第八章・3
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バチンと木が爆ぜる音がした。
目の前には夜の闇の中、赤い炎に浮かび上がる建物のシルエットがある。普通の家とは少し違う、平屋のような造りの少し大きな建物だ。
横には垣根に囲まれた庭があって、小さいがブランコと雲梯、目を引くウサギが伏せをした形の滑り台。そして古タイヤを並べた遊具があり、その上には大きな木が枝を広げていた。
強い風が火を巻き上げ、庭のそれらにも飛び火する。タイヤからどす黒い煙が上がり、防火マスクの中で大きく息を一つ吸い込んだ。
ああ、なんてすごい炎なのだろう。
全てを焼き尽くすかのような激しさで、建物をどんどん包み込んでいく。焼け落ちるのも時間の問題だ。しかし、その前に自分にはやるべきことがある。
手にしたホースを建物の入り口に向け放水を開始する。濛々と煙を立てながら火が消え、ポッカリと建物の中へと口を開けた。まるでこちらを誘うかのようだ。
しかしそんなものに恐れはしない。一瞬笑みの浮かんだ口元を引き締め、その入り口へと駆けて行く。
そうだ。待っていろ。
ここからが俺の出番だ。
建物へ一歩、足を踏み入れたそのときだ。小さな黒い固まりが急に目の前に飛びかかってきた。突然の出来事に驚き尻餅をつく。
チリン。
鈴の音に振り向けば、黒猫が一匹こちらを見ていた。ここで飼っていた猫だろうか。
ガラガラと建物の中で天井が崩れてハッと中へと視線を戻す。
猫なんかにかまっている場合ではない。急いで立ち上がると激しさを増した炎の中へ走る。
そう、自分の助けを待っている者の元へと――。
◆◆◆◆◆◆
炎の中へと消えた消防士を見送ると黒猫は口を開いた。
「いい加減、同調者の意識からはがれるくらいは、自分でできるようになったらいかがですか、常磐さん」
その声は鈴のもので、常磐は消防士が入っていった建物の入り口に尻餅をついていた。
しゃべる猫に目をやると、それはすでにいつものグレーのパーカー姿の鈴へと変わっていて、呆れたように常磐を見下ろしている。
「……そうですね、すみません」
「西山さんは頼りになる人ですね」
「あ、それじゃあ……」
西山が自分を蜃気楼へと連れてきてくれたのだということが分かり、常磐はホッとする。
「あの、朝日奈さん、俺……」
「いつまでそうしてるんですか。早く追いかけた方がいいんじゃないんですか。あれが今回の犯罪者なんでしょう?」
謝ろうとした常磐の言葉を遮り言う鈴。
『同調者』ではなく『犯罪者』という言葉に少し戸惑う。しかし、いつまでも目を背けてはいられない。
そう、自分が同調するのは犯罪者なのだ。
「はい」
常磐は立ち上がり消防士を追いかけ建物の中へと向かった。
中は煙が立ち込めていて視界が悪い。常磐は腕で口元を覆い奥へと進む。すると横の壁が焼け落ちてきて、落ちた壁の向こうから勢いよく炎が噴き出してくる。
「あちっ!」
思わず口にした常磐だったが、
「熱い? へえ、熱いんですか、へえー」
「……熱い……わけがないです……ね」
ポケットに両手を突っ込みながら着いてきた鈴の、炎をも凍らせるような冷たい声に自分の言葉を訂正する。
ここは夢の中。目の前にある炎が熱いわけがない。分かってはいても、ついつい言ってしまいませんか? と鈴に訊きたかったが、炎よりも今は鈴の方が怖い気がしてやめた。
「ほら、行きますよ」
燃える柱を何事もなく跨いで進む鈴に、常磐はそれでも自分に火が燃え移らないかと、ビクビクしながら後に続いた。
ちゃんと理解すれば煙にも息苦しさを感じることはない。
奥へ奥へと進むと一つの大きな部屋へと来た。引き戸で仕切られたそこは、何かの宿泊施設のようにも見える。そっと中を覗き込むと、赤々と燃え盛る炎の向こうに消防士の姿を発見した。
それを見て鈴が言う。
「なるほど、今回はあれが目的らしい」
その姿は、何も知らなければ、まさに英雄に見えただろう。
消防士は炎の中から幼い少女を両腕に抱きかかえていた。少女をこの炎の中から助け出すところのようだ。
しかし常磐は感じた。消防士がマスクの下でほくそ笑んでいるのを。
そして理解した。彼にとってあの少女は自分が英雄になるための道具にすぎないのだと。
そのとき、焼けた柱が鈴へと倒れてくるのに常磐は気づいた。
「朝日奈さん、危ないっ!!」
常磐は叫んだが、鈴はというと炎に包まれた重そうな柱を、いとも軽々片手で受け止めてみせた。もう片方の手はポケットに突っ込んだまま。
「……わあ……力持ちですね……朝日奈さん」
「あなたの適応能力のなさには本当に感心します」
「恐縮です……」
「そんなことより、ちょっとまずいかもしれないですよ、常磐さん」
柱を投げ捨てる鈴。その先には消防士が少女を抱えながら、二人に顔を向けていた。こちらの存在に気がついたようだ。
マスクのせいで顔は見えない。しかしこちらに対する不信感のようなものが感じられた。それはそうだろう。炎の中、スーツ姿の男と中学生くらいの少年が慌てることもなく自分を見ているのだから。
「あ、あの、俺は刑事で――」
常磐は説明しようとしたが、そのとたん周囲の炎が勢いを増した。
「うわっ」
