第六章・3
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ドアをノックする音がして、灯は読んでいた料理の本を慌てて仕舞うと返事をした。裏返った変な声になり咳き込む。
遠慮がちに開いたドアから鈴が外へと出掛けた恰好のまま、覗き込むように顔を出した。
「鈴様。えっと……おかえりなさい」
本当は鈴が外に行くことをあまり嬉しく思わない灯だが、そう言うと鈴は小さく微笑んで「ただいま」と言ってくれた。
「灯、今日はこの後、何かある?」
「え? あ……その……」
この後は大酉に頼んで台所を使わせてもらうことになっている。前に勝手に使ったときの使い方が悪かったのか、「片付けるのは私なんだからね」と怒られた。
料理は数学や国語と違って本を読んだだけではちっとも身につかないものらしい。できれば鈴にはまだ知られたくないが、蜃気楼では隠れて料理の勉強をするのは難しい。しかし、このことに関しては大酉が意外と協力的だ。
ついでに鈴が好きだという料理を、こっそりと教えてもらえることになっていたのだが――
「ちょっと勉強を……」
ありきたりの嘘をついて鈴を伺う。
嘘には敏感な鈴だからバレてしまうかとも思ったが、鈴は特にそれ以上追求してくることもなく
「そっか。大事な時期だもんな。頑張れ」
あまり灯の方を見ることもせず、簡単にそう言うとドアを閉めた。階段を降りていく鈴の軽い足音が遠ざかる。
灯は隠した本を再び開いた。
鈴があんな風に灯の予定を聞いてくるのは珍しい。
なんだか胸がざわついて、また本を閉じると灯は部屋を出た。
相変わらず客のいない店へと降り座敷部屋の戸をそっと細く開ける。鈴は服を着替えもせず、壁際で膝を抱えてそこに顔を埋めながら座っていた。眠ってしまってはいないらしい。
怒られるだろうかと思いながらも、灯は座敷部屋に上がった。
「鈴様?」
声を掛けると鈴は顔を上げた。ひどく疲れたようなその顔。
「何か……用事があったんですよね」
「眠り……いらないかと思って。今日はちょっと……もう眠りたくない気分で……でも――」
言いかけた鈴の前に灯は膝を付くと、唐突にその細い左手首を握った。
「いただきます」
驚いたように自分を見る鈴に言って、灯はそのまま鈴に正面から抱きつくように強引に体を預けた。一瞬、身を固くした鈴だったが、すぐに体の力を抜いたのが分かる。
「今度はいつもらえるんだろうって思ってたんです。最近ちょっと肌荒れが酷くって。寝不足はお肌に悪いんですよ」
灯の言葉に鈴が小さく笑う息づかいが聞こえた。かと思うと、鈴は灯の首筋に顔を埋めてきた。
「眠りたくないんだ。今日はもう……眠りたくない……」
鈴が今、どんな顔をしているかは見えない。
灯が欲しがってもいないのに、こんな風に鈴から眠りを取って欲しいと言ってくるのは珍しい。何があったのだろう。
もちろん眠りは欲しい。
それでも最近は眠ることよりも、起きている鈴と話をしていたいと思う。
自分の眠る時間より、鈴の起きている時間が欲しい。でもそこには必ず自分以外の邪魔が入るのだ。
最近は灯が蜃気楼に帰ったとき、鈴の姿が座敷部屋にないことが、気のせいではなく増えている。みんなあの馬鹿な刑事のせいだ。
鈴が外の世界へと出られるようになったのはいいことなのは分かっている。それでも、いつか二度とこの部屋に戻って来ないのではないかと不安になるのだ。
それならば……鈴がどこか遠くへ行ってしまうくらいなら、いっそずっと眠っていてくれたほうがいいのではないか。そんな歪んだ考えが頭をよぎる。
それか、自分がこのままずっと眠ることになれば、鈴はずっと傍にいてくれるだろうか。
それでもいい。
あなたを苦しめる悪夢なら、私が全て奪うから。
灯はもう片方の手も、鈴の指に指を絡ませるようにして強く握り締めた。




