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……あん……あん

掠れた野太い声が追いかけてくる。徐々に近付く距離に、零れそうになる悲鳴を飲み込みながら、私は水溜りを飛び越え、走り出した。


それは肌寒い六月の雨の日だった。

その日私は、電車の中で課題を忘れて帰った事に気付いた。慌てて学校まで引き返し、机の中から引っ張り出したプリントと教科書を鞄に突っ込むと、クラブ活動を終えた生徒達に混じって駅へと向かう。

学校を出た当初、周りに生徒は大勢いたのだ。男子も女子も。ところが空腹に耐えかねて、ちょっと買い食いをして気付くと、辺りには誰もいなくなっていた。

ほんのちょっと、たこ焼きとクレープと肉まんを食べただけなのに……

雲の向こうから微かな恵みの光を届けていた太陽は西の空に沈み、辺りは暗くかげりはじめていた。

夜の訪れを待つ、今は正にお馬が溶き……じゃなくて逢魔時。

傘を叩く雨音に混じって、背後から足音が聞こえたのは、夕食時にも関わらず、静まり返った住宅街の入り口に差し掛かったときだった。

ぽつぽつぽつ

こつこつこつ

雨音が激しさを増すと、あわせたように靴音が速くなる。

こう見えても私は女子高生だ。いくら中身が地味女でも、制服効果で欲情する変態に狙われないとも限らない。

背後の足音に耳を傾けながら、心持ち足を速める。

するとどうだろう。背後の足音もさらに速まったではないか。

これは、まずいかもしれない。

どくどくと心臓が早鐘を打つ。

私はさらに足を速めた。途端に、「……あん……あん」と、しわがれた低いあえぎ声が聞こえだした。

間違いなく変態だ。制服に劣情を抱く変態だ。

私は背後を振り返る事無く走り出した。

赤い傘が風を受けて重たい。

肩から鞄がずり落ちる。

背後の足音は、私と同じタイミングで走り出し、どんどんとその音は近付いていた。

「あんっ」

一際おおきな喘ぎ声に、私はたまらず、傘を背後に投げつけた。

片手が空いたお陰でずっと走りやすくなる。

息を切らせて駆ける私の耳に、ピリリリリと電話の着信音が聞こえた。

時には煩わしく感じる甲高いその音は、今の私には天の助けに他ならなかった。

制服のポケットを探ってスマホを取り出すと、名前も確認せずに電話に出る。

『あー、俺だけど』

「俺俺詐欺!?」

この緊急事態によりにもよって!

『……四ッ谷だけど』

「なんだ、四ッ谷か」

『てめえ。なんだとはなんだ!』

電話の相手が四ッ谷だと分かると、安堵すると同時に、なんとも頼りない気持ちになる。だが、今は贅沢を言っていられない。

「助けて!」

『は?』

間の抜けた四ッ谷の声。やっぱり不安だ。

「後ろから変態があえぎながら追いかけてくるの!」

『あえぎながら追いかける変態? そりゃ……かなりレベルの高い変態だな』

冗談だと思っているのか、戸惑っているのか、伊達の声には緊迫感のかけらも感じられない。私は苛立って叫んだ。

「本当に! 今学校帰りなんだけど、周りに誰もいなくて、どうしよう」

『は? まじなのか? くそっ、一人なのかよ。今何時だと思ってる!』

ここに来て伊達は漸く事態が芳しくない事を悟ったらしい。

私以上に焦りの滲んだ声が、電話の向こうから聞こえた。

『どこでもいいから店に駆け込め!』

「店なんてないよ! 住宅街だもん」

『じゃあ、どの家でもいいから走ってインターホンを押せ!』

「ええ!? なんでピンポンダッシュ!?」

『てめえ、馬鹿か! 押してから走ってどうする。走ってから押すんだよ!』

四ッ谷の怒声が鼓膜を揺らす。

パニック寸前の頭に、四ッ谷の焦った声が拍車をかけ、私の頭は最早まともに機能していなかった。だから四ッ谷の言葉も理解出来なかったのだ。

「馬鹿に馬鹿って言われたー」

もう半泣きだった。

『今、そっちに向かってっけど、時間がかかる。とにかく警察。警察に連絡しろ!』

「警察って、117だっけ!?」

『117は天気予報だ! この馬鹿!』

また馬鹿に馬鹿と言われた。私の心はあらゆる意味で修羅場だった。

「あんっ!!」

四ッ谷との会話中に変態はすぐ背後に迫っていた。耳の後ろでフィニッシュも近いに違いない切羽詰った喘ぎ声が聞こえた。かと思うと、スマホを取り上げられる。

「警察はいらないから。それからあんたもこなくていい」

へ?

変態にしては落ち着いた口調だった。

恐る恐る、背後を振り返る。果たしてそこには、赤い傘と、黒い傘を小脇に抱えたカイが立っていた。

『あ? てめえ。そいつに手だしてみろただじゃおかねえぞ!』

「四ッ谷だろ。俺、吉野だけど。『あん』の勘違いだから。ご心配なく」

『は? カイ?』

四ッ谷の馬鹿でかい声は離れていてもよく聞こえた。さっぱり事態が飲み込めないらしく、しきりに『は? え? へ?』と一文字の発音を繰り返している。無理も無い。高く澄んでいたカイの声は、低い濁声に変わっているのだから。

「カイ、その声……」

私は震える指先でカイを指差してたずねた。

「声変わり。――そういうことだから。杏は俺が送っていくから。それと、117は時報。じゃあ」

さらりと四ッ谷の間違いを指摘するとカイは電話を切り、「はい」と赤い傘を差し出した。


翌日、四ッ谷と顔をあわせた後の事は忘却の彼方に消し去りたい。

とりあえず、その後カイの声は十日ほどで落ち着いた低音に変わったとだけ記しておこうと思う。

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