「どうやら燃料を投下したようですね。彼は刑事が嫌いなようだ。まあ当然ですが」
そうだった。相手は消防士ではなく、本当は犯罪者。刑事を名乗る相手に友好的な態度に出るわけがない。
消防士は体をこちらに向けて仁王立つ。すると、炎と煙が一斉に常磐と鈴に襲い掛かってきた。
「わあぁっ!!」
分かっている。しかし襲い掛かる炎の迫力に、常磐は腕で顔を守るよう覆い隠す。周囲をぐるりと火に囲まれた。服や髪を炎が焼き始め、必死でそれを払い落とす。
熱くはない。そのはずだ。なのに体から汗が噴出す。
黒く喉元に纏わりつく煙に息が苦しくなってくる。
常磐は炎の中に膝を着いた。
もし……。
もしもこのまま、夢の中で焼け死んだら、自分はどうなるのだろう。
そんな考えが頭をよぎったとき、急に黒かった視界が開けた。どこからともなく吹いた風に煙がさらわれていく。
顔を上げると鈴が真っ直ぐに消防士と向き合っていた。鈴の目の前にも炎が襲い掛かるが、鈴はそれをなぎ払うように手を真一文字に振る。すると炎はすべて消防士の方へと一気に押し返された。
消防士が炎を避けようと慌てたように背を向ける。しかし再びこちらを振り向いた消防士に合わせ、一際大きな炎の波が常磐と鈴に襲い掛かってきた。
身構える常磐とは対照的に鈴は涼しい顔で、両手を顔の横へ一度引くと、それを押し出すように前へと突き出す。
襲い掛かってきた炎は、こちら側にあった炎までもが合わさり、まるで大きな津波のようになって勢いよく押し戻されていく。
さすがというべきか。夢の中で鈴は自由自在だ。
炎を全て押し返すと、鈴は手を下ろした。
「夢の中で俺とやり合おうなんて、十五年早い」
「朝日奈さん……年数がリアルです……」
消防士は炎に包み込まれ、取り乱したように腕に抱いていた少女を落としてしまった。しかし、もがいても鈴の放った炎は離れない。
やがて消防士は少女を置いて反対側にあった庭に抜ける窓を破り、外へと走り出て行ってしまった。
少女のいた場所は焼け、後には何も残っていなかった。
◆◆◆◆◆◆
なんだかいい匂いがする。
香りの方へと寝返りを打って、常磐は目を開いた。
「あぁ……朝日奈さんだ」
目の前にあった幼さの残る寝顔に呟くと、バチンと頬に衝撃を受けた。
「目を覚ましたんならとっとと起きなさいよ!」
灯に罵声を浴びせられたかと思うと、襟首を引っ掴まれ起こされる。寝ぼけた頭がぐらぐら揺らされ、気持ちが悪くなりそうだ。
起き上がった常磐は灯から解放された襟首の釦を息苦しさに外す。うっすらと汗を掻いているのは、夢のせいか、それとも、ただ蒸し暑いせいなのか。
常磐は灯の隣にある西山の姿を見て安堵する。
「西山さん……」
「平気? 常磐」
「はい。今叩かれた頬以外は」
言うと、また灯にどつかれ息が詰まる。夢の中よりやはり現実の世界は恐ろしい。
「ありがとうございます、西山さん。西山さんなら分かってくれると思っていました」
「お礼なら鈴君に言って。それでどうだったの。やっぱり例の夢?」
「はい。あの夢です。でも、犯人が誰かまでは分かりませんでした……」
常磐が悔しそうに言うと、
「だけど、犯人にまた放火をしようという意識が芽生えていることと、次の狙いは分かった」
寝転んだままの鈴の口からそんな言葉が出た。鈴が戻ってきたことで、灯が安心したように表情を緩ませる。こちらは乱暴に引き起こしたりは絶対にしない。のろのろと鈴が体を起こすのを支えてやったりしている。
「次の狙い?」
西山の問いに常磐は頷いた。
「はい。次は人が居るところを狙うつもりみたいなんです。それも子供がいるところを」
「子供ですって?」
小夜の時は犯人も、中に人が居るとは思っていなかったのかもしれない。小夜の家は傍から見れば空き家のようだった。この家なら火を点けてもいいだろうと。前回の夢の中にも、向かい合っていたのは炎と煙だけで、そこに人の姿はなかった。
でも今回は違う。
子供がいること。それがあの夢の中でもっとも重要な意味を成していた。もし次に火を点けるとしたら、子供がいるところだ。犯人はそれを望んでいる。
それを聞いていた鈴は大酉が運んできた茶を飲むと言った。
「子供がいるところなんて大雑把なところじゃない。狙っている場所だったらもっと絞れるはずだ。大酉、紙と何か書く物」
「はい」
大酉は一度部屋を出て行くと、メモ帳と鉛筆を手に戻ってきた。
「夢の中、火に包まれた建物。内部の様子は特徴がなく曖昧でしたが、外側は色々と特徴がありました。おそらくすでに下見をしているんでしょう。子供が必ずいるような……そうですね、例えば小さな公民館や児童館のような印象で――」
鈴は言いながら鉛筆を握ると紙の上を走らせた。白い紙に浮かび上がってくる建物の形。
平屋造りの、普通の家よりは少し大きな建物。垣根に囲まれた庭。小さなブランコと雲梯、並んだタイヤの遊具、枝を広げた大きな木。次々と描かれていくそれらに目を見張る。見事だ。
最後に一度、思い出すように視線を天井へと向けた鈴が描き上げた物を見たときだ。西山から呟きが漏れた。
「あけぼの園……」
「え?」
常磐は鈴の手にしたメモ帳を見る。そこに描かれていたのは、珍しいウサギの形をしたすべり台だった。




