第二章・2
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常磐が西山からの電話を切ると、大酉が小さく息を切らしながら戻って来た。鳴ったドアベルの音を聞いて、鈴が座敷部屋の戸を開ける。
「ただ今戻りました。すみません鈴さん。ごめんね常磐君」
常磐よりも先に鈴へと謝罪の言葉を言うと、大酉は乱れた息を整えるように大きく息をついた。そんな大酉を見て、鈴は常磐に言う。
「ということで大酉も戻ったことですし、どうぞお帰り下さい」
訳せばとっとと失せろというところだろう。
土産にと常磐は『今日のお勧め』を大酉に包んでもらった。小さな竹を横に切った器に冷やされた水羊羹。濃紫色の艶のあるそれは、味はもちろん喉越しも良さそうで、西山も喜ぶに違いない。
カラララン
涼やかなドアベルの音を鳴らし、蒸し暑い表へ足を踏み出したときだ。人が出て来るとは思わなかったのだろう。逆に店に入ろうとして来た誰かとぶつかる。
その人の手にしていたA4サイズほどの封筒が常磐の足元に落ちた。
「ちょっと! 気をつけなさいよ!」
常磐よりもずいぶん小柄なその少女は、相手が自分よりも年上の大柄な男で、しかも刑事だと分かっているはずなのに、かなり乱暴な口調でそう言った。
いや、分かっているからこその、この態度なのかもしれない。
少女、日暮 灯はこの蜃気楼に居候している女子高校生。鈴を危ないことに巻き込む常磐のことを良く思っていない。
「ごめん」
常磐は灯の落とした封筒を拾うため、しゃがみ込んだ。中の冊子まで外に飛び出してしまっている。
「……霞野、調理専門学校?」
冊子に書かれた文字を、つい口に出して読んだとたん、冊子は封筒ごと常磐の手から奪いさられた。
「勝手に見てんじゃないわよ。変態」
酷い口調で罵られる。
そういえば灯はもう三年生。進路を決めていなければいけない時期だ。それにしても料理の専門学校とは……。
灯の通う高校は、確かこの辺りでは有名な進学校だ。名のある大学への進学を目指す生徒がほとんどではないのだろうか。それに以前の鈴とのやり取りを聞いた限り、灯は料理があまり得意そうではなかったのだが。
ああ、なるほど。
理由に思い当たり、常磐は自分のあまり人相の良くない口元に、にまにまと厭らしい笑みが浮かぶのを感じたが――
「……馬鹿みたいだって思ってるんでしょ」
灯が曇らせた顔をふいと逸らし言った言葉に、その笑みが萎む。
灯が料理に目を向けたのは、鈴の影響に違いない。それ以外はありえない。
蜃気楼は客は少ないとはいえ、鈴の作る菓子の味は確かだ。ひょっとすると、灯はこれから先の未来に、蜃気楼での鈴と自分を思い描いたのではないか。
蜃気楼の主人として店を切り盛りする鈴の隣で、一緒に菓子を作る。そんな未来を。
それを馬鹿みたいだなんて……
「思わないよ」
むしろ寂しいと思う。
灯くらいの歳の女の子が好きな人、それも自分のことを想ってくれているであろう相手の傍にいるのに、何か理由と手段が必要だなんて。
このぐらいの歳の恋愛なんて、もっと無鉄砲で、もっと我が侭で、馬鹿らしいものでいいはずだ。
常磐の言葉が意外だったのか、意思の強そうな黒い瞳を丸くして灯は常磐を見た。しかし、またすぐにいつものように目を細めると、常磐の横をすり抜けるように店の中へと入っていった。
「鈴様に言ったら、ぶっとばすから」
そう忠告することを忘れずに。刑事を脅迫するとはいい根性だと思う。
常磐は水羊羹がぬるくなる前にと、署への道を急いだ。
◆◆◆◆◆◆
「美味しい~」
持ち帰った土産は西山の機嫌を直すのに十分な効果を発揮した。
ひんやりと瑞々しい舌触り。食感はしっかりとコシがあり、つるりと喉へと滑り込む。さっぱりとした上品な甘さで、いくらでも食べられそうな気がする。
早くも二個目に西山が手を伸ばそうとしていたときだ。
「いて!」
後頭部に衝撃を受けて、常磐は振り返った。
「呑気に何食ってやがる」
「東田さん、声を掛ける前にまず殴るのは止めてください……」
「あんたも食べる? 鈴君の作った水羊羹」
西山が差し出したそれに、東田は不愉快そうに顔を歪めた。
「あの気味悪いガキが作ったもんなんか、食いたくもねえ」
「あら、もったいない。美味しいのに。鈴君のどこが気味悪いのよ。可愛いじゃない」
「可愛いだぁ?」
東田にとって捜査に協力している鈴は、捜査に首を突っ込む単なる厄介者にしかならない。その方法が『夢』という曖昧なものを頼っているせいもある。
そういう点、柔軟な西山に比べ頭が固い。普段は適当なくせに、誰か部外者に首を突っ込まれるのは我慢ならないようだ。
「じゃあ、今度の放火魔の逮捕も朝日奈のガキに手伝ってもらうんだな」
東田の言葉に常磐は一瞬ギクリとする。
「うるさいわね。あんたの方の事件はどうなったのよ」
「は。無事、容疑者確保だ。今日は先に帰らせてもらうぜ。そっちは仲良く夜の見回りにでも行くんだな」