第七章・3
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病院の入り口を入ってきた鈴の姿に、東田は受付前の長椅子から立ち上がった。
この蒸し暑い中では黒っぽい長袖、長ズボンという恰好は、地味なようで目立つ。
「もう足はいいんですか」
昨日まで持っていた片松葉を持たない東田に鈴は言った。
「もともとたいした怪我じゃねぇ。行くぞ」
顎で鈴を促し、東田は足を少し引きずりながら先に立って歩く。小夜の病室へと行くと、そこにはすでに月島が来ていた。
鈴が広くはない部屋に視線を巡らす。そこに霧藤の姿はない。そんな鈴の様子に月島が気づいた。
「霧藤君は自分の仕事が空けられなかったらしくて、来られないそうだよ」
「……そうですか」
「大丈夫、君がワタリをしている間は私がちゃんと見ているから」
「大丈夫かどうかなんて、俺には分かりませんけどね。俺は寝てしまっているんだし」
必ず皮肉を返す鈴にも、月島は楽しそうに笑う。
「まあ、こうして刑事もいるんだし。安心して行って来てよ」
「そんなヒゲのオッサン刑事がついていても不安要素にしかならないですけど」
悪態をつきながら鈴は小夜の枕元に立つと、おかっぱの前髪を指先ですくい上げ額に額をそっと触れさせた。
本当にこんなことで小夜の夢の中へと入っていけるのかと、東田は思う。そしてこうしてまた、鈴にワタリをさせるべきだったのかとも。
少しすると、鈴が病室の床に膝から崩れるように倒れた。手を着く事もなく、ゴツと頭を床に打つ小さな音がした。
「あ、しまった。そうだった。昨日は霧藤君が支えてやっていたっけ」
「おい」
マイペースな月島に東田も呆れる。
「大丈夫、大丈夫。もう向こうに行っちゃってるんでしょ? 気がつかないよ」
笑いながら月島は、よっこいしょと床から鈴を抱えあげた。
◆◆◆◆◆◆
チリン
小さな鈴の音が響いて、小夜は窓の外を見ていた顔を部屋の中に向けた。
「小夜はまだ、この部屋の中にいるんだね」
見ると、そう言いながらみーたんが立ち上がるところだった。
「みーたん!」
小夜はみーたんに駆け寄るとぎゅうと、その柔らかな体を抱きしめた。みーたんは少し苦しそうにもがいたが、綿の詰まった手で頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「どうしたの。お父さんとお母さんに怒られた?」
「ううん。お父さんとお母さんはすごく優しいの」
「そう。良かったね」
「うん……」
浮かない表情の小夜の両頬をみーたんは丸い手で挟む。
「どうした小夜。そんな顔して。ここは小夜の思い通りになる世界なのに」
「うん。お父さんもお母さんもサヨをゆうえんちに連れてってくれるって言ってくれた。お母さんはサヨの頭をなでてくれたよ。でもね、でもそれだけなの」
「それだけ? 小夜、小夜は遊園地がどんなところか知ってる?」
「ううん。でもね、おばあちゃんが、ゆうえんちは楽しいところだって行ってた。サヨを連れて行ってあげたいって」
「そうか……」
重たそうな顔を下に向けたみーたんの手を握って、小夜はドアを出た。外に出ても怒られないことはもう分かっている。
「みーたん、一緒にお外で遊ぼう。お庭のお花がとってもキレイなんだよ」
「うん、いいよ。遊ぼう小夜」
今日も小さな庭には白い花がいっぱい咲いていた。
「ね、キレイでしょ」
「そうだね」
「おばあちゃんも、このお花が大好きだったんだよ」
「小夜はおばあちゃんが好きなんだね」
「うん。おばあちゃんはもうお星様になったんだって。だからサヨにはもう会えないけど、いつも傍にはいるんだって」
みーたんにおばあちゃんのことを訊かれて、小夜は笑顔になった。
「みーたん、何して遊ぶ?」
すると、みーたんは小夜の手を引っ張りながら、玄関前のブロックの柱の方へと連れて行った。そこから道路の方へと一歩足を踏み出すみーたんに、小夜はその手を引き返す。
「みーたん、お外は危ないんだよ。出ちゃダメだよ」
「大丈夫。言っただろ、ここは小夜の世界。危ないことなんて何もない。さあ、行こう。俺がついてるから平気だよ」
「……うん」
小夜はみーたんの手を強く握り締め、道路へと足を進めた。振り返ると、そこにはいつもの自分の家がある。みーたんに引っ張られ、遠ざかる家から前へと視線を移す。部屋の中、狭い窓から見下ろしていた景色が小夜の両端にあった。それらを今は見上げながら歩く。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて……
