしても……静かだ。そして暗い。
家の隣はどこかの工場の資材置き場にされているようで、有刺鉄線で囲まれている。道を挟んだ向かいは空き家のようで、家を囲んだ壁の入り口にロープが張られていた。
少し遠くに目をやれば、さぞかし家賃が安いだろうと思われる木造二階建てのアパート。窓のカーテンを通して、それぞれの部屋からぼんやりと明かりがもれている。
そう。まだ明かりのある時間だ。
腕の時計は夜九時を過ぎた頃。なのに、目の前の家には明かりがない。まあ、子供ならすでに寝ていた方がいい時間だが、家族はまだ起きていてもおかしくないと思うのだが。
『お母さん……いない』
少女の声を思い出す。
父子家庭なのだろうか。それならまだ仕事から戻っていないということも考えられる。いや、その場合、子供は託児所にでも預けなければまずいのではないか。
「まあ……関係ねぇか」
東田は呟くと少女のいた部屋の窓に一度目をやり、自分の家へと足を進めた。
◆◆◆◆◆◆
夜中に目にした景色は、朝に見るとまた違う物に見えるものだ。ただ、白く眩しい朝の光の中でも、目の前の木造家屋の見窄らしさが消えるわけではなかったが。
東田は、昨夜帰宅した道を今度は署に向かう際に通ってみた。
そう。ただの気まぐれだ。
この時間帯はどこかへの抜け道となっているのか、広くはない道に車の通りもまあまあある。
少女のいた窓の下へと来て、東田は眉間に皺を寄せた。見上げた窓の細い隙間からはベージュのカーテンが揺れている。
「おいこら。みー太がまた外に出てるぞ」
足元でだらしなく手足を広げている人形を拾い上げ言うと、あのおかっぱ頭が姿を見せた。
「あ……おじちゃんだ……」
少し驚いたような声が上から降ってきた。
「昨日はみー太は家に戻ったんじゃないのか」
「みーたん、お母さんと帰ってきた」
どうやら母親はいるらしい。
しかし人形を見れば、尻尾の付け根から綿が出たままだ。母親が拾ったなら、これぐらいは縫い直してくれないものか。
「それで、今日はなんでまた、みー太はこんなとこにいるんだ」
「……サヨはお外に出れないから」
昨日と同じ言葉を繰り返すサヨに、東田の眉間に皺が寄る。
「みー太はお前と一緒にいたいとさ」
「…………ほんと?」
「ああ。二階から落とされるのはうんざりだと。落ちた時にケツぶつけて痛いって言ってるぞ。俺は猫だけど運動オンチだから、もう窓から落とすんじゃねぇってな」
東田の言葉にサヨがくすくすと笑った。子供らしくない控えめな小さな笑い声だ。
「じゃあ、みー太はまた玄関に置いておくからな。後で取って来てもらえ。母ちゃんいるんだろ?」
「ううん。お母さんいない」
「は?」
この時間もいないのか。
「おじちゃん、もう行っちゃうの?」
サヨが窓際から離れた東田に言う。
「おじちゃんはガキんちょと違って忙しいんだよ」
「また来る?」
思いがけないサヨの言葉に誰かを睨んでばかりの目を、東田は驚きに大きくした。そして呆れたようにまた仏頂面に戻る。
「……お前、知らない人と話しちゃいけないって、母ちゃんに教わらなかったか」
ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し咥えながら言ってやった。
「……おじちゃん、お名前は?」
「あぁ?」
「お名前……」
少し怯えたようにおどおどと繰り返すサヨに、まだ火をつけていない煙草を咥えた口の端から溜息をつく。
「東田だ。東田昇」
「のぼる君、また来る?」
「ぶっ」
思わず煙草を吹き出した。『のぼる君』ときたか。
「お前な……」
「もう知らない人じゃないから話しても平気だよ」
ぎゅっと小さな手でカーテンを掴みながら言うサヨに脱力する。
もう来ねぇよ。
しかし、そう言おうとした東田の口から出た言葉は別のものだった。
「気が向いたらな」