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第一章・1

第一章


―1―


 車や人の多く行き交う広い大通りから一本、奥へと入った路地裏は、ほぼ一日中背の高いビルの影となる。

 冬の寒い季節は体中の筋肉が強張るようなそこでも、近頃の厳しくなって来た日射しの下では、その薄暗さに安堵すら覚えるものだ。

 霞野署の刑事である常磐ときわ かなめも、だいぶ歩き慣れたその道へ一歩足を踏み入れた瞬間、体を包んだひんやりとした空気にほっと息をついて空を見上げた。

 夕方ももう四時を回るのに、空はまだまだ高く青い。

 そろそろワイシャツを半袖にしたいな、などと考えながら、常磐はその店のドアを開いた。

 『蜃気楼かいやぐら-kaiyagura-』

 不思議な名前をしたその店は、和菓子の美味い喫茶店。昭和初期の頃の和と洋を合わせたようなモダンな造りをした店内は、表よりも薄暗く客の姿は一人もなかった。

 残念な事にそれは、この店でさほど珍しいことではない。しかし――


「ああ、常磐君。いらっしゃい」


 いつも穏やかな笑顔で迎えてくれる店主の様子が少しおかしい。

 挨拶も漫ろに、カウンター席と奥にある座敷部屋の間を行ったり来たりしながら、落ち着きなく片手に持った団扇で、もう片方の手を小さく打っている。


「どうかしましたか」


 常磐の声に店主、大酉おおとり 圭介(けいすけは丸眼鏡の奥の目を困ったように常磐に向けた。


「いやぁ実はね、今日までに銀行に行かなければいけない用事があったのを、ついさっき思い出したんだ」

「銀行ですか。じゃあ、急がないともうすぐ閉まっちゃいますよ」


 店の柱にある時計に目をやり言うが、そんなことは大酉も分かっているだろう。


「うん。それが今、鈴さんが寝てしまっていてね」

「ああ」


 大酉の口にした名前に、ようやく合点がいった常磐は店の奥にある座敷部屋を見た。

 朝日奈あさひな りん。ピタリと閉ざされた引き戸の向こうに、その人物は居る。

 店は閉めてしまえばそれでいい。それでも大酉が出掛けるのにためらうとすれば、その理由など鈴の事以外、他にない。

 鈴は『眠り病』の持ち主で、時や場所を選ばず突然、眠りに落ちてしまう。部屋に居る限り、そう危険なことはない病気だと思われるが、大酉にとっては何より鈴の身が第一なのだ。


「あの……少しの間なら、俺、留守番しておきますけど」


 常磐の提案に大酉は一瞬、顔をわずかに明るくしたが、すぐにまた悩むような表情を見せる。いつも世話になっているのは自分の方なのだから、大酉が遠慮をすることは別にないのにと、常磐は思う。


「朝日奈さんには、またお話したいこともあったので、どうせ待たせて頂こうと思っていましたし」

「でしょ。だから鈴さんが目を覚ましたとき、君がいると嫌かなと思って」


 この店主にとって常磐の親切心など、鈴のご機嫌と比べたら、取るに足りないものなのだ。


「もし、大酉さんの戻られる前に朝日奈さんが目を覚ましても、大人しくしてますから……朝日奈さんの機嫌を悪くしないように」


 常磐がそこまで言って、ようやく大酉は意を決したように近くに用意してあった布の手提げを掴んだ。

 そして、常磐の手にそれまで持っていた団扇を押し付けるようにして握らせる。


「じゃあ、お願いするけど。くれぐれも宜しく頼んだよ」

「は、はい」

「気をつけてね!」

「はい……」


 ドアを出て行くときに、念を押すように常磐を見て、ようやく大酉は出掛けて行った。

 なんて……なんて信用がないのだろう。

 一応、自分は刑事であり、いい歳をした大人だ。少しの時間、留守番しているくらいはできる。

 できる…………はずだ。

 情けない気持ちになりながら、常磐は物音一つしない座敷部屋の戸をそっと細く開けた。裏庭に繋がるそこは店の中より明るく、そのせいか部屋の中は少し蒸していた。

 いくら古い建物とはいえ飲食店だ。冷房ぐらいはあるだろうと、座敷部屋に上がり込む。


 奥の縁側にはすだれが下ろされ、強い日射しを柔かなものに変えている。

 部屋の畳の香りと、外から静かに吹き込む風に運ばれて来る、庭の青々した草の匂いに心が安らぐ。

 そして、その窓辺に朝日奈 鈴の姿はあった。

 涼しげな麻の着物を身につけ、座布団を枕に横たわっている中学生ほどの少年の姿をしたその人。

 鈴は十五年前に起きた事件のせいで、十五歳だった当時から体の成長が止まってしまっている。実際は常磐よりも戸籍上は年上になるが、そうは見えない。

 暑さのせいなのか、青白い肌はいつもより赤味を帯びているように見えるが、やはりどこか病弱な雰囲気がある。

 そういえば、田舎の祖母にクーラーの風は体に悪いと、よく言われたっけ。


「なるほど……」


 常磐は大酉に握らされた団扇の意味を理解した。

 これで鈴を扇げということか。

 一つ溜息をついた後、常磐は鈴の傍らに腰を下ろした。


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