「みーたん、どこまで行くの?」
「どこにも行けないんだな」
みーたんは立ち止まり言った。
さっきからずっと歩いていたのに、二人はまるで同じところをぐるぐると回っているかのように、景色がまったく変わらないのだ。
「小夜には分からないんだね。ここは小夜の世界だから。小夜が知らないことは作れない。普通、小夜くらいの歳になれば、もっと好奇心に任せて色んなものに触れているはずなのに。小夜の世界はたった六畳ほどのあの部屋だけだ」
だから、遊園地にも行くことが出来ない。
遊園地がどんなところなのか、小夜は知らないから。
お父さんとお母さんに甘えたら、我が侭を言ったら、二人が怒る以外にどんな反応を返してくれるのかも、小夜はあまり知らないのだ。
「小夜。世界はもっと広い。あの部屋の外にも家の外にも、この道の先にも、もっともっと世界は広がってて、そこには小夜がまだ見た事がないようなものがいっぱいある。もちろん、いいことばっかりじゃない。むしろ嫌なことばっかりだ」
「サヨはどうしたらいいの?」
「それは小夜が決めるんだよ」
「でも……」
「小夜が決めなきゃいけないんだ」
「だって……」
小夜の目に涙が浮かぶ。
どうしたらいいのか分からない。
いつもはお母さんが何でも言ってくれて、その通りにしていれば良かった。
部屋を出ちゃダメと言われたから出ないでいた。
お腹が空いたらこれを食べるようにと言われていたから、それを食べていた。
それなら今度はどうしたらいいの?
誰か。
誰か教えて。
「どうしたの、小夜」
ふと聞き慣れた懐かしい声がして、小夜は振り向いた。みーたんも驚いたようにそちらを向く。
二人から少し離れたところ、そこに落ち着いたピンク色の花柄ワンピースを着て、肩にストールを巻いた老婦人が穏やかに微笑み立っていた。
「おばあちゃん……おばあちゃん!」
小夜はみーたんの手を離すと、老婦人の元へと駆けて行った。
そこにいるのは間違いなく小夜のおばあちゃんだった。おばあちゃんは腰を屈め膝を着くと、走ってきた小夜を両手を広げて受け止めた。
小夜はおばあちゃんの胸に泣きながら顔を押し付け抱きついた。
鼻をすすると懐かしいおばあちゃんの匂いがした。お花の好きなおばあちゃんから、いつもしていた甘くて優しい香りだ。
「おばあちゃんっ。おばあちゃん、おばあちゃん……」
「はいはい。どうしたの。お腹でも空いたのかしら」
「ううん。サヨ、お腹はだいじょうぶ」
「そう? 小夜の大好きなオムライスを作ってあげようと思ったんだけど」
「オムライス……」
小夜が顔を上げると、おばあちゃんは小夜の髪を梳くように撫でながら微笑んでいた。
「食べたいかい?」
「……うん……うん! 食べたいっ。サヨ、おばあちゃんのオムライス食べたい!」
「そう。いい子ねぇ小夜は。大きいの作ろうね、いっぱい食べようねぇ」
「うん」
オムライスを食べたいと言っただけなのに、おばあちゃんは褒めてくれた。
「じゃあ、おうちに帰ろうか」
「うんっ」
立ち上がったおばあちゃんと手を繋いだ小夜は「あっ」と思い出し振り向いた。
「待って、みーたんが……」
そこにみーたんは居た。しかし、ついさっきまで両足で立っていたのに今は地面に寝そべっていた。駆け戻って抱き上げると、みーたんはまた、しゃべらないただのぬいぐるみに戻っていた。
「小夜ー。早くおいでー」
「はーい」
小夜はみーたんを抱えて、おばあちゃんのところへ走った。
◆◆◆◆◆◆
「あ、戻ってきた」
月島が言ったのは今回もやはり鈴のこと。ベッドの上の小夜に変化はない。
起き上がり目を擦る鈴は、頭を打ったことには気づいていないようだ。
「どうだった」
「まだ分からない……ただ、小夜のおばあちゃんに会いましたよ」
「おばあちゃん?」
「はい。小夜にとっての楽しい記憶がそこにはありました」
小夜の生きてきたまだ少ない時間の中で、幸せと呼べる時の全ては昨年亡くなった祖母と過ごした時間だった。
「明日、もう一度だけ来ます。それで最後だ。小夜がどうするか、ちゃんと聞いてきますよ」
明日、もう一度だけ。
それですべてが決まる。
東田は奥歯を噛み締めた。
鈴は寝かされていた椅子から起き上がると小夜の枕元に立ち、その顔をもう一度見る。小夜の目尻には涙が溜まっていて、それを鈴は指先で拭った。




