第五章・3
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「本当酷いな、東田。俺の名前覚えてないなんて」
月島はもともと砕けていた口調をさらに崩して言った。
病院内の小さなカフェスペースに、東田と月島はそれぞれ一杯の珈琲と共に腰を下ろした。
久しぶりの再会に気を使ったのか、霧藤と鈴は先にいつもの検診を済ませてくると場を外し、なぜか常磐もそっちに着いて行った。
「俺は男の名前なんていちいち覚えてねぇんだよ。顔だけでも覚えてただけ上等だろうが」
「でも驚いたな。まさか東田が刑事になってたなんて。その様子だし、てっきりヤクザにでもなったのかと思った」
「そっちこそ、相変わらず地味な面しやがって教授かよ」
「まだ教授じゃないよ」
「まだってことは、そのうちなるってことじゃねぇか」
「まあ、そうかもね」
「やっぱ、お前むかつくわ」
「ははは」
月島は東田の顔と名前を覚えていた。しかし、さすがに会話までは覚えていないだろう。
けして月島に言われたからではないが、あの馬鹿みたいな一言が、無意識にでも自分が今、刑事になっている理由の一つかもしれないと東田は思う。
やりたいことも、就きたい仕事もなく、周りからもどうするべきかの助言も得られなかった東田にとって、唯一「なるといい」とあった提案だ。
「でも、東田の方が凄いよ。俺は自分の好きなことを研究しているだけだからね。そんな怪我しながら火の中から子供を助け出したんだろ。俺にはできないな」
「俺だって普通はしねぇよ、そんなこと。ちょっと顔知ってたヤツだったから咄嗟にだ」
「昔から後先考えなかったからね。東田は」
「……それにまだ助かってねぇ」
口にした珈琲の味が薄いのは病院内だからか。まずいそれに東田はカップを置いた。
「助けに入ったとき、その子は布団を被ってたんだろ。それなら煙はそんなに吸っていないかもしれない。俺が知っている限り、一酸化炭素中毒で意識不明になった患者では、ニ、三日で目を覚ます人もいたし、一ヶ月経ってから意識を取り戻した人もいるよ。まだ子供だから脳細胞に多少ダメージがあっても回復していくと思うし」
研究しているのが脳と眠りという月島がそれらしいことを言った。
「そうか」
「ただ――いや、いいや。なんでもない」
「なんだ言えよ」
言いにくいことも遠慮なく言う月島が珍しく言葉を濁し、東田は続きを促した。
「うん。その子は目を覚ました方が本当にいいのかと思って。親は二人とも亡くなったんだろ? 天涯孤独の身だ。引き取り手がいなければ施設に行くことになるのかな。今、目を覚ませば、足に負ったっていう火傷の痛みにも苦しむだろう。跡が残れば後々もきっと嫌な思いをするだろうね。女の子には特に酷だ」
促した結果、月島の口から出てきたのは、東田が考えたくなかったことばかりだった。
「東田、その子にとってはさ、何が本当にいいことなんだろうね」
◆◆◆◆◆◆
体重、身長などの簡単な身体測定、それから起きている状態で脳波を調べ終わり、鈴はさっさと帰ろうとした。
霧藤がその腕を掴んで引き止める。
「待つんだ鈴。月島先生との話がまだだろ」
「精神科医のお前と話をするのも無意味なのに、今度は医者でもない先生なんて奴と話なんかして何になるっていうんだ」
「月島先生は眠りと脳の研究をしてるって言っただろ」
「単なる興味本位だろ。そういうのが一番、苛々する。常磐さんはなんでここにいるんですか」
「え、あ……すみません」
突然、話の矛先を向けられて、常磐が言ったのはもう口癖になっている言葉。
「そういえば常磐さん、何か鈴に用があったんですよね」
「はあ、でも……いいです。やっぱり」
「今更、何遠慮してるんですか、どうせ鈴を利用しようとしてるんだから、もっと堂々としてたらいいのに。本当にいつまで経っても煮え切らない人ですね、常磐さんは」
爽やかな笑顔で言われた。尤もだが、尤もだからこそ胸が痛い。
鈴はというと、利用という言葉を言われても、もう特に気にした様子もなさそうだ。
「そういえば、この間言っていた火事の夢はあれからどうしたんですか」
「それが……あのとき見た夢、実は今回、東田さんが子供を助け出した件の火事の現場だったみたい……なんです」
「やっぱり、関わることになったわけですね」
「はい。それと、あの時は俺、今回の同調者は『正義の味方』だっていいましたが、それもちょっと……」
言い淀む常磐に、鈴が聞く。
「今回の同調者も犯罪者だったわけですか? でも、この前は同調相手は消防士だって言っていましたよね」
顔を覆うマスクの息苦しさ、体に掛かる消防服、空気ボンベの重み。手にしたホースから水が噴出すときの感覚。あれは消防士の物だ。
「はい。だからその……もしかして……もしかしたら、そういうことなんじゃないか……と」
「つまり常磐さんは、消防士が犯人かもしれないと。そういうことですね」
霧藤が代わりに言ってくれた結論に常磐は頷いた。
「……すみません。変なこと言って」
「いえ、別に変じゃありませんよ。いわゆるヒロイック・ シンドロームというものですね」
「ヒロ?」
「そのまま文字通り、英雄症候群という意味です。危機的な状況や災害なんかのときに活躍することに、自己を見出そうとする思想です。実際、正義感を求められる職業の人間に見られることも多い。そう、例えば消防士や、常磐さんのような警察の人間も発症しやすいとされています」
そんなが言葉があるとは知らなかった。やっぱり霧藤は色々なことを知っている。
「これが行き過ぎると、自ら自分の願望を満たす場を作ろうとする。現実には英雄が活躍するような危機的な状況に、何度も遭遇するなんてことはそんなにあるものじゃないですからね。つまり平和な街の消防士なら、自分で火を点けることもありうる」
常磐はできれば危機的な状況になんて、何度も遭遇したくないのだが。
でも、同調していたときの、炎の中の息苦しさに混じって感じた居心地の良さを思い出す。
「そうと分かれば、早く調べた方がいいことがあるんじゃないんですか」
「そ、そうですね!」
鈴に言われて帰ろうとした常磐は、また頭に衝撃を受けた。
「何、勝手に帰ろうとしてやがる」
東田がいる限り、常磐は自分の後頭部が常に危機的な状況だということに気がついた。
頭を抱えている常磐のことは無視をして、東田は鈴の前に立った。
「朝日奈 鈴。お前に話がある」




