第四章・1
第四章
―1―
西山は課のドアを開けて、今度は自分のデスクの椅子に東田が座っているのを見た。化粧をほとんどしない整った顔を不愉快そうに歪める。
「何してんのよ」
「おう。来たか。遅せぇぞ」
「自分の席に行きなさいよ。汚い自分のデスクに」
「汚いは余計だ。お前を待ってたんだよ」
「待つのはかまわないけど、立ってなさいよね。椅子が煙草臭くなるでしょ」
立てと促すように西山は東田の座っている椅子の脚を蹴ったが、東田は気にもしない。
「それで何よ」
「ああ、この前言ってた児童相談所っていうのに連絡して欲しいことがあってな」
西山は一瞬目を丸くしたが、すぐに真面目な顔になった。
「例の虐待されてるかもしれないって子のこと? それならすぐに連絡しなさい。調べれば電話番号くらい簡単に分かるでしょ」
「だから……俺だと上手く説明できそうにねぇから、お前に頼んでるんだろうが」
ガシガシと頭を掻く東田。
「別に暴力を受けてるとかじゃあねぇし、食いもんも一応あるし、部屋から出さないのは子供のためだと言われりゃ、そうかもしれねぇ」
「自宅に閉じ込めておくっていうのも、ネグレクトって言って虐待に含まれるケースがあるわ」
「子供は親を好きだと言ってる」
「……子供は親を選べないもの」
「……まあな」
どうにも煮え切らない様子の東田に、西山は大きく溜息をついた。
「分かったわよ。ただ私も自分で見てもいないものを連絡することなんてできないから。一度その子のところに連れて行きなさいよ」
「いいのか」
「確かにあんたの態度じゃ、児童相談所の方もあんたの方が不審者って判断しかねないしね」
「お前な……」
「あんた明日休みでしょ? 私は明日も出だけど昼なら付き合えるから」
「悪ぃな」
「そういうときは有難うございます、でしょ」
いちいち言い返さないと気がすまないのかこの女は。
見れば小憎たらしい顔で西山が自分を見下ろしている。東田は苦笑すると椅子から立ち上がり、自分とさほど変わらない位置にある西山の肩をポンポンと叩いた。
「へえへえ、ありがとさん」
こいつにはこのぐらいで十分だ。
◆◆◆◆◆◆
その日の帰りはいつにも増して蒸し暑かった。
一日中締め切っていた部屋の状態を思うと、東田はいっそ寝るだけの家になんて帰らなくてもいいのではないかとも思う。
湿気を含んだ重く生暖かい風が吹いた。その風に運ばれてきた匂いに東田は顔を上げた。
焦げ臭い。
視界に入ってきた夜空、これから東田が向かう先にあるその一角がぼんやり明るい。闇の中に淡く広がるオレンジ色。そして、それを掻き混ぜるように黒い煙が建物のシルエットの下から空へと昇っている。
東田はそれを見ながら足を速め、やがて走り出していた。
あの方角は小夜の家がある場所だ。
近づくにつれ焦げ臭い匂いが強くなる。いつもなら誰もいないはずのそこに人だかりができていた。いつもなら真っ暗なそこが真っ赤な光に包まれていた。
古い木造の一軒家。小夜の家が燃えていた。
「ちょっとあんた危ないぞ」
人だかりを押しのけ前へと出た東田を誰かが止めた。携帯電話を手にした男だった。
「おい! 消防には」
「誰かが連絡したって言ってたみたいだけど」
「中にいた奴はどうした」
「え。ここって、空き家じゃないの」
「子供がいただろ。まだ中にいるのかっ!」
「し、知らないよ。俺だってちょっと通りがかっただけなんだから」
男の答えに東田は舌打ちすると、家へと視線を戻した。その東田の目があるものに引き付けられる。小夜がいつも顔を出すあの窓の下。黒い小さな固まり。
東田は周りが止めるのも聞かず窓の下へと走り寄ると、それに手を伸ばした。
「危ない!」
誰かの声がした次の瞬間、上から雨樋が焼け落ちて東田の上に降ってきた。とっさに後ろに避けたが派手に尻餅をつき顔が歪む。
東田が手にしたのは、ぬいぐるみの『みーたん』だった。
東田はぬいぐるみを火から離れたところに投げると、奥に赤い炎が見える引き戸を蹴破り中へと飛び込んだ。
小夜はまだ中にいる。
『サヨはお外に出られないから』
そう言っていた小夜が、母親の言いつけを守って『いい子』にしていた小夜が、勝手にあの部屋を出たりするものか。ぬいぐるみのことは逃がしても、あの部屋を出るのは『悪い子』のすることだから。
勝手の分からない他人の家。しかし小さな家だ。東田はすぐに階段を見つけると、燃え落ちそうなそこを駆け上がった。
二階はさらに熱と煙が酷くなっていた。腕で口元を覆いながら、小夜の部屋らしきドアを開けようとノブに手を掛ける。
「っち!」
とっさに掴んだドアノブの熱さに手を引き、苛立ちも込めてまたも蹴り破る。家自体が古いせいもあってかドアは簡単に開いた。
「小夜!」
ドアが開いた瞬間、降り掛かる火の粉に一瞬目を細め、見回した部屋。
どこだ。どこにいる。
火と煙に包まれているいつも小夜が顔をだす窓。ぬいぐるみを外に出したときに開けたのか、いつものように細く開けられた窓から風が入り込み炎と煙を巻き上げている。
右の壁際には小さなタンス。そして左の壁の隅には小さく丸まった布団。その端をちらちらと炎が焼いていた。その丸みはちょうど子供一人分くらい。
「小夜っ!」
東田は背広の上着を脱ぐと、布団を焼く炎を叩き消した。中からはぐったりとした小夜の姿が現れる。
「おい。しっかりしろ、おいっ!!」
返事をしない小夜を上着で頭から包んで抱き上げる。すると、背後で天井が崩れ落ち窓を塞いだ。
逃げ場をなくした煙が東田に向かい襲いかかる。
東田は小夜を抱えて部屋を出た。向かった先にあったはずの階段は焼け落ちて、下から炎がこちらへと登って来ようとしている。
ここはダメだ。
東田は階段に背を向け、すでに炎に包まれている小夜の部屋を横目に別の部屋へと走った。廊下の突き当たりにあるその部屋のドアも蹴り破る。
炎は見えないが風の流れの具合か、どす黒い煙が溜まって渦巻いていた。
小夜を胸に押し付けるように抱え直すと、煙の隙間から見えた窓へと向かう。触れてみた窓のサッシはドアノブと同じく熱く、熱で変形してしまったせいなのか開かない。
「くそったれ!!」
東田は目の前にあった化粧台の上の電気スタンドを窓に投げつけた。
割れた窓からゴォと風が吹き込み、次に引き寄せられるように外へと抜けて行く。
改めて窓へと向かった東田は、煙が薄れた部屋を一度振り返った――。




