第九章・1
第九章
―1―
その日は東田が鈴を迎えに来た。すでに夕暮れが近くなった時間だったが、常磐は西山と出ていて捕まらなかったのだ。
鈴は東田を見ると怪我をした足に不審な視線を落とした。
「もう車ぐらい運転できる。さっさと来い」
「ならいいんですが」
助手席ではなく後部座席の運転席の後ろに鈴は乗り込むと、シートベルトを締めた。
バックミラーで確認しづらいその位置の鈴に、東田は車を発進させながら声を掛けた。
「おい」
「何でしょう」
「お前はどう思ってるんだよ。あいつが目を覚ました方がいいか、しないほうがいいか」
「どちらでも。俺はただ小夜に事実を伝えに行くだけですから」
淡々とした鈴の声が返ってきた。
「目を覚ました方がいいと思っているなら、俺はあの子に一日中そばについて、声を掛け続ける。そうじゃなかったら二度と会いには行かずに最期の時が来るのを待つ。でも、あなたはあの子に選ばせると言った。だから俺はどちらもしない。」
冷たいようにも思える鈴の言葉だが、それが東田が鈴に望んだことだ。それなのに東田は苦々しい気持ちになる。
どこかでやはり、鈴も小夜を目覚めさせてやるのではと期待していたのかもしれない。
小夜の病室のドアを開けると、そこには霧藤と月島がすでに来て話をしていた。
「どうも東田さん。鈴、体調は?」
「別に」
「そう。それは良かった。昨夜は遅くに常磐さんが来ていたらしいしね」
「……大酉か」
昨夜は結局、霧藤は蜃気楼には帰っては来なかった。それでも常磐が来たことを知っているのは、大酉が報告したからだろう。灯は霧藤にそんなことをわざわざ教えたりしないし、常磐もできれば黙っていたいはずだ。
「また常磐さんにワタリをしたんだ」
「愁成には関係ない」
素っ気無く言いながら、鈴は小夜の枕元へと向かう。小夜の様子は相変わらずだ。丸い目を開いたままのぬいぐるみとは対照的に、ずっと瞼を閉じている。
「どうした。今日で終わりにするんだろ」
東田が後ろから急かすように言うと、鈴が振り向いて東田を見上げた。
「はい。今日で終わりです」
わざわざ繰り返された言葉に東田は苛つく。
本当にこれで良かったのか。
これで小夜が目を覚まさなければ、それが小夜の意志だったのだと自分を納得させることができるのか。
小夜の枕元に立つ鈴に、やっぱりやめろとその肩を掴みたくなる手を握り締める。
鈴が昨日と同じように小夜の額に額をつけた。今回はちゃんと霧藤がワタリを終えた鈴を支え椅子へと運ぶ。それを見てから東田は病室のドアへと向かった。
「あれ東田、どこ行くの」
「ヤニ切れだよ。ヤニ切れ。表の喫煙所にいるから、そいつが戻ってきたら呼びに来い」
「でも――」
自分を引きとめようとする月島の声は無視して、東田はまだ少し痛む足を速めて病室を出た。
◆◆◆◆◆◆
チリン
聞えた鈴の音に、小夜は部屋の壁際にいるみーたんを見た。
「みーたん。おいで」
また動き出したみーたんに、小夜は両手を広げた。みーたんは辺りを見回すように大きな頭をキョロキョロさせながら小夜の方へと歩いて来る。
「おばあちゃんがね、今日はカレーを作ってくれるって。みーたんも食べる?」
「ああ、そうか。ここは居間か」
いつもの小夜の部屋ではない。畳の敷かれた和室にはちゃぶ台があり、座布団が向かい合わせに二枚、用意されていた。隣は台所のようで、磨りガラスの引き戸の向こう側に料理をしている小柄な人のシルエットが見える。まな板を叩く包丁のテンポの良い音も聞えてきた。
小夜の中にあった『おばあちゃんとの楽しかった記憶』が次々と呼び起こされているのだろう。
「小夜ー。ちょっとお手伝いしてちょうだい。スプーンをね、テーブルに運んでおいて」
「はーい」
