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第五章・1

第五章


―1―


「どうしてお前の言うことに、いちいち従わなくちゃいけないんだ」


 常磐は蜃気楼の扉を開けたとたんに聞えてきた厳しい声に、小さく肩をすくめた。

 今のは鈴の声だ。扉の掛け札は『就寝中』になっているが、どうやら眠ってはいないようだ。


「僕が鈴の主治医だからだよ。患者が医者の言うことを聞くのは当たり前じゃないか」


 鈴とは逆に涼しげな声で返したのは霧藤の声。奥の座敷部屋には今、鈴と霧藤が居るらしい。相変わらず、あまり仲が良くないようだ。


「常磐君いらっしゃい」


 大酉が常磐が来たのに気づき、カウンターから少し困ったような笑顔で言った。常磐はぺこりと会釈で返す。

 常に鈴の味方である大酉でも、霧藤が相手だと鈴の側につく訳にはいかないのだろう。鈴がここにいられるのも、大酉が鈴を預かる立場にいられるのも、霧藤にそれを許してもらっているからだ。


「俺は精神科医おまえなんかに診てもらう必要はない」

「別にかまわないけど。もっといい医者を紹介しようか。精神科医なんかじゃなくて、脳外科医とかにちゃんと中を開いて診てもらった方が手っ取り早いかもしれないしね」


 やや声色が冷たくなったように聞える霧藤の返答に、鈴の反論が一瞬止まる。


「そうやって俺を実験動物みたいに扱って楽しいか」

「僕はちゃんと鈴のためをいつも考えている」

「俺の為? 自分の為だろ。そうやって今度はその何とかっていう教授に、俺を使って媚を売るつもりのくせに」

「……まあ月島先生は国内では指折りの眠りと脳の研究者だからね。僕としては是非、お近づきにはなりたいものだけど」

「ほらみろ。自分の為じゃないか」


 鈴の声が大きくなった。


「お前はいいよな! ちゃんとした体も仕事も生活もあって。お前が一番、俺を馬鹿にしてる! お前は!――」


 一際高くなった声が突然途切れて、大酉が険しい顔で座敷部屋へと向かった。座敷の戸を開けると、鈴は畳の上に崩れていた。感情が高ぶると起きるという脱力発作が出たようだ。

 大酉の責めるような視線を受けて、霧藤は小さく肩をすくめる。


「別に怒らせるつもりは……ないんですけどね」

「だったらもう少し言い方を考えてください。鈴さんと話しているときのあなたは少し大人気ない」

「僕だってこんな大人になりたかったわけじゃないんですよ――あれ、常磐さん。鈴に用でしたか」


 急に話の方向を自分に向けられて、大酉の後ろから座敷を覗いていた常磐は顔が強張った。

 非常に気まずい。


「ど、どうも」

「すみません。見ての通り、鈴とは話せませんよ」

「そうみたい……ですね」

「まったく。これから病院へ行こうっていうときに。まあ、寝ていてくれた方が静かでいいけど。手間だな」


 またいつもの検診という奴だろうか。


「あの、なんなら俺、病院まで送りましょうか。前に行った総合病院ですよね。ちょうど今、東田さんが病院にいて迎えに来いって言われてて、これから行くところなんです。車もすぐそこに止めてありますし」

「それは助かりますけど、いいのかなぁ。警察の車をタクシー代わりに使ったらまずいんじゃないんですか」


 その言葉をまず、あのオッサンの口から聞きたいものだと、常磐は思う。


「ついでなんで。行く場所はどうせ同じなんですから。帰りは一緒にというわけにはいかないと思いますが」

「それでしたら、お言葉に甘えさせて頂こうかな。大酉さん、鈴が起きたときに飲ませるんで、ポットにお茶を入れて来てもらえますか。少しは機嫌が取れるかもしれないので」

「わかりました」


 大酉が鈴を気にしながらも座敷部屋を離れる。


「さて、やっぱり着物は着替えさせるか。常磐さん、すみませんがちょっと手伝ってもらえます?」

「はい」

「そこの戸棚に鈴が出掛けるときにいつも着ている服があるはずなので、出してください」


 常磐は靴を脱いで座敷部屋に上がると、以前に鈴が着替えを取り出した戸棚を開けた。


「これでいいんですか。この長袖はさすがに暑くないですかね」


 戸棚から出て来たのはいつもの黒いズボンとグレーのパーカー。聞きながら振り返ってみれば、霧藤は鈴の着物の帯を解いて袖から腕を抜いていた。

 自分の意思とは無関係に、ランニングシャツと下着という姿にされている鈴は少し気の毒な気がした。そして灯がここにいたら激怒していただろう。


「まあ、鈴自身がどう思っているかはともかく、僕はその服の方がいいんだろうとは思いますよ」


 よく分からない言い回しをする霧藤。


「シャツはこのままでいいか。常磐さん腕を支えてるので、上着の袖を通してもらえますか」

「あ、はい」


 鈴の腕を差し出す霧藤に、常磐は長いパーカーの袖をすぐに通せるように縮めると鈴の傍らに膝をつく。そして鈴の体を間近に目にして、思わず顔が強張った。


「ほらね、そういう顔になるでしょう?」


 霧藤の声にハッとして顔を上げる。


「鈴自身はね、もう気にしてはいないみたいです。そりゃあ、初めて見た時は意味が分からない様子で、酷く困惑していましたが」

 

 目の前にある鈴の体。そこにはいくつもの傷跡が刻まれていたのだ。

 細く白い腕の内側、ランニングシャツの襟元から見える胸元、足の膝から脛に掛けてなど、様々なところにそれはあった。

 見てはいけないものを見た気がした。

 なのに、本人が寝ているからだろうか。目を逸らしたくなるようなそれらから、常磐はなぜか目が離せなかった。


「これも手相じゃないんですよ」


 霧藤は鈴の手首を捻って手の平を常磐に見せる。手の皺に紛れて、白く長い筋が走っている。


「身を庇ったときにできたんでしょうね。脇腹にもあるんですよ、切り傷は。あと酷い骨折だったんでボルトで固定する必要があったから、その手術跡ですね」


 鈴に上着を着せながら霧藤は言った。傷跡が灰色の布地に覆い隠され見えなくなり、常磐はホッとする。

 十五年前の朝日奈一家惨殺事件。

 鈴の家族が殺され、鈴自身も襲われマンションの五階から転落。十三年もの間、眠り続けることになった。その傷跡は言葉通り、鈴の体にもしっかりと刻まれていた。


「鈴が目を覚ましたときには、すでに皮膚は新しく出来て傷は塞がっていたし、骨もちゃんと繋がっていた。時にはうずくこともあるだろうけど、もう十五年も前の傷だ。傷そのものに痛みはないはずです。でも傍から見ていても、気持ちのいいものじゃあないでしょう?」


 確かにずっと目の前に晒されていたら居た堪れない気持ちになる。見ないようにと思ってもおそらく目が傷を追ってしまう。そうしておいて、その痛々しさに顔を歪めるなんて、勝手なことだと思う。

 常磐自身、左腕に以前、犯人と格闘した際に負った傷跡があるが、その傷の持つ意味が違う。

 鈴自身にもう痛みはない。それでも鈴が傷の隠れる服を着る理由。

 『大酉が痛がるから』

 苦笑していた鈴の顔を思い出す。

 大酉は鈴の今の状況に責任を感じている。鈴の傷は大酉を苦しめるのだろう。


「さて、行きましょうか」


 ズボンも履かせ終わり霧藤は鈴を両腕に抱えて立ち上がった。




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