第三章・3
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「おはよう、のぼる君」
「おう」
今朝も窓の隙間とのやり取りは続いた。
日下 小夜。それがサヨの本名だった。歳は今年で四歳。幼稚園には行っていなかった。
簡単に調べて分かったのは、小夜は去年までは祖母の千夜と二人でこの古い木造家屋で暮らしていたということ。体が悪かったらしく家から外に出ることはほとんどなかったらしい。そして去年亡くなった。
千夜は小夜の母方の方の親で、小夜の母親は小夜を生んですぐ、祖母である千夜に預け姿を消していたそうだ。そして千夜が亡くなった時に夫とこの家に戻ってきたらしい。
隣に住んでいた元住人の話だ。
その住人もすでにあの寂れた場所を売り渡して引っ越してしまっていたため、最近の様子はさっぱり分からないらしい。
以前は庭で遊ぶ千夜と小夜の姿を見かけたこともあったそうだが。
「のぼる君、どうしたの」
「ん? ……なあ、お前さぁ、父ちゃんと母ちゃんのこと好きか」
「うん」
即答。
なんだか拍子抜けだ。自分が心配するようなことは何もないような気がする。
「じゃあ、俺行くわ」
「お仕事、がんばってね」
ぬいぐるみと一緒になって見送られるのにも慣れた。
ひらひらと手を振り窓の下を離れた東田は、少し歩いた所で車のブレーキ音に小夜の家を振り返った。小夜の家の玄関前にタクシーが一台止まっている。その中からまだ若い男女が一人ずつ降りてきた。
「おい」
思わず引き返し声を掛ける。
どちらもまだ二十代の前半だろう。男女ともに髪をけっこう派手な色に染めている。男の方は膝の破れたジーンズに細身の体に対して緩めのTシャツ、サンダルといった姿。女の方も短いデニムのスカートに肩が出るようなTシャツを着ていた。足元は踵のやけに高いヒール。
しかし格好なんてどうでもいい。問題は二人がどう見ても酒に酔っているということだ。
「お前ら、ここの家のもんか」
二人は東田を見ると、顔を見合わせ困惑したような顔を見せた。まあ、こんな反応をされるのは珍しくない。
「そうですけど、何かぁ」
男の方が女にちょっと背中を突っつかれるようにして前に出る。
「ここに子供が一人いるだろ」
「あの子が何か?」
「何かじゃないだろ。お前ら、あの子の親か」
「だったら何ですか」
「今、帰って来ましたってところで、よくそう聞き返せるな」
すると女、つまり小夜の母親の方が東田を睨みつけながら口を開いた。
「そっちこそ何なのよ。あの子に何か用?」
「用があんのはお前らだ。小さな子供をほったらかして毎晩、飲み歩いてるのかよ」
「子供がいたらお酒飲んじゃいけないわけぇ?」
「そういう話じゃねぇだろ、俺が言ってるのは」
「あの子はいい子だから、一人でもちゃんと留守番できるの! その辺のバカな子とは違うのよ!」
酔っているせいか、やたらと甲高い大声で言い返してくる。
「だけど親ならなっ」
「じゃあ、あんたは子供いんの?! ちゃんと御飯だってあげてるし、服だって替えさせてあげてるし、他人にどうこう言われたくないわよっ」
東田は一瞬詰まったが
「お前らどっちも働いてないんじゃねぇか。毎日、朝帰りで出来るわけなぇしな。それにあいつ、幼稚園に行かせてないだろ。あの部屋に閉じ込めて」
「お金ならあります~。うちの母さんが結構、溜め込んでてね。この土地も工場を建てたいって会社がいて、残り邪魔なのはうちだけだったから、すっごいいい値でちょうどこの前、売れたとこ。母さんがずっと売らないで粘っててくれたおかげだけどねぇ。こんなぼろい家があんな値段で売れるなんてびっくり。引越し先が決まったらとっとと出て行くけど」
小夜の母親はけらけらと笑うと、笑いながら東田に顔を近づけた。
「幼稚園は絶対に行かせなきゃ行けないとこじゃないし、閉じ込めてるわけじゃないし。外は危ないから、出ちゃダメよって言ってるの。ほら、あんたみたいなオッサンがウロウロしてるしね」
「なんだと」
「そっちこそ、うちの子に近寄んないでよね。どこの誰か知らないけど、警察呼ぶわよ!」
俺がその警察だ。
言ってやりたかったが止めた。
「お母さん、どうしたの」
窓の方から小さな声がした。小夜だ。
「小夜! いい子だから窓閉めときなさい!!」
母親が怒鳴るように言うと少し間があった後、窓が閉められる音がした。
「もう行こう」
母親に比べどこか気の弱そうな父親が腰を抱くようにして、母親を玄関へと連れて行った。
二人が家に入ってしまった後、東田は小夜のいる窓を見上げたが、閉ざされた窓はもう開きそうになかった。