小夜は磨りガラスの戸を開けて台所へと向かう。おばあちゃんからスプーンを受け取ると、おばあちゃんは頭を撫でてくれて、思わず小夜は笑顔になる。
スプーンを手に戻ってきた小夜はそれをテーブルに並べ、「あっ」と小さな声を上げた。
「みーたんのスプーン忘れちゃった。みーたんのも今、もらってくるね」
「小夜」
台所へと戻ろうとする小夜をみーたんが呼び止めた。
「何、みーたん」
「悪いけど今日で小夜とお話するのは最後なんだ」
小夜は目を丸くしてみーたんの前に駆け戻る。そしてその丸い両手をぎゅっと握った。
「なんで」
「もう、あんまりゆっくりしていられないんだ。言っただろう? 小夜は今、本当は病院のベッドで寝ているんだって」
「……うん」
初めてみーたんと話したとき、そんなことを言っていた。
「小夜は選ばなくちゃいけないんだ。このままこの世界にいるか、それとも目を覚ますか。もう一度だけ言うよ。小夜は今、本当は病院のベッドの上にいる。それに小夜は怪我をしている」
「怪我? サヨ、どこも痛くない」
「目を覚ませば、きっと痛いと思う。本当はこの家ももう焼けてなくなっちゃってるし、前にも言ったけど小夜のお父さんとお母さんはもういない」
そういえば、おばあちゃんが帰ってきてから、お父さんとお母さんの姿を見なくなった。
「目を覚ませば、小夜は一人ぼっちだ」
「ひとり……ぼっち」
小夜が呟いたときだ、ポンと後ろから両肩に手が置かれ小夜は振り向いた。そこにはおばあちゃんがいて、優しく微笑んでいた。
「おばあちゃん……」
小夜はみーたんに訊いた。
「おばあちゃんは? 目を覚ましたら、おばあちゃんはどうなるの?」
「おばあちゃんはお星様になったって、小夜も言ってただろ? 目を覚ませばまた、おばあちゃんはお空に戻るだろうね」
「そんな……」
小夜はおばあちゃんの足にしがみつくように抱きついた。
「いや! サヨ、おばあちゃんと一緒がいい。おばあちゃん、サヨ、おばあちゃんと一緒にいてもいいでしょ?」
叫ぶように言う小夜をおばあちゃんはふわりと抱きしめて背中をさすってくれた。
それを見てみーたんは小夜から離れると、小夜に背を向け居間の襖を開いた。部屋から出て行こうとしているのだろう。これでみーたんと話をすることはもうない。それでも、小夜はみーたんを引き止めることはしなかった。
そうだ。これからはおばあちゃんとずっと一緒だ。
それでいい。
「あぁ、そうだ。一つ言い忘れてた」
そう言うと、襖の向こうでみーたんは振り向いた。
◆◆◆◆◆◆
どのくらい経っただろうか。
東田は次の一本を取り出すと、空になった煙草のケースを握りつぶした。
小夜の病室にいたときにはまだ明るかった空が、すでに暗くなっている。空には星がやたらと綺麗に瞬いていた。
わざわざ肺に取り込んだ煙を全て吐き出すように大きく息をついて、東田はベンチにもたれるように座った。
こうして待つだけなんていうのは性に合わない。自分は今、後悔しているのだろうか。朝日奈 鈴に任せたことを。
鈴にも言われたように、どうせ後悔するくらいなら、自分で目を覚ませと毎日呼びかければ良かったのか。しかし、とても目を覚ませとは言えないだろう。この辛い現実に戻って来いなどと呼びかけるなんて。何て声を掛ければいいんだ。
それでも、それならと割り切って小夜を放っておくこともできなかった。
目を覚まさない方が、もしかしたら小夜にはいいかもしれない。
もし今、小夜が幸せな記憶の中にいるのなら……
そこへバタバタと月島が不恰好な足取りで走ってきた。
「東田! 病室に戻れ! 小夜ちゃんが――」
ああ、そうか……。
そのときになって、ようやく東田ははっきり分かった。
やっぱり自分は小夜に戻って来てほしいと思っていたのだと。
長く伸びていた煙草の灰が、ほろりと足元に崩れて落ちた。




