第一章・4
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「救急車呼んだ方が良さそうか」
東田は窓の下でしゃがみ込んでいる青田が、両手に抱え上げている物を見て言った。
「いえ。結構です」
「そうか? ほら見ろ。腸が飛び出して重傷だ」
「腸と言っても“綿”ですけどね」
東田がかけてくる言葉に、不快感を隠そうともせず青田は言うと立ち上がった。
「見ればわかるでしょう? お騒がせいたしました」
青田が両腕に抱えていたのは猫のぬいぐるみだった。
手作りなのか、黒いタオル地でできていて、白と黒のフェルト生地を合わせただけのビックリしたような丸い目が貼り付けられている。口は赤いバッテン刺繍。大きくてパンパンに膨れた頭に不釣り合いな、ふにゃふにゃの体には、これまた不自然に長い手足と尻尾が木製のボタンで止められている。落ちたときにどこかに引っ掛けたのか、尻尾の付け根から綿がはみ出ていた。ぐらぐらする首には金の鈴が真っ赤なリボンで結ばれている。
確かに赤ん坊くらいの大きさのそれが、窓から落ちる所を見れば、誤って子供が転落したと思ったかもしれない。
東田は上を見上げた。
さほど高くない位置に二階の窓がある。東田の頭上一メートルほどの位置だ。
地味なベージュ色のカーテンが引かれた窓は、右側が大人の腕が入るぐらいの幅で空いている。反対側を見れば、何か棒のようなものが磨りガラスの向こうに透けて見えた。
これ以上、開かないようにしてあるらしい。青田が手にしたぬいぐるみも、押し出しでもしなければあの隙間をこの頭が通るのは難しそうだ。
子供でもいるのだろうか。
「子供がいるんでしょうか」
青田が窓の隙間を覗くように顔を傾けながら、東田が思っていたことを口にした。
「すみません! 誰かいますか? 人形落としましたよ!」
また面倒なことを。
窓に向かって呼びかける青田に東田は溜息をつく。
「いないのかな」
「おい、もう行くぞ」
「ですが……」
「玄関の前にでも置いておけばいいだろ」
青田を促して車に戻ろうとしたときだ。ベージュのカーテンが揺れて、小さな手が窓のサッシを掴んだ。その奥、細い窓の隙間から顔を覗かせたのは、まだ小学生にもなっていないであろう、幼い少女だった。
「この人形、お嬢ちゃんのかな?」
青田はにっこりと笑顔で少女に人形を見せた。すると、少女はおかっぱの前髪を揺らしながら、コクリと頷いた。
はい、とか、うん、とか声を出せ。
東田は思ったが、青田はにこにことしながら続ける。
「そうか。じゃあ、これ取りに来られるかな。それとも、おうちの前に置いておいた方がいいかな? お母さんはいる?」
「お母さん……いない」
くりくりとした目で刑事二人を見下ろしたまま少女が言って、青田と東田は顔を見合わせた。
「どういう意味……ですかね」
「深く考えすぎるな。今どき共働きなんか珍しくもねぇ。それに、俺があんぐらいのガキんときは、親がちょっと買い物行ってるときくらい、一人で留守番くらいしてたわ」
「まあ、そうかもしれませんけど……」
「いいから、ほら、さっさと用を済ませろ」
東田は青田の手から猫のぬいぐるみをひったくると、腕を伸ばし少女の前に差し出した。
「お前のなんだろ? ほら、腕伸ばせ。届くだろ」
しかし、少女は腕を出すことはなく、愛らしい顔を曇らせた。
「ちょっと、東田さん子供泣かせないでくださいよ」
「あぁ? これ位で泣くか」
「東田さん、相手は幼児です」
だから子供は嫌いだ。
子供を睨む代わりに東田は青田を睨むと、青田も負けじと睨み返してきた。
この野郎。
「みーたんは、お外に出してあげたの……」
二人が睨み合っていると、頭上から遠慮がちな声がした。
「みぃた、だぁ?」
思わず睨みあっていたままの顔で少女に目を戻した東田に、少女は怯えたように両手でカーテンを握り締める。
「東田さん、ぬいぐるみの名前ですよ」
「それぐらい分かってる。……それで、みー太はなんでお外に出したんだ」
「みー太じゃなくて、みーたんです」
「どっちでもいいだろうが」
作り笑いを浮かべながら少女に訊くと、
「サヨは、お外に出られないから」
返された答えに、再び東田と青田は視線を交わす。
サヨというのが少女の名前だというのは、すぐ分かることだが、外に出られないというのはどういうことだろうか。
「ねぇ、お嬢ちゃん――」
「おい! みー太は玄関に置いておくからな」
少女の方に向き直り、何かを言おうとした青田の声を遮った東田は、青田の襟首を引っ張るようにしながら窓の下を離れた。
「ちょっと東田さん!」
「なんだ。これ以上、あのガキから何か訊いてどうするつもりだよ。例えば、あいつが体が弱くてお外で遊べないの。とか言い出したところで、どうしようってんだ」
「それは……」
「だろうが。おら、戻るぞ」
玄関は今どき珍しい縦格子の引き戸だった。その戸の前に猫のぬいぐるみを座るようにもたれさせると、東田はまだ少女を気にしている様子の青田の先に立って、車へと戻